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猫と時計職人

作者: 辻 秀之

1.猫と時計職人(個人主義者)


我々猫は、群れを作って生きていく犬とは違い、基本的に個人主義である。しかしその事実は、ヒトとの絆を持ち得ないという意味ではない。我々はヒト全体という群れにおける自分の立ち位置を考えるのではなく、あるひとりの個人との結びつきを重視するのだ。


私の名前はクロ。黒い毛並みと、夜の闇に光る琥珀色の瞳を持つ、街外れの古い時計屋に住む猫だ。この時計屋の主、時計職人の老人・佐藤さんは、私にとってその「あるひとりの個人」だった。彼は寡黙で、いつも歯車やネジに囲まれ、時を刻む音に耳を傾けながら生きている。佐藤さんにとって、時計はただの道具ではない。それは彼の人生そのものであり、過去と未来を繋ぐ繊細な糸のようなものだ。


私がこの店に迷い込んだのは、三年前の雨の夜だった。ずぶ濡れで、腹を空かせた子猫だった私は、店の軒下で震えていた。佐藤さんは無言で私を拾い上げ、暖炉のそばで毛布にくるんでくれた。彼は多くを語らない男だったが、その手は驚くほど優しかった。それ以来、私はこの店に住み着き、佐藤さんの静かな日々に寄り添っている。


時計屋の店内は、時が層になって積み重なっているような場所だ。古い柱時計が重々しく秒を刻み、繊細な懐中時計が小さくカチカチと囁く。佐藤さんはその全てに耳を傾け、まるで時計たちの声を理解しているかのように修理をする。私にはその技術が魔法のように見えた。彼の手が動くたび、止まっていた時間が再び流れ始めるのだ。


ある日、店に一人の客がやってきた。若い女性で、焦げ茶色のコートを着ていた。彼女が手にしていたのは、ひどく傷ついた古い懐中時計だった。「これは父の形見なんです。直りますか?」彼女の声には、希望と不安が混じっていた。佐藤さんはいつものように無言で時計を受け取り、じっと眺めた。私は彼の肩に飛び乗り、その時計を覗き込んだ。文字盤は曇り、針は錆びついて動かない。それでも、どこか温かみのある輝きを放っていた。


佐藤さんがその時計を修理するのに、まる一週間かかった。彼はいつもの倍の時間をかけ、まるでその時計に宿る記憶を丁寧に扱うように作業した。私は彼の膝の上で丸くなり、その作業をじっと見つめた。時折、彼は小さく呟いた。「この時計には、物語がある」と。


修理が終わった日、女性が再び店を訪れた。佐藤さんが時計を手渡すと、彼女はそれを手に取り、そっと蓋を開けた。カチ、カチ。静かな音が響き、彼女の目には涙が浮かんだ。「父がいつも持ち歩いていた音…。ありがとう、本当にありがとうございます。」彼女はそう言って、深々と頭を下げた。


その夜、佐藤さんはいつものように店の奥の椅子に座り、紅茶をすすっていた。私は彼の膝に飛び乗り、喉を鳴らした。彼は私の頭を軽く撫で、珍しく口を開いた。「クロ、お前もわかってるだろう? 時計はただの機械じゃない。誰かの時間を、誰かの心を、繋いでくれるものなんだ。」


私は目を細め、彼の言葉に耳を傾けた。猫である私には、ヒトの時間の概念は理解しにくい。だが、佐藤さんと過ごすこの瞬間が、私にとっての「時間」なのだと、どこかで感じていた。

時計屋の夜は静かだ。無数の時計が刻む音だけが、まるで星の瞬きのように響き合う。私は佐藤さんの膝の上で目を閉じ、思う。我々猫は個人主義かもしれない。だが、この絆、この瞬間こそが、私が生きる理由なのだ。


---


2.猫と時計職人(絆というもの)


時計という機械は不思議なものであると思う。時計はお互い無関係に動いている。しかし、それが指し示す時刻は同じなのだ。まあ今どきの時計には、電波時計と称するひとつの基準にしたがって一斉に同じ歩調で動いているものもあるらしいが、いまだに多くの時計は「独立独歩」で動きつつ、そうでありながら皆が同じ時刻を指し示す。実に興味深い。


私はクロ、時計屋の黒猫だ。佐藤さんの店に住み、歯車と秒針の奏でる音に囲まれながら日々を過ごしている。店内の時計たちは、それぞれが異なるリズムでカチカチと動いているのに、ふと見上げれば同じ時刻を指している。この奇妙な調和は、私のような猫にとって、まるでヒトの世界の暗黙の約束のようだ。誰もが自分の道を歩みながら、どこかで繋がっている。


ある秋の午後、店に新しい客がやってきた。背の高い男で、灰色のスーツに身を包み、どこか落ち着かない雰囲気を漂わせていた。彼が手にしていたのは、掌に収まる小さな置時計だった。真鍮の枠はくすみ、ガラスはひび割れ、まるで長い旅を終えた旅人のように疲れ果てていた。「直せますか?」男の声は低く、どこか切迫していた。佐藤さんはいつものように無言で時計を受け取り、じっと観察した。私は彼の肩に飛び乗り、その時計を覗き込んだ。針は止まり、内部の歯車はまるで眠っているかのようだった。


佐藤さんがその時計を分解し始めたとき、私は彼の作業台の隅で丸くなった。彼の手はいつも通り正確で、まるで時計に語りかけるように動いていた。だが、今回はいつもと様子が違った。彼が小さな歯車を取り出した瞬間、男が急に口を開いた。「その時計は…私の祖父のものです。祖父が戦地から持ち帰ったものだと、母が話していました。」


佐藤さんは手を止めず、ただ小さく頷いた。私は男の顔を見上げた。彼の目は、遠くを見るような、どこか懐かしい光を帯びていた。「祖父はあまり多くを語らない人でした。でも、この時計だけは大事にしていて…。私が子供の頃、毎晩この時計の音を聞きながら寝たんです。あの音が、なんだか家族の絆みたいなものに感じられて。」


男の言葉に、私は耳をピクリと動かした。時計の音が絆だと? 猫の私には、ヒトのそんな感傷は理解しにくい。だが、佐藤さんがその話を聞きながら、いつもより丁寧に歯車を磨いているのを見ると、彼もまた何かを感じているのだとわかった。


修理は難航した。時計の内部は湿気で錆びつき、部品のいくつかは交換が必要だった。佐藤さんは古い部品箱を引っ張り出し、まるで宝物を探すように一つ一つ確認した。私は彼のそばで、時折鼻で部品を突いてみる。佐藤さんはそんな私をチラリと見て、珍しく小さく笑った。「クロ、お前も手伝えよ。」もちろん、私はただの猫だ。だが、彼の声には温かみがあり、私は喉を鳴らして答えた。


数日後、時計はようやく動き出した。カチ、カチ。控えめだが、力強い音が店内に響いた。男が店に戻ってきたとき、佐藤さんは無言で時計を手渡した。男は時計を手に取り、そっと耳を近づけた。その瞬間、彼の顔に安堵の笑みが広がった。「この音…。やっぱり、祖父の音だ。」彼はそう呟き、佐藤さんに深く頭を下げた。「ありがとう。あなたはただ直したんじゃない。私の家族の時間を、取り戻してくれた。」


男が去った後、佐藤さんはいつもの椅子に腰掛け、紅茶をすすった。私は彼の膝に飛び乗り、店の時計たちの音に耳を傾けた。カチカチ、チクタク。それぞれが独立して動いているのに、どこかで同じ時を刻んでいる。私は思う。時計も、猫も、ヒトも、結局は同じなのかもしれない。独立独歩で生きながら、どこかで誰かと繋がっている。それが、時間の魔法なのだろう。


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3.猫と時計職人(クロの一日)


私は、時計を持っているわけではないけれど時間の感覚は持ち合わせている。朝起きれば、佐藤さんにすり寄って前足で彼の体を軽く踏む。彼が起きて食事を出してくれたら、食後には近所を巡回する。1日は8時間かける3と言う小単位に分かれていて、朝・昼・晩である。ヒトの時計が秒や分を刻むように、私の体は光と影、音と匂いで時を測る。時計屋の黒猫、クロの名を持つ私の一日は、そんな風に始まる。


朝は、佐藤さんの店の裏にある小さな寝床で目を覚ますことから始まる。古い毛布を敷いた木箱は、私の城だ。窓から差し込む朝日が、店内の時計たちのガラスに反射してキラキラと揺れる。それが私の目覚めの合図だ。佐藤さんはいつも決まった時間に起きる。店の奥の小さな部屋で、彼がベッドでゴソゴソと動き始める音を聞くと、私は軽やかに飛び降り、彼の胸に前足を乗せる。「起きろ」とばかりに軽く踏み、喉をゴロゴロ鳴らす。佐藤さんは寝ぼけ眼で私の頭を撫で、「お前、毎朝うるさいな」と呟くが、その声には笑みが混じっている。


朝食は、佐藤さんが用意してくれる魚の缶詰か、時折彼が焼いたパンのかけらだ。私は食卓の隅でちんまりと座り、佐藤さんが紅茶をすする音を聞きながら食事をする。彼が新聞を広げる頃、私は窓辺に飛び乗り、店の外を眺める。通りを行き交うヒト、走り回る犬、飛び交う鳥。全てが朝の喧騒の一部だ。食事が済むと、私は店の裏口から外へ滑り出る。私の「朝の巡回」の時間だ。


近所を歩くのは、私の縄張りを確認する大切な儀式だ。時計屋の裏の路地を抜け、隣の魚屋の前を通り、公園の古いベンチまで一巡り。魚屋の親父は私を見つけると、「クロ、また来たか」と笑いながら魚の切れ端を投げてくれる。私はそれを軽く咥えて持ち帰り、店の裏でゆっくり味わう。公園では、鳩や雀が私の気配に慌てて飛び立つが、私は追いかける気はない。ただ、風の匂いと木々の揺れる音を感じながら、縄張りの平和を確認するのだ。この巡回には、時計の針で言えば一時間ほどかかる。佐藤さんが店を開ける頃、私は店に戻り、彼の作業台の隅で丸くなる。


昼は、店の時間が最も賑やかなときだ。客がやってきては時計を持ち込み、佐藤さんがその一つ一つに耳を傾ける。私は作業台の上で昼寝をしたり、時折客の靴紐をちょいと突いたりして過ごす。佐藤さんはそんな私をチラリと見て、「クロ、邪魔するな」と言うが、彼の手はいつも優しく私の背を撫でる。店の時計たちがカチカチと響き合い、陽光が床に長い影を落とす。私はその影を追いかけて遊び、時折窓辺で外を眺める。昼の時間は、ヒトと猫、時計と光がゆるやかに交錯する瞬間だ。


晩になると、店は静けさを取り戻す。佐藤さんが店を閉め、奥の部屋で夕食を用意する。私は彼の足元にまとわりつき、魚や肉の匂いに鼻をヒクヒクさせる。夕食後は、佐藤さんが店の椅子に座り、紅茶を飲みながら古い時計を眺める時間だ。私は彼の膝に飛び乗り、喉を鳴らしながらその静かな一刻を共有する。店の時計たちは、夜の闇の中でそれぞれのリズムを刻む。カチカチ、チクタク。まるで、時間がそっと囁いているようだ。


夜が深まると、私は再び寝床に戻る。佐藤さんが部屋の灯りを消す前に、私の頭を軽く撫でてくれる。「おやすみ、クロ。」その言葉を聞きながら、私は目を細める。時計を持たない私だが、佐藤さんとのこのリズムこそが、私の時間なのだ。朝、昼、晩。光と影、音と匂い。そして、佐藤さんの温もり。それが、私の一日を刻む。


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4.猫と時計職人(雨の日の客)


私はクロ、時計屋の黒猫だ。雨はヒトにとっては厄介らしいが、私にはさほど気にならない。濡れるのは嫌いだが、雨音は時計のチクタクと似ていて、どこか心地よい。佐藤さんの店は、今日も無数の時計がカチカチと響き合う。柱時計が重々しく、懐中時計が囁くように。雨が窓を叩き、店内に薄暗い光が差し込む。私は作業台の隅で丸くなり、佐藤さんが歯車を磨く音に耳を傾ける。彼の手はいつも正確で、まるで時間を撫でるようだ。


その日の午後、店のドアが勢いよく開いた。びしょ濡れの少年が飛び込み、赤いレインコートから水が滴って床に水たまりを作る。十歳ほどか、鼻の頭に水滴がついている。少年は小さな腕時計を握りしめ、佐藤さんに突き出した。「おじさん、これ、直せる? 母さんの誕生日までに直してほしいんだ!」声は大きく、どこか切羽詰まっている。私は作業台から身を乗り出し、少年の顔を観察する。子犬のような無邪気さと、妙な焦りが混じっている。佐藤さんは無言で時計を受け取り、じっと眺めた。文字盤は曇り、針は止まっている。私は鼻を近づけ、湿った革ベルトの匂いを嗅ぐ。


佐藤さんが時計を分解し始めると、少年は店内で落ち着かない。棚の時計を覗き、ガラスに指を押しつけ、「すげえ、こんなに時計あるんだ!」と叫ぶ。私は目を細める。失礼なヒトだ。少年は私に気づき、「ねえ、猫! 名前あるの?」と指を突き出す。私は反射的に後ずさる。私はクロ、ただの猫ではない。だが、少年は構わず笑い、「お前、時計好き? 俺、時計カッコいいと思うんだよね!」とまくし立てる。私は尻尾を軽く振って答える気はないが、彼の声は雨音に負けないほど響く。


佐藤さんが小さなドライバーで歯車を動かす。少年は作業台に近づき、じっと見つめる。「この時計、母さんが若い頃に買ったやつなんだ。ずっと使ってなかったけど、誕生日にもう一回使ってほしいなって…。」少年の声が少し小さくなる。私は耳をピクリと動かす。ヒトは、時計に自分の時間を重ねる。壊れた時計を直すのは、過去を取り戻す行為なのだろうか? 私は作業台の上で姿勢を変え、少年の話を聞く。雨音と時計の音が混ざり合い、店内はまるで時間の泡に包まれているようだ。


修理は一時間ほどかかった。佐藤さんが最後のネジを締め、時計を動かす。カチ、カチ。小さな音が少年の耳に届く。彼は目を輝かせ、時計を手に取る。「やった! 母さん、喜ぶよ!」少年はレインコートを被り、弾むように店を出て行った。雨はまだ降っている。佐藤さんは何も言わず、作業台を片付ける。私は彼の膝に飛び乗り、濡れた窓の外を眺める。ヒトは時間を急ぐ。少年は母さんの誕生日を急いでいた。でも、時計は急がない。ただ、独立独歩で刻むだけだ。


私は喉を鳴らし、思う。雨の日も、晴れの日も、時間はいつもそこにある。ヒトがそれをどう感じるかは、少年のような焦りや、佐藤さんの静かな手仕事にかかっている。私は作業台に戻り、丸くなる。時計のチクタクと雨音が、私の現在を包む。それで十分だ。


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5.猫と時計職人(冬のストーブ)


冬が来ると、店はひんやりする。ヒトはそういう考え方をする。しかし本当は逆である。寒いから冬なのであって、冬だから寒いというのは逆立ちした考え方だ。ともあれ、窓の外では雪がちらつき、通りは静かになってきた。冬が来たのだ。だが、佐藤さんが店の隅に古いストーブを置くと、店内は温もりに満ちる。ストーブの火がパチパチと鳴る音は、時計のチクタクと調和し、まるで新しい時間の音だ。私はクロ、時計屋の黒猫だ。私はストーブ脇の毛布に丸くなり、温もりに目を細める。時計屋の時間は、冬になると少しゆっくり流れる気がする。


ある日、佐藤さんがストーブのそばで古い部品箱を広げ、歯車やネジを整理し始めた。私は毛布から顔を上げ、彼の手元を覗く。部品は錆びついたものもあれば、鏡のように光るものもある。佐藤さんは珍しく呟いた。「昔、師匠にこの店を継いだ時、こんな冬だったな。」私は耳を傾け、半分眠りながら聞く。彼の声には、過去の時間が宿っている。師匠とは、佐藤さんが若い頃に時計修理を教わったヒトらしい。佐藤さんが語ることは滅多にない。私は尻尾を軽く動かし、彼の話を記憶に刻む。


客は冬の間、少ない。時折、近所の老人が壁時計の修理を頼みに来るが、今日は誰も来ない。私はストーブの温もりに身を委ね、店の時計たちを眺める。柱時計は重々しく、懐中時計は繊細に動く。それぞれが自分のリズムで刻むのに、同じ時刻を指す。私は思う。時計は過去を刻むが、ストーブの火は今を温める。過去と今が、店内で交錯している。佐藤さんが部品を手に、「この歯車、師匠が作ったやつだ」と呟く。私は目を細め、彼の指先を見つめる。


夕方、佐藤さんがストーブに薪を追加する。火が勢いよく燃え、パチパチと音を立てる。私は毛布から飛び出し、佐藤さんの膝に飛び乗る。「クロ、寝るなよ」と彼は笑い、私の頭を撫でる。私は喉を鳴らし、温もりと匂いに包まれる。油と金属、そして薪の煙の匂い。それが私の現在だ。私は思う。ヒトは過去を語り、時計は今を刻む。だが、ストーブの火は、ただそこにある。時間とは、こんな風に層になって積み重なるものなのか。


夜が深まると、佐藤さんは店を閉め、奥の部屋で夕食を用意する。私はストーブ脇に戻り、火の揺らめきを見つめる。時計のチクタクと火のパチパチが、冬の夜を満たす。私は丸くなり、目を閉じる。佐藤さんの過去、店の今、そして私の温もり。それらが一緒なら、冬の時間も悪くない。


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6.猫と時計職人(隣の花屋の娘)


私はクロ、時計屋の黒猫だ。ある日、店の隣に花屋ができた。ガラス張りの店先に、色とりどりの花が並ぶ。花の匂いは時計屋の油や金属の匂いと違い、甘く鼻をくすぐる。私は裏口から様子を伺い、店の娘に気づかれる。彼女は若いヒトで、髪を束ね、笑顔で私に手を振る。「ねえ、ミケ! 遊びに来てよ!」ミケ? 私はクロだ。失礼なヒトだ。だが、彼女の声は明るく、私を歓迎しているのは間違いない。だから私は、尻尾を軽く振って反応する。


花屋に足を踏み入れると、匂いが私を包む。赤、黄色、紫。花はまるで時間が色を持ったようだ。私は棚の間を歩き、彼女の動きを観察する。彼女はハサミで茎を切り、水を入れたバケツに花を並べる。「ミケ、うちの花、きれいでしょ?」私はクロだ、と言いたいが、彼女の笑顔に押され、喉を鳴らす。花屋は時計屋と違い、生き物の匂いに満ちている。私は戸惑いつつも、彼女の明るさに惹かれる。


ある日、彼女が佐藤さんに小さな花束を贈ってきた。黄色い花と白い花が、簡単な紙に包まれている。「時計屋さん、いつも静かだから、ちょっと彩りを!」彼女は笑い、佐藤さんは無言で受け取る。私は作業台から飛び降り、花束を嗅ぐ。甘い匂いが、時計のチクタクに混ざる。佐藤さんが古い花瓶に花を挿し、店の隅に置く。私は花瓶のそばで丸くなり、思う。ヒトの優しさは、匂いや色にも宿る。


彼女は毎日、私を「ミケ」と呼ぶ。私は訂正する気はないが、彼女が魚屋の親父と話す声や、客に花を渡す笑顔を見ると、時計屋とは違う時間が流れる。佐藤さんが花瓶を眺め、「クロ、いい匂いだな」と呟く。私は喉を鳴らし、作業台に戻る。花と時計が織りなす時間は、まるで新しいリズムだ。私は目を細め、店の光と匂いに身を委ねる。


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7.猫と時計職人(夜の散歩)


ある晩、佐藤さんが店を閉めた後、私は裏口から夜の街へ滑り出た。街灯が揺れ、閉じた商店街は静かだ。昼の喧騒は消え、風が冷たく私の毛を撫でる。私は路地を抜け、魚屋の前を通る。魚を濡らしていた水はすでに乾いており、魚の匂いは昼ほど強くない。公園に着くと、ベンチで星を見上げる子がいる。私は木の陰から彼を観察する。ヒトは星に何を見るのだろう?


夜の街は、時計屋とは別の時間を持つ。パン屋の窓から灯りが漏れ、親父がパンをこねる音が聞こえる。私は匂いを嗅ぎ、尻尾を振る。公園の木々が風に揺れ、遠くで犬が吠える。私は思う。時計屋のチクタクは聞こえないが、街の鼓動があり時を刻んでいる。ヒトも猫も、夜には別の時間を生きる。私は公園を抜け、商店街を戻る。星空の下、時間はもっと広く、もっと深い。


店に戻ると、佐藤さんがまだ起きている。奥の椅子で紅茶をすすり、時計を眺めている。私は彼の膝に飛び乗り、「クロ、どこ行ってた?」と撫でられる。私は喉を鳴らし、夜の匂いを彼に伝える。店の時計がチクタクと響く。私は思う。夜の街と時計屋は、別の時間を持ちながら、どこかで繋がっている。それが、時間の不思議だ。


---


8.猫と時計職人(未来というもの)


私はクロ、時計屋の黒猫だ。時計は不思議なものだ。秒を刻み、分を積み、時を紡ぐ。だが、その先にある「未来」とは何か?我々猫にとって、過去は動かすことのできない確定した事実であるし、現在とは、自分が今目の前で経験している事実である。しかし、未来などというものは、どこにも存在していない。


ヒトはなぜ未来というものについて思い悩んだり期待をしたりするのだろうか。私は作業台の隅で丸くなり、佐藤さんの手元を見つめる。彼が修理する懐中時計のチクタクが、私の思索を静かに刻む。


佐藤さんの店は、秋も深まり、窓の外で木の葉がカサカサと落ちる。店内の時計たちは、それぞれが独立独歩でカチカチと動き、同じ時刻を指す。私は目を細め、ヒトの未来への執着を考える。先日、店に来た背広の男は、新しい壁時計を手に、「これで新居の時間を刻みたい」と笑った。彼は「未来の家族」を語り、まるでまだ見えないヒトを手に握るように話した。別の日、老婦人が壊れた時計を持ち込み、「孫の卒業まで動いてほしい」と呟いた。彼女の目は、遠くの時間を追いかけるようだった。私は首を傾げる。


未来とは、風に揺れる木の葉のようなものだ。つかもうとしても、指の間をすり抜ける。ヒトはなぜ、そんな実体のないものに心を囚われるのか。


私は猫だ。過去は記憶だ。雨の夜、佐藤さんが私を拾い、暖炉のそばで毛布にくるんでくれたこと。魚屋の親父が投げてくれた魚の切れ端の味。冬のストーブの温もりや、花屋の娘が「ミケ」と呼ぶ明るい声。夜の街を歩き、星を見上げる子の静かな息遣い。それらは私の毛並みに刻まれた事実だ。現在は、この瞬間。佐藤さんが紅茶をすすり、油と金属の匂いを漂わせながら、時計を修理する手元。私が彼の膝に飛び乗り、喉を鳴らすこと。それが私の時間だ。だが、未来とは何だ? それは私の尻尾の先のように、動いてもつかめない。私はシニカルに思う。ヒトの未来への一喜一憂は、まるで空を追いかける子猫のようだ。無意味ではないか。


今日、店は静かだ。佐藤さんが古い懐中時計を手に、じっと眺めている。私は作業台から彼の肩に飛び乗り、時計を覗き込む。文字盤は曇り、針は止まっている。佐藤さんが小さなドライバーで蓋を開け、歯車をそっと動かす。私は彼の手の動きに合わせ、尻尾を軽く振る。時計は、ヒトにとって未来を指す道具らしい。だが、私にはただの機械だ。カチカチと動くその音は、現在を刻むだけ。佐藤さんが「クロ、邪魔するな」と呟き、私の頭を撫でる。私は喉を鳴らし、彼の膝に戻る。油の匂い、紅茶の香り、時計のチクタク。それが私の現在だ。


だがふと、私は考える。もし、この現在が明日も、明後日も続いたら? 佐藤さんが毎朝私を撫で、魚屋の親父が魚を投げ、花屋の娘が笑い、夜の街で星が瞬く。そんな日々が繰り返されるなら、それはどんな時間だろう。私は目を細め、過去の出来事を思い出す。雨の日に少年が持ってきた腕時計、ストーブの火がパチパチ鳴った冬の夜、花屋の花束が店に色を添えた日、夜の散歩で感じた街の鼓動。それらがまた訪れることを、私はどこかで願っている。ヒトが未来に期待するように、私もまた、こんな現在が続くことを夢見ているのではないか。


私は作業台の上で姿勢を変え、店の時計たちを見つめる。柱時計、懐中時計、壁時計。それぞれが自分のリズムで動き、同じ時を刻む。時計の針は、過去から現在へ、そして未来へと進む。未来とは、現在の延長なのかもしれない。佐藤さんが椅子に座り、紅茶をすすりながら、「クロ、ぼーっとするな」と笑う。私は彼の膝に飛び乗り、喉を鳴らす。この温もり、この匂い、この音。それらが明日も続くなら、それが私の未来だ。私は思う。未来は、つかめない空想かもしれない。だが、佐藤さんとの時間が繰り返されるなら、私はそれを期待してもいい。


店の時計たちが、夜の静けさの中で響き合う。カチカチ、チクタク。私は目を閉じ、時計の針の動きに耳を傾ける。未来を告げるのは、この針の動きだ。過去は記憶、現在は感覚、そして未来は、現在の続き。猫の私にも、未来があるのだ。私は喉を鳴らし、佐藤さんの膝の上で丸くなる。時計のチクタクが、私の時間を刻んでいる。

私は、私の今までの経験が平和裏に繰り返されることを望む、それが私にとっての未来への期待なのだ。


<了>

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― 新着の感想 ―
現代日本の話だから本当はもっと明るい店内だと思うのだけど、どこか絵本にありそうなセピア色の時計屋さんの光景が見えました。 寡黙な店主といつもそばにいる猫。ずっと続いている時計の音。 静かで淡々としてい…
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