兄とユリスケの功罪
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小学三年生のツヨシには中学生の兄がいる。タカシという。勉強がよくできて、スポーツも万能。「将来を嘱望されている」という言い回しはタカシのおかげで知った。性格は穏やか。たとえ大人が相手だろうがそこに間違いがあればはっきりと物を言う正義感も兼ね備えている。ツヨシからすれば自慢の兄であり、両親からすれば誇るべき我が子だ。
ではツヨシはというと、自分でも強く自覚しているくらい気が弱い、小さい。兄のように強くありたいとは思っていても、いざ相手に強く出てこられると途端に怖くなって怯んでしまい、口をもごもごさせるだけで、果ては黙り込んでしまう。クラスの男子からも女子からも情けないと軽んじられていることを、ツヨシはよく知っている。だけど兄だけは、タカシだけは優しい。学校からの帰り道、ツヨシがクラスメイトにたくさんのランドセルを持たされている場面に出くわした折には、憤り、だけどあからさまに怒ることはせず、ただただ柔和なニュアンスで、「こんなことをしてはいけないよ」と諭してくれた。なんて頼もしいのだろうとツヨシは感動し、タカシに何度も礼を言った。「いいんだよ」と微笑んだ兄のことを、ツヨシは神さまのように思った。
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ツヨシが四年生に上がるのとときを同じくして、家に犬がやってきた。茶色が特徴のシベリアンハスキー。父がもらってきたのだ。保護犬というらしい。子犬ではなかった。すでに身体は大きかった。初めて対面した際、野性を感じさせる瞳が怖くて、ツヨシは背筋を強張らせた。保護された犬がどういう経緯でそうなったのか、それを父から知らされ、よけいに怖くなった。捨てられてしまった犬なのだから、ニンゲンのことをひどく恨んでいるのではないかと思ったのだ。だけど、ツヨシが一歩も二歩も下がって見つめるいっぽうで、タカシは臆することなく腰を屈め、その頭をそっと撫でた。「ほら、だいじょうぶ。怖くないから来てごらん」と促され、おっかなびっくり、ツヨシも撫でた。途端、全然、平気になった。くすぐったそうに目をつむる様子は、とてもかわいく映った。
家族の一員になった雄犬はユリスケと名づけられた。変わった名前だなぁとツヨシは感じた。父がむかし、実家で飼っていた犬が、そういう名だったと聞かされた。
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帰宅するのが楽しみになった。授業後のホームルームが終わると家まで一所懸命に駆けるのだ。ユリスケは犬小屋の隣にきちんと座っていて、ツヨシの姿を見つけてもいたずらに騒ぐことはしない。頭を撫でられるまで、じっと待っているのだ。なんて利口な犬なのだろうと感じるとともに、なんて堂々としているのだろうといつも感心させられた。ほんとうに家族だ。ユリスケを見ると自然とにこにこと笑っていることに気づき、ツヨシ自身、そんな自分が嫌いではなかった。
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タカシは高校生になり、ツヨシは五年生になった。タカシは部活動に所属しなかった。少しでもツヨシの相手をしてやりたいからだというのが、その理由らしい。タカシがどうしてそこまでかまってくれるのか、ツヨシにはわからなかった。父は「タカシはほんとうにツヨシが好きなんだなぁ」と笑った。溺愛なる言葉はまもなく知った。
タカシが高校から帰ってくると、決まって二人でユリスケの散歩に出かけた。河川敷の遊歩道を二人と一匹で歩くのだ。そのときばかりはユリスケも嬉しそうで、はしゃぎ、タカシが持つリードを少なからず引っ張り、元気よく歩いた。勇ましい姿に見えた。ツヨシはそんなユリスケも好きだった。
休憩がてら、河川敷の草の上に座る。ツヨシとタカシとのあいだではユリスケがおすわりをしている。ツヨシとタカシが空を見上げると、ユリスケもそれに倣う。ツヨシたちと同じ景色を見ようとする。ひゅるりと秋の乾いた風が吹き、空はオレンジ色に染まりゆく。
唐突にタカシが「東京の大学に通うつもりなんだ」と告白した、のんびりとした口調。いつか離れ離れになることはツヨシも理解していて、だから仕方ないと感じるとともに、「お兄ちゃんなら東大だよね」と笑った。もしそうなったら鼻が高いなあとツヨシは思った。素直にほんとうに、そう思った。
「でもまだ少し先のことだから、それまでは一緒に楽しいことをしよう」
「お兄ちゃん、また溺愛?」
「そうさ、溺愛さ」
ツヨシはまた笑って――だけどそのうち表情を曇らせて。
「ぼくは……強くなりたい」
タカシは空を眺めたまま「なれるさ」と言った。「なにせ、俺の弟なんだから」
「お兄ちゃんは、生まれたときから強かったの?」
「生まれたときからそうなのかは、さすがにわからないなぁ」
「お兄ちゃんのことだから、きっとそうだよ」
「なあ、ツヨシ。強くなることは、自分が強いと思うことから始まるんだよ」
「そういうの、精神論とか根性論っていうんじゃないの?」
まあ、そうだね。
そう言って目を細め、タカシは微笑んだ。まだ空を見ている。ユリスケと一緒に。
すぐそこで、一人がボールを投げ、一人がそれを金属バットで打ってをくり返している。自分と同じくらいの年恰好だなとツヨシは思う。――打ったボールがあさっての方向へと飛び、川に入ってしまった。結構、向こう側。
――そのときだった。
ユリスケが駆けだしたのだ。いきなりダッシュしたからだろう、タカシもリードを離してしまった。ユリスケはいっさいの迷いを見せることなく川へと飛び込んだ。ツヨシはびっくりしてしまいなにも発することができなかったけれど、タカシは「ユリスケ!」と叫んだ。
どうして……。
本能でつい追いかけてしまったのだろうか。本能。そう、本能だ。だったら仕方がないとも考えた。だけど、それだけでは説明がつかないような気もした。賢いユリスケの場合、本能より先に理知が働くように思えたから。
ユリスケはボールにたどり着いた。だけど、帰ってこない。ツヨシは「危ない! 溺れてる!」と大声を出した。タカシはもう走りだしている。一直線に川へ向かい、入った。深いらしい。泳ぎだす。あっという間にユリスケのところに至った。
だけど――。
今度はタカシが溺れ始めたのがわかった。溺れている。ほんとうに溺れている。浮かんだり沈んだりをくり返しながら、足掻いている。不幸なことに周りには大人がいない。
どうしよう、どうしよう……。
どうしよう、どうしよう……っ。
困り果て、どう判断していいのかわからずにいるうちに、タカシの姿はいよいよ見えなくなってしまった。もうダメなのだと、残酷な光景が声高に告げてきた。
そのいっぽうで、ボールをくわえているユリスケが、何事もなかったかのように、岸まで戻ってきたのだった。
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タカシは五十メートルほど流されたところで発見され、当然、そのときには亡くなっていた。
葬儀はしめやかに営まれた。遺影には笑顔の写真が選ばれ――笑顔だけれど満面の笑みではなく、タカシはそういった笑い方をする人物ではなかったので、そこにはただただ穏やかに、優しげに微笑む顔があった。
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母がおかしくなってしまった。唐突に泣きだすことがあり、そのたび、「どうしてタカシが死んであなたが生きているのよ!」とツヨシのことをなじった。ツヨシはショックを受けなかった。母の言うことはもっともだと思ったからだ。そんな母を、妻を、父は止めようとはしない。ぎくしゃくし始めた家族、家庭はとうに崩壊しつつある。両親にそれを立て直す意思はないように見えた。
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ある日、学校から帰ってくると、ツヨシの唯一の心の拠りどころであるユリスケの姿が見当たらなかった。なぜだろう。平日なのに父の姿があって、編み物をしている母はいつもよりずっと機嫌がよさそうだった。「おかえりなさい」と笑顔を見せてくれたくらいだ。
そんなことはいい。
そんなこと、ツヨシにとってはどうでもよかった。
気になるのは、ただ一点――。
「お父さん、お母さん、ユリスケがいないよ?」
すると父は「そうなんだ。どうやら逃げてしまったようなんだよ」と苦笑のような表情を浮かべ。
「リードをつけていたのに、逃げたっていうの?」
「ほら、シベリアンハスキーは力が強いだろう?」
父はユリスケとは言わなかった。
だからだろう、ツヨシの背筋には冷たいものが滑り落ちて。
「お父さん、まさか、保健所に連れていったの……?」
父はなにも言わない、答えない。
「連れていったんだね……?」
当然だろうが!
温厚なはずの父がそう、声を荒らげた。
「あいつがいなけりゃタカシが死ぬことはなかったんだぞ! そうだ、あいつさえいなければ……。あいつは死んであたりまえだ。タカシを殺したんだからな!」
殺した?
いくらなんでも言いすぎだ。
「ユリスケを助けようとしたのは、お兄ちゃんの意思じゃないか!」思ったより大きな声が出た。「ユリスケのせいにするのはおかしい……おかしいよ!」
「うるさい、黙れ、ああくそっ、くそっ! あんなクソ犬、連れてこなけりゃよかった。改めて言っておくぞ、ツヨシ。おまえじゃあ、タカシの代わりにはならない。ならないんだよ!」
「なれないよ! お兄ちゃんは特別だったんだから! でも、でも、ユリスケにはほんとうになんの罪もないじゃないか!」
「馬鹿を言うな! あんなに罪深い存在はないんだぞ!」
いよいよツヨシの目からは大粒の涙がこぼれ始めた。母は鼻歌交じりに編み物を続ける。ユリスケがいなくなったことでいくらか溜飲を下げたのだろう。きっとそうだ。そうに違いない。
「お父さん、間に合うよ。ユリスケを迎えに行こう? そうしよう?」
父は忌ま忌ましげな顔をして。
「返してもらわなくていい。父さんはもうユリスケが嫌いなんだ。大嫌いなんだ。迎え入れるつもりはない。保健所にもそう言ってきた。次の飼い主が見つからなかったら、遠慮なく殺してくれってな」
殺すという単語。
やっぱりそれがスゴく怖いと感じたから、よけいに涙があふれてしまう。
「おかしいよ! こんなの、絶対におかしいよ!」
そう叫び、ツヨシは衝動的に家から飛びだした。
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母の実家の最寄り駅まではたった二駅。でも、十キロ以上ある。それでもツヨシは駆けた。誰かに慰めてもらいたかったわけではない。家が、家族が、とことん嫌になった。ぼくの悪口はいい。だけどユリスケを悪く言うことは許せない。いくら父と母であっても。
母の母――おばあちゃんは一人暮らしだ。おじいちゃんはずいぶんと前に膵臓癌で亡くなった。
おばあちゃんはツヨシの突然の訪問に、目を丸くした。しわくちゃの顔に笑みを浮かべ、「ツヨシちゃん、どうしたんだい?」と訊ねてきた。優しい顔と対面すると、また涙が出てきた。
おばあちゃんはうんうんと二つうなずき、「タカシちゃんのことかい?」と訊いてきた。「それもあるけど……」と涙声で言い、ツヨシは右手の甲で涙を拭う。
おばあちゃんは「まあ、入りんさい」と、家の中へと促してくれた。
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壊れてしまった家庭のこと、ユリスケのこと、加えて自分の思い、それらを包み隠すことなく話した。おばあちゃんは「せんべい、食べんさい」と言うけれど、食欲なんて微塵もない。緑茶だけを口にした。少しだけ落ち着いた。たとえほんのりとではあっても、温かい飲み物は心に安らぎをもたらしてくれるらしい。
「たかが犬のことだから……お父さんもお母さんも、そう考えているんだ」
「そのへんは酌んでやらんとね。少しでいいんだ。酌んでやらんとね」
「でも、でも、ぼくはどうしたって、ユリスケは悪くないと思うんだ」
「そうさ。ユリスケは悪くないさね」
「わからないことが、二つ、あるんだ」言ってツヨシは俯いた。「どうしてユリスケはボールを追いかけたのかな。それと、ユリスケみたいな大きな犬を助けるなんてきっと無理なのに、どうしてお兄ちゃんは川に飛び込んだのかな……」
おばあちゃんはにこりと笑み。
「きっとユリスケは子どもたちのためにボールを拾ってやろうと考えた。タカシちゃんは溺れたように見えたユリスケを助けようと咄嗟に考えた。一人と一匹が優しいから起こってしまったことさね。誰も悪くないさね」
ツヨシの口元は情けないまでにぐにゃぐにゃと動く。自分でもどんな顔をしているのかわからない。だけど、「誰も悪くない」という言葉はツヨシに悲しみと涙をもたらすと同時に、救いをくれた。だからこそ、涙が止まらなかった。「おばあちゃん、ありがとう」と何度も口にした。心の中でもお礼を言った。
「ツヨシちゃん、ユリスケのことはおばあちゃんが引き取ることもできるんだ。そうしてやろうか?」
「引き取ってあげないと、やっぱり殺されちゃうの?」
「そんなことはないさね。いまは仕組みがきっちりしてるさね」
「だったら……いい」
「いいのかい?」
「ユリスケには……しがらみっていうの? それがないところで暮らしてほしいから」
おばあちゃんは笑った。
優しく、微笑んだ。
「しがらみだなんて、ツヨシちゃんは難しい言葉を知っているね」
おばあちゃんは感心したように言い、それから右手を伸ばしてツヨシの頭を撫でたのだった。
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ツヨシが高校に入学したころには、父も母もだいぶん落ち着いていた。ただ二人とも、タカシのことも、ユリスケのことも、口にはしなくなっていた。タカシのことについては割り切ることができず、またユリスケへの恨みも消えないのだろう。二人のそんな思いは心苦しいとしか言いようがないのだけれど、ツヨシはもう、諦めている。悲しい現状だ。一度こじれてしまった関係を解くのは生易しいことではない。それくらい、ツヨシにはもう、わかっている。わかっているから、いまはただ、時間が経つのを待とうと考えている。いつの日か、わだかまりがなくなると信じて。
いまでもときどき、兄とユリスケの夢を見ることがある。あの日、あのとき、河川敷で草の上に座り、揃って夕日色に染まりゆく空を見上げた記憶が蘇るのだ。
お兄ちゃん、ありがとう。
ユリスケ、ありがとう。
ツヨシは一生忘れないぞと心に誓っている。
勇敢で優しい一人と一匹のことは忘れてはならないのではなく、忘れたくない。