近衛舎人
この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。
平安京内裏十七殿の内、常寧殿は、皇后、女御の居住する建物である。后町ともいう。
北の貞観殿とは二本の渡廊でつながり、南の承香殿とは后町廓でつながっている。ただ、承香殿との境には、瓦塀があり、両殿を隔てていた。
それはさておき、后町廓の東には、井戸があった。そして、その井の井筒に寄り掛かり、女孺、雑仕女など、数多の若い女たちが、よく立ち話をしていた。
ここに春近という男が来た。彼は右近衛府の舎人である。近衛府と言えば、兵仗を帯びて、宮中を警固し、朝議に列して威容を整え、行幸に供奉、警備した武官たちのいる所である。
しかし、この春近という男には、そのような武威の欠片はどこにもない。
それもそのはずで、藤原良房が摂政となり、幾星霜が経つ今日では、貴族の武闘はなりを潜め、その手勢となる近衛舎人たちの役割も形骸化し、彼等の役目は、賭弓や競馬、舞楽や散楽と言った芸能を以て、殿上人たちに供奉するものとなっていた。
どちらかと言えば、大舎人の中にいるような文官の優男のようにも見えるこの近衛舎人の春近は、蹴鞠を得意としていた。
春近が知る他の舎人の内には、僧正の説教の最中に放屁をして、逃げ帰った者や、稲荷詣に行き、他の女と間違えて、自分の女房を口説いた者など、呆れた連中がいた。
一方で、賭弓の数奇が高じて、弓で海賊を追い払った者や、歌詠みが過ぎて、山神に連れて逝かれた者など、一芸に秀でた者もいた。
それらの者の話を聞くにつけて、春近は思った。それは、それら呆け者、芸達者、そのどれにも、自分は当てはまらないということである。
然るに、敢えて、自分と似通う、あるいは、敬意を表するに値する者は、右近衛の将監を務めていた下野氏に対してであった。
右近衛舎人の下野氏と言えば、馬術の名手として知られる。子、孫、代々、右近衛の将監を務め、帝も知る所の者である。
その中でも、下野敦行が、自らの屋敷の檜垣を壊して、隣家の死人の棺を出した話に、春近は共感を覚えた。
おそらく、位階は違えども、舎人として、あるいは、人間としての性質では、下野敦行に、自分は似ているのであろうと、春近は思った。
というのも、春近は、呆け者と言えるほどの剽軽さもないし、ユーモラスな機知もない。蹴鞠は得意ではあるが、名人と言えるほどの上手ではなく、かと言って、並外れた社交家であるとも言えない。
四百人いる右近衛舎人の中で、舎人としても、至って、並であり、通常であり、普通である春近が、右近衛舎人として、最も一般的な存在である下野氏に対して、憧れ、敬意を表するのも、一般的な傾向ではあった。
さて、この春近である。常寧殿は、后町廓の井戸に立ち寄った。わざわざ、それを目当てに来たのではない。本来の目的は、他にある。しかし、ふと、挨拶がてらに、立ち寄った。
「これは、春近殿。」
春近と、女たちは顔見知りであった。ちょうど、そこに立ち話をしていた女の中に、二、三の顔見知りがいたのである。女たちは、合わせて、六、七人はいた。皆、薄衣に腰巻をしていた。
舎人の中には、宮中の女たちと話すことを嫌う者もいる。そういう者たちは、大抵、女たちのする陰口や噂話を嫌っていた。
しかし、そういう者たちこそ、傍から見れば、実は、自分たちこそが、他人の悪口や陰口を、よく言っており、噂話を好む性質であることを、春近は心得ていた。要するに、似た者同士なのである。
「今日は暖かいねえ。」
「そうですねえ。こんな日は、水に手を浸けても、痛まないので、いいわ。」
そう答えた女の手は、いたく赤ぎれていた。その後も、しばらく、女たちは話をしていた。
「どれ、面白いものを見せてあげよう。」
春近は、片手を伸ばし、井戸の上に広げた。どれ程の深さがあるのだろうか。その井戸で、水を汲んだことがない春近には分からなかった。
次に春近は、もう一方の手で、腰に佩いている黒漆の太刀から、銅でできた笄を取り出すと、穂先を下にして、それを井戸の上にある自らの手指の爪の上に乗せた。
「それ、とんっ。」
「あっ、落ちる。」
春近が爪で弾いた笄は、宙を回転し、また、春近の爪の上に、戻った。
「とんっ。とんっ。」
バランスを保ちながら、宙を舞う笄は、そのまま、薄暗い井戸の底に落ちることなく、まるで、市井の散楽師のように、上手く、回転しながら、四、五十度も、春近の爪先を踊っている。
「このような業、初めて、見たわ。」
井戸の周りには、いつの間にか、他の女たちも集まっていた。その数は、締めて、十余人はいた。
その誰もが、春近の手業に驚き、感嘆し、褒めそやした。
普段より、建物に籠もりがちな宮中の女たちにとって、このような不意の来訪者の好意的な行為は、単純に嬉しいものなのかも知れなかった。
また、春近も、そうした女たちの機微を知ってか、知らずか、不意の来訪時に、このような好意を見せたのである。
例え、この女たちの歓待が上辺だけのものであったとしても、このような不意の交流は、春近の承認欲求を満たすものであった。
「これは、これは。なんと面白いことをするお方なのでございますこと。このようなことをなさるお方は、昔もいらっしゃいませんでしたよ。」
それは媼であった。縫女であろうか。
「どれどれ、この媼めも、やってみましょうか。」
そう言うと、媼は、人垣を割って、春近の目の前に立った。両者の間を隔てるのは、井の井筒だけである。
媼は、袖から、糸の付いた針を抜くと、いつの間にか、井戸の上に差し出していた、自らの手の爪先に乗せた。
「とんっ。とんっ。とんっ。」
井戸の底は暗い。それでも、そのような翳りをものともせず、媼の爪先にある針は、小さくて、目を凝らさなければ見えない程、微かに、四、五十度も、宙を踊った。
「あれ、あれ、見てごらんなさい。あんな小さきものを、いと、易げに、回すものだこと。」
女たちの人垣は、媼の爪先の上にある針に、夢中になっていた。確かに、何も存在しない井戸の宙空を舞う針は、目を凝らさなければ見えなかった。
それでも、確かに、きらきらと輝くものが宙を舞っていた。
「かように、易くできるものなのでしょうか。」
「わたくしも試してみようかしら。」
その場に立っていた女たちは、それを見て、喜び、驚き、感嘆した。女たちの中には、春近や媼の一連の手業に飽き、その場を離れる者もいたし、また、自らが井戸を使う訳でもないのに、井戸が使えないことを迷惑そうに言う者もいた。
その一方で、今まで、人垣の中心にいた春近は、媼の真前に、相対しながら、己の自尊心により、笑顔でいることができないでいた。
本来ならば、この場は、媼の妙技に、女たちと一緒になり、感嘆し、興じるべきであった。
しかし、春近には、それができなかった。あるいは、春近が、女であったならば、それも可能であったのかも知れない。
例え、もし、春近が女であったとしても、できなかったかも知れない。なぜならば、女たちに手業を見せた、春近の目的が、自己の承認欲求を満たすものである限り、媼の出現とその成功は、相対的に春近を貶めることになるからであった。
春近は、急に、自分が愚かに思えた。媼が、爪先の上で針を躍らす光景を見ながら、急速に、己が矮小化して行くように感じた。
今まで、無意識に感じていた何者にも代え難い自己というものが、ありふれた一般的な存在のように変化して行く、どんよりとした暗さと重さを、自己の内に感じた。
今、この場にいる女たちにとっては、目の前にいる媼と自分とが、同列の存在であることを悟らされた春近の頭には、いつか噂話に聞いた舎人の呆け者たちのことが思い出されていた。
それは、今の自分の境遇と関連する記憶として、春近に想起されていた。
そのことは、言うまでもがな、そのような呆け者たちの一人として、自らの姿態が、これから噂話の中で語られて行くであろう未来を予測させられたのであった。
媼の手業は、まだ終わってはいない。それでも、春近は、未だ自分の手の内にあった銅の笄を、自ら佩く黒漆の太刀の鐔に、誰にも知られぬようにと、差し戻したのであった。