隣人の幼馴染のカノジョがヤンデレ
高校を卒業して、大学に入学するまでの短い期間。
新生活に慣れるために早めに始めた一人暮らしは、今のところ順風満帆である。
隣人は筆舌に尽くしがたいほどにヤバイやつだが、ある程度のトラブルは想定の範囲内だし、新しい環境での旧知の仲は精神面で正直ありがたかった。おかげさまで早い段階から自分の家事力を推し量ることができる、というものだ。
一人暮らしを始めたら自炊に凝ろうと決めていたのだ。家庭的な男子はモテると評判だし、なにより生活費が馬鹿にならないからだ。
そんな三月末のある日。
購入したばかりのフライパンに油をひいて、クックパッドのレシピ通りに調理を始めていたとき、容器の蓋が外れ、
「うおっ」
胡椒がドバっと溢れてしまった。いい感じで進んでいたのに最後の最後で大失敗だ。
慣れないうちは仕方ない。こういう失敗を積み重ねで料理人は生まれるのだ。と頭で思っていても、自然と舌打ちが漏れてしまう。
「くそがぁ……」
一人暮らしをしていると独り言が多くなる。一旦火を止めて溢れた胡椒を容器に戻していると、
「ゆーくん! 大丈夫!?」
バァンと勢いよく玄関ドアが開いて、隣に住む銀千代が家に入ってきた。長い髪を振りまいて、タンクトップに短パンと随分とラフな格好である。
「平気!!? 悲鳴が聞こえたけど?」
銀千代は周囲を警戒するようにキョロキョロしながら、前傾姿勢で室内に入ってきた。間取り的に玄関はキッチンの近くにあるので、即刻背中を取られてしまった。
「……胡椒が溢れてびっくりして声上げただけで……」
なんで聞こえてんだよ。
「なんだ、よかった。ゆーくんはピンチじゃなかったんだね」
銀千代は微笑んで、「火を使うときは換気したほうがいいよ」と、アドバイスをしてドアから出ていった。
「……」
いや、怖いんだが。
少し声出ただけでなんでこんな短時間で俺んち来れるんだよ。勝手に入居の手続きして隣に住んでるのは知ってるけど、尋常じゃない速度だったぞ。
「……」
気にするのはやめとこう。なんかやな予感するし。
幼馴染の金守銀千代と大学進学を期に付き合うことになったが、言葉を選ばず評するならば倫理観の欠落した異常者なので、これから先の付き合いが本当に思いやられるところである。
とりあえず深呼吸して、鍵とチェーンをしっかりかけてから、料理を再開する。
無心。まるで座禅を組むときのように精神統一を行うのだ。
それから数分後、チャーハンが完成した。できたてホカホカで、いい匂いだ。なかなか料理の才能あるんじゃないか? 俺。
早速リビングに移動して机を設置し、少し遅い昼ごはんを始める。
「いただきます」
味はそこそこ。バラパラ具合が足りない気がするが、美味しく食べられればそれでいい。
お腹が膨れて、息を吐き、軽く伸びをする。のどかな昼下がりだ。
大学の入学式までまだだいぶあるが、この調子ならホームシックにはならずに済みそうだ。
「そうだ」
ベランダで育てているミニトマトの様子を見に行こう。家庭菜園を始めようと小学生以来で育ててるのだ。夏の収穫が楽しみである。
鼻歌まじりでベランダに出るとふわりと爽やかな春の風が俺の前髪を優しく撫でててくれた。景色は良好で、青空がどこまでも広がり、降水確率は10%で、雲も少なく穏やかな陽気だ。
自然とこぼれる笑みを引き締め、鉢植えを観察する。土の香りが心地よい。まだ植えたばかりなので、芽が伸び始めたはがりだが、日々成長していくソレに自然と気持ちが浮足立ってくる。
「ふふ」
プチトマトの濃縮な味を想像するだけで口内によだれが溢れてくる。小さな双葉を指でツンとつつく。微かな湿り気と共に悪寒に近い痒みが指先に伝わった。
「うおっ」
小さなアブラムシみたいな虫が爪先について悲鳴をあげてしまった。
「クソムシがっ!」
俺の大切なトマトにすくいやがって。手首をスナップさせて虫を振り払う。害虫対策もボチボチ始めなくてはならない。
「ゆーくん! 悲鳴が聞こえたけど大丈夫!?」
ドガンと破壊音がした。顔を上げると、菱形の空洞が隣家とのベランダを繋いでいた。空いた穴から銀千代の丸い瞳が覗いていた。
「非常の際にはここを破って隣戸に避難できます」と書かれた薄い壁が破壊されている。
「……」
「待ってて、今そっちに行くね!」
「……いや、おまっ」
止める間もなく、ブチギレた承太郎なみのラッシュでクリーム色の壁を破壊し、呆気にとられる俺を放置したまま、銀千代はこちら側に一歩踏み出した。
「いやいやいや、おいまてよ!」
止める間もなく、隣家とのベランダが繋がった。
「銀千代が来たからもう安心だよっ!」
「何してんだ! お前!」
「助けに来たんだよ」
「助けじゃねぇよ、なんでそれ壊してんだよ!」
「それ? あぁ、隔て板のこと? だって非常時だったし……、それよりゆーくん一体何があったの!?」
「いや、虫が……」
「虫ぃ! あ、これ? えい!」
俺が振り払って排水口の近くにいた虫を銀千代は無表情で踏み潰した。この世のすべてを見下すような冷たい瞳をしていた。
「ゆーくんを驚かせるなんて万死に値するね」
儚い命を奪ったばかりの少女は浅く息を吐き、虫の死骸とともに転がる壁の破片を足で払った。ガラガラと音を立てて、破片が一箇所に固まる。
「何かあったらすぐ呼んでね!」
「呼んでないのに来るんじゃねぇ……。てか、これどうすんだよ!」
枠だけ残して無くなった壁を指差すと銀千代はキョトンと首をひねった。
「ゆーくんが安心して暮らせるように銀千代は全力でサポートに徹するよ」
隣人が一番の不安要素なのだが。
「大家さんになんて説明すればいんだよ」
「銀千代からうまく説明しておくね」
指に虫がついて悲鳴あげただけなんだが。
「つうかさ、さっきから悲鳴上げる度に来てるけど、お前また盗聴器仕掛けてんだろ」
じゃなきゃありえない反応速度だ。
「ゆーくんがやめろって言ったことは二度とやらないよ。壁が薄いだけだよ。薄いから何してても聞こてきちゃうんだよ。天地神明に誓ってホントだよ」
途端に饒舌になる。銀千代が言い訳しているときの特徴である。
「銀千代の生活音も聞こえちゃうなぁ。恥ずかしいなぁ」
白々しい演技に舌打ちしそうになりながら、身をよじらせて開通したばかりの穴から首を出す。
「あっ、だめ」
隣の部屋をベランダ越しに見てみる。
銀千代の太ももが俺の視界を遮ろうとしてくるが、無視だ。
「……家具とか置かないのか」
ベランダの窓越しに見る隣人の家は殺風景極まりなかった。生活感はまるで無く、ベッドやタンスの代わりに筋トレ用品ばかりが置いてあった。
「ミニマニストだから……、は、恥ずかしいから乙女の部屋見ちゃだめだよ」
さながらトレーニングジムである。ドレッドミルまである。何がしたいんだこいつは。
「体鍛えてんの?」
「ゆーくんを守るに一番手っ取り早いのが暴力だからね」
「そ、そうか。程々にな」
「うん、安心して! 程よい肉付きは意識してるし、好みは完全に把握してるから腹筋バキバキとかにはならないよ。インナーマッスルを鍛えてるんだ」
「さ、さいですか、……ん?」
顔を下げようとした瞬間、壁際に聴診器が落ちているのに気がついた。
「お前、あれで俺の声とか……」
「こ、鼓膜のトレーニングだよ。三半規管を鍛えることでバランス感覚を高めてるんだ。それにゆーくんの声が聞こえちゃうのは二人の心の距離が近いだけだし、物理的に説明するなら壁が薄いだけだよ。あ、あんまり銀千代のお部屋見ちゃだめだよ。プライバシぃ、……は、恥ずかしいから!」
銀千代は顔を赤くして押し返してきた。なんか俺が悪いみたいな雰囲気にされた。納得できなかったが、とりあえず自室に戻って、今後の対策を練ることにした。
方案は浮かばず、頭を悩ませても答えはでない。
誰にも告げずに引っ越すことを考えたが、大学生活を送る以上、住所バレは避けられないだろう。悩んでも答えが出ないことを考えるのは時間の無駄なので、早々に床につくことにした。その日の夜。
「ゆーくん、ゆーくん!」
銀千代が微笑みながら、揺り椅子に座って、大きく膨らんだお腹を優しくさすっていた。
「あ……、あ」
「ゆー……、いや、今日からはパパくんだね!」
「うわぁあああああああああああああああああ!」
自身の悲鳴で起きた。
夢である。当たり前だ。
額をさすると汗でびっしょりと湿った。悪夢である。それにしてもリアリティのある夢だった。色々と気をつけよう、と心に決める。
「はあ……」
喉がカラカラだ。自分の悲鳴で起きるなんてフィクションだけの話だと思っていたが、実際あるんだな、と大きく息をつく。とりあえず、水を飲もうと立ち上がったとき、
ドン!
「うぉっ」
と地の底から響くような音がした。
立ち上がって電気をつけると、壁から刃がはえていた。
「え?」
「危ないから下がってて」
刃が喋った。
あー、これ違う。斧だ。ゾンビ映画でよく見るシャッターとか破るときに使う防災用斧だ。それがドンドンドンドンという音とともに何度も振り上げられているのだ。隣人、銀千代の手によって。
「やめろっ、お前!」
必死の静止が聞いたのか、なんとか小さなスイカぐらいの穴に留めることができた。
「何考えてんだよ!」
「ゆーくん、大丈夫? 悲鳴が聞こえたけど……?」
「大丈夫じゃないのはお前だよ!」
壁に穴が空いた。
ここまで来ると、もう笑いしか起こらなかった。
ここ賃貸だぞ!
暑くて眠れなくて気づいたら出来てました。