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勇者の墓標

作者: 来也亜男
掲載日:2026/04/01

 あるところに村があった。村は、堅くて丸い地面の上にあった。その村の人々は、堅い地面からもたらされる熱を糧として、生まれ、そして暮らしていた。

 村に一人の若者がいた。

 変わった若者であった。この村の人々は、足下の地面からの熱を恵みと思い、地面を讃えていた。しかし、彼は違った。彼の目は上空を向いていた。

 村の空にはなにもない。太陽もない。星もない。ただ熱い鉄があるばかりであった。若者は熱い鉄の空を見ていた。そして、空の向こうにあるもののことを考えていた。噂によれば、空のかなた、はるか上には、世界の殻があるという。

 若者は世界の殻を見たいと思った。誰もがそれは不可能だと言った。世界の殻は、空を越えてはるか上、さらに越えてはるか上にあるという。彼の種族で、そこまで行った者は誰もいない。空を越えた者さえも、誰もいなかった。

 しかし若者は、世界の殻を見たいという自分の心を、消し去ることはできなかった。ついにある時、若者は、村の長老に告げた。

〈長老、私は旅に出る。はるか上方にあるという、世界の殻を見に行くのだ〉

 長老はそれに答えた。

〈何故に世界の殻を見に行くのか。道程は果てしなく遠い。危険はあまりにも大きい。行って帰った者はいない。また、仮に帰ってこれたとしても、数千万年、数億年、数十億年の後になるであろう〉

〈長老、それはわかっている。しかし、この身体が無くなろうとも、命が無くなろうとも、私の心の中に生まれた、世界の殻を見たいという欲望は、止めることができないのだ〉

〈おお、心のためにおまえは、命を犠牲にしてもよいというのか。そのような者を聞いたことがある。それは勇者というものだ。もう止めはしまい。勇者よ、行くがよい〉

 村の者は、彼とはもう会えないのだと思った。彼もそれは同じだった。人々に別れを告げ、勇者は旅立った。太古のある日のことであった。

 地面を離れ、濃密な鉄の空へ向かう。一歩一歩、上方へ登って行く。その歩みは緩やかであり、人間の基準で見れば、一歩の時間が人が生まれてから死ぬまでに相当した。しかし彼は確実に、空へ向かって登っていった。




 彼は登りつづけた。何十万年かが過ぎた。そのあいだ、誰とも出会わなかった。ときどき、空中で蠢くものの声を聞くだけであった。

 登っていくと、はじめて何者かに出会った。向こうは彼を認め、声をかけてきた。

〈そなたは何者だ。どこから来たのだ〉

 彼は答えた。

〈私は、下方から登ってきた〉

〈おお、そなたは『内核の民』ではないか。内核の民が、なぜここまで来た〉

〈世界の殻を見に行くために、上方へ向かっているのだ〉

〈なんと、世界の殻を見に行くとは〉

〈あなたは何者ですか〉

〈我々は、外核をさまよう民だ〉

〈なぜ、われわれ内核の民のことを知っているのですか〉

〈我等はさまよう者。この鉄の空の中を、登ることもあれば、降りることもある。そなたたち内核の民が住む世界へも、時折訪れることがある。内核の民のことはよく知っている。しかし、こんなところで見たのははじめてだ。世界の殻を見に行くと言ったな。世界の殻は容易に辿りつけるものではない。その困難、その危険を、知った上でのことか〉

〈困難、危険は知っている。しかし、私の心が、世界の殻を見たいと欲するのだ。だから私は行く〉

〈そうか。それならば、行くがよい。ひとつ助言をしてやろう。上へ向かうには、上昇流に乗ることが大事だ。あちらの方向に、流れの速い上昇流がある。それに乗っていくといいだろう〉

〈ありがとう。さまよう民〉

〈さらば。内核の民。そなたに幸運があらんことを〉




 彼は上昇流に乗った。自分の体を帆にし、上へ、上へと向かった。長い年月が過ぎた。彼は、あるところへ到達した。上昇流の終わるところ。鉄の空の果て。

 その上方には、鉄よりも固いものがあった。

 鉄の空とは異なるもの。固い岩。それがドーム状の壁のように、彼の頭上を覆っていた。

〈ここが世界の殻だろうか〉

 いやちがう、と彼は思った。上方を覆っている岩は、たしかに固そうではあったが、空との境界をよく見ると、けして完全に固いわけではない。ゆっくりとだが動いて、波打っている。あるところでは空とまじりあい、まだら模様を作っていた。

 彼はここを越えて行こうと決めた。しかし、ここから先は、いままでとはまったく違った世界である。彼ら内核の民は、周囲にある灼けた鉄をみ、それによって命を支えてきた。上の世界は違う。鉄の世界ではなく、マグネシウムと珪酸塩の世界。このままでは生きてゆくことはできない。

 彼はみずからの体を作りかえることにした。岩の一部、橄欖石かんらんせきの塊をすくい取って食べた。橄欖石は彼の一部となった。彼は何度も何度も、橄欖石を飲み込んだ。体のすべてが橄欖石となるまで。




 彼は境界に留まったまま、橄欖石を食べ続けた。橄欖石をすくい、咀嚼し、飲み込む。そのたびに彼の体の成分が置きかわった。

 長い時間が過ぎた。彼の体はあらかた橄欖石になってきた。

 あるとき、下の方から登ってくる者がいた。その者は彼を見て、近づいて声をかけた。

〈鉄とも橄欖石ともつかない異様な者よ。あなたは何者か〉

 彼は答えた。

〈私はもともと内核の民。はるか昔に、ここまで登ってきた〉

〈すると、あなたが、太古に旅立った勇者か〉

〈私のことを知っているのか〉

〈長老に聞いた。世界の殻を見るために、上方へ旅立った勇者がいると。私も内核の民。あなたをしるべとして、ここまでやってきた。だが、なぜあなたはそのような体になったのだ。なぜ橄欖石を食べているのだ〉

〈私はこの上に行こうと思う。そのために、体を変えなければならぬ。体をすべて橄欖石にするため、ここで食べ続けているのだ〉

〈しかし、橄欖石の体を持てたとしても、再び鉄の体に戻れるかどうかはわからない。それは愚かな行為に見える。勇者よ。あなたは、勇者なのか。愚か者なのか〉

〈私にはわからない〉

〈なぜそこまでして、上に行こうとするのだ〉

〈私の心が、そう願っているのだ〉

〈愚かな勇者よ。愚かで偉大な勇者よ。あなたの思いはわかった。しかし、あなたが上へ行けば、おそらく、帰れはしないだろう。その前にあなたと、対話をさせてくれ〉

 勇者と、登ってきた若者は長い間語りあった。村のこと。一族のこと。旅のこと。それは長い間孤独だった勇者にとっては、この上ない喜びだった。

 やがて、若者が帰る時がきた。勇者は彼に言った。

〈さらば若者よ〉

 若者も言った。

〈さらば勇者よ。もう会うこともあるまい。だが、私と、私の一族は、あなたのことを忘れはしないだろう〉




 長い年月が過ぎた。勇者の体はもはや鉄ではなく、橄欖石になっていた。

 彼は上方へ進んだ。上方にある固い岩、マントルの内部へ。みずからの体を埋めてゆく。鉄の空よりはるかに固く、息苦しい世界。ただ歩むのも、一歩一歩が重い。それでも彼は、世界の殻を目指して上へ進んだ。

 この世界にも動くものはいた。彼の歩む隣を、橄欖石の魚が泳いでいった。

 長い旅路の途中、ところどころにマントルの民が暮らす村があった。マントルの民は、内核から長い道程を越えてきた彼を歓迎してくれた。しばらく彼らの村にとどまり、また、上方を目指して旅立つのであった。

 マントルの中も、深度によって物性が変化する。対応するために彼は何度も、境界に留まって自分の組成を変えねばならなかった。

 いくつかの境界を越え、マントルの半ば過ぎまで登った。そこで勇者は奇妙なものを見た。

 巨大な岩石の塊。大陸ほどの大きさのある玄武岩の板が、上方からゆっくりと落ちてきた。

 勇者はそばにいたマントルの民に尋ねた。

〈あれは何だ〉

 マントルの民は答えた。

〈あれはメガリス。古くなった世界の殻の一部が、崩れ落ちてきたものだ〉

〈あれが世界の殻なのか。世界の殻も崩れるものなのか〉

〈そう。世界の殻もまた、生成して、消滅する。あのメガリスももう少したつと溶解して、マントルと一体になるのだ〉

〈私はあれを調べようと思う〉

〈気をつけて行かれよ。勇者よ〉

 彼はメガリスにたどりついた。冷たく、固まった玄武岩。動くものが存在しない死の塊。勇者やマントルの民のいる世界とは、完全に異質なものだった。

 メガリスの上部には、彼が見たことがない岩があった。堆積岩の厚い層。その中に妙なものがあった。

 カルシウムに富んだ物体が、規則的な、複雑な形状をなしている。勇者よりは小さいが、それでもその物体は数十メートルの大きさがあった。

 勇者はそれに聞いてみた。

〈そなたは何者だ〉

 それは答えた。

〈私は竜脚類の化石。かつて生物だったものだ〉

〈生物とはなんだ。世界の殻は冷たくて固く、動くものは存在しないように見える。だが世界の殻にも、動くものの世界があるのか〉

〈君たちが世界の殻と呼んでいるものは、我々にとっては地面と言う。地面の上、空の下、すなわち地上に、我々生物の世界があるのだ〉

〈世界の殻の上にまた、空があるのか。では、その空の上には何がある〉

〈空にはもう上はない。無限のかなたまですべて空だ〉

〈地上というのはどういうところなのだ〉

〈豊かなところだ。植物が繁り、動物が歩む。大きなもの、小さなもの、数え切れない生物がいて、それらが関係をなして生きている。昼には光が降りそそぎ、夜には闇につつまれる〉

〈私はそこに行けるだろうか〉

〈不可能だ。地底の人よ。我々がマントルの世界で生きられないのと同じように、君ら地底の人の肉体は、地上の世界とは相容れない。無理に辿りつこうとすれば、身を滅ぼすだけに終わるだろう〉

 勇者と化石は、しばらく語りあった。地上は豊穣な世界であること、しかしそこへは行けないことを、勇者は理解した。

 メガリスは沈降し、溶解が近付いてきた。

〈お別れだ。地底の人よ。世界の殻へ行くがよい。だが、地上を見ようなどと思ってはならないぞ〉

〈わかった。生物だったものよ。さようなら。話をありがとう〉

 そして、化石を含んだメガリスは、マントル中間の相変化面まで沈むと、溶解して消滅した。




 勇者はとうとう世界の殻に着いた。

 手を伸ばして、触れてみた。

〈冷たい〉

 何者をも拒絶すると思うほどの冷たさだった。ここは世界の果てであり、この裏側には地上がある。そこは豊穣な世界であるらしい。しかし、彼のような存在にとっては、確実に死の世界であるのだ。

 彼は世界の殻に沿って歩いた。所々、地底から沸き上がる泉が、世界の殻を破って噴出していた。また、世界の殻には裂目があって、そこでは古くなった殻が沈んだり、新しい殻が持ち上がったりしていた。勇者が体をもぐり込ませれば殻の外側へ出られるかもしれない。しかしそれを実行すれば死ぬ。彼は死を選ぶほど愚かではなかった。

〈帰ろう〉

 彼は、世界の殻、モホロビチッチ不連続面を後にした。




 勇者は地下深くへの帰途についた。何回も、世界の殻をふり返った。本当にこれでよかったのか、まだ迷いがあった。

 その時だった。

 地下深くから、つき上げてくるものがあった。マントル全体に、不気味な振動が響いた。

〈何だろうか〉

 しかし、彼にはそれを知覚するだけの時間は与えられていなかった。マントルのはるか奥からつき上がる大きな流れ、スーパープルームであった。秒速数十メートルという奔流。動物でさえ逃げられない速い流れであり、勇者の時間的スケールに比べれば光速にも近かった。彼の体はたちまち、その流れにまきこまれた。

〈しまった〉

 スーパープルームは、マントルの中の魚や住民、そして勇者をまきこみながら、地表に向かって上昇した。いくつもの相変化面をあっという間に越えた。温度と圧力の著しい低下。勇者の体は、急速にその機能を失っていった。彼の筋肉は凝結してペリドットに、血はガーネットに、魂はダイヤモンドに変化した。

 勇者は、自らの運命を理解した。

〈この流れは地上に噴出する。そこでは生きてゆけない〉

 しかし一方で、彼は深い満足感を抱いていた。

〈私はもうすぐ死ぬ。しかし、それでよい。世界の殻を越えて、世界の外へ行く。それこそが、私の魂が望んでいたことなのだ〉

 奔流は地殻をつき破った。勇者は世界から放たれた。

 そこには青い空があり、緑の大地があった。小さな動物たちが地上を走り回っていた。凝結してゆく意識の最後で、彼はそれを見たように思った。




 長い年月が経ち、地球上に人類が発生した。




 大陸のある場所で鉱脈が発見された。ダイヤモンドをはじめとする様々な宝石が採れた。珍しい鉱物、美麗な結晶。人々は群がってそれらを採掘した。訪れた人はみな、その鉱脈の豊かさを賞賛した。

 しかし、その鉱脈の正体を知る者はいなかった。それは、世界の外を目指した者の最後の姿。勇者の墓標であった。



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