勇者の墓標
あるところに村があった。村は、堅くて丸い地面の上にあった。その村の人々は、堅い地面からもたらされる熱を糧として、生まれ、そして暮らしていた。
村に一人の若者がいた。
変わった若者であった。この村の人々は、足下の地面からの熱を恵みと思い、地面を讃えていた。しかし、彼は違った。彼の目は上空を向いていた。
村の空にはなにもない。太陽もない。星もない。ただ熱い鉄があるばかりであった。若者は熱い鉄の空を見ていた。そして、空の向こうにあるもののことを考えていた。噂によれば、空のかなた、はるか上には、世界の殻があるという。
若者は世界の殻を見たいと思った。誰もがそれは不可能だと言った。世界の殻は、空を越えてはるか上、さらに越えてはるか上にあるという。彼の種族で、そこまで行った者は誰もいない。空を越えた者さえも、誰もいなかった。
しかし若者は、世界の殻を見たいという自分の心を、消し去ることはできなかった。ついにある時、若者は、村の長老に告げた。
〈長老、私は旅に出る。はるか上方にあるという、世界の殻を見に行くのだ〉
長老はそれに答えた。
〈何故に世界の殻を見に行くのか。道程は果てしなく遠い。危険はあまりにも大きい。行って帰った者はいない。また、仮に帰ってこれたとしても、数千万年、数億年、数十億年の後になるであろう〉
〈長老、それはわかっている。しかし、この身体が無くなろうとも、命が無くなろうとも、私の心の中に生まれた、世界の殻を見たいという欲望は、止めることができないのだ〉
〈おお、心のためにおまえは、命を犠牲にしてもよいというのか。そのような者を聞いたことがある。それは勇者というものだ。もう止めはしまい。勇者よ、行くがよい〉
村の者は、彼とはもう会えないのだと思った。彼もそれは同じだった。人々に別れを告げ、勇者は旅立った。太古のある日のことであった。
地面を離れ、濃密な鉄の空へ向かう。一歩一歩、上方へ登って行く。その歩みは緩やかであり、人間の基準で見れば、一歩の時間が人が生まれてから死ぬまでに相当した。しかし彼は確実に、空へ向かって登っていった。
彼は登りつづけた。何十万年かが過ぎた。そのあいだ、誰とも出会わなかった。ときどき、空中で蠢くものの声を聞くだけであった。
登っていくと、はじめて何者かに出会った。向こうは彼を認め、声をかけてきた。
〈そなたは何者だ。どこから来たのだ〉
彼は答えた。
〈私は、下方から登ってきた〉
〈おお、そなたは『内核の民』ではないか。内核の民が、なぜここまで来た〉
〈世界の殻を見に行くために、上方へ向かっているのだ〉
〈なんと、世界の殻を見に行くとは〉
〈あなたは何者ですか〉
〈我々は、外核をさまよう民だ〉
〈なぜ、われわれ内核の民のことを知っているのですか〉
〈我等はさまよう者。この鉄の空の中を、登ることもあれば、降りることもある。そなたたち内核の民が住む世界へも、時折訪れることがある。内核の民のことはよく知っている。しかし、こんなところで見たのははじめてだ。世界の殻を見に行くと言ったな。世界の殻は容易に辿りつけるものではない。その困難、その危険を、知った上でのことか〉
〈困難、危険は知っている。しかし、私の心が、世界の殻を見たいと欲するのだ。だから私は行く〉
〈そうか。それならば、行くがよい。ひとつ助言をしてやろう。上へ向かうには、上昇流に乗ることが大事だ。あちらの方向に、流れの速い上昇流がある。それに乗っていくといいだろう〉
〈ありがとう。さまよう民〉
〈さらば。内核の民。そなたに幸運があらんことを〉
彼は上昇流に乗った。自分の体を帆にし、上へ、上へと向かった。長い年月が過ぎた。彼は、あるところへ到達した。上昇流の終わるところ。鉄の空の果て。
その上方には、鉄よりも固いものがあった。
鉄の空とは異なるもの。固い岩。それがドーム状の壁のように、彼の頭上を覆っていた。
〈ここが世界の殻だろうか〉
いやちがう、と彼は思った。上方を覆っている岩は、たしかに固そうではあったが、空との境界をよく見ると、けして完全に固いわけではない。ゆっくりとだが動いて、波打っている。あるところでは空とまじりあい、まだら模様を作っていた。
彼はここを越えて行こうと決めた。しかし、ここから先は、いままでとはまったく違った世界である。彼ら内核の民は、周囲にある灼けた鉄を食み、それによって命を支えてきた。上の世界は違う。鉄の世界ではなく、マグネシウムと珪酸塩の世界。このままでは生きてゆくことはできない。
彼はみずからの体を作りかえることにした。岩の一部、橄欖石の塊をすくい取って食べた。橄欖石は彼の一部となった。彼は何度も何度も、橄欖石を飲み込んだ。体のすべてが橄欖石となるまで。
彼は境界に留まったまま、橄欖石を食べ続けた。橄欖石をすくい、咀嚼し、飲み込む。そのたびに彼の体の成分が置きかわった。
長い時間が過ぎた。彼の体はあらかた橄欖石になってきた。
あるとき、下の方から登ってくる者がいた。その者は彼を見て、近づいて声をかけた。
〈鉄とも橄欖石ともつかない異様な者よ。あなたは何者か〉
彼は答えた。
〈私はもともと内核の民。はるか昔に、ここまで登ってきた〉
〈すると、あなたが、太古に旅立った勇者か〉
〈私のことを知っているのか〉
〈長老に聞いた。世界の殻を見るために、上方へ旅立った勇者がいると。私も内核の民。あなたをしるべとして、ここまでやってきた。だが、なぜあなたはそのような体になったのだ。なぜ橄欖石を食べているのだ〉
〈私はこの上に行こうと思う。そのために、体を変えなければならぬ。体をすべて橄欖石にするため、ここで食べ続けているのだ〉
〈しかし、橄欖石の体を持てたとしても、再び鉄の体に戻れるかどうかはわからない。それは愚かな行為に見える。勇者よ。あなたは、勇者なのか。愚か者なのか〉
〈私にはわからない〉
〈なぜそこまでして、上に行こうとするのだ〉
〈私の心が、そう願っているのだ〉
〈愚かな勇者よ。愚かで偉大な勇者よ。あなたの思いはわかった。しかし、あなたが上へ行けば、おそらく、帰れはしないだろう。その前にあなたと、対話をさせてくれ〉
勇者と、登ってきた若者は長い間語りあった。村のこと。一族のこと。旅のこと。それは長い間孤独だった勇者にとっては、この上ない喜びだった。
やがて、若者が帰る時がきた。勇者は彼に言った。
〈さらば若者よ〉
若者も言った。
〈さらば勇者よ。もう会うこともあるまい。だが、私と、私の一族は、あなたのことを忘れはしないだろう〉
長い年月が過ぎた。勇者の体はもはや鉄ではなく、橄欖石になっていた。
彼は上方へ進んだ。上方にある固い岩、マントルの内部へ。みずからの体を埋めてゆく。鉄の空よりはるかに固く、息苦しい世界。ただ歩むのも、一歩一歩が重い。それでも彼は、世界の殻を目指して上へ進んだ。
この世界にも動くものはいた。彼の歩む隣を、橄欖石の魚が泳いでいった。
長い旅路の途中、ところどころにマントルの民が暮らす村があった。マントルの民は、内核から長い道程を越えてきた彼を歓迎してくれた。しばらく彼らの村にとどまり、また、上方を目指して旅立つのであった。
マントルの中も、深度によって物性が変化する。対応するために彼は何度も、境界に留まって自分の組成を変えねばならなかった。
いくつかの境界を越え、マントルの半ば過ぎまで登った。そこで勇者は奇妙なものを見た。
巨大な岩石の塊。大陸ほどの大きさのある玄武岩の板が、上方からゆっくりと落ちてきた。
勇者はそばにいたマントルの民に尋ねた。
〈あれは何だ〉
マントルの民は答えた。
〈あれはメガリス。古くなった世界の殻の一部が、崩れ落ちてきたものだ〉
〈あれが世界の殻なのか。世界の殻も崩れるものなのか〉
〈そう。世界の殻もまた、生成して、消滅する。あのメガリスももう少したつと溶解して、マントルと一体になるのだ〉
〈私はあれを調べようと思う〉
〈気をつけて行かれよ。勇者よ〉
彼はメガリスにたどりついた。冷たく、固まった玄武岩。動くものが存在しない死の塊。勇者やマントルの民のいる世界とは、完全に異質なものだった。
メガリスの上部には、彼が見たことがない岩があった。堆積岩の厚い層。その中に妙なものがあった。
カルシウムに富んだ物体が、規則的な、複雑な形状をなしている。勇者よりは小さいが、それでもその物体は数十メートルの大きさがあった。
勇者はそれに聞いてみた。
〈そなたは何者だ〉
それは答えた。
〈私は竜脚類の化石。かつて生物だったものだ〉
〈生物とはなんだ。世界の殻は冷たくて固く、動くものは存在しないように見える。だが世界の殻にも、動くものの世界があるのか〉
〈君たちが世界の殻と呼んでいるものは、我々にとっては地面と言う。地面の上、空の下、すなわち地上に、我々生物の世界があるのだ〉
〈世界の殻の上にまた、空があるのか。では、その空の上には何がある〉
〈空にはもう上はない。無限のかなたまですべて空だ〉
〈地上というのはどういうところなのだ〉
〈豊かなところだ。植物が繁り、動物が歩む。大きなもの、小さなもの、数え切れない生物がいて、それらが関係をなして生きている。昼には光が降りそそぎ、夜には闇につつまれる〉
〈私はそこに行けるだろうか〉
〈不可能だ。地底の人よ。我々がマントルの世界で生きられないのと同じように、君ら地底の人の肉体は、地上の世界とは相容れない。無理に辿りつこうとすれば、身を滅ぼすだけに終わるだろう〉
勇者と化石は、しばらく語りあった。地上は豊穣な世界であること、しかしそこへは行けないことを、勇者は理解した。
メガリスは沈降し、溶解が近付いてきた。
〈お別れだ。地底の人よ。世界の殻へ行くがよい。だが、地上を見ようなどと思ってはならないぞ〉
〈わかった。生物だったものよ。さようなら。話をありがとう〉
そして、化石を含んだメガリスは、マントル中間の相変化面まで沈むと、溶解して消滅した。
勇者はとうとう世界の殻に着いた。
手を伸ばして、触れてみた。
〈冷たい〉
何者をも拒絶すると思うほどの冷たさだった。ここは世界の果てであり、この裏側には地上がある。そこは豊穣な世界であるらしい。しかし、彼のような存在にとっては、確実に死の世界であるのだ。
彼は世界の殻に沿って歩いた。所々、地底から沸き上がる泉が、世界の殻を破って噴出していた。また、世界の殻には裂目があって、そこでは古くなった殻が沈んだり、新しい殻が持ち上がったりしていた。勇者が体をもぐり込ませれば殻の外側へ出られるかもしれない。しかしそれを実行すれば死ぬ。彼は死を選ぶほど愚かではなかった。
〈帰ろう〉
彼は、世界の殻、モホロビチッチ不連続面を後にした。
勇者は地下深くへの帰途についた。何回も、世界の殻をふり返った。本当にこれでよかったのか、まだ迷いがあった。
その時だった。
地下深くから、つき上げてくるものがあった。マントル全体に、不気味な振動が響いた。
〈何だろうか〉
しかし、彼にはそれを知覚するだけの時間は与えられていなかった。マントルのはるか奥からつき上がる大きな流れ、スーパープルームであった。秒速数十メートルという奔流。動物でさえ逃げられない速い流れであり、勇者の時間的スケールに比べれば光速にも近かった。彼の体はたちまち、その流れにまきこまれた。
〈しまった〉
スーパープルームは、マントルの中の魚や住民、そして勇者をまきこみながら、地表に向かって上昇した。いくつもの相変化面をあっという間に越えた。温度と圧力の著しい低下。勇者の体は、急速にその機能を失っていった。彼の筋肉は凝結してペリドットに、血はガーネットに、魂はダイヤモンドに変化した。
勇者は、自らの運命を理解した。
〈この流れは地上に噴出する。そこでは生きてゆけない〉
しかし一方で、彼は深い満足感を抱いていた。
〈私はもうすぐ死ぬ。しかし、それでよい。世界の殻を越えて、世界の外へ行く。それこそが、私の魂が望んでいたことなのだ〉
奔流は地殻をつき破った。勇者は世界から放たれた。
そこには青い空があり、緑の大地があった。小さな動物たちが地上を走り回っていた。凝結してゆく意識の最後で、彼はそれを見たように思った。
長い年月が経ち、地球上に人類が発生した。
大陸のある場所で鉱脈が発見された。ダイヤモンドをはじめとする様々な宝石が採れた。珍しい鉱物、美麗な結晶。人々は群がってそれらを採掘した。訪れた人はみな、その鉱脈の豊かさを賞賛した。
しかし、その鉱脈の正体を知る者はいなかった。それは、世界の外を目指した者の最後の姿。勇者の墓標であった。




