番外編 私の中は空っぽ①【菜緒】
番外編を3話追加いたしました。
「いい?あの子に負けてはダメよ」
それまでにこやかに笑っていた母が、急に態度を一変させてそんなことを私に言ってくるようになったのは小学校に入った頃だった。
子どもながらに、あの子と私を競わせるのは私のためではなくて母のためだと気がついた。
「負けそうならば、相手の足を引っ張るとか邪魔してでも、何としてでも勝つのよ」
私はその子のことが好きだったから、その子の嫌がることや困らせるようなことはしたくなかった。
母には「はい」と返事をしておくけど、そんなに意地の悪いことをするのは嫌だし、私にはできなかった。
それで私が負けた、私の方が負けていると判断すると、母は今度は私を責めるようになった。
「何であなたはいつもそうなのよ!」
口だけでなくて、手が出ることもあった。
父は私がぶたれようが責め立てられようが無関心、見て見ぬふりを決め込んだ。
父は母に口でいつも負けてしまうから、面倒事、母のヒステリーには関わらないことにしたのだろう。
でも母のいないところで、大変だな頑張れよと声をかけて来ることもあった。
父こそ、もう少し頑張って欲しかったのに。
「お母さんの言う通りにして、いい子にしていれば怒られないよ」
そう言って口先で慰めてはいるけれど、根本的ものは何も解決できない、気弱で消極的な父だった。
母のヒステリーが度を越して行くと、父は家を出て行ってしまった。
どうして私をこの家から連れ出してくれなかったの!?
一番大変で辛いのは私だったのに。
それから母は気に食わないことがある度に私を折檻するようになった。
時には家の外に出されることもあった。鍵をかけられて朝まで入れないことが増えた。
近所のおじさんが同情して家に泊めてくれたけれど、ある日、信用していたそのおじさんに性的な悪戯を受けてしまった。
「いい子にしていれば、いつでも泊めてあげるよ」
家の中も外にも安全地帯はなかった。
学校にいる時だけはそれでもまだマシだった。マシではあるけど、ここも安全地帯ではない。
常に苛める対象を探している人達、苛める対象に飢えている人に目をつけられないようにしなければならなかったから。
先生や大人達の言う「いい子」にしていれば苛められないわけではないからだ。
いい子過ぎても苛められてしまうこともある。
大人しくていい子、お人好しで少し抜けているとか、あいつはトロいと思われてしまったら、すぐに苛めたい人達の餌食にされてしまうのだ。
苛められるのが嫌だから、苛める側に立って自分を守る人、自分に火の粉が飛んで来ないように見て見ぬふりをする人、まるで私の父のように、そんな意気地の無い人が大勢いることを、私は学校生活で知ったのだった。
中学を卒業する頃には、私は母の背丈に追いついた。腕力もそれなりについてきた。
殴られたり叩かれそうになるのを躱したり、防御するのを覚えた。
「ねえ、人を叩くのってそんなに楽しいの?それなら、私にも殴らせてよ」
私がそう言って睨むと母は怯むようになった。
私がファイティングポーズを取ったり、殴り返すふりや足を蹴るふりをすると、段々私を殴ることは減った。
これは彼氏の家で見た格闘ゲームの真似をしただけなんだけど、それでも効果はあった。
いつまでもやられっぱなしは、我慢ならなかったのよ。
父も母も、ただの弱虫だ。
私は母よりも絶対に強くなってやるんだ。
高校生の時、母が私を置いて蒸発してしまった。
クズな母からは解放されたけれど、家庭の事情がバレると「捨て子」と馬鹿にされ、苛めたがりの女子から苛められてしまった。
それで私は男子を頼ることにして乗り切った。苛め好きの陰湿な女子ほど男子には弱いのだ。
影響力がある男子、人気の高い男子に媚びて味方につけた。それを盾にしていればなんとかなった。
彼女にならないとダメな時は仕方がないからそうした。おじさんを相手にするよりも若い人の方がまだいいから。
「可愛いね」「美人だね」と言う言葉は私にとっては賛辞ではなくて、そう言ってくれる人は騙し易い人、取り入り易い人物だと見分けることに役立つものだけでしかない。
だからそんな外見を褒める言葉を聞いても少しも嬉しくなかった。
母方の伯母に引き取られた私は、バイトとパパ活をしながら短大を卒業した。
金持ちのおじさんにしては若くて美形、何でも私のお願いや言うことを聞いてくれて、しかもエッチがとても上手い人だった。
短大を卒業したら別れる契約だったけれど、この人なら結婚してもいいかな、結婚できたらいいのにと思うようになっていた。
就職先が決まり、3月生まれだった私は、二十歳になった途端その素敵なおじさんにあっさり捨てられた。
「そういう契約でしょ?それに僕は十代の子しか興味無いんだよ。君はもう大人だからね、バイバイ」
私が初めて好きになった男の人は、十代の女の子を食い漁るどクズなおやじに過ぎなかった。
世の中にはそんな人もいるのは知っていたけど、自分がその搾取の対象にされたことがショックだった。
それでも私は精一杯いい子にしていたのに。
───どうすれば人から捨てられなくて済むのだろう。
私はしばらく凄く落ち込んで、多分鬱状態になっていた。
新卒で入った会社で拓実君と出会った。
四歳上の先輩は話しやすくて優しい人だった。
入社してからすぐに何人かに交際を申し込まれたけど、拓実君は私のことは恋愛対象として見てくれはしなかった。
「小鳥遊さんて、凄い美人だよな」
「そうかな?」
「あれは誰もが振り返るような美人だろ」
「う~ん·····」
「お前、目がおかしいんじゃないか」
「ハハッ、そうかもな」
喫煙ルームで彼が同僚とそう話しているのを聞いてしまった。
これは全く脈が無いのかもしれない。
拓実君と親しい同期の人に、彼には片思いの好きな人がいるみたいだと聞き出したので、どんな人か知りたかった。
拓実君の同級生から卒業アルバムを貸してもらって、彼にどの人か教えてと頼んだら拒否された。
「どうして教えてくれないんですか?」
「君には関係無いよね」
「そんな言い方、酷い!」
「······悪いけど、教えたくないんだ。それは小鳥遊さん以外の人にもそうだよ」
拓実君のガードは固かった。
そんなある日、彼が休憩室で電話している時に「里美」という名前を口にしていたのを見かけた。彼の顔の表情から、もしかしたらその里美という電話の相手が片思いの人なのかもと思った。今まで見たこともない笑顔を浮かべていたから。
「私、ちょっと鬱気味で」
「そう、無理しないようにね。しんどいなら休んだ方がいいよ」
鬱を餌に相談事を持ちかけて見ると、あしらわれることはなくなって、ちゃんと相手をしてくれた。
念のため他の男性社員にも同様の相談要員を作っておくことにした。一人になるのは嫌だから。
「私、死にたい······」
自殺願望をちらつかせると、心配してみんな大抵いいなりになってくれた。
「クリニックには通っているの?」
「薬は処方してもらっているけど、それでも気分が落ちてしまうこともあるの」
それは嘘だった。私はクリニックなんて行きたくない。私の鬱は半分演技でそれほど酷くはないから。
「······大変だね」
辛いふりをすれば、拓実君も面白いぐらいに気遣ってくれるようになった。
でも、段々それが私の演技だと気がついたのか、拓実君から少し距離を置かれるようになった。
拓実君は結構鋭いところがあって、私の嘘泣きが通じない人だった。
気分が悪いふりをして自宅まで送らせることで、拓実君と私が付き合っているように周囲に思わせることはできた。
拓実君は良い顔をしなかったけどね。
鬱を患っているのを盾にすると、キツいことを言われたり、冷たいことや強い口調で言われるとか怒鳴られずに済むのよね。
この盾を使えば庇護してもらえるのだから、この盾はなかなか手離せない。
「何でそんなに死にたいの?」
「わからない。でも時々死にたい気分になるのよ」
「······それは、空っぽだからかもね」
「は!?なにそれ!」
私は頭が空っぽだと馬鹿にされたと勘違いし、激怒した。
「学力が無いとか知識が無いとかじゃなくて、心の中が空っぽ、空虚という意味だよ」
······私の心の中が空っぽ?
「そ、そんな不安になるようなことを言わないで」
私は自分の心の空洞が急に迫って来るようで怖くなった。今まで誰にもそんなことを言われたことはないのに。
でも、この人なら私のことをちゃんと見てくれるかもしれない。
今度こそ、拓実君なら私を捨てないでいてくれるのではないかと、私は勝手に期待していた。
友人から丹沢湖のキャンプに誘われたことにして、彼と一緒に丹沢に行った。
本当はキャンプじゃなくて自殺願望のある人達の集いだったのを拓実君には内緒にした。
今思うと馬鹿なことをしたなと思うけれど、彼をもっと心配させて、私に引き留めておきたくて試したの。
心中しようとしたら止めてくれるのか、死ぬなって言ってくれるのか、それとも私と一緒に死んでくれるのか、それを確かめたかった。
私は眠剤をコーヒーに混ぜて彼に飲ませた。窓を目張りした車の中で目が覚めると、彼は激怒しながら私に言い放った。
「そんなに死にたいなら、死にたい奴だけで死ねよ!」
そう言ってふらつきながら必死で車の外に出て走り去って行った。
チラリとも私の方を振り向くこともしないで。
彼はバイクまでたどり着くとそのまま帰ってしまった。
私は拓実君に自分勝手なことをした後悔と、彼に置き去りにされた悔しさで震えていた。
「誰でもいいから一緒に死んで欲しかった」
そのメールに返信が帰って来ることはなく、その後メールも電話もブロックされてしまった。
連休明けに出社すると彼の姿はなかった。
体調不良で会社を休んでいるらしい。
それからいくら待っても彼は会社に戻って来ず、半年後には退社してしまった。
入院はしておらず自宅療養中だという彼の自宅へ様子を見に行って見ることにした。
会ってはもらえないかもしれないけれど。
彼の友人なのか男性二人に女性一人の三人組が丁度部屋から出て来るところだった。
咄嗟に私は物陰に隠れた。
「······ありがとう、助かる」
「じゃあな、また来るよ」
「無理しないで、ゆっくり治してね」
「里美もサンキュー」
別れを告げ合う人の中に里美と呼ばれる人がいて、ギクリとした私はその人のことをじっと見つめた。
中肉中背の、ショートカットが似合う爽やかな印象の人だった。
「じゃあまた、電話するね」
あの人とは電話もし合っているのね。それに家にまで上げてもらえている。
私は一度も拓実君の家には上がらせてもらえてないのに。
私とあの人、どこが違うというの?
私の方が若いし、彼女よりもずっと美人なのに。
社内にいる拓実君の同級生に里美さんについて聞くと、大学の同級生と付き合っているという話を教えもらえた。
渡辺里美の住所と交際相手の名前と連絡先を入手した。
拓実君の彼女ではないんだ。良かった。
その渡辺里美の




