第1話 こきゅう
持久走が好きだ。
「ぐるぐると楕円形の校庭を走るだけで、大して景色も変わらない。退屈だし苦しいのに。美琴は変わり者だね」
友達にはきまってそんな風に言われるけれど。確かに私たちの中学校のグラウンドは、市内の他の公立校と比べてもダントツで小ぢんまりしている。マンションや大きな道路に囲まれていて騒がしいし、お世辞にも良い景観とは呼べない立地だ。
でも好きなのだ。私の四肢は私の思うまま靭やかに動く。
スースー ハーハー
私の呼吸はいたって自然だ。健全だ。
そんなことが、ちゃんと認識できるから。景色とか、空気の良さなんてどうでもいい。
できるだけ長く走っていたい。でも、体育の授業はすぐに終わりが来る。
なぜ好きな時間というのは、あっという間に終わってしまうのだろう。
陸上部に誘われたこともあったけれど、断った。競技をしたいわけではないのだ。
それに、放課後にはやらなければいけないことがあったから。
◆◆◆
「美琴」
昇降口を出ようとしたところで、背後から聞き慣れた声がした。振り返るとそこにいたのは、履き替えたスニーカーのつま先をトントンと鳴らしている、二学年上の姉、葉月だった。
「今日も寄ってから帰るの?」
「うん。お姉ちゃんも一緒に行く?」
ここでタイミングよく姉と会えて良かった。無意識に強張っていた肩が、少しだけ脱力するのがわかった。口元が緩む。
しかし姉の次の言葉を聞くなり、緩んだ口元から小さく吐息が流れ出ていく。落胆と、そして。
「今日はパス。晴太のバカヤロウがね、塾の道具全部学校に忘れて帰っちゃったから持ってきてくれってさ。LINEよこしてきた。あのアホ」
「そっか」
落胆と、小さな絶望が「そっか」の一言ともに口から滑り出て、絶望だけが消え去らずに足の上に落ちてくる。
姉は、葉月は、今日はついてきてはくれない。
ちなみに晴太というのは葉月の双子の弟で、私と半分だけ血の繋がった兄だ。つまり、葉月と私も半分だけ血が繋がった姉妹。私たちは父親違いのきょうだいなのだ。
「晴兄、最近ジロパパに睨まれてるもんね」
「宿題ろくにやってかないんだもん。授業中もよく寝落ちるしさ。当然だよ。もっと絞られればいいくらいでしょ」
クスクス笑う葉月につられて、私もちょっとだけクスリと笑った。正直少し先のこれからのことを思うと全然笑う気持ちにはならなかったのだけれど、表情に騙されたのか、少しだけ身体が軽くなったような気もする。
「ジロパパ、優しいもんね」
ジロパパは私たちとは血の繋がっていない養父の一人。学習塾を経営していて、そこで私たちきょうだいの勉強も見てくれている。とてもいい人だ。信頼できる大人って、ああいう人のことを指すんだと思う。
「美琴パパも優しいじゃん」
葉月に背中を向けていて良かった。
この顔のこわばりに、気づかなかっただろうから。
「うん。行ってくるね」
校門まで一緒に行くこともできるのに、私はさっと振り返って姉に手を振ると、駆け去るような気持ちでぐんぐん足を進めていた。先程口の中から落としたはずの絶望が、さっきから私の背中をグイグイと押してくるのだった。