【自殺予防短編小説】僕は山を登り、山頂で壁を殴る。 〈二次創作7〉
主人公の"僕"が、もしあなたにとって大事な人(恋人、家族、友人、好ましいと思う人、すべてに当て嵌めて下さい。)だったとしたら?
途中、そう思って、読んで下さい。
一車線の舗装された道を軽自動車で、対向車を恐れながらのろのろと進み、ようやく駐車場の看板を見つけた時は、ほっとした。
低山とはいえ、山開き前の時期とあって、駐車場に先客は誰もいない。
僕は、登山口と書かれたペンキの剥がれかけた看板の前に車を停める。ギアを引く音が、やけに耳に響いた。
車のドアを開けて、周囲の音や空気を確認する。座席に座ったまま、大きく息を吸い込む。
車の外に出て、ドアを閉める。めこん、と中途半端な音がして、もう一度強くドアを閉める。
登山靴の紐をきつく縛り直し、どきどきと早撃ちする心臓を落ち着かせようと、もう一度ゆっくり息を吸った。
そして、何度か深呼吸を繰り返した。
山に登るのは、何年振りだろうか。
かつては、二十キロ以上の荷物を背負い、何日もかけて縦走をしていたというのに、今の僕はペットボトル二本と少しのおやつと念のための雨ガッパと絆創膏が少し入っただけの小さなリュックで登れる山に緊張している。
鳥の声が聞こえる。水の落ちる音が静かに聞こえる。
僕は、両腕をぐるぐると扇風機のように回し、足首をほぐして、ふくらはぎをそれぞれ伸ばしてから、ゆっくりと歩き出した。
低山とはいえ、山は山だ。
アップダウンのない登山道は、ひたすら登りだった。
通常三十分もあれば、山頂に着くルートだ。
午後になった時間の日差しは、真上よりは少し斜めにさしてくるが、正直空を見上げる余裕は無い。
三分歩いては、息を整え、また三分歩いては息を整える。
こんなに疲れるものだったろうか。
散歩感覚でしか登っていなかった山に、ここまで必死になるとは。
僕は石段で整備された道の最後の一段を登り終え、木陰で水分補給をすることにした。
風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
誰もいない。誰も来ない。
僕は、ペットボトルの蓋を開け、左手でそっと口元へ運んだ。
今日は痺れていない。
つい、いつもの感覚で確認してしまった。
僕は左手に持ったペットボトルを右手に移してから、左手を開いたり閉じたりして、感覚を確かめた。
今朝も、昼食時も確認して大丈夫だった。
左足も動いている。
念の為、左足の指先を靴の中で動かしてみる。厚手の靴下で動きは悪いが、大丈夫だと思う。
僕は息を吐いた。
十分ほど休んでから、また登り道をひたすら歩く。
階段の整備も出来ないくらいの急な角度だ。
ゆっくりと慎重に進む。
時々、手をついて岩に触れながら、登る。
急に木陰がなくなった。
眩しさに目を眇めながら、風の吹いてくる方に顔を向けると、遠くに街が見えた。
青く霞んだ街並みは、はっきり見ようとすればするほど、ぼやけて見えた。
それなりに登ってきたらしい。
僕はまた木陰に入るところまで進むと、また休憩をとった。
僕の左手と左足は時々感覚が遠くなる。
たぶん、その辺の医者に見せても異常は無いと言われるだろう。
最近、時々起こるようになった。
街へ出かけて、人のいる中で似た姿を見かけたり、ふとした拍子に思い出したりした時に、左手足が強ばる。
妻によると、僕の左手足はそういう時、とても冷たくなっているらしい。
原因は分かっている。
かつて勤務していた職場の左隣の席の人だ。
僕は、昔から要領が悪い。
よく言えば真面目。けれど、手を抜けるところを見つけられないので、どうしても人よりも一生懸命になって、疲れてしまう。
そんな僕の趣味は一人登山で、つくづく不器用だなと自分でも思っていた。
その姿を好意的に捉えるか、腹立たしい対象として捉えるかは人による。
その左隣の人は、僕を腹立たしい対象と捉えたようだった。
最初は書類を机に投げてくるくらいだったが、だんだんとエスカレートしていった。
舌打ちが聞こえるのも左。
受話器を乱暴に置いてから、僕へ罵声を浴びせてくるのも左。
僕があまり関わってないはずの仕事のミスもクレームも、全て流してくるのは左。
誰もいない残業の時間に、不意に足で蹴ってくるのも左。
僕の左からはいつも悪意が流れてきていた。
やめて下さい、と言っても、オフィスチェアの肘置きと背もたれを何度も蹴り付けてくる音に掻き消された。
そんな左隣の人は、周りには好人物に見えていたのだろう。
僕がその状況に耐えかねたある日、勇気を出して、左隣の席の人の同期へ相談をしに行くと、
「お前、何かしたんだろ?」
と、言われた。
その瞬間、胸が詰まり、僕はもう何も言えなかった。
僕は、僕がそうされてしまうだけのことをする人間だと思われているのか。
相手が理由なくするはずがないと。
何故、相手だけを正当化するのだろうか。
"僕が間違っているから仕方ない"と言われたと一瞬のうちに僕は理解して、それ以上の言葉が出なくなったのだと気が付いたのはつい最近のことだ。
僕は何も言えず、週末は山へ登り、疲れ切った体で泥のように眠ることだけを楽しみにして生きた。
妻は、休みの日くらいは家でゆっくりすればいいと言ってくれたけれど、追い詰められていた僕は、妻に何か酷い事を言ってしまいそうで、家には居られなかった。
まだ結婚して二年目。
これから、きっと家族も増えていくのだ。
僕が働く場所を確保して、家族を守っていかなければならない。
それだけが心の支えだった。
支えのはずだった。
「今度、係長だってさ。」
冬のシーズン中、山へ登りに行けないまま、年度末のスケジュールをこなし始めていた頃、突然その声が左隣から聞こえた。
僕は左側を見上げると、室内灯を背にした左隣の人が口元を緩めた顔で僕を見下ろしていた。
「お前は変わらないから俺の部下だな。しっかり働けよ。」
その人は、そう言って僕の左肩を叩いた。
それからのことを詳しく思い出せない。
出勤はしていたのだと思う。
休日は、とにかく家でじっとしていた。
ただ、ある朝、どうしても体が動かなくなり、布団の中で汗をかきながら妻に欠勤の連絡を職場に入れてもらった。
妻は医者に行こうと言って、僕を起こそうとしたが、まったく力の入らない僕の体は、妻の腕を疲れさせただけで終わった。
崩れた態勢になった僕の体を仰向けに直し、布団をかけて、ぽんぽん、と僕のお腹辺りを叩くと妻は仕事へ向かった。
少し目元が赤かった。
そのまま、一度眠り、目を覚ますと斜めの赤い日差しの当たる時間帯になっていた。
起きようとすると、体はあっさり起こせた。
トイレへ行って水を飲み、また布団に戻ろうとすると、携帯が鳴った。
着信は、会社からだった。
僕は着信音が切れるまで、じっと着信を知らせる画面を立って見ていた。
音が鳴らなくなり、静かになると、僕はテレビをテレビ台ごと動かし始めた。
テレビ台を挟むようにあるのは、両方とも僕の背よりも高い本棚で、妻と僕が学生時代から集めている小説から漫画まで、たくさんの本が隙間なく詰まっている。
その間にあるテレビ台をどかし、一メートルほどの空間を空けると、今度はベランダへ行き、洗濯物を外すと、物干し竿を室内に運んだ。
本棚の上にある地震対策の突っ張り棒の間に物干し竿を滑り込ませて、両側の本棚で支えるようにして、テレビ台の空いた空間の上に物干し竿を通した。
僕はネクタイを二本用意して、物干し竿に引っかける。
その真下になるように台所から踏み台を持って来ると、踏み台に乗って、ネクタイを輪に結んだ。固結びで、二回結んだ。
輪にした後、物干し竿に密着させるためにくるくると竿とネクタイが触れるところで、右周りに回した。
首を吊った後に、くるくる回るのかなと、思った事だけは妙に覚えている。
そのまま、僕はネクタイに首を通し、首元にあてると、足元の踏み台を前へ蹴った。
これで、死ねる。
数十分の苦痛なら、耐えられる。
それで楽になるなら。
閉じた瞼の裏は、血の色なのか、夕陽の色なのか、分からないけれど、とても赤かった。
ばきん。
一瞬の窒息感の後、僕は足をついていた。
驚いた拍子に足を滑らせ、尻餅をつく。
がたがたがたん ごん
右後ろを見ると、物干し竿の先が見えた。
冷えた両手で首元を圧迫する二本の合わさったネクタイをとり、頭を通して外すと、ネクタイの固結びをしたあたりに、物干し竿の折れた部分が食い込んで外れそうになかった。
***
妻が帰宅して、灯りをつけて、僕を見つけても、僕は座ったまま動けなかった。
死ねなかったことがショックで、それと同時に自殺をしようと首を吊ってしまったこともショックだった。
今ならどっちがしたいんだよと、突っ込めるが、当時の僕には両方とも必要で、両方とも嫌だった。
座ったまま動かない僕と、その部屋の状態を見て妻は、
ただ僕を抱きしめて、泣き出した。
何か言っていたのかもしれない。
でも、それは言葉として僕の耳には届かなかった。
ベランダ近くに投げ出されたままの洗濯物をすべて洗濯機に放り込み、折れた物干し竿をベランダに出し、テレビ台を元に戻すと、妻は動かない僕を布団にまで引っ張り、横たわらせた。
朝は、全然妻の力では、僕を動かせなかったのに。
それから、妻は急いでパジャマに着替えると、僕の右手を胸にぎゅっと強く抱きしめた。そして、そのまま一緒の布団に入ると、僕の右腕を胸元に抱きこむようにした体勢のまま、朝まで僕と同じ布団の中、横たわっていた。
淡い電灯の部屋で時々、僕が無意識にため息を吐くたびに、妻はぎゅっと胸元で僕の右腕を抱きしめてから、僕の顔を右手でそっと撫でた。
息をしているのか、確かめるように。
確認をした後、その右手を僕の肩へ回し、その度に、押し殺すようなくぐもった声をあげて、泣いていた。
僕の右肩は、妻の涙で朝にはぐっしょりと濡れていた。
翌日、朝からずっと僕に触れたまま、離れようとしない妻に付き添われ、夕方近くになってようやく、予約なしで診察出来るメンタルクリニックへ向かった。
そして、僕のしばらくの入院と、会社への休職が決まった。
入院するまでの間、妻は仕事を休んで僕から片時も離れようとしなかった。
妻はトイレに入るのも命懸けのようで、その時は少し笑ってしまった。
***
結局、すべての手続きを妻に任せてしまう形で、僕は退職した。
妻には、一度だけ謝った。
それ以上の謝罪は、すべて妻に封じられた。
「もう言わなくていいから、絶対生きて。一緒に年をとって、おじいちゃんおばあちゃんになりたいの。」
そう言って、何度も泣かれてしまうと、僕も謝ることは出来なかった。
あれから二年近く経つ。
僕はまだ働けずにいる。
月に一度の通院と、毎日の服薬と、動ける時の家事。
それだけで、朝起きて夜に眠ってしまう。
妻には謝る言葉を使ってはいけないので、「ありがとう」をその時、その時で、伝わるように、色々な言葉で口にしている。
「子どもがまだ居ないから大丈夫。私が稼いで養ってあげる。」
そう言って笑う妻を僕は失わなくて良かったと、最近になって心から思っている自分に気がつくことが出来た。
僕も、君を失わなくて、良かった。
今日は朝に洗濯物を干した時から快晴で、山に登った時の楽しさを思い出してしまい、ひとり、家でずっとそわそわしていた。
ひとりで昼食を食べ、午前中に済ませた夕飯の仕込みを確認してから、車で三十分以上かかる山へ登りに来てしまっていた。
だが、この体力のなさは、予想外だった。
急な斜面を登る感覚を楽しいと思うのが一割なら、残りの九割は体の悲鳴だった。
最初は、左手足の違和感を心配していたが、頂上に近付くにつれて、肺の方が心配になってきた。
息を乱しながらも、登ることはやめず、何度目か分からない休憩を斜面横の空きスペースでとっていた。
ぜえはあと、静かな登山道に僕の呼吸音だけ大きく響く。空を見上げると、本当に雲ひとつない快晴で、なんで山へ行こうと思ったんだろうと、僕は口をあけて、空を眺めた。
最近の僕のスケジュールは、体が動けば家事と散歩で、動けない時はひたすらスマートフォンでウェブ小説を読むことだった。
パソコンの前に座ることが辛い時でも、片手で画面の見られるスマートフォンは、寝っ転がっても見ていることが出来る。平日家にいる時は、僕の一番の相手だ。
そのスマートフォンで、よく見ているウェブ小説のサイトで、ランキングに入っていたエッセイが気になり、読んだのが一昨日だ。
内容は、アンガーマネジメントで壁を殴る方法についてだったが、僕には驚きの連続だった。
そもそも、僕は壁を殴るという発想さえ無かった。
殴れば痛い。
それはそうだ。
それでも、殴れば痛いのが分かる。
僕は、心を壊す前に、壁を殴っていれば良かった。そして、殴った拳の傷を知るべきだった。
心の傷は、可視化出来ないから。
僕の心の傷は、他の人にすればどうでもいいことだ。
けれど、僕が傷つくことで、僕の妻は誰よりも傷ついた。
退院してからも、一日に何度も連絡をしてくるくらいに。
僕はちゃんと家に居るよ、と返しても、二回ほど、仕事を一時間早退して帰ってきてしまったり。
僕は、自分の浅はかな行動をだんだんと深く後悔していった。
本当に、壁を殴っておけば良かった。
いまさらだけれど。
その後悔と反省と共に、愚かにも壁を殴ってみたいと、好奇心を抱いてしまった。
しかし、どんなに素材を確認した上であっても、家で殴ることは出来ない。
妻に心労をかけてしまう。
ようやく、寝込まずに一日を過ごすことの方が多くなった僕が壁を殴っていたら。
想像するだけで、だめだ。
やってはいけない。
それならば、外に行けばいい。
人の居ないところへ行こう。
そう思っていたところの快晴だった。
僕は山を登り、山頂で壁を殴る。
***
行きの行程だけで、ペットボトルを一本飲み干して、すっかり動きの鈍くなった太腿を騙し騙し、交互に動かし続けて、僕は山頂に着いた。
額から、こめかみから、首筋から汗がだらだらと落ち続ける。
上半身は汗でびっしょりで、背中のリュックがやけに重く感じた。
けれど、無事に山頂まで登る事が出来た。
「イェス!」
思わず声を出すと、山頂の石碑の向こうに立つ先客と目が合った。
使い古された登山服を着て、コップやコッヘルをぶら下げた、年期の入った色褪せたリュックを背負い、トレッキングポールを両手に持った老人だった。
僕は恥ずかしくなりながら、そっと頭を下げて、
「こんにちは。」
「こんにちは。」
と、先客の老人と挨拶を交わした。
息を整えるために、老人のそばを通り過ぎてから、木陰へと向かう。
低山であるので、山頂でも木々は多く、僕の背よりも大きい石の鳥居と祠もある広場があったりする。
山頂は、境の尾根近くでもあるため、木々に挟まれた一本道がすぐ目の前にあった。その一本道を辿っていくと、別の登山口まで降りることができる。
山頂に居る老人は、そちらの登山口から登って来たのだろう。
僕は車で来ているので、元の登山口へ降りなければならないが、体力がついたら、そちらへ降りてまた登るのもいいかもしれないなと思った。
山を撫でるように風が頭上の木々を響かせる音を聞きながら、僕は手頃な石に座り、リュックを下ろし、中からおやつを出して食べた。
びっしょりと汗をかいた背中を風が冷やしていく。
もぐもぐと好物のチーズ入りかまぼこを食べる。
犬歯で穴を開けて、そこからチーズかまぼこを食べるのは、山に登り出してから、ずっと僕がしていたことだ。
これなら、歩きながらでも食べられたから。もう歩き続けることも出来ないくらいに、体力は落ちてしまっているけれど、チーズかまぼこの食べ方は、今の僕でも出来る。
もう一本のペットボトルを開封して、喉を潤す。
口の中に残ったわずかなチーズを喉の奥に流し込む。
体が健康だった頃、晴れた空の下、山頂でお湯を沸かして飲んだコーヒーの美味しさと楽しさを思い出した。
また、あの山に登って、コーヒーを飲みたい。
それは、僕が首を吊った後に、漠然とした未来へ向けて持った、初めての希望だった。
服はびしょびしょのままだったが、体の汗もひき、息も整い、先客の登山者の老人が一本道の先の登山口へと下山して行くのを黙礼して見送って、暫く。
山頂には、僕だけになった。
よし、壁を殴ろう。
僕は、木陰から出て、鳥居より手前にあるコンクリートの壁で出来た東屋へ足を向ける。
壁と言っても、幅は木製の柱と柱の間にある一メートルもない壁だ。しかし、僕の拳を当てるには十分な大きさだ。
念の為、壁をペタペタと触り、軽くノックするように叩き、手触りと強度を確かめる。
よし、いける。
僕は壁の正面に立ち、ゆっくりと周りをもう一度確認する。
人影はなく、快晴の空からの直射日光が僕の背中を炙る。
僕は壁に向かい、両足の親指あたりに力を込めると、
左の拳で思いっきり壁を殴った。
そして、意識して、叫ぶ。
「〜〜〜っああああぁ〜っ!」
痛い。
ちょっと中指の根本の骨の出っ張ったところから、血が出てる。
これ、明日になったら鬱血して色が変わると思う。
痛い。
今度は拳を平にして、壁の面を打つように殴る。
何度も何度も。
やっぱり、痛い。
いつもの手足が冷たくなって感覚が遠くなるのと違い、痛いけれど、確かに感覚があった。
何度目かで、壁に皮膚を擦ってしまい、切り傷が出来て血が出たので、殴るのをやめた。
絆創膏を切り傷の出来た中指の第二関節の下に巻き、手の甲を上にして、左手を開いた。
これが、僕の傷ついた心だ。
すでに、青あざは出来て、血も滲んでいる。
指の第二関節は真っ赤だった。
特に人差し指、中指、薬指の第二関節から指の根元までのところがひどい。
なんというか、僕は本当に壁を殴るのが下手だな、と思った。
思ってすぐに、なんだそれ、とひとりで吹き出してしまった。
吹き出してから、壁のある東屋を離れ、山頂から一番街を見渡すことが出来る開けた場所へと移動した。
風が正面から吹き付けてくる。
陽射しは痛いほどに、眩しい。
見上げれば、快晴の青い空。
太腿の横に下ろした左手が、ずきずきと痛む。
下にある街を眺めれば、登る途中で見た時よりも青くて、じっと目を凝らしていると、ゆらゆらと揺らめいて見えた。
***
帰り道の下りは、登った道と同じだと分かった上で、急な角度に耐えつつ、慎重に降りていた。しかし、予想以上に足の筋肉が疲れていることを僕はすぐに理解した。時々ぷるぷると太腿のあたりが震えているのだ。その震えを感じながら、斜面を降りていくと、じわじわとふくらはぎへの疲労も感じ始めた。
最後まで油断してはいけない。
無事に下山してこその、登山。
たとえ、低い山だとしても。
ひとりで登山ばかりしていた時、怪我だけはするまいと、とにかく臆病な登山を心がけていたことが、疲れ果てた体を最後まで支えてくれた。
足の筋肉をぷるぷるさせながら、石段で整備された道まで戻る。登りと違って、たいして汗もかかずに来ている。
行きには触りもしなかった、石段に沿って設置されている鉄製の手摺りに右手を滑らせながら、階段を一段一段降りる。
左手の痛みをすっかり忘れていた。足の筋肉の方に全ての注意を向けていたからだろう。下山で足を挫いても、登山口まで誰も運んでくれないのだ。慎重に歩みを進めるしかない。
階段も降り切って、無事に軽自動車のある登山口まで戻る事が出来た。
僕は、ほうっと息を吐き、この山に来たもう一つの目的である湧き水を汲みに、もう少しだけ歩き出した。
駐車場のすぐ横にある湧き水の取水口の前に震えてる足を運ぶ。水が流れ続ける塩ビパイプの前に跪き、空になった二本のペットボトルを軽くゆすいでから、溢れるまでそれぞれ水を詰める。
キャップを締めて横に置き、空いた両手で湧き水を受けて、手を冷やす。
少し左手の傷に染みる。
たぱたぱと水が僕の手を通り、苔にまみれた手水石へ落ちる。
冷たさがじわじわと僕の手の感覚を奪っていく。そのまま、両手の感覚が無くなるまで湧き水で冷やし続けて、ぱっぱっと手を振り続ける。
じんわりと指先にまで感覚が戻ると同時に、左手が痛い。
妻には、山で転びそうになってかばったらこうなった、と言って納得して貰えるだろうか。どういう転び方をすれば、こんな左手になるのだろうか。
最後は、妻に問い詰められて、白状してしまいそうだな。
自傷行為だと、医者に連れて行かれるだろうか。
一回で殴るのをやめておけば良かったなと、妻の事を思い出して反省した。
でも、一度殴って確かめたかった。
どれだけ痛いのか。どれだけ僕の左手は、傷付くのか。それは、本当に傷になるのか。
そして、山頂で壁を殴って分かった。
やっぱり、僕は傷ついていた。
全然平気じゃなかった。とても、とてもとても傷ついていたのだ。
またしばらくしたら、寝込むのかなぁと考えながら、片手に一本ずつペットボトルを持って立ち上がった。
このペットボトルに入った湧き水を沸かし、明日は休みの妻のためにコーヒーを淹れようと、山に登る前から決めていた。
喜んでくれるといいな。
僕は軽自動車の助手席にリュックを置き、その中に宝物のように、きらきらと太陽を反射し、輝くペットボトル二本を丁寧に仕舞った。
終
"僕"は殴って怪我をしてしまった!やっぱり壁殴りのプロには敵わないから、正しい殴り方をもう一度確認しなくては!
正しい壁の殴り方がわかる、二次創作の元になったエッセイはこちらです↓
【新社会人応援エッセイ】〜ストレスを効率的に発散するための、正しい『壁』の殴り方〜
https://ncode.syosetu.com/n5147gx/
ここからは、重いおまけの話になります。
苦手な方は、☆の評価のところまで、スクロールして下さい。
今回、自殺予防と明記したのは、まだこの短編を読めるくらいに大丈夫な方向けの小説だからです。
筆者は、3〜4年をかけて、自殺を考える状態を続けました。当時の筆者にとって、自殺は最後の救済手段でした。なぜ自殺しなかったのか。それはうまく説明できません。ただ、この"妻"のような人たちの記憶があったからだと思います。
追い詰められた状態の時は、小説も漫画も読めませんでした。
この短編を読んで、"妻"側の視点の辛さを理解出来るのは、追い詰められる前の普通の状態です。その普通の状態で、どれだけの感情を持てているのかによって、自殺を図る時に止まれることが出来るのかどうか、変わってくると筆者は思います。
担当医に「人の記憶は消えないんだよ。」と言われた時は、ひどく辛かったです。この苦しみは消えないのかと悲しかったです。ただ、最後の最後で、言葉に出来ない感覚で踏みとどまれたのは、今までに与えられた人からの気持ちや想像力の記憶があったからだと、今の筆者は理解しています。
明確に誰から受けた好意なのかまでは、はっきり思い出せないけれど、好意を与えられた事は記憶に残っている。
それが最後に止める力になった。
ぎりぎりではありましたが。
この短編で残される側の気持ちや、急に残されてしまう側の気持ちを知って貰えれば、それはあなたを止める力になる。
大切な人を思う気持ちも力になる。
自分で自分を止めるための力を蓄えて、備える。
だから、この短編小説は予防なのです。
小説を読める今の状態で、心の記憶を残して、いざという時に備えられるように。
ちなみに、筆者はそこを退職してからは、自殺願望は失せてました。この短編を書いて久々に思い出したくらいです。
そして、ここまで読んでいるあなたに、筆者から厚かましいお願いをひとつ。
この自殺予防短編小説のレビューを書いて下さい。
この短編は二次創作の為、たぶん、ランキングには出て来ません。それでも、ひとりでも多く読んで欲しいと、この短編小説にだけは、欲を抱いてしまっています。
投稿から時間が経っている時でも、構いません。
あなたが、この短編をレビューするに足る自殺予防短編小説だと思った時に、レビューを書いて下さい。
正直、筆者は今回初めて"妻"側の視点を理解しました。ずっと"僕"の視点で自殺というものを理解していました。同じ人は他にもいるのではと思っています。
筆者の短編小説では、自殺予防には足りないと言う方は、それに足る小説をお願いします。
たくさんの言葉で、自殺の前の所で搦め捕って、彼岸へ渡さないように。
一緒に、止める力を増やしましょう。
最後の最後までお付き合いいただきありがとうございました。
【2021年5月2日 アンサー編投稿しました。】
19,005字です。本作と違い、柔らかい物語です。
本作の後味が強く残りすぎた場合、お読み下さい。
今の筆者が出来る限りの答えを詰め込みました。存在の肯定をベースにしています。
小学生の男の子が満月の夜に家出をする物語です。
『一輪の庭』
https://ncode.syosetu.com/n1954gy/