プロローグ
この世で最も恐ろしいものは、人の勝手な思い込みと歪んだ自己認識だ。
そんな奴らは当然話が通じない。
俺は話が通じない奴らから、どうしてなのか頼られてしまう。
初めてあの女がやって来たのは、自室で珈琲を啜りながら薄曇りの空を物憂げに窓から眺めていた冬の日だった。
前触れもなくチャイムが鳴り、どうぞとは言っていないのにずかずかと部屋に上がり込んで、俺の執筆中の机の椅子に座り込んだ。
「先生、聞いて下さい!」
どこに先生なんかいるんだよと、わざとらしく周囲を見回して、取り敢えず無視することにした。
興味のあるものしか掘り下げて書くことはない半端なライター稼業、趣味レベルの物書き人間を先生呼びは普通しないものだ。
第一この女とは面識は全くない。
普段は筆名を使っているから、本名を知られる筈は無いし、 面倒を避けるため表札すら出していない。
煙草は随分前に止めていたが、会話する隙を与えないために机の奥から取り出して煙草に火をつけようとした。
不躾な侵入者は俺が手にしたライターを素早く奪い、まるで客商売の女のように火をつけようとしてきたので、咄嗟に身をよじった。
(なんなんだ、この女は!)
「ふふふ。案外純情なんですね」
三十代前半ぐらいに見える痩せぎすの女はニタリと笑った。
花柄のワンピースとスキニージーンズに赤いバレエシューズ、緩くウエーブをかけた肩丈の黒髪を思わせ振りに手で耳にかけた。
これは俺に秋波を送っているつもりなのか?
(き、キモい、キモ過ぎる)
「早く出て行ってくれ!」
俺は絶叫した。
「先生ったら、冷たいのね」
「俺は先生じゃない!」
平然と座り続ける女に侮蔑の視線を向けても、微動だにしない。
どこまでも図々しいのか。
「俺の生活の邪魔をしないでくれ」
「私の悩みに答えてくれたら、ここをどくわ」
「そんな義理や義務はない」
俺はイカれた女を睨み付けた。
「ちょっとぐらい、いいじゃない」
「俺は無料相談員じゃないぞ」
「ええ~、意地悪ぅ」
「俺は性格が悪いんだ。ぶちきれる前に出て行け!」
ウルウルと目を潤ませて、上目遣いで俺にしなを作る姿に反吐が出た。
俺はこの手の女が最も苦手で嫌悪しかない。
思い通りにならないとすぐに泣く女(しかも嘘泣き)が、兎に角面倒臭すぎて嫌だ。
これだから女は嫌なんだ。
「こんなイケズだから先生はまだ独身なのよ」
「俺は面倒で迷惑な女が嫌なだけだ」
俺は久しく会っていない、ある女性に無性に会いたくなった。
彼女の名を叫びたくて堪らない。
今すぐ君に、ここにいて欲しい。
この窮地を、彼女ならばどうするだろうか。
一見おっとりしているのにズバズバ言い放つ、忖度しない爽快な彼女の姿を思い浮かべた。
家族以外で唯一信頼できる稀有な女性に、会いたくて仕方がない。
─── 里美。
彼女は大学時代からの友人で、同級生の妻だ。
彼女の夫とは特別親しいわけではないから、里美が結婚してからなかなか会うことはできなくなったが、今でもメールでやり取りをたまにしている、唯一の異性の友人だ。
ネットで占い師をしている彼女は、俺が安心して頼れる数少ない信用できる人物だ。
里美、助けてくれ。君の穏やかな声を聞きたい。
そんな俺の心情に気がつくわけもなく、
「すぐに終わるから聞いてよ」
しつこく食い下がる女は、何度出ていけと言っても出て行かず、警察を呼ぶ振りをすると渋々退散した。
俺にとって嫌悪と恐怖の塊でしかない迷惑な女は、この日から懲りずに定期的にやって来るようになったのだった。




