恋をよぶ眼鏡
「ルイ子、これはただの眼鏡じゃない。『恋をよぶ眼鏡』なの」
香奈はいたって真剣な顔で、なんとも胡散臭いことを言った。
香奈と私は高校の同級生で、今年で二十七歳。香奈はハッキリした顔だちにキッパリした性格で、先月結婚したばかりの新婚さんだ。
「信じられないだろうけど、本当に本当なのよ。私はこれで幸せを掴んだの。だから、次はルイ子の番よ!」
私は無理やり渡された眼鏡ケースを開けてみた。中から出てきたのは、なんの変哲もないただの黒縁眼鏡だった。
「意外と普通だね……?」
「当り前よ!ピンク色やハート型だったら普段使いできないじゃない」
ちょっと引き気味の私に、香奈はなおも迫ってくる。こういう時、香奈の大きな二重の瞳は絶大な目ヂカラを放ち、他を圧倒する。
「これはね、伝説の眼鏡職人が、死ぬ間際に最後に作った眼鏡なの。職人さんの魂が込められているのよ!」
なんとも無理がある設定だ。
婚活中に亡くなった職人さんだったのだろうか、と思ったが口にしなかった。
「とにかく!しばらくはそれをかけて生活してみて!効果は私が保証するから!」
結局、いつものように押し切られてしまった。地味でインドア派で、もう何年も彼氏がいない私を香奈が心配しているのは知っている。
心配してくれる人がいるというのは、いつになっても有難いことだ。
伝説の眼鏡職人のあたりは作り話だと思うが、新婚さんからの幸せのおすそ分けだと思うことにした。
「先輩!その眼鏡どうしたんですか?」
翌朝。事青空設計事務所にいつものように出勤すると、後輩のリナちゃんに早速声をかけられた。
「友達にもらったの。『恋をよぶ眼鏡』なんだって」
「えー?先輩ってそういうの信じるタイプだったんですかー?意外!」
「信じてはいないんだけど、なんとなくね」
いまいちサイズの合わない黒縁眼鏡を押し上げながら苦笑した。
リナちゃんは今時の女の子だ。キラキラしたネイルと巻き髪が様になっている。ちょっと口が悪いところがあるが、素直でいい子だ。
「そうだ先輩!この前のレストランのオーナーが、もうすぐ打ち合わせに来るそうですよ。準備しなきゃ!」
こういう場合、リナちゃんが壁紙のサンプルなどの資料を揃え、私がコーヒーを淹れることになっている。リナちゃんはコーヒーが苦手なので、美味しい淹れ方がわからないのだそうだ。
打ち合わせが始まり、私はいつものように気配を消しながらコーヒーを運んだ。
テーブルに広げられた書類の邪魔にならないように、そっとカップを置いた時……
ぼとっと大きな音をたてて、眼鏡がテーブルの上に落ち、よりによってクライアントの足元に転がっていった。
和やかに進んでいた打ち合わせが中断され、全ての視線が私の眼鏡の行方に注がれた。
私はあわてて眼鏡を拾い上げ、
「し、失礼しました!」
と言い残し、その場から逃げ出した。顔から火が出る思いだった。
「先輩、それ伊達眼鏡ですよねー?サイズも合ってないし、プライベートでだけ使うってした方がいいんじゃないですかー?」
リナちゃんにまで呆れられてしまい、私はさらに落ち込んだ。そして、呪わしい黒縁眼鏡を眼鏡ケースに封印し、通勤バッグに放り込んだ。
香奈から電話があったのは、それから数日後の夜だった。
「どう?あの眼鏡、ちゃんと使ってる?」
「ええと、使ってみたんだけど……」
「やっぱり!ほとんど使ってないのね!」
香奈はなんでもお見通しだ。
「あの眼鏡、私には大きすぎるし、似合わないよ。恋なんて逆に遠ざかっちゃうと思う」
「大丈夫!私にも全然似合ってなかった!」
香奈は電話越しにカラカラと笑った。この笑い方をするときは、すごく自信がある時だ。
「ところでルイ子。今週末の予定は?」
「特になにもないよ。家の掃除して、録画したドラマを観ようかと……」
「駅前に、新しい家具屋さんができたの。そこに行ってきなさい。もちろんあの眼鏡をかけて行くのよ!」
「でも、掃除が……」
「ほら、私、引っ越したばかりでしょ?新居に合うチェストを探してるんだけど、忙しくて。だから偵察してきてほしいの。お願い!」
こう言われては断りづらい。それに家具をみるのは私の趣味でもある。そこを絶妙についてくるのが香奈らしいと思った。
そして週末、私は久しぶりに一人で出かけることとなった。いつもより少し念入りに化粧をしてみたが、黒縁眼鏡をかけてみるとすべてをぶち壊されている気がした。
まあいいや。これでなにもなかったら、香奈もきっと諦めるだろう。
目的の家具屋さんは予想以上に私好みだった。温かみのある北欧風なデザインと、モダンスタイルが共存していて、見ているだけで胸が高鳴るような家具に溢れていた。
満足いくまで店内を見てまわり、私はその店を後にした。顔が自然とほころんでいるのが自分でもわかった。
このまま帰ろうか、とも思ったが、せっかくだから買い物をすることにした。今なら好みの服が見つかるような気がしたのだ。
昼に近い時間帯になり、通りには人が増えてきた。駅前をぶらぶら歩き、とりあえず適当な店に入った。
店内は様々な色に溢れていた。もう少し落ち着いた店に、と思ったときはすでに店員さんにがっちりとマークされていた。
「お客様!今お手に取られているシャツと、このスカート、とっても合うんですよ!」
正直、こういうのは苦手だ。ぐいぐい来られると尻込みしていまう。逃げ出すタイミングを計っていたところ、
「こちらなんてどうですか?今朝届いたばかりの新作なんです!この色、今年のトレンドカラーなんですよ」
それはラベンダーのワンピースだった。きれいな色だ、と思いそう口にすると、笑顔の店員さんに試着室に押し込まれた。
「お客様!とってもよくお似合いです!」
相変わらずハイテンションな声。そこにはお世辞以外も含まれているのが感じられた。そのワンピースは私にぴったりなサイズだった。シンプルな型は清楚な雰囲気で、なにより淡いラベンダーが私の肌色に合っていた。一目惚れだ。黒縁眼鏡の存在が意識から消えるほど、私は一瞬で夢中になった。
「これ、着て帰ります!」
ありがとうございました!と見送られ、私は上機嫌で歩き出した。
ガラスのショーウィンドーにたまに映る自分の姿が嬉しかったことなど、何年ぶりだろうか。ずっと忘れていた感覚だった。
この後どうしようか。買い物を続けてもいいし、本屋に立ち寄ってもいい。そういえば、美味しいパン屋がこのあたりに……
などと考えながら、つい足取りが軽くスキップするようになってしまった。サイズの合わない眼鏡がそれに耐えきれるはずもなく、大きくずり落ちて私は慌ててそれを受け止めた。そこまではよかったのだが、突然立ち止まったため後を歩いていた人にぶつかられ、やっぱり眼鏡を落としてしまった。
「すいません!大丈夫ですか!」
眼鏡を拾いあげる私に、ぶつかった男性の声が降ってきた。
「いえ、大丈夫ですので」
軽く会釈してすぐ立ち去ろうとした私を男性は引き留めた。
「あの、木村さんですよね?青空設計事務所の。僕、米田です。一度お会いしたんですが、覚えてませんか」
私より少し年上だろうか。清潔そうな短髪に眼鏡の男性だった。でも、見覚えがない。
「この前も眼鏡を落としてましたよね。打ち合わせの時に」
「あ!あの時の!」
私は打ち合わせの邪魔にならないよう、いつも下を向いてコーヒーを出すので、あの時もクライアントの顔は見ていなかった。
「あの時は失礼しました……」
浮かれていた自分が急に恥ずかしくなった。
「いえいえ、その眼鏡、ちょうど僕のと似てたんで記憶に残ってたんです」
見ると男性の眼鏡も同じような黒縁だ。
「本当だ、私のとお揃いみたい」
私たちは互いの眼鏡を見比べ、同時に笑った。年甲斐もなくはにかんでしまった。
「今日は事務所の時と違う感じですね。こっちの方が合ってると思いますよ」
私は顔が赤くなるのがわかった。買ったばかりのワンピースが誇らしかった。
「この後、なにか予定ありますか?よかったら、一緒にランチでもどうですか?ぶつかってしまったお詫びに」
私は一瞬戸惑い、そして勇気をだして頷いた。作り物でない笑顔とともに。
「ええ、ぜひ!」
米田さんもぱっと笑顔になった。
「イタリアンとかどうです?近くにいい店があるんですよ」
香奈が言っていたことは、やはり本当だったのかもしれない。
私は再びずり落ちてきた黒縁眼鏡を押し上げ、米田さんと肩を並べて歩き出した。