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クモをつつくような話 2021 その6

作者: 山崎 あきら

 この作品はノンフィクションであり、実在したクモの観察結果に基づいていますが、多数の見間違いや思い込みが含まれていると思われます。鵜呑みにしないでお楽しみください。

 8月30日、午前11時。

 ワキグロサツマノミダマシのワッキーの円網が残されていた。食休みしていたのか、産卵したのかはわからないが、食欲は回復したらしい。困ったことに冷蔵庫にはイナゴしか入っていないので、ワッキーに相応しい大きさの獲物を求めて近くの草地に入り込んで、体長20ミリほどの細身のバッタを捕まえた。夜になったらあげようと思う。


 午後7時。

 ワッキーが円網にいたのでバッタをあげた。体長で3倍近くというのはジョロウグモなら一目散に逃げ出すような大物である。しかし、ワッキーは迷う様子もなくバッタの下に入り込むと、捕帯を少し巻きつけてから牙を打ち込んだのだった。

 それからワッキーは上方に大きく回り込んで円網に穴を開けた後、そのまま円を描くようにバッタの下に戻ってDNAロール、さらにバーベキューロールで捕帯を巻きつけると、バッタの胸部から腹部にかけて何回も牙を打ち込んだ。「何としても仕留めてやるわ」という強い意志を感じさせる狩りである。ワッキーは小柄で、しかも夜行性なので獲物をあげる機会がしばらくなかったから飢えていたのかもしれない。悪いことをしてしまった。

 ナガコガネグモの10ミリちゃんには体長10ミリほどのアリをあげてみた。当然10ミリちゃんは捕帯でぐるぐる巻きにしてから牙を打ち込んで休憩に入った。飛行するタイプの昆虫ならば、これでだいたい羽ばたくことができなくなるのだが、アリは歩くタイプなのでいつまでも脚を動かしている。そこで作者も1分おきくらいのペースでアリをツンツンしてみた。「まだまだ抵抗できるぞ」というわけである。しばらくすると10ミリちゃんはもう一度獲物に近寄って捕帯を追加してから牙を打ち込んだ。

 アリの抵抗は確実に弱くなっていくのだが、作者はツンツンを続ける。すると、10ミリちゃんはまたまたアリに近寄って牙を打ち込むのだった。かわいそうなので実験はそこまでにしたのだが、「ナガコガネグモの幼体は獲物がどれくらい抵抗するかによって次の行動を決めているようだ」くらいのことは言えるのではないかと思う。


 8月31日、午前11時。

 ナガコガネグモのジョーちゃんが姿を消していた。お尻を細くして戻ってくるようなら産卵だろう。

 ナガコガネグモのナガコちゃんやオニグモのデンちゃんもそうだったのだが、これらのクモが最初に産卵する時はお尻が比較的細かったり、全体的に小さかったりする傾向があるような気がする。そして2回目以降はお尻がより大きくなってから産卵するようだ。その理由をクモに聞いてみるわけにもいかないので推測するしかないわけだが、これは産卵できなければ生きてきた意味がなくなってしまうということなのではないかと思う。産卵できる体格にまで成長したらとにかく一度産卵してしまう。そして2回目以降は1回目の卵というバックアップがあるので、安心してより多くの卵を産むというわけだ。クモは日々命がけで生きているのである。

 ところで、この時期に産卵するのだとしたら、ジョーちゃんはあのヒモ野郎と交接していたということになるんだろうか? 相手がロリコンのヒモ野郎でも交接の機会は逃せないということなんだろうかなあ……。

 スーパーの南側の植え込みにお婿さんが同居しているジョロウグモが現れた。ただし、その体長は10ミリ弱である(体型は女王様と平民の中間くらい)。光源氏ポイントにいるジョロウグモたちの半分以下の体長だが、12月までにオトナになれれば産卵できるということなら十分間に合うのかもしれない。


 9月1日、午前3時。

 一気に気温が下がった。

 ナガコガネグモのジョーちゃんが帰って来ていた。ただ、お尻が細くなったようには見えない。脱皮しただけなのか? 大きくなったような気もしないのだが……。オトナになっていないナガコガネグモにとってヒモ野郎は目障りなだけなので家出して、ヒモ野郎がいなくなってから帰って来たということなんだろうかなあ……。そういうことなら、まだ交接していないという可能性もあるかもしれない。とりあえずイナゴを1匹あげておく。

 ナガコちゃんは重そうなお尻を「よいしょー、よいしょー」とスイングさせながら横糸を張っているところだった。


 午前11時。

 気温が低いせいか、この時間でもコガネムシがツツジの葉を食べている。そこでナガコちゃんにあげようと思ったのだが、どうしても飛んでくれない。結局投げ込むことになってしまった。もちろんナガコちゃんはしおり糸を引いて逃げた。まあ、コガネムシなら円網から外れる前に捕帯を巻きつけられるだろう。

 ジョーちゃんはイナゴを食べていたのだが、その円網の前にはバリアーがあった。糸は3本だけだったので暗い時間帯には気が付かなかっただけのようだ。この子の円網の背面側にはツツジの枝があるので、その程度のバリアーで十分ということなんだろう。

 そして、この子は円網に隠れ帯を付けていない。バリアーによって獲物の数が減るから隠れ帯まで付ける必要はないということなのかもしれない。もしかして、イナゴのような大型の獲物をあげたのは迷惑だったんだろうかなあ。ちなみに、ジョーちゃんの隣にいる15ミリちゃんはホームポジションの下側にだけ隠れ帯を付けている。そして右隣の10ミリちゃんは隠れ帯なしだった。


 9月2日、午前11時。

 ナガコガネグモのナガコちゃんは張り替えた様子のない円網の下の方にいた。オトナの雌がこういう異常行動をする場合は産卵が近いことが多いと思うのだが、昨夜は雨だったし、どうなんだろうかなあ……。

 ジョーちゃんも円網を張り替えていなかったのだが、その隣の10ミリちゃんは横糸を張っているところだったので、円網が完成してから体長8ミリほどのアリをあげてみた。結果は、すぐに飛びついて捕帯でぐるぐる巻きだった。

 10ミリちゃんからツバキの木を挟んで反対側にはお婿さんと同居している体長10ミリほどのジョロウグモもいる。そこで、この子にも8ミリほどのアリをあげてみた。この子はしばらくの間は知らん顔をしてていたのだが、やがてそろそろとアリに近寄ると届きもしないチョンチョンを繰り出した(もしかすると、これで獲物の大きさを測っていたのかもしれない)。それから一歩踏み込んでみたり離れたりを何回か繰り返した後、数歩後ろに下がって円網の糸を切り、アリを落としたのだった。

「あたくし、こんな大きな獲物は仕留められませんの。ごめんあそばせ」という態度である。お尻の太さではナガコガネグモの10ミリちゃんに負けているというのに、この消極性はどういうわけなんだろう? 小型の獲物だけを狩っていても冬が来るまでに産卵できるという自信があるんだろうか。


 9月3日、午前6時。

 ナガコガネグモのナガコちゃんはまた円網を張り替えてしまった。もうイナゴの在庫もないので、そこらにいた体長10ミリほどのアリをあげることにする。ところが、それでもナガコちゃんは逃げるのだ。とにかく慎重なタイプである。円網の反対側に獲物がかかった場合は別なのかもしれないが。

 それ以上に慎重なジョロウグモの10ミリちゃんには体長8ミリほどのアリを少し弱らせてからあげてみた。しばらく様子を見てから寄ってきた10ミリちゃんは届かない距離からチョンチョンした後、少しずつ近寄って牙を打ち込んだようだった。しかし、そこはアリの頭部だったせいか、アリの脚の動きがなかなか弱くならない。牙を打ち込んだ状態をキープしていた10ミリちゃんはアリの抵抗が弱くなってからホームポジションに戻ったのだった。

 ジョロウグモは捕帯用の糸を造る能力が弱いせいか、ナガコガネグモのように獲物に捕帯を巻きつけて動きを封じてから牙を打ち込むという狩りをしない。いきなり牙を打ち込んで仕留めるしかないわけだが、ハンゲツオスナキグモのように獲物に飛びかかって牙を打ち込み、いったんブレークして獲物が弱るのを待つということもしない。というか、多分できないんだろう。ジョロウグモの獲物は垂直円網にかかる。その獲物からブレークしたりすると、まだ毒がまわりきっていない獲物が暴れることによって円網から外れてしまうことが予想される。それを防ぐためには牙を打ち込んだままでいるしかないわけだ。

 しかし、牙が届く間合いということは獲物の脚も届く距離である。安全に一方的な狩りをするためには反撃する能力が低い小型の獲物を狙うしかないのだろう。ウィキペディアの「ジョロウグモ」のページに「成体になれば、人間が畜肉や魚肉の小片を与えてもこれを食べる」という記述があるのも、切り身の肉はまったく抵抗しないから安心だということなんだろうと思う。そういうハンディキャップを背負いながら数ヶ月でオトナになってしまうのだからたいしたものである。

 また、ジョロウグモが自分と同じくらいの体長のオンブバッタを狩る動画というのもアップされているから、訓練を重ねれば大型の獲物も狩れるようになるのかもしれない。ただし、その動画に登場するような成体のジョロウグモはオンブバッタ(しかも2匹だ)が跳ぶような低い位置に円網を張るとは思えないのだがね。ああっと、バッタが背面や頭部を下に向けているのとか、バッタがすでに円網にかかっているところから動画がスタートするというのにも少々不自然さを感じるな。作者ならバッタを円網に投げ込んで撮影するし。


 午後2時。

 体長5ミリほどのガを捕まえたのでジョロウグモの10ミリちゃんにあげた。10ミリちゃんはしばらく様子を見ていたが、ふいにつま弾き行動をすると、ガに歩み寄って牙を打ち込んだ。そして、すぐにガを円網から引き抜いてホームポジションに持ち帰り、捕帯を巻きつけるのだった。あまり抵抗しない獲物に対しては強気で攻める10ミリちゃんである。

 ウィキペディアの「ジョロウグモ」のページには「獲物は多岐にわたり、大型のセミやスズメバチなども捕食する」とも書かれている。しかし、作者が観察した範囲では、その円網はバリアー付きという点でオニグモやナガコガネグモのものほど大物向きではないだろうし、最初から牙を打ち込んで仕留めるという狩りを大物に対して行うのは大きな危険が伴うのではないかと思う。特にスズメバチなどは捕帯を巻きつけていない状態で牙を打ち込んでも、その毒が効き始める前に大顎やお尻の針で反撃してくるだろう。相打ちになるのがオチである。まあ、円網にかかったまま暴れ続けて力尽きてしまえばジョロウグモでも仕留められるかもしれないのだが。


 9月4日、午前1時。

 雨がやんでいたのでオニグモのお向かいちゃんにコガネムシを1匹あげた。お向かいちゃんの円網は直径約80センチだから食欲があるのだろうという判断である。雨でなければ毎日1匹ずつあげたいところだ。ただ、冷蔵庫に入れておいたコガネムシは冷えているだろうから、ポリ袋ごとぬるま湯に浸けて温めてからあげることにする。体温が気温より低い変温動物というのはあまりにも不自然だろうという判断である。温めすぎるとこれまた不自然になるとはと思うが。

 

 午前6時。

 ナガコガネグモのナガコちゃんとジョーちゃんは円網を張り替えていなかった。

 15ミリちゃんはホームポジションの上下に隠れ帯を付けていたので、そこらで拾った体長10ミリほどの甲虫をあげる。こいつは外骨格も鞘翅もかなり硬いのだが、ジョーちゃんは捕帯でぐるぐる巻きにしてから口を付けていたから、硬い外骨格にも弱点はあって、しかもナガコガネグモはそれを見破れるということなんだろう。ゴミグモのお姉ちゃんもこの甲虫を食べていたしな。

 10ミリちゃんは例によってお尻をスイングしながら横糸を張っているところだった。この子の場合は横糸を固定するための動きとスイングのリズムが一致している。

 10ミリちゃんには横糸が五周めに入ったところで体長8ミリほどのアリをあげておく。

 その近くにいるジョロウグモの10ミリちゃんにも体長8ミリほどのアリをあげたのだが、この子はバリアーを張っているのでちょっと大変だった。クモのバリアーはクモ自身を守るためのものらしいので、10ミリちゃんの背面以外の場所を狙うわけだが、コントロールが狂うとバリアーにはね返されてしまうのだ。

 10ミリちゃんはアリに牙を打ち込むと、そのままホームポジションに持ち帰って捕帯を巻きつけた後、それを円網に固定した。昨日ガを食べたので後で食べるつもりなんだろう。

※小野展嗣著『クモ学』(2002年発行)によると、ジョロウグモの雌成体(この本では「成虫」と表記されている)の体長には11ミリから32ミリまでのばらつきがあるのだそうだ。クモの場合は大きくならなくても産卵はできるのだろうし(卵の数は減るだろうが)、交接だと交尾ほど雌雄の体格差が問題になりはしないということなのかもしれないが、昆虫で3倍の体格差があったら別の種になってしまいそうである。

 しかも「ジョロウグモはおおむね、雄は6回、雌は7回脱皮して成熟する。しかし、千国さん(千国安之氏)の実験によると、脱皮回数は餌の量の違いで、雄は6~8回、雌は8~10回の間で振れるという」とも書かれていた。こういうところでも形質のばらつきを大きくしていたわけだ。これは、大きくなれないのなら小さいままで、とにかく花を咲かせて子孫を残してしまおうという植物の一年草の生き方に近いと言えるだろう。これも飛行という移動手段を使えないジョロウグモの奥の手なのかもしれない。


 午後1時。

 体長5ミリほどのガを捕まえてしまったのでナガコガネグモの15ミリちゃんにあげた……のだが、知らん顔をされてしまった。今朝アリを食べたばかりだから食欲がないんだろう。逃げられる前に仕留めてくれればそれでいいや。

 ジョロウグモの10ミリちゃんはいつの間にか12ミリほどに成長していた。脱皮殻も2つに増えている。今朝、あまり食欲がないように見えたのも脱皮前だったせいなのかもしれない。悪いことをしてしまったかなあ……。

 体長25ミリほどの細身のガを捕まえた。これは今夜にでもオニグモのお向かいちゃんにあげようと思う。コガネムシばかりでは栄養が偏るだろうし。


 午後8時。

 オニグモのお向かいちゃんは足場糸(横糸を張る前に広い間隔でらせん状に張る粘着性のない糸)を5本張ったところで立ち往生していた。雨が降り出したからそのせいかもしれない。


 午後11時。

 雨はやんでいる。

 いつもの時間に円網の張り替えができなかったせいか、お尻に小さな水滴をいくつか載せたお向かいちゃんは枠糸の外側部分を空けて直径約60センチの円網を張り終える直前だった。ほぼ完成ということで遠慮なくガをくっつけさせてもらう。

 ガに駆け寄ったお向かいちゃんは、いつものように翅を抱え込みながら牙を打ち込み、さらに翅を折りたたみながら捕帯を巻きつけて棒状に成形してから、まだ未完成のホームポジションで食べ始めた。大型の獲物だったので円網に大穴が開いてしまったが、基本的にはいつものガを仕留める手順である。

 読者にとっては変化がなくて退屈かもしれないが、作者にとってはありがたい。こういうデータを集積していけば、いつかは「~である確率が高い」と言えるようになるからね。


 9月5日、午前5時。

 ナガコガネグモのナガコちゃんとジョーちゃんは留守だった。しょうがないので今日はジョロウグモの日にしてしまう。

 まずは体長12ミリほどで前後左右にバリアーを張っているというガードの堅い箱入りちゃん。この子には体長8ミリほどのアリを少し弱らせてからあげてみる。箱入りちゃんは届かない、というか、届いているようには見えないチョンチョンをした後、アリの頭部に牙を打ち込んだ。

 作者の視力では確認できなかったのだが、このチョンチョンは実際に何発かは当たっているのか、あるいは、獲物の周囲の円網をつつくことによって振動を発生させ、それによって獲物の大きさ、重さ、姿勢、頭部の位置などを間接的に調べているのかもしれない。原則的に周囲の音を聴くことで目標をサーチしている潜水艦でも、魚雷を発射する時だけは自ら音波を発信して目標の方位や距離を正確に測るようなものだ。

 雄と同居している12ミリちゃんには、そこらで捕まえた体長5ミリほどのガをあげる。この子はためらう様子もなくガに駆け寄った。「この獲物は弱い」と判断すると一気に牙を打ち込むのだ。見事な見切りである。

 次は体長5ミリほどの独身の子。この子には体長7ミリほどのアリを、もっと弱らせてからあげる。この場合、弱らせすぎてもいけないので加減が難しい。半殺しでは避難されてしまうが、全殺しではゴミだと思われてしまいそうなので、三分の二殺しくらいにしてみた。これでビンゴ! 箱入りちゃんよりは少ないチョンチョンの後で牙を打ち込んでくれた。しかも、このチョンチョンは2回くらいはアリに直接タッチしているように見えた。

 雄と同居している体長10ミリほどの子もちゃんと牙を打ち込んでくれた。

 問題は最後の体長5ミリほどの独身の子で、この子には三分の二殺しにした体長5ミリほどのアリをあげたのだが、牙を打ち込んだ後、風が吹いて円網が揺れると「バカなっ。直撃のはずだ!」とばかりにまた牙を打ち込むのだった。さらに捕帯を巻きつけてからも風が吹く度に「ええい! 連邦軍の獲物は化け物か!」と、またまた牙を打ち込むのである。

 まあ、一度でも牙を打ち込んだ獲物はそう簡単には諦めないようだとは言えるだろう。ただし、体長や空腹度、そして気温などの条件を一定にしての追試は難しいから、あまり信頼性の高いデータではないがね。


 午前11時。

 お尻が細くなったナガコちゃんが帰って来ていた。ジョーちゃんはまだだ。

 ある昆虫図鑑サイトの「ナガコガネグモ」のページには「卵囊を守る雌」というキャプション付きの画像が掲載されているのだが、作者はナガコガネグモが卵囊を守っているところを見たことがない。去年の10月に観察したおかみさんなどは最後の力を振り絞って卵囊から離れようとしているように見えた。おかみさんの姿を見たのはそれが最後だ。

 これは気温の低さとクモの呼吸システムで説明できると思う。

 第一に気温だが、その日の午前7時の気温は10度Cだった。この気温では変温動物であるクモはあまり動けないだろう。

 第二に呼吸システムだが、小野展嗣著『クモ学』には「クモの筋肉は、瞬発力はあっても持久力はないということになるのだろう。その理由はクモの呼吸器官と循環系にある」と書かれている。ナガコガネグモなどの呼吸器官は書肺と気管系なのだが、「クモの気管は、昆虫に比べると毛細気管の発達が悪く、体の運動のほとんどを担っている前体部にまではあまり伸びていない」のだそうだ。つまり、クモが動きまわると、すぐに脚の筋肉が酸欠になってしまうのだろう。そんな体で卵囊のような大きな構造物を造ったりしたら、それは動けなくなっても不思議はないはずだ。ナガコガネグモが獲物に捕帯を巻きつけた後に休憩したり、ハエトリグモがアリに追いつけなかったりしたのも酸欠で動けなくなっていただけなのかもしれない。

※ハエトリグモの場合はジャンプして獲物に襲いかかるという狩りをするので、その前に停止して獲物に狙いをつける必要があるのらしい。


 そして、ナガコガネグモの卵囊は和紙のように糸が積層した構造で、指で破るのが難しいくらいの強度がある。ユウレイグモの仲間の卵は糸でまとめてあるだけで卵がほとんど剥き出しなので「守る」必要があって、そのために持ち歩くのだろうが、ナガコガネグモが卵囊を守る必要があるとは思えない。だいたい、黄色の横縞が目立つお尻で卵囊の側にいるのは「ここに無抵抗で栄養満点の卵がありますよー」と宣伝しているようなものだろう。

 というわけで「卵囊を守っている」というのは観察者がそのように思いたかったというだけのことなのではないかと作者は思う。ああっと、そういうキャプションを付けておけば閲覧回数が稼げるだろうと考えたのかもしれないな。銭儲けのためなら「嘘も方便」なんだろうし。

 とはいえ、作者が観察したナガコガネグモの卵囊は3個でしかないから、世界のどこかには卵囊を1個だけ造って、それを守るナガコガネグモが存在する可能性もないとは言えないかもしれない。なにしろ、円網を離れたナガコガネグモの防御力や戦闘力についての知識はないのでね。

 今日はトンボ1匹と小型のガを2匹、体長15ミリほどのバッタを1匹捕まえた。雨上がりのせいかもしれない。


 午後3時。

 ヒメグモのヒメちゃんのお尻はくすんだオレンジ色に白い帯になっていた。体長は4ミリくらいだろう。

 体長70ミリと40ミリほどのショウリョウバッタと15ミリほどのバッタ、それに小型のガを3匹捕まえた。これからはジョロウグモのシーズンだからちょうどいいかもしれない。


 午後10時。

 オニグモのお向かいちゃんが円網を張り終えたようなのでショウリョウバッタをあげてみた。しかし、お向かいちゃんは最初から獲物の上に回り込んで円網の糸を切り始めるのだった。さすがに体長70ミリは大きすぎたのらしい。もはやこれまで。ショウリョウバッタは回収して、体長50ミリほどのトンボをあげることにする。お向かいちゃんはトンボの胸部に牙を打ち込み、しばらくしてから捕帯を巻きつけていた。

 というわけで、現在のお向かいちゃんが狩れる獲物の大きさの上限はアブラゼミ以上ショウリョウバッタ未満のどこかということらしい。ただし、この限界は産卵直前では急降下するだろうし、気温が上がれば上昇するかもしれないし、直前の恐怖体験が食欲に影響しているという可能性も否定できない。今のところは「こういうことがありました」というだけのことである。生物は数字や関数、方程式などで書き表せるものではないのだ。


 9月6日、午前9時。

 時々小雨がぱらついている。

 ナガコガネグモのナガコちゃんは円網の反対側にいた。作者が獲物を投げ込む方向の反対側だ。体長40ミリほどのバッタをあげると飛びついて来た。

 ジョーちゃんの姿は見えない。ということは産卵ではなく、引っ越しだったんだろう。その隣の15ミリちゃんも円網を張り替えていないから、この子も引っ越しを考えているのかもしれない。この場所(スーパーの周囲の植え込みの東南の角)はナガコガネグモの幼体が次々に現れるのだが、オトナになる前に引っ越していく子が多い。「オトナ向きの環境ではない」という共通認識が成立しているのかもしれない。あるいは、お隣さんと獲物の奪い合いをするのがいやなのか、だな。

 ジョロウグモの12ミリちゃんには体長5ミリほどのガをあげた。ジョロウグモもガに対しては積極的である。

 箱入りちゃんには体長20ミリほどのガガンボをあげた……のだが、近寄ろうとしない。「こんな大っきいの、無理!」ということらしい。しばらくしてから見に行くとガガンボは円網から外されていた。

 獲物の大きさか重さかはわからないが、ジョロウグモには個体ごとに基準があって、それを超える獲物には手を出さないと決めているようだ。オニグモのお向かいちゃんもショウリョウバッタには手を出さなかったから、それぞれのクモにそれぞれの基準があるのだろう。ただ単にジョロウグモの基準はオニグモなどよりもかなり低いところにあるというだけのことである。

 回収したガガンボはヒメグモのヒメちゃんにあげた(実は一度逃げられたのだが、すぐに捕まえて、少し弱らせてからもう一度不規則網の中に投げ込んだ)。ガガンボがシート網の上に落ちたことを察知したらしいヒメちゃんは枯れ葉の下から出てきて、ジョロウグモの幼体のように腰を横に振りながらガガンボに近寄ってきたのだが、あと5ミリというところまでは近づくものの、また離れてしまう。シート網に開いていた穴を補修するふりをしたりしているが、頻繁に腰を振るからガガンボに気が付いてはいるようだ。おそらく大きな獲物なので警戒しているんだろう(体長で約5倍だ)。それでも近寄ったり離れたりを繰り返しながらも枯れ葉の下に戻ろうとはしない。ついにはガガンボの脚の1本に牙を打ち込んだ様子だったから、ガガンボがおとなしくなってから食べるんだろう。ジョロウグモのようにスパッと諦めるタイプではないようだ。ヒメグモの場合は不規則網の下にシート網があるから、垂直円網のように獲物が暴れ続けていると外れて落ちてしまうということはない。獲物に逃げられることがないのならいくらでも時間をかけられるわけだ。

 なお、ヒメちゃんが隠れていた枯れ葉の下には卵囊が1個固定されていた。


 午後5時。

 ヒメちゃんはガガンボを枯れ葉の下まで運んでいた。そのお尻はモスグリーンに変わりつつあるような気がする。

 ウィキペディアにはクモの消化器官について「腹柄を通り抜けるとそれに続く中腸は大きく膨らんで腹部背面近くを通る。この部分では数対の分岐が出ており、これを腺様中腸と言い、さらに細かく分岐して腹部の心臓の両側に大きな固まりとなる。ここでは消化と吸収が行われると考えられている。クモが餌を取るとすぐにこの部分に送られ、腹部が膨大する」と書かれている。ヒメグモのお尻の外骨格は薄いようだから体外消化された獲物が腺様中腸に流れ込むとそれが透けて見えることによってお尻の色が変化するのかもしれない。あるいは食べたか食べなかったかに関係なく周期的に変化するのか、だな。こういうのは飼育して観察すればすぐにわかることだと思うのだが、やってみた研究者はいないんだろうかなあ……。それとも一般人の手の届かないところに結果が発表されているのか? 

 オニグモのお向かいちゃんはホームポジションにいたが、円網はまだ張り替えていない。一休みしてから張り替えるんだろうが、それまで待つ気にもなれないのでガを2匹あげてしまう。

 まずはお向かいちゃんの背面側から体長15ミリほどのガを1匹。これはすぐに飛びついて牙を打ち込み、捕帯を巻きつけて棒状に成形した後、ホームポジションに持ち帰った。それを円網に固定したのを確認してから、同じサイズの2匹目を腹面側、つまり円網の反対側からあげてみる。お向かいちゃんの円網の中心にはお向かいちゃんが通り抜けられるくらいの穴が開けられているから、そこを通って反対側に……出なかった。そのまま駆け寄ったお向かいちゃんは円網越しに牙を打ち込み、強引にガを引き抜いてしまったのだ。そういえば、ジョロウグモたちもこういうやり方をしていたものだった。しかし、それではあの穴は何のためのものなんだろう? 危険を感じた時にそこを通って円網の反対側に避難するのかなあ……。


 9月7日、午前5時。

 この気温だと半袖では寒い。昆虫の動きも鈍くなるせいか、体長30ミリほどの細身のガを手づかみで捕まえてしまった。これは後でオニグモのお向かいちゃんにあげよう。

 ナガコガネグモの15ミリちゃんと10ミリちゃんは、それぞれ17ミリと12ミリほどに成長していた。しかし、もう9月だ。17ミリちゃんはともかく、12ミリちゃんがオトナになるのは難しいかもしれない。

 体長3ミリほどのマルゴミグモらしい子は卵囊を造っている最中だった(以後、この子を「マルちゃん」と呼称する)。この子の円網にはその他にも卵囊らしい物が2個取り付けられている。新海栄一著『日本のクモ』によると、マルゴミグモの雌成体の体長は3.5ミリから5.5ミリということなので、少し小さすぎなのだが、このスーパーの周辺のクモは作者が獲物をあげている子を除けば小さめなのが普通だ。


 午前11時。

 マルちゃんのほとんど水平の円網に体長4ミリほどのアリを少し弱らせてから落としてみた。この子の円網の横糸の間隔は狭いから、狙っているのはおそらく体長3ミリ以下の飛行性昆虫だろうとは思うが、そんな小さなアリは捕まえるのも難しいのだ。

 獲物に気が付いたマルちゃんは糸を弾きながら少しずつアリに近づくと、脚先で何回かチョンチョンしてからいきなり牙を打ち込んだ。うーん……アリを弱らせすぎたかもしれない。マルゴミグモもコガネグモ科なので、もう少し活きのいいアリだったら先に捕帯を巻きつけたんじゃないかと思う。機会があったら、そして忘れなかったら追試をしてみよう。


 午後2時。

 稲刈りが終わった水田も何枚か現れ始めた。もう最後のチャンスかもしれない。というわけでイナゴを10匹捕まえた。

 光源氏ポイントでは体長20ミリ前後のジョロウグモ5匹に30ミリほどのイナゴを順にあげてみた。その結果はというと、最初の子はまったく反応しなかった。ただし、この子は2時間後に体長10ミリほどのガをあげても5ミリほどのガをあげても反応しなかったから、よほど食欲がないか、あるいは特に慎重なタイプなんだろう。

 2番目から4番目までの3匹は飛びついて牙を打ち込んだ。5番目の体長25ミリほどの子も飛びついてきた。

 体長10ミリクラスだと自分と同じくらいの体長の獲物にすらなかなか手を出さないのに、20ミリクラスになると体長で1.5倍の獲物にも果敢に飛びついてくるということである。手元にあるデータだけで大ざっぱなグラフを描いて、プロットした点の中心線を延長していくと、体長30ミリになれば、だいたい体長45ミリのイナゴを仕留められることが予想される。もちろん、そんなサイズのイナゴなどいないだろうと思うが。そこでオオスズメバチの体長はというと、40ミリから45ミリらしい。これはウィキペディアの「ジョロウグモ」のページにある「大型のセミやスズメバチも捕食する」という記述の裏付けになるかもしれない。作者は確認していないが。

 今日のお土産は体長30ミリと40ミリのイナゴを合わせて10匹、30ミリほどの細身のバッタと25ミリほどのガを1匹である。


 9月8日、午前6時。

 ジョロウグモの12ミリちゃんは15ミリほどになっていた。おまけに同居している雄が2匹に増えている。お祝いに体長15ミリほどのガをあげておく。少し弱らせすぎたらしくて寄ってこないが、そのうちに食べてもらえると思う。

 体長10ミリほどの独り身のジョロウグモには12ミリほどのアリを少し弱らせてからあげた(念のために大顎の牙も折っておく)。アリに近寄った10ミリちゃんは何度もチョンチョンしてから頭部辺りに牙を打ち込んだようだった。ジョロウグモが仕留めるか諦めるかの基準は獲物がどれくらい暴れるかにありそうだ。

 そして、またまたナガコガネグモの新顔が現れた。場所はもちろんスーパーの駐車場の東南の角である。体長は20ミリほどで、ジョーちゃんがいたツバキの70センチ上くらいの場所に横糸の間隔が広めの円網を張っている。ジョーちゃん抜きでも直径2メートルの範囲に3匹である。家1件分くらいまで広げると、ミジカちゃんとヒカゲちゃんも加わる。これだけナガコガネグモが高密度に生息して、しかも次々にメンバーが入れ替わっていく場所はこのスーパーの周辺では他に見当たらない。もしかしてこの辺りにはナガコガネグモの泉があるんだろうか?〔んなわけあるかい!〕

 ゴミグモのエルちゃんは弟くんの近くに引っ越して来たようにも見えるし、オニグモのデンちゃんもヒーちゃんの隣を選んだと考えることもできそうだ。   

 そういうことが書かれている文献は見たことがないのだが、もしも1匹の雄が複数の雌と交接できるのだとしたら、多くの雌が雄のいる所に集まってくるということなのかもしれない。ナガコガネグモやゴミグモの場合、オトナに近い雌の脚は雄よりも長いのだから、その分歩く能力も高いだろう。それなら雌の方から雄のいるところに出向いて交接し、それから改めて産卵に適した場所へ引っ越していくというのも合理的であるはずだ。ああっと、ナガコガネグモの15ミリちゃんと体長15ミリほどに成長したかつての10ミリちゃんは最近円網を張り替えていないのだが、これも雄がやって来て交接してくれるのを待っている、つまり婚活だと考えるとつじつまが合うかもしれない。ただし、問題は交接できる雄がまだそこにいるのかどうかだろうなあ。ここには雄が2匹いたことがあるということを考えると、雄もまた出会いを求めて合コン会場にやって来るのかもしれないのだが……。

 ナガコガネグモの17ミリちゃんにはイナゴをあげた。この子の円網は横糸の間隔が広いので、落ちてしまわないようにと翅をつまんだまま円網にくっつけたのだが、この子はすぐに飛びついてきた。引っ越したばかりで食欲旺盛ということなのかもしれない。この子も交接するためにやって来たということなら、近いうちに円網を張り替えなくなって、交接が済んだらまた引っ越していくことになるだろうと思うのだが、どうなんだろうかねえ……。

 などと言っているうちに、ナガコガネグモの雄は左右の触肢でそれぞれ一度しか交接できないとしているサイトを見つけてしまった。それが正しいとすると、雌が密集していればフェロモンの濃度が高くなって、効果的に雄を呼び寄せることができるようになるのかもしれない、というところだなあ。


 午前11時。

 スーパーの近くに雄と同居している体長12ミリほどのジョロウグモがいたので、あえて体長7ミリほどのガをあげてみた。12ミリちゃんは食事中だったのだが、食べていた獲物を円網に固定して、つま弾き行動をしながらガに近寄って牙を打ち込んだ。

 しかし、その隙に雄が円網に固定されていた獲物に捕帯を少し巻きつけてから口を付けたのだった。彼はそのままホームポジションで獲物を食べていたのだが、ガを咥えた12ミリちゃんが戻ってくると、獲物を咥えたまま円網の隅に退避した。要は盗み食いである。雄にしても雌がオトナになるまで飲まず食わずで待機しているというわけにもいかないのだろう。1匹だけだが、雌に食べられている雄を見たこともあるから命がけで同居しているのである。ジョロウグモの場合は雄の個体数が多いので、他の雄に取られないようにするためには危険を冒しても同居するしかないということなんだろうと思う。

 去年もヒメグモがいた生け垣でヒメグモ3匹を確認した。これはバルーニングに失敗したということなのか、あるいは、あえてバルーニングしない子も一定数いるということなのかもしれない。そこは母親が産卵できた場所なのだから、あえてバルーニングしないという安全第一の選択肢も有効だろう。


 9月9日、午前3時。

 雨が降り始めた。

 ヒメグモのヒメちゃんはバッタを枯れ葉の下まで運んでいた。お尻の色はおおむねモスグリーンのようだ。このまま獲物を切らさないようにしてお尻の色の観察を続けようと思う。


 午前10時。

 ヒメちゃんにあげたバッタはシート網を突き破ってその下にぶら下がっていた。不規則網が濡れると荷重限界が低下してバッタのような大きな獲物を支えきれなくなるのかもしれない。次は体長10ミリ以下のガかハエにしよう……と思ったらガガンボを捕まえてしまった。作者はクモの神様に愛されているのである。〔言い切ったな〕

 スーパーの東南の角には、またナガコガネグモの新顔が現れた。体長15ミリほどで、ツバキの20ミリちゃんとは反対側で楽しそうにスイングしながら横糸を張っている。

 元祖ナガコガネグモの20ミリちゃんは横糸の間隔が広くて隠れ帯なしの円網にしていた。もう少し横糸の間隔を詰めてもらえると獲物をあげる時に楽なんだが……。ああっと、この子は隠れ帯を付ける代わりに横糸の間隔を広げて獲物の量を調節しようとしているという可能性もあるかもしれない。幸いイナゴの在庫は豊富だからどんどんあげてみようかなあ。


 午後8時。

 雨はやんでいる。

 オニグモのお向かいちゃんは足場糸を張っているところだったのだが、どうも円網の直径を約40センチまで小さくしようとしているようだ。しかし、このタイミングでは天気が悪いせいなのか、それとも食欲そのものがないのかがわからない。明日は降らないようだからそれでわかるだろう。とりあえず今夜は獲物をあげないでおく。


 9月10日、午前1時。

 体長15ミリほどのハエと7ミリほどのガと7ミリほどのワラジムシを捕まえた。もちろんヒメグモのヒメちゃん用である。

 そのヒメちゃんは不規則網の補修をしているところだった。そのためによく見えたのだが、枯れ葉の下の卵囊が2個に増えていた。

 体長15ミリほどのカマドウマも捕まえた。これはナガコガネグモの20ミリちゃんにあげることにしよう。

 体長5ミリほどのワキグロサツマノミダマシも円網を張っていたので、7ミリほどのガをあげた。5ミリちゃんは素早くガに駆け寄って、翅を抱え込みながら牙を打ち込んだ後、ガを束になった糸で吊した状態で捕帯を巻きつけてかつお節状に成形するのだった。これは……「縦のバーベキューロール」というところだろうか。


 午前10時。

 雨がやんで気温が上がったせいか、蚊柱(小型昆虫の集団飛行)ができていた。

 体長20ミリほどのガと10ミリほどのハエを捕まえたので、ガをナガコガネグモの新顔の15ミリちゃんにあげた……のだが、円網を揺らすばかりで寄ってこない。そのうちにガは円網から外れて落ちてしまった。そこで代わりにハエをあげたのだが、これも仕留めようとしない。ガもハエも回収して体長7ミリほどのアリをあげると、しばらく様子を見てから近寄って捕帯を巻きつけるのだった。どうもこの子はナガコガネグモとしては慎重なタイプのようだ。そこで改めてよく見ると、この子は左の第一脚と第三脚が短い。脚を2本失った経験があるから慎重に行動している……と言えるんだろうかなあ……。こういうのもデータを集めていけば「そういう傾向がある」くらいのことは言えるようになるかもしれない。ただ、そのためにクモを傷つける気にもなれないから、気長に観察日記を書き続けるだけにしようと思う。

 話は変わるのだが、中平清著『クモのふるまい』(昭和58年発行)を読み終えた。1983年発行だからかなり古い本なのだが、素晴らしいクモ観察の記録である。無責任な無料サイトの記事など信じるわけにはいかないし、紙の本でもクモの生態観察関係のものはほとんど見当たらなかったのだ。クモはしょせんお金にならない嫌われ者なのである。

 この本で特に面白かったのは「クモの鳴き声」と「歩脚の再生」の項だった。「何万種というクモの中には、鳴くクモが何種類か現実に住んでいるそうである」「鳴くクモの中に加えられているクモで、わたしの身近に居るものにハンゲツオスナキグモがいる」のだそうだ。つまり、このクモは「半月雄鳴き蜘蛛」だったわけだ(あの模様はどう見ても三日月だと思うが)。さらに「オーストラリアあたりには、「ほえるクモ」がいるそうである」とも書かれていた。これは作者も一度聴いてみたいものだが、オーストラリアは遠いのだよなあ……。

 そして「歩脚の再生」の項には「クモの脚は七つの節からできている。体についた方から順に言うと基節、転節、たい節、しっ節、けい節、しょ節、ふ節の七節である」と書かれていて、その基節と転節の境で自切するのだそうだ(ヒトで言うと肩関節か股関節だろう)。作者は脚の付け根からもげると思っていたのだが、基節は短いので見落としていただけだったのだな。すみません。訂正させていただきます。

 この部分はトカゲのしっぽと同じで身を守るために切れやすくできているらしくて、脱皮の様子を「徹夜覚悟で見守った」「自切して失われていた3本の脚は、残されていた基節の中で再生され、ぜんまいのように巻いて格納されていたのである。その脚にはまだ体液が満たされていないので、押しつぶし折りたたんである自転車のチューブの様なものだから、狭い基節の中に収まっていたのである」「自切が基節を残した形で行われるのは、胴体を直接損傷するのを防ぐと同時に、再生と格納の為の、必要最小限のスペースを確保するのに有意なことであると理解した」と書かれている。素晴らしい。フィールドワーカーの鑑である。しかし、作者には徹夜してまでクモ観察をする根性はないな。寝付けないようなら別だが。

 そしてまた「クモの雌雄」の項にはハシリグモについて「大人になる直前までの体格には、雄と雌との差はほとんど認められない。ところが、最後の脱皮が完了すると同時に、雌はそのままの体形でぐんと大きくなるのに、雄は小さく細っそりした体になり、脚の細長いクモに変身する」と書かれていた。作者が観察したゴミグモの白夫君や黒夫君のように体型を変える雄が他にもいたのだな。雄は「その体の半分をけずり、けずり取った分を、雄として最も大切な生殖にかかわる器官(それは触肢と歩脚であるが)の発達と強化に当てたのであろう」と作者とまったく同じ推測をしておられる。フィールドワークの大先輩と同じ結論に到達できたことは何よりもうれしいことだった。


 午後9時。

 オニグモのお向かいちゃんが円網を張り替えたようなので、行き倒れのアブラゼミをあげた。その円網の直径が約40センチなのは昨日張り替える時に雨のせいで40センチにしたからなんだろう。ということは、お向かいちゃんが留守の間に余計な糸を切って60センチ仕様の枠糸にしておいたら大きな円網にしたんだろうか? これも機会があったら実験してみたいものだ。


 9月11日、午前1時。

 寝付けないので散歩に出ると、道端の草地でショウリョウバッタのカップルが交接、もとい、交尾していた。2匹並んで、雄が腹部をJの字形に曲げて雌の腹部後端にくっつけているのらしい。これは初めて見たかもしれない。

 ナガコガネグモの15ミリ姉妹は揃って脱皮していた。〔姉妹だという証拠はない!〕

 あれは脱皮の前の絶食だったのだな。婚活だと思ったのだが、またまた大ハズレだったわけだ。やれやれ。

 ナガコガネグモの17ミリちゃんには体長7ミリほどのワラジムシと3ミリほどのバッタをあげた。気温が低い時間帯ならばこんな小さなバッタも捕まえやすいのだ。

 ヒメグモのヒメちゃんには体長7ミリほどのガをあげた……のだが、ガまで3センチという位置で腰を振るのだった。そして少し間を置いてまた腰を振る。決して近づこうとしないのだ。これはどうも獲物が力尽きるのを待っているということのようだ。体長で2倍以上の獲物だしなあ……。


 午前2時。

 ヒメちゃんは糸を巻きつけて棒状にしたガを枯れ葉の下に固定していた。


 午後6時。

 ヒメちゃんが網を張っていた低木が剪定されていた。残念だが、フィールドワークではよくあることである。

 話は変わるのだが、宮下直編『クモの生物学』には各種のクモを飼育器に閉じ込めた場合の1日当たりの滞在時間と移動率の表が掲載されている。ヒトで言えば、「拉致してきた人間を部屋の中に閉じ込めて、動きまわっている時間とじっとしている時間を計測しました」というようなものである。これにどういう意味があるのかわからなかったのだが、今わかった。データが数値になっていると論文を書きやすいのだ。つまり、この本の正体はクモをテーマにして論文を書こうという論文屋さんのための参考書だったのである。なるほど、作者のようなアマチュアの観察者にはほとんど何の役にも立たないわけだ。こんな物は大学の内部で学生だけに販売していればいいのに……。


 午後9時。

 オニグモのお向かいちゃんは円網の糸をあらかた回収していたのだが、張り直す様子がない。円網の下の芝生では食べ残しのアブラゼミにアリがたかっているから、今夜は腹ごなしをするつもりなのかも……いやいや、オニグモの場合は円網を回収した後に産卵したこともあるな。いずれにせよ、今夜は獲物をあげなくてもよさそうだ。


 午後11時。

 体長5ミリほどのワキグロサツマノミダマシ(ワッキーとは別の子)がいたので、そこらで捕まえた体長12ミリほどのアリを少し弱らせてからあげてみた。するとこの子は、慎重に近寄って捕帯を巻きつけ、牙を打ち込んだ後、さらに円網を切り開いて、アリを宙吊りにしてから縦のバーベキューロールでぐるぐる巻きにしたのだった。もしかすると、この縦のバーベキューロールはワキグロサツマノミダマシ一族に代々伝えられてきた奥義なのかもしれない。〔んなわけあるかい!〕

 ナガコガネグモの17ミリちゃんには体長12ミリほどのよく太ったガを少し弱らせてからあげた。17ミリちゃんは素早く駆け寄って牙を打ち込み、獲物の抵抗が弱くなったところで嬉しそうに円網を揺らしてから捕帯を巻きつけるのだった。喜んでもらえたのなら何よりである。それにしても、円網にかかったのが翅で飛ぶタイプの獲物であって、バッタのように暴れるものではないということを瞬時に判断できるというのはたいしたものだと思う。


 9月12日、午前5時。

 オニグモのキンちゃんが円網を張っていた。夏休みは終わったらしい。住居の入り口で係留糸に脚の先を置いていたので、体長7ミリほどのハエを円網にくっつけてあげる。獲物に駆け寄ったキンちゃんはあっという間に捕帯でぐるぐる巻きにしてしまった。

 乱暴な推理をさせてもらうならば、キンちゃんの夏休みは休眠して越冬するために成長を一時停止していたのではないかと思う。来年の夏にオトナになるために、あえてここで絶食して成長を遅らせたと考えるとつじつまが合うだろう。獲物が多い時期にオトナになるというのは合理的だし、生き急ぐ必要のないオニグモならそういうこともできるだろうし、そうしない理由も見当たらない。ただ、この子が住居にしているのは専用パレットに載せられたガラス戸の穴だから、いつかどこかへ運ばれてしまうこともあり得る。そうなってもキンちゃんにとっては命に関わるようなことではないのだろうが、作者の観察は強制終了になってしまうのが問題だ。

 ナガコちゃんには冷蔵庫の中で力尽きていた体長15ミリほどのガをあげた。ナガコちゃんは知らん顔をしているが、最悪でも次に円網を張り替える時には食べてもらえるだろう。

 脱皮したナガコガネグモのお姉ちゃんは円網を張り替える様子がない。何かオトナになることを諦めているようにも見える。もう9月だしなあ。

 妹ちゃんの方はやっと縦糸を張り始めたところだった。しばらく見ていると、どうも直径約20センチのほぼ半円形の円網(?)にするつもりのようだ。今までの係留糸をそのまま使って網の面積を広げようということらしい。  

 妹ちゃんが横糸を張り始めたところで体長30ミリほどの細身のバッタをあげてしまう。妹ちゃんは立ち止まったままだが、気が向いたら食べてくれればいい。

 今年のアリの木(白い毛皮をまとったようなアブラムシの仲間である雪虫が集まる木。雪虫の甘い排泄物を目当てにアリが集まってくる)に円網を張っている体長12ミリほどのジョロウグモは円網を半分だけ張り替えていた。足を滑らせたアリが落ちてくるので獲物には困らないようだ。念のために少し弱らせた体長12ミリほどのアリを投げ込んであげたのだが寄ってこない。この体長だと、すぐに飛びついてくるのはおそらく6ミリ以下の獲物だ。しょうがない。円網を張り替える時には食べてもらえるだろう。


 9月13日、午前10時。

 ナガコガネグモのお姉ちゃんが直径約30センチの円網を張っていた。お姉ちゃんらしく、ちゃんと係留糸から張り直して大きくしたようだ。後でイナゴをあげることにしよう。


 午後1時。

 円網から近くの低木に向かって糸を伝って歩いて行くジョロウグモを見つけた。円網のバリアーには雄が1匹残っている。オニグモなどが住居へ戻る時のような行動である。

 雄の体長から推測すると、この子は9月6日にガガンボを食べてくれなかった箱入りちゃんではないかと思う(ここは箱入りちゃんがいた場所から約5メートルの位置だ)。こういうやり方はオニグモのデンちゃんやお隣ちゃんもしていたのだが、強力な捕帯を持っていないジョロウグモにこそ有効だろう。ガのように素早く仕留めないと逃げられてしまう獲物もいるだろうが、それさえ許容できれば円網で待機しているのよりも安全だろうし、大暴れするような獲物は勝手に逃げていってもらった方が楽でいいはずだ。もしもこのやり方が広まるようなら、箱入りちゃんはジョロウグモ界のコペルニクスになれるかもしれない。

※箱入りちゃんの姿を見たのはこれが最後になった。引っ越しの途中だっただけらしい。


 午後2時。

 途中の草地でイナゴを10匹仕入れてから光源氏ポイントへ行ってみた。

 まずは体長17ミリほどのナガコガネグモ2匹に40ミリほどのイナゴをあげてみた。するとこの子たちはイナゴに飛びついて、捕帯を少し投げかけてから牙を打ち込み、必殺のDNAロールを繰り出したのだった。コガネグモ科のクモが大型の獲物を仕留める場合にはDNAロールを使うのが一般的なのかもしれない。

 ナガコガネグモのものらしい卵囊も見つけた。全面茶色で縦筋なしだが、直径20ミリ、高さ30ミリほどの壺形だから多分間違いないだろう。

 円網を張り替えなかったらしい体長25ミリほどのジョロウグモには10ミリほどの雄が慎重に近寄っていくところだった。そろそろと雌の腹部腹面に潜り込んでいく。交接である。

 クモの外雌器は腹部腹面の前方にあるし、雄はスポイト状になった触肢に吸い込んでおいた精子を雌の外雌器に注入するので、ヒトに例えると幼稚園児がお母さんのおへそにキスしているような体勢になる。そして、これがまたしつこいのだ。雄は、雌に「いい加減にしてよ」とばかりに脚で押しのけられるといったんは離れるのだが、そのうちにまたそろそろと近寄ってキスするのである。サイクリングの途中なので連続的に観察したわけではないのだが、確認しただけで6回はキスしていた。しかも6回目は雌が揺れるほどガッツンガッツンである。なんなんだろう、これは? ジョロウグモの交接を観察した経験は多くないのだが、他の雄のキスはこんなに激しくはなかったはずだ。……ただの個体差か? そっと優しくキスする雄もいれば、雌が嫌がらない限りはヤリまくっちまえという奴もいるんだろうか? それとも、うまく交接できなくていらついていた、とか? わからん。いろいろな愛の形があっていい、とは思うのだが……。

 話は変わるのだが、本日の光源氏ポイントには円網を黄色くしていたジョロウグモが3匹いた。交接していた子も含めて体長25ミリクラスが2匹、30ミリほどの子が1匹である。その他に20ミリ弱で円網が無色の子が2匹。後は近くに寄れなかったり、光の方向の関係で確認できなかったりだ。なお、スーパーの近くのアリの木に円網を張っている子の円網は体長15ミリほどでも黄色だ。

 作者の色覚を信じるならば、ジョロウグモの円網はオトナに近づくと黄色くなっていくような気がする(黄色くなり始めるのは体長で15ミリから20ミリくらいの範囲だろう)。ただ、成長と季節(日照時間?)が複合要因になっているという可能性もある。この点については、体長5ミリくらいのジョロウグモの幼体に体長の半分以下の獲物を大量に与え続けて、秋になる前に体長20ミリ以上にまで育ててみれば、ある程度見当が付くと思う。

 そして、ジョロウグモはなぜ円網を黄色くするのかという問題についても推理してみたので、ここに書いておこう。結論から言えば、ジョロウグモの黄色い円網はトンボよけだと思う。

 宮下直編『クモの生物学』には「ジョロウグモについては、おそらく飛翔力の強い大型昆虫を捕える(捕らえる?)ためにエネルギー吸収効率の高い網が進化したのだろう」と書かれている。なるほど、ジョロウグモが大型の獲物を仕留めるのにどれだけ苦労しているかをまったく見ていないとこんな結論を出してしまうのだな。しかし、明らかに大型の獲物を狙っているコガネグモの円網の横糸の間隔は大きいのである。

 ただの道具である円網の機能はともかく、作者はジョロウグモが狙っているのは小型の獲物だと思う。なぜかというと、ジョロウグモの捕帯は薄い(細い? 幅が狭い?)からである。

 ナガコガネグモなどは獲物の手の届かない間合いから強力な捕帯を巻きつけて、抵抗を封じてしまってから牙を打ち込む。これなら大型の獲物でも安全に仕留めることができるわけだ。しかし、ジョロウグモはそういうわけにはいかない。いきなり牙を打ち込んで、毒によって獲物を仕留めるのである。その場合、ジョロウグモの牙が届く間合いは獲物の攻撃が届く距離でもある。大型の獲物だと毒がまわって動きが鈍る前に反撃される危険があるわけだ。それを避けるためには小型の獲物を狙うのが有効だろう。

 作者の実験では体長10ミリクラスのジョロウグモの幼体の円網ににアリを投げ込んだ場合、自分の体長の半分以下のアリでなければ手を出さなかった。20ミリクラスになると25ミリから30ミリくらいの獲物まで狩るようになる。そして25ミリまで成長してやっと40ミリの獲物だ。ナガコガネグモやオニグモのように自分の2倍以上の獲物でも仕留めようという積極性は見られないのである。

 また、ジョロウグモが交接するのはだいたい9月頃、産卵は10月以降になる。この時期には大型の獲物が減って、体長3ミリ以下の小型昆虫が飛ぶようになる。ジョロウグモの円網にも小型昆虫がびっしりかかっていて、成体のジョロウグモでも1日では食べきれないほどの量になることも多いのだ(気温の低下によって獲物を消化する能力も低下している可能性はあるが)。

 話が長くなってしまったが、ここでやっとトンボが登場する。ジョロウグモが小型の獲物を求めて引っ越していった高度は、やはり小型昆虫を狙うトンボの狩り場でもあるのだ(蚊柱で検索すると蚊柱に突っ込んでいく赤とんぼの動画が見つかる)。

 ここでトンボが円網にかかったら食べてしまえばいい、と思ったら大間違い。トンボやスズメバチなどは代表的な肉食昆虫なので、獲物を噛み砕くための強力な大顎を持っているのだ。ジョロウグモがトンボやスズメバチを仕留めようと思ったら、その大顎が届く間合いに踏み込まなくてはならない。まともに闘ったらよくて相打ちである。さらに、トンボやハチの翅は横糸にべったり張り付いてしまうから、大型のガのように放っておけば鱗粉を残して飛び去ってくれるということもない。そうなると、獲物が疲れ切ってしまうまで待つか、間合いの外で円網の糸を切って落としてしまうしかない。というわけで、ジョロウグモとしてはトンボやスズメバチの方で円網を避けて欲しいはずだ。

 そこで問題になるのがトンボの視覚である。作者は人間なのでトンボが世界をどのように見ているのかはよくわからないのだが、昆虫の色覚は基本的に紫外線からオレンジ色辺りまでらしいので、昆虫の眼でもジョロウグモの黄色い円網はギリギリで見えるのではないかと思う。そして、トンボやスズメバチの大きな複眼だと小型昆虫よりも遠い位置で円網の存在に気が付いて回避できるのに対して、小型昆虫は回避が間に合わなくて円網にかかってしまうのだろうというのが作者の推理である。もしもこれが間違いであることを証明できたなら嗤っていただいてけっこうだ。

※宮下直編『クモの生物学』には「最近、Craigら(1996)は、アメリカジョロウグモ Nephila claipes は明るい環境では黄色い色素をもった網を張り、それが昆虫の捕獲効率向上につながっているということを明らかにした」とも書かれているのだが、第一に、これはアメリカジョロウグモについての論文であって、日本産ジョロウグモでも「明らかにした」わけではない。第二に、誘引説教原理主義者である「Craig」の名前が出てくる時点でこの論文は信用できないのは明らかだ。


 午後8時。

 まだこんな時間だというのに、お尻が作者の小指サイズになってしまったオニグモのお向かいちゃんが円網を張っていた。その直径は約40センチ。横糸の間隔も狭い。体長10ミリほどのキンちゃんとほぼ同じ円網である。これはどう見ても「小型の獲物が食べたいわ」というサインだった。ここで過去形にしたのは体長40ミリほどのイナゴをあげてしまってから気が付いたからである。

「認めたくないものだな。自分自身の若さゆえの過ちというものを」〔何を言うか、年寄りのくせに〕

 それでも、硬い外骨格を持つコガネムシはあげなかった作者である。

 オニグモのキンちゃんには体長20ミリほどのガをあげた。するとキンちゃんはガに飛びついて牙を打ち込み、少し捕帯を巻きつけると、翅を押さえ込みながらのDNAロールでガを棒状に成形していくのだった。見事なオニグモ流のぐるぐる巻きである。なお、この子の円網の中央にもクモが通り抜けられるくらいの穴が開けられていた。


 9月14日、午前8時。

 ナガコガネグモの妹ちゃんはちゃんとした丸い円網に張り替えていた。直径はほぼ同じだから、上側の半円を追加したような感じだ。

 お姉ちゃんはちょうど食べ終えたイナゴを捨てるところだった。「わーい、お腹いっぱーい」とでも言いたげにお尻をスイングしている。

 ジョロウグモの箱入りちゃんの円網はもつれてひも状になっていた。どうやら引っ越したらしい。コペルニクスになるつもりはなかったようだ。

 黄色い円網のアリの木ちゃんも姿を消していた。秋はジョロウグモにとっては引っ越しのシーズンなのだ。

 スーパーの周辺の体長10ミリクラスのジョロウグモ4匹と12ミリほどの子2匹の円網を見てまわると、すべて無色だった。これくらいの体長だとツツジを背にする形で円網を張れるから背後のツツジが見える大型昆虫は避けてくれるんだろう。

 体長12ミリと10ミリのジョロウグモに体長10ミリほどのかなり衰弱したガをあげると飛びついたのだが、別の12ミリの子には無視された。ジョロウグモは空腹でない時には狩りをしたがらないのである。そのため、どれくらい空腹かというノイズを取り除かないことには有意なデータにならないのでやっかいだ。


 午後9時。

 体長15ミリほどに成長していたオニグモのキンちゃんに25ミリほどのかなり衰弱したハチをあげてみた。するとキンちゃんは、ためらいがちに歩み寄って捕帯を巻きつけ、ハチの下側で円網に穴を開けてバーベキューロールに……持ち込もうとしたらしいのだが、上側の糸がたくさん残っているので回転させられないのだった。「3本の矢」の逸話にもあるように1本1本の糸は弱くても、25ミリ分の横糸がまとまるとかなり切れにくくなるのだろう。それでも最後には横糸を引きちぎって強引にバーベキューロールを仕掛けていくキンちゃんだった。もう一度同じ獲物をあげたら、ちゃんと上側の糸も切ってからバーベキューロールに入るんだろうか? 


 9月15日、午後2時。

 黄色いオオハンゴンソウ(北アメリカ原産の外来種だそうだ)や赤いヒガンバナが咲いている。

 今日も光源氏ポイントへ行ってみた。2日前に交接していたジョロウグモは円網を離れて灌木の葉の下にいた。

 別の体長25ミリほどのジョロウグモには30ミリほどのイナゴをあげてみたのだが、寄ってこない。そこで改めて体長5ミリのガをあげると、即座に飛びついて牙を打ち込むのだった。大きな獲物と小さな獲物があった場合には、より安全に仕留められる小さな獲物を優先するというわけである。もちろん、大きな獲物でもよほど空腹だとか、獲物が力尽きていると判断した時には手を出すんだろうと思う。

 ここには体長で3倍はありそうな茶色のカマキリを仕留めたナガコガネグモもいた。遠い間合いから捕帯を巻きつけられたらカマキリも無力なのだ。

 ナガコガネグモの卵囊もあった。珍しく高さ1.8メートルくらいの高さの木の枝に取り付けられている。ほぼ球形で直径は15ミリ弱くらい。薄い茶褐色で縦縞が何本か付いていた。いつも思うのだが、この縦縞はどうやって付けるんだろう?

 今日のお土産は体長30ミリほどのガを1匹とイナゴが11匹である。稲刈りが終わったばかりの水田の脇の草地には大量のイナゴが逃げ込んでいたのだ。


 午後7時。

 オニグモのお向かいちゃんにガをあげた。素早くガに駆け寄ったお向かいちゃんは翅を抱え込むのには失敗したものの、ガが羽ばたけなくなるまで胸部辺りに牙を打ち込んだままにしていた。

 ガにはワシやタカのように獲物をぶら下げたまま飛ぶ能力は必要ない。自分の体重プラス花の蜜程度の重さを支えられれば十分であるはずだ。円網に爪を引っかけて踏ん張るクモを引きはがすようなことはできないのだろう。円網にかかったガが生還するのには、牙を打ち込まれる前に飛び去るしかないのだな。

 ナガコガネグモ姉妹にはそれぞれ体長30ミリほどのイナゴをあげてみた。すると、妹ちゃんは何の問題もなく捕帯を巻きつけたのだが、お姉ちゃんの円網の糸は次々に切れてイナゴが落ちていく。それでもお姉ちゃんは、円網の枠糸の下まで落ちて、ほとんど一束の糸だけでぶら下がっているイナゴに縦のバーベキューロール、さらにDNAロールを仕掛けるのだった。

 なぜこういう違いが出たかというと、お姉ちゃんにあげたイナゴは少し大きめだったということもあるのだが、それよりも横糸の間隔が妹ちゃんの円網より広いのが問題だったのだろうと思う(その分、面積は大きいが)。横糸の間隔が広くなると、同じ大きさ重さの獲物がかかった場合でも1本1本の糸が支えるべき重量が増える。妹ちゃんの円網はイナゴを受け止められるのに対して、お姉ちゃんのそれはハエやトンボのように体重の割に翅の面積が大きい獲物向きなのだろう。

 これはいいとか悪いとか言えるような問題ではない。横糸の本数が同じなら、その間隔を広げて円網を大きくした方が獲物がかかる確率は上がるが、その代わりに重い獲物や大暴れする獲物には耐えられなくなるというだけのことだ。お姉ちゃんは主にハエやカのような小型の飛行性昆虫を狙うクモ生を送ってきたのではないかと思う。あるいは、円網の面積を変えずに横糸の本数を増やすとなると、その分多くの原料タンパク質が必要になるから、タンパク質を節約するために横糸の間隔を広げていたのかもしれない。

 しかし、スーパーの東南の角には作者があげるイナゴが豊富なのである。大型の獲物が多い環境では横糸の間隔を狭くするのが正解だ(人為的な環境変化ではあるが)。つまり、現在の東南の角では妹ちゃんの方が有利になるわけだ。このままだと妹ちゃんはお姉ちゃんよりも早くオトナになってしまうかもしれない。あるいは、お姉ちゃんがイナゴの多さに気が付いて、横糸の間隔が狭い円網に替える可能性もあるんだろうかなあ……。


 9月16日、午前0時。

 オニグモのお向かいちゃんはまだ横糸を張り始めたばかりだったのだが、これ以上待ってもいられないのでイナゴをあげてしまう。お向かいちゃんは慎重にイナゴに近寄ると、脚先でチョンチョンしてから捕帯を巻きつけ始めた。


 午前5時。

 サクラの葉が散り始めている。

 お向かいちゃんはまだイナゴをもぐもぐしている。今夜も円網を張り替えるようなら、またイナゴをあげようと思う。

 ナガコガネグモのナガコちゃんと20ミリちゃんは姿が見えなかった。このタイミングだと産卵だろうと思う。

 ナガコガネグモ姉妹もイナゴをもぐもぐしている。

 新顔の17ミリちゃんには冷蔵庫の中で力尽きていたハエをあげたのだが、円網を揺らされてしまった。この子はとにかく食が細いのだ。


 午前10時。気温22度C。

 ナガコちゃんと20ミリちゃんが帰ってきていた。お尻も細くなっているから産卵したんだろう。明日の朝、雨でなければイナゴをあげよう。


 午後1時。

 ジョロウグモ用にイナゴよりも小型で細身のバッタを4匹捕まえて光源氏ポイントへ向かう。

 光源氏ポイントでは、昨日円網を張っていなかった体長25ミリほどのジョロウグモ(9月7日にガを食べなかった子)がお尻を水平にして頭胸部だけを真下に向けていた。完全脱力ポーズである。ものすごく具合が悪そうなのだが、できることは何もない。

 作者の手の届くところにいるジョロウグモたちには順にバッタをあげていったのだが、獲物に気が付いてもなかなか寄ってこない。たまに近寄って来ても、脚が届く間合いに入る前にホームポジションに戻ってしまう。そこで、だいぶ数が減ってきた体長5ミリほどのガをあげると、飛びついて来るんだ、これが。それでもしばらく放っておくと、雄と一緒にバッタを食べていたりするから「この獲物は弱い」と確信できれば仕留めるということなんだろう。

 そんな中、割と積極的な6本脚の子もいた。この子はバッタに近寄ると、その前脚に牙を打ち込んだようだった。これは素晴らしい。ジョロウグモにとってバッタの仲間が危険なのは強力な大顎と脚力だろう。脚を噛み切ってしまえば、より安全に仕留められるわけだ。今のところ観察例はこれ1回だけだが、これはジョロウグモ一族に代々伝えられてきたバッタ用の奥の手なのかもしれない。〔んなわけあるかい!〕

 そんなことをしていて、ふと気が付くと完全脱力していた25ミリちゃんが脱皮の最中だった。すでにお尻は抜けているらしいのだが、F-35戦闘機のキャノピーのように前方ヒンジで頭胸部の上面が開いて、そこから抜け出すように脱皮するようだ。トンボやセミのように胸部の背面が縦に割れて、そこから体を抜き出すわけではないのだな。

 今は脚を上に伸ばした体勢になって脚を抜こうとしているようだ。25ミリちゃんが力を入れる度に新しい脚が抜けて来る。完全に脚が抜けてもお尻からしおり糸を引いているので落下することはないようだが、さすがに外骨格が硬くなるまではだらーんと脱力したままでいるしかないらしい。

 そしてこの子の側には雄が1匹寄り添っている。ということは、日が暮れる前に交接するんじゃないだろうか? しばらくロードに乗って暇つぶしをしていよう。


 午後4時。

 25ミリちゃんと雄が交接していた。しかしというか、案の定というか、この間のカップルのように雄がガッツンガッツンするということはない。そっと優しくおへそにキスである。やはりあのガッツンガッツンはアブノーマルな交接だったんだろう。ああっと、交接が下手な雄がうまくいかないことにいらついていただけという可能性もあるな。

 しかし、これでめでたしめでたしとはならなかった。体長25ミリほどの別のジョロウグモが体長30ミリほどのよく太ったガを仕留めていたのだ。さて困った。「ジョロウグモは小物狙い」仮説の危機である。

 うーん……ガの脚はバッタのように強くないから、力尽きて羽ばたけなくなれば大物でも仕留められるのだろうという説明で納得してもらえるだろうか。※ガの翅には鱗粉が付いているので、素早く駆け寄って牙を打ち込んでしまう必要がある。すべての円網を張るクモはそれを承知しているのらしい。


 午後7時。

 オニグモのお向かいちゃんが円網で待機していたので体長10ミリほどのガ2匹をあげようとしたのだが、一匹目が円網から外れて落ちてしまった。どうも横糸が劣化しているのらしい。しょうがないので、ガを拾ってお向かいちゃんが抱え込むまでつかんだままでいようとしたら、お向かいちゃんに指ごと抱え込まれてしまった(反射神経も衰えている作者である)。思わず手を引いたのだが、お向かいちゃんも驚いたらしくて円網の反対側まで逃げてしまったのだった。幸いお向かいちゃんはすぐに戻ってきてくれたのでガに逃げられることはなかったのだが、あぶないところだったよ。〔いつかは咬まれるぞ〕


 9月17日、午前6時。

 ナガコちゃんにイナゴをあげた。産卵おめでとう。

 ナガコガネグモ姉妹はまだイナゴを食べ終えていなかったが、お姉ちゃんは新たに体長5ミリほどのバッタも仕留めたらしい。さすがお姉ちゃん。

 20ミリちゃんは東へ3メートルくらいの場所に引っ越したらしいのだが、まだ縦糸を9本しか張っていない。産卵した直後に引っ越しとはまた無茶なことをしたものだが、これも作者がイナゴをあげたせいなんだろうかなあ。ナガコちゃんはいくら獲物をあげても引っ越ししないのだが……。


 午前11時。

 体長20ミリほどのジョロウグモを見つけたので、余っていたイナゴを弱らせてからあげてみた。するとこの子は、いったん円網の端まで退避したものの、しばらくするとイナゴに歩み寄って第一脚でチョンチョンして、また距離を取った。そこでまた様子を見てから、また近寄って今度はチョンチョンの連打。それからやっとイナゴの腹部に牙を打ち込んだのだった。


 午後1時。

 光源氏ポイントへ行ってみた。

 昨日交接していたジョロウグモの25ミリちゃんはまだ円網を張っていない。雄も相変わらずお腹の辺りにいるのだが、交接しようというのではなく、他の雄に交接させないためにそこにいるような気がする。だいぶ外骨格が硬くなってきたらしい25ミリちゃんの第三脚で押しのけられたりしているのだが、しばらくするとまたお腹に近寄っていくのだ。

 そこでまた考えたのだが、ジョロウグモの第三脚が他の脚よりも短いのはしつこい雄を押しのけるためなのではあるまいか? 腹面に密着している雄を押しのけるのには長くない脚の方が便利だろう。〔んなわけ……ないとは言えないかもしれない〕

 冗談はともかく、比較的原始的とされているハラフシグモ科やトタテグモ科、ジグモ科のクモ以外は基本的に第三脚が短いようだから、第三脚だけが短いことには何かしらのメリットがあるんじゃないかという気がする。

 体長25ミリクラスのジョロウグモ4匹には25ミリほどの細身のバッタを弱らせてからあげてみた。その結果は、だいたい10分から30分後に、そろそろと近寄って第一脚でチョンチョン。そこでいったん距離を取り、もう一度近寄ってチョンチョンの連打。それからやっと牙を打ち込んだようだった。どうやらジョロウグモは大型の獲物が円網にかかった場合には、獲物がどの程度の大きさで、どれくらい暴れるかを慎重に判断してから仕留めるのらしい……と言えるほど話は簡単ではなかった。

 20ミリほどの子には少し余計に弱らせたイナゴをあげたのだが、この子はすぐに近寄って、何回かチョンチョンしただけで牙を打ち込んだのである。空腹などの事情で少々危険であっても積極的に仕留める場合もあるのかもしれない。

 生きるためには食わねばならないが、食うために命を落としてしまったのでは本末転倒というものだ。ジョロウグモは大型の獲物に対しては高度な判断を要求される生き方をしているクモなのだろう。体長の4分の1以下の獲物とか、ガのような明らかに危険度の低い獲物なら躊躇せずに飛びついて牙を打ち込むようだが。

 ここには体長2ミリほどのナガコガネグモの幼体もいた。これは……間違って卵囊から出てしまった子だとしか思えないんだが……。平均気温が10度くらい上昇すれば、こういう子が繁殖し放題になるだろうから、そういう環境の変化が起こった場合のために形質のばらつきの範囲を広げてあるということなんだろうか? 多数の卵を産むのならそういう戦略を採ることもできるはずだ。それにしても少数の子を大事に育てるヒトには理解しがたい生き方である。作者は雄だし。

 なお、光源氏ポイントにはトノサマバッタが現れ始めている。こんな大きなバッタを仕留められる子はいるかなあ……。


 午後8時。

 オニグモのお向かいちゃんが横糸を張っているところだ。円網の直径は約80センチ。完全復調である。後でイナゴをあげよう。

 キンちゃんは住居の入り口でうろうろしている。本格的に寒くなる前にハエを1匹くらい食べて、その後は来年の5月頃まで冬休みという計画なのかもしれない。休眠して越冬する能力を持っているならそういう生き方も可能だろう。というか、クモはもともと夜行性で、寿命が短くなることと引き替えに24時間営業を始めたのがナガコガネグモやジョロウグモなのかもしれない。



     クモをつつくような話2021 その7に続く

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