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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

投獄された悪役王子は召使に助けられる

作者: 涼暮月

 


 誰だって自分が正義だと思って生きているはず。

 弟から見れば、悪役は兄の方だった。



 賑やかな歓声と華やかな音楽。

 国中が第一王子と婚約者の結婚を祝している中、第二王子ヴァレン・マクシェーンは狭く暗い地下牢の中にいた。


 小さな体をさらに小さく丸めて壁に寄り掛かり膝を抱えている。まだどこかあどけなさが残る顔には疲労が滲み、虚ろな目が宙を漂う。ヴァレンの燃えるような赤い髪だけがこの場には似つかわしくなかった。

 光すら入らない地下牢の中ではそれすらも霞んで見えるが……。



 ――――――――――――――― 



 ヴァレンの兄でもあり、王と王妃の間に生まれた第一王子は、金髪碧眼で整った顔立ち、身分の低い使用人にも分け隔てなく接し国民にも好かれている。


 顔・性格ともに申し分ない完璧な王子だった。


 皆に好かれ、愛され、周りにはいつも笑顔が絶えない。

 そんな男を兄に持ったのが運の尽きだったのだろう。

 兄に遅れること6年。側室の子として生まれた第二王子は常に第一王子の引き立て役だった。




 幼い頃から何度も何度も、善人だった兄は悪意のない刃をヴァレンに突き刺す。

 彼の言葉はいつもヴァレンの心を鋭く抉るのだ。


「ヴァレンにも優しくしてあげて」

「ヴァレンも仲間にいれてあげよう」


 兄の言葉一つ、目線一つがヴァレンを惨めにさせる。

 もう放っておいてくれ。

 お前だって本当はこんな弟嫌いだろう?

 だからそう言われるたびに悪態をついていた。


「うるさいっ、あっちへいけ」

「俺は王子だぞ。なんでそんな下賤な人間と一緒にいなきゃいけないんだ」


 それに本当のことを言ったまで。

 王子とは、常にみんなの上にいる存在で。

 王宮に仕えている者など所詮身分の低い召使。


 ただヴァレンがそういう態度を取り続け周囲から孤立する一方、兄はますます皆から好かれていった。それがまたヴァレンを惨めにさせる。




 今思えば衝動的だった。


 参加する予定じゃなかった兄の20歳の誕生パーティー。

 久しぶりに王族が全員揃ったこの場でヴァレンの心はズタズタに切り裂かれた。主役の兄はいつも以上にチヤホヤされているのに、自分だけまるで除け者のよう。こんな思いを兄は味わったことないのだろう。そう思ったら居ても立っても居られなくなった。このパーティーがきっかけに今までの鬱憤が爆発したのだ。


 パーティー終了後、懐に短刀を忍ばせたヴァレンは兄の部屋へ向かった。

 いつもどんな思いをしているのか、この刃を突き付けて分からせてやる。自分の方が優れていると思っている兄が、弟に刃を突き付けられたらどんな顔をするのか。

 驚くだろうか。怒るだろうか。それとも悔しがるだろうか。


 そんな兄の顔を想像してヴァレンはノックもせず扉を開けた。

「あれ?ヴァレンじゃないか」

 普段部屋を訪ねたこともないのに、兄は突然訪問してきた弟を疑う素振りもない。

 笑顔で迎え入れる兄に対してヴァレンは懐から短刀を取り出した。


 どんな顔をする?

 ヴァレンは短刀越しに兄の様子を伺う。

 見たことないような酷い顔になっていると思ったが、予想に反して兄はいつもと変わらず柔らかい笑みを浮かべていた。


「どうしたんだ?ほら、危ないからしまいなさい」


 結局何をしてもこの兄は弟のすることなど笑って済ませるのだろう。もともと眼中にないのかもしれない。そう思った瞬間ヴァレンの体は動いていた。


 ドンッと衝撃が短刀を握る手に伝わる。


 腹部に刺さる短刀を見てようやく兄の表情が変わった。刺さった部分から血が広がっていくのを見てヴァレンは尻もちをつく。


 本当に刺そうなんて思っていなかった。


 ガクッと膝をついた兄は顔を歪めながらも、その口からヴァレンを責める言葉は出てこない。その間にも血はどんどんその範囲を広げていく。


「お、俺がいつもどんな思いでいるかっ……」

「ヴァ、レ」

「お、俺だって。俺だっていつもお前に」

「い、い……わ、かったから。早くで……」


 兄も何か言っているが、その言葉は言い訳を繰り返すヴァレンの耳に届かない。

 この異常な状況の部屋にちょうど兄の婚約者が訪ねてきた。誕生日を二人で祝おうとしていたのかその手にはワインボトルが握られている。


 ヒッと引きつった声。

 ヴァレンが顔を上げるのと、入ってきた婚約者が蹲った兄を見るのはほぼ同時だった。


 その手からガシャンと大きな音を立ててワインボトルが落ち、ドクドクと床にワインが流れ出る。床に広がっていくワインがまるで兄の血のようで、ヴァレンは逃げようとするが体に力が入らなかった。


 婚約者の甲高い悲鳴が響き、あっという間に人が集まってくる。


「捕らえなさい!」

「や……ろっ、だ」

 婚約者の言葉にヴァレンはすぐ取り囲まれた。

 兄はまだ何か言っているようだが、寄り添う婚約者に抱かれ、とうとうぐったりとして動かなくなる。その姿を見たのが最後だった。


「は、離せっ!」

「地下牢へ連れていけ!」

「俺は王子だぞ、お前らごときが気安く触るな!」


 兵士に無理やり体を起こされその手を払いのけ怒鳴ると、バチンっと頬を張られる。

 ジンジンと熱を帯びてくる頬。そしてその鈍い痛みに驚いて目を瞠ると兵士は嘲笑った。


「王子?お前はもうただの反逆者だろ?」

「なっ」

「いいから連れていけ!」


 そこから先は覚えていない。

 なおも暴れるヴァレンは思い切り殴られ、気が付いたら地下牢の冷たい石畳に転がされていた。大声を上げても、格子を叩いても、人の気配すらない。狭い地下牢の中には申し訳程度の小さな樽に水が入っているだけだった。それ以外は何もない。何も。


 殴られたときに切れたのか口の中が血なまぐさい。

 ヴァレンは後先考えずその樽に手を付けた。口を濯ぐが吐く場所が見当たらず仕方なく隅っこでそのまま吐き出す。石畳に若干血が滲む水溜まりが出来上がり、それを見つめていたヴァレンの目に涙が浮かんだ。


 本当に惨めだ。

 でも、これは誰のせいでもない。

 自分のせいだ。それがまた悔しい。

 石畳にポタポタと涙が垂れたのに気づき袖で目元をこする。力なく蹲り膝を抱えていると誰かの足音が聞こえてきた。

 顔を上げるとさっきの兵士の姿があった。思わず身構えると男はヴァレンが入る地下牢をのぞき込みバカにしたように笑う。


「王子様が落ちぶれたもんだな」

 言い返したいがグッと歯を食いしばって耐える。ここで何を言ってもさらに惨めになるだけだ。

 兵士は言い返さないヴァレンを見てつまらなさそうに舌打ちをして格子を掴んだ。


「散々俺らをバカにしていたから合わす顔がないんだろ?お前の傲慢さにはみんな辟易としていたんだ。誰にも愛されていないくせになぁ」


 思わず立ち上がって格子を掴む。

 兵士はヴァレンの身長に合わせるように腰をかがめた。


「なんだ?本当のことだろ?」

「お前に何が分かる」

「俺らみたいな下々の者に王子様の考えなんて分かりませんよ」


 バカにした物言いにヴァレンは兵士の顔を睨みつける。兵士は意地の悪い笑みを浮かべてヴァレンの前に小さな手紙を差し出した。


「ここにそんな王子様のこれからが書いてある。まっ、ここじゃやることもないだろうから、ゆっくり読めばいいさ」


 ヴァレンに手紙を渡すと兵士はすぐに帰っていった。こんな場所に長居をする必要がないということか。ヴァレンはその後ろ姿がなくなるとずるずるとその場に腰を下ろす。

 手にした手紙を放り出し握った拳で何度も石畳を殴った。


 悔しくて悔しくて溜まらない。


 この状況全てと、言い返せない自分に腹が立つ。擦り切れた皮膚から血が滲んで痛みが伴うが、それが心の痛みを打ち消してくれた。


 ようやく落ち着きを取り戻したヴァレンは男が持ってきた手紙を手に取る。何を書かれているのか何となく予想がついているせいで、手紙を開く指先が震えた。ヴァレンはようやく手紙を開くとその内容を見て目を伏せる。


 そこには三日後に、兄と婚約者の結婚式が行われること。

 そして次の日に、ヴァレンの死刑が決まったこと。が記されていた。

 罪状は第一王子殺害未遂ということらしい。


 絶対王政のこの国では王は神に等しいとされている。

 弟といえど、次期王を殺そうとしたのなら極刑を免れない。


 分かっていたこととはいえ、文字に起こされるとショックが大きい。

 けどほんの少しだけ、兄の無事が分かり安堵する自分もいる。


 道連れに出来なかったのは残念に思うが、本気で殺そうとしたわけじゃない。それだけは分かってほしい。でもそれを伝える術はもうないのだが。


「俺、死ぬのか」


 言葉にしてみると案外怖いと思わなかった。

 みんなに愛されていないことなんて知っていた。だからこそ最期まで堂々と。

 みっともなく泣いたり、縋ったりせず、その日を待とう。

 よく考えたらこの命にそこまで執着する理由もない。

 それよりあいつらに恨み言の一つでも言ってこの世を去ってやろうと思う。



 ――――――――――――――― 



 今日がその結婚式当日。明日には死ぬ身だ。


 ヴァロンは爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握る。

 初日に吐き出した水も乾いてきた。なんともったいないことをしたのか。ヴァロンは空になった樽を見ながら強く目を閉じた。

 空腹より喉の渇きの方が体に堪える。もしかしたら明日の死刑を待たずしてここで命を落とすのかもしれない。


「嫌な人生だった」


 乾いた口からはしゃがれた声が出る。そのみすぼらしい声が反響して自分の耳に届き、自嘲するように肩を震わせて笑った。

 今このとき自分のことを思い出している人など誰もいないだろう。外の様子を思い浮かべ小さく息を吐く。


 兄の幸せそうな笑みを思い浮かべると悔しいがどうやらここで終わりらしい。


 意識を手放しかけたヴァレンの耳に微かに足音が聞こえてきた。

 地下牢に続く階段を確実に誰かが下りてきている。

 コツン、コツン……。徐々に近づいてくる足音にうっすらと目を開けた。


 鉄格子越しに人の姿を捉える。

 俯いているせいで顔は見えないが召使の格好をしていた。


 やはり死刑執行までにこんなところで死なれては困るのだろうか。第一王子を殺そうとしたのだ。酷い目に合わさないと気が済まないのかもしれない。


 食べ物より水の補給だったらいいのに。と願っていると、召使はその場にしゃがみこんだ。


 目線が合う。

 黄緑色の瞳が、しっかりとヴァレンの目を捉えた。


「ヴァレン様」


 鈴を転がすような声が地下牢に響く。

 女か。

 話しかけられるとは思ってもいなかったヴァレンは彼女の顔をしっかりと見た。王宮には何百人の使用人がいる。そんな下々の者の顔を全員覚えているはずはない。案の定よく顔を見たところで誰だか分からなかった。


 誰でもいい。とにかく水をくれ。

 ヴァレンが格子の方へ体を少しずつ動かしていくと、女はまるでここが地下牢ではないように世間話を始める。


「ヴァレン様。今日は天気がすごく良いんですよ。町中がお祭り騒ぎになっていて、さすが神にも愛されている王子様の結婚式って感じです」


 そんな話はどうでもいい。

 むしろ聞きたくない。

 だが乾ききった喉から出る非難の声はかすれた音に変わる。

 女は口をパクパクをさせるヴァレンを見てなおも一人でしゃべり続けていた。


「どこもかしこも賑わっていて、みんなが幸せな一日」


 俺には関係ない。

 この女は捕らわれている俺をからかいに来たのだろうか。

 最後の力を振り絞って格子の隙間から腕を出した。

 黙れ、というようにヴァレンは女の首に向かって腕を伸ばす。

 それを避けることなく女はにっこりと笑った。


「こんな日なら、一人くらい誰かいなくなっても分かりませんよね?」


 女の喉にヴァレンの指先が触れる。


 だが言葉の意味を理解したヴァレンが口を開いたままピタッと動きを止めた。

 その間抜け面を見て女はクスクスと笑う。


「私は召使のサラヤ・ベイクウェルです。あなたのことを幼い頃からずっとお慕いしていました。この命をかけてあなたを助けます。その代わり逃げきれたら私のお願いを聞いてくれますか?」


 召使の分際で願いを聞いてくれ?

 普段のヴァレンならそんな願いを聞くはずがない。だが今は違う。

 ここから出してくれるなら、どんなことだってする。


 ヴァレンは無我夢中で頷いた。


 サラヤはそんなヴァレンを見ると恍惚そうに目を細めた。

 ポケットから薬を取り出し、背後に置いてあった小さな水差しと共に格子の間からヴァレンに渡す。

「これを飲んでください」

 ヴァレンはサラヤの腕から奪い取る勢いで受け取ると、口の端から水がこぼれることも厭わず、まるで獣のように飲み干した。食道を水が流れていく感覚が鮮明に分かる。それほど体も待ちわびた水分を喜んでいた。

 ようやく一息ついたヴァレンは女を鋭い視線で見上げる。


「どうやって王宮から出るつもりだ?策はあるんだろうな」


 喉も潤い声もすんなりと出せた。

 この期に及んでもなお威圧的な口調だが、サラヤは気にする素振りもみせない。


「抜け道を知っています」

「そうか、でもここの鍵は近衛兵が……」


 そう続けるヴァレンの目の前でサラヤは鍵をチラつかせた。


「こんな場所あなたには似合いません。堂々と出ましょう」


 そう言って簡単に錠を外してしまった。

 ギィッと鉄格子が動く嫌な音が地下牢に響く。そんな音を立てても誰か来る気配すらない。まだふらつくが何とか立ち上がり体を伸ばす。召使の言うことを素直に聞くなんて考えられないが、ここを出るまではこいつに命を預けるほかないだろう。


 式の途中ということもあって王宮内に人の姿はあまりない。それでも身をひそめながら進んでいくと、案外あっさりと王宮の外に出ることが出来た。目立つ髪だからと布を被り、俯きながら賑やかな街を進んでいく。


 王子なのに。今この場にいる誰よりも高い身分のはずなのに。


 兄を殺しかけ死刑を待つ身だが、ヴァレンは未だに矜持を保っていた。

 自分が価値のないちっぽけな人間のように扱われるのは我慢がならない。


 自分は一番偉いのだと、そうやって誰も認めてくれない代わりに自分自身に言い聞かせて生きてきたのだ。


 けれどここで騒ぎを起こし、またあの地下牢に逆戻りするのだけはかんがえられない。グッと堪えて、ひたすらサラヤのあとについていく。



 郊外に出るとようやくサラヤの足が止まった。

「ちょっと待っていてください」

 そう言うと馬車を呼び止め何やら会話を始める。運転手に小さな袋を握らせるとサラヤが手招きをした。近くで見る馬の迫力に一瞬たじろぐが、そのまま馬車に乗り込む。サラヤもヴァレンのあとに続いて車内に乗り込んできた。


 身分の低い人間と同じ乗り物に乗るなんてかんがえられない。

 会話は特にしない。

 召使と話が合うとも思えない。


 思えば馬車に乗るなど初めてだった。王宮の外に出たのだって初めて。道が悪いせいで車内はガタガタと揺れる。お尻が跳ねるような感覚に、チッと舌打ちをした。

 気を紛らわせるため小さな窓から外を眺めていると、どんどん町から遠ざかっていることに気付く。はるか遠くに王宮が見えて思わず目を逸らした。


 もう二度とあの場所に戻ることはないのだろう。




 馬車に揺られている間に気が付くと眠っていたらしい。腕を揺すられ目を開けると辺りは真っ暗だった。


「気安く触るなっ!」

「着きましたよ」


 サラヤの腕を強く払いのけるが、またしても彼女はヴァレンの行動を気にも留めていない。そう言うとサッと馬車を下りていってしまった。その背中を追うようにヴァレンも馬車から下りたが、一瞬で言葉を失う。


 月明りだけがかろうじて辺りを照らしている。

 それ以外は完全に闇の世界だった。

 風に揺れる木々の音がまるで何か恐ろしい物のように感じて足が竦む。馬車は二人が下りたことを確認するとすぐに来た道を戻っていった。ヴァレンは慌てて去っていく馬車を追いかける。


「おい!待て!こんなところっ」


 たとえ牢に囚われていなかったとしても、ヴァレンの足が馬にかなうはずがない。土埃をあげながら、あっという間に馬車は見えなくなった。おいて行かれたヴァレンは肩で息をしながら振り返る。


「お前俺をこんなところに連れてきてどうするつもりだ!」


 何もない。

 暗い森の中。

 こんなところで生きていくなんて野生の動物じゃあるまいし。

 仮にも一国の王子だぞ。


 止まらない悪態をサラヤはただ黙って聞いている。


 言いたいことを言い、少し落ち着いたヴァレンは改めて目の前のサラヤの顔を見てギョッとした。

 月明りで微かに照らされたサラヤは酷く優しい顔で笑っていたのだ。

 王宮にいたみんなが兄に向けるような柔らかな笑顔。

 それがこの場所に似つかわしくなくて不気味に感じる。


「おいお前……」

「お前じゃありませんよ。私はサラヤと言ったでしょ?」


 近づいてくるサラヤにぞわっと背筋が凍った。

 もしかしたら自分はとんでもない勘違いをしていたのか?


 今まで自分以外の人間を見下して生きてきた。

 傲慢で我儘で無理難題を召使に押し付けて笑っているような。

 自分が感じている鬱憤を、自分より下の立場の人間で晴らすようなそんな自分が……。


 助けてほしい。という一心でついてきたが、よく考えたら恨まれることはあっても、助けられる理由なんてないじゃないか。

 自分の手で殺そうと、ここまで連れてきたと考える方がよっぽど簡単だ。


 警戒音が脳裏に鳴り響く。逃げなくちゃ殺されるかもしれない。


「く、来るなっ!」

「ヴァレン様、そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。言ったでしょ?私はあなたをお慕いしているのです」

「黙れっ!こ、れ以上近づくな」


 そういえば願いを叶えてほしいというようなことを言っていたような。

 ヴァレンは必死にあの場で言われたことを思い出していた。


(なんだ?なんの願いだ?もしや拷問した挙句殺されるのか?)


 悪い考えばかりが思い浮かぶ。

 その間にもサラヤは一歩、また一歩とヴァレンに近づいてきた。


「ほら怖がらないで。この先に家があるから行きましょう。野宿はしたくないでしょう?」

「誰がお前なんか怖がるかっ!勝手に行けよっ!」


 口にされると否定したくなる。

 咄嗟にそう言い返すとサラヤは突然振り返った。

 行動の意図が読めずヴァレンはその背中を思わず目で追う。


「……分かりました。それじゃ私は行きますからね」


 そのままヴァレンを置いてサラヤはすたすたと真っ暗な森の奥へ入っていった。

 おいていったのか?この俺を?

 サラヤの後ろ姿を見ながら呆気にとられるヴァレンだったが、今がチャンスだと気づく。


 逃げるなら今しかない。

 けど逃げるといったってどこに?

 ここがどこなのかもわからない。帰り道もわからない。馬車の跡を辿ったところでこの森を抜けた先がヴァレンが知らない場所の可能性だってある。馬車の中で眠ってしまった軽率な自分を恨むがすでに手遅れだった。


 ヴァレンが悩んでいる間にサラヤの姿は木々の間に完全に紛れてしまった。


 どうしよう。どうすれば……。

 ガサガサと鳴る葉音に思わずビクッと体が震える。

 真っ暗な森の中に一人ぼっちだと状況を把握した途端、恐怖がこみ上げてきた。


 逃げろと本能は告げているのに、足は勝手にサラヤと同じ方向へ動き出す。


 これ以上進めば。彼女の元へ行けば。

 取り返しがつかなくなると分かっているのに。

 でも今頼れるのは彼女だけなんだ。


「お、俺をこんなところに置き去りにしてただで済むと思うなよ!」


 気が付けば走り出していた。こっちの方へ行ったと思うのに走り出したら全部同じ木に見える。それにいくら進んでもサラヤの姿が見えない。


 怖い。


 本当に置いてかれたのか?

 キョロキョロとしながらサラヤの姿を探すが人の気配すら感じない。

 奥に入りすぎたのか。自分が今どっちから来たのかさえ分からなくなってしまった。


「まっ……まて、よ……待って」


 足が止まる。


 突然バサバサと大きな音が聞こえ腰を抜かした。

 見上げれば大きな影が上空を横切っていく。鳥だろうか。すぐにその姿はどこかへ飛んで行ってしまった。再び風が吹き茂みが揺れる。しりもちの体勢だとヴァレンの目線はますます低くなって周りの木々がさらに大きく見えた。


 怖い。怖い……。


「い、いかなっ……いで。一人は……」


 嫌な気持ちが感情を支配する。

 体に力が入らなくてそれすらも怖い。自分がこの闇に溶けてしまうのではないか。そんな不安がヴァレンの心を蝕んでいく。

 鼻の奥がツンと痛みぼやける視界。

 あまりの恐怖にヴァレンの頬に一筋の涙が伝う。



 自分が泣くはずがないと思っているヴァレンの耳に、ふいに優しい声が聞こえた。


「どこにも行きませんよ」

「っ!」


 腰を抜かしているヴァレンをサラヤは上からのぞき込んだ。

 そのまま体を持ち上げられフワッと抱きしめられる。


 どういうつもりなんだ。身分の低い女のくせに。

 今までこんな場所に俺を置き去りにしといて。


「離せ」と暴れるが、サラヤの腕はしっかりと暴れる体ごと包みこんだ。


「やっぱり可愛い」

「はっ?……今なんて?」

「なんでもありません。ほら、暗いんですから一緒に行きましょう」


 可愛いという聞きなれない言葉。

 聞き返しているうちに身体を離され今度は手を握られる。

 パッと顔を見上げるとサラヤはまた微笑みかけてきた。反射的に振りほどこうとするが、その顔を見て舌打ちをするだけにとどめる。


 何故か、サラヤの顔と抱きしめられた温もりに安心した。


 嫌だという気は変わらない。

 断じて変わらないがここが夜の森だから仕方がない。


 誰に対しての言い訳か分からないがそうぶつぶつと言っている間に、本当にサラヤの言っていたとおり小さな小屋を見つけた。


「少し狭いですけどここが新しい家です」

「……ライラの部屋より小さい」

「そうですね。……でも二人なら十分暮らせますよ」


 サラヤは少しだけ困ったように笑ったが、そう力強く断言した。

 王宮で飼っていたコリー。ライラという名は兄がつけた。

 もっぱら兄が面倒を見ていたが、ライラはなぜかヴァレンにもなついていた。


 ライラを思い出して口を閉ざしていると、サラヤはキュッとつなぐ手に力をこめる。

「行きましょう」

 返事はしないがヴァレンは頷くとサラヤと一緒にその家へと入っていった。

 中に入ると簡易的だが机や椅子が用意されており、部屋の奥にあった扉の先にはベッドも見える。

 かろうじて人が住むことは出来そうだ。


「今からスープを作りますね」

「いい。疲れたから寝る」


 灯りがついた途端、ヴァレンはサラヤの手をバッと払いのけた。

 それでもサラヤは嫌な顔一つしない。


 今までの召使と勝手が違い、逆にヴァレンの方が嫌そうに顔を歪めた。

 あまりの横暴っぷりに王宮では誰もヴァレンと顔を合わせない。それなのに、サラヤは何が楽しいのか笑顔を浮かべている。


「俺はあっちで休むから入ってくるなよ」

「それではスープが出来たらお持ちしますね」

「は?だから俺はいらないって言っているだろ」

「少し物を口にしないと体に悪いのでダメです。今は薬を飲んだから少し回復しただけなんですよ?」


「いちいちうるさいっ!お前は召使なんだから黙って俺の言うこと聞いてればいいんだっ!」


 吐き捨てるようにヴァレンが大声を上げると小屋の中に静寂が広がった。

 サラヤを睨みつけるヴァレンだったが、なぜか心がざわつく。もっと酷いことを口にしたこともあった。いまさらこの程度の悪態、何も気にすることはないというのに。


 サラヤが相変わらず笑顔を浮かべているのがいけないのかもしれない。


「な、なんか文句があるなら」

「文句?ありませんよ?」


 サラヤが一歩近づいてくる。

 反射的にヴァレンは一歩下がった。


 じりじりと追い詰められていく。狭い小屋の中、均衡した距離はあっという間に崩れた。


 一歩下げた足がガンと壁に当たる。

 背中に感じる壁に逃げられないことを悟りヴァレンは息をのんだ。

 その僅かな隙をついてサラヤが一気に距離を詰める。


「初日から何度も見れるとは思いませんでしたが」

「なんのことだ!」


 グイっと顔を寄せられて思わず息をのんだ。

 至近距離で黄緑色の瞳がヴァレンの視線を絡めとる。逸らしたくても逸らせない。それが悔しくて睨みつけているとサラヤは嬉しそうに顔を綻ばした。


「あぁっ本当に。……なんて可愛いんでしょうか」

「はぁっ!?」


 サラヤの細い指先が頬をなぞる。

 背筋がぞくぞくとして初めて感じる不快感に顔を歪めると、そのまま頬をつままれた。


「いっ、ひゃいっ」

「痛い?痛いですか?でも、悪いこと言うお口ですからね」

「ひゃやぁっ」


 思い切り頬をつままれ痛いと訴えるがサラヤは気にも留めていない。

 なおも力強く頬を捻られ思わず手が出る。

 殴られると分かったのかあっさりと手を離したサラヤはその手を受け止めた。


「ヴァレン様、気に入らないことがあったら罵倒して、それがダメなら手を出して……」


 お説教が始まりそうな雰囲気を感じてヴァレンは思い切りサラヤの足を踏んだ。うるさい小言など聞きたくもない。自分より下の人間のくせに……。


「今度は足ですか。もう、本当に悪い子なんですから」

「うるさいっ!」

「……でも、その方が泣かせ甲斐がありますね」

「は?何言って……痛い痛いっ!」


 ヴァレンがまた不穏な空気を感じた瞬間、サラヤがその腕をひねり上げた。こんな仕打ちを受けたことがない。どうやったら抜け出せるかも分からなくて、バタバタと動くがサラヤはびくともしなかった。


 ゴリラだ。こいつは女じゃない。


「今、失礼なこと考えたでしょう?」

「なんにも言ってないだろっ。いいから離せって」

「ヴァレン様の考えていることはすぐ分かりますよ」


 じりじりと締め付けられて地団駄を踏んでいると、また急に手を離される。


「は、離すなら離すって言えよ!」

 ガクッとバランスが崩れた体をなんとか保つ。


「それはヴァレン様にも言えますよ」

 そう言うサラヤが初めて真剣な顔を見せるからなんだか身構えてしまった。


「ヴァレン様は、人に対してすぐ思ったことを言うくせに、自分のことは何も言わない。他人を傷つけることでしか自分を保てない」

「お前に……お前に何が分かるんだよ!」

「さっきも言ったでしょ?ヴァレン様のことは何でも分かります」

「なんで」


 なんでそんなこと言い切れるんだよ。


 サラヤのことは王宮でも見たことがない。今回はじめて会ったはずなのに一番嫌いだと思った。

 兄と一緒にいるときのような惨めな気持ちにはならないが、何か嫌。

 嫌なんだ。気持ち悪い。


 自分を見透かしているようなその黄緑色の瞳が嫌いだ。


「それにヴァレン様に叶えてほしい願いでもあります」

「だから、なにが」

「自分の気持ちを言葉にすることです。言葉にして、表情に出して、もっと素直になってください」

「そんなこと……俺はいつも本当のことしか言っていない」

「いいえ。自分に対する本心を口にしたことはないはずです」


 こうやって言い切るところも嫌い。

 不貞腐れたように下唇を噛んでいると、サラヤに顎先を指でつままれ無理やり顔を上げられた。


「そして、私にその可愛い泣き顔を見せてください」

「っ!……はぁっ!?」


 言葉の意味を理解して素っ頓狂な声が出る。


「俺おまえに何かした?」

「いいえ。何も」


 そりゃそうだ。今まで王宮で関わったことないのだから、恨まれることだってしていない。

 それなのに、なぜ泣き顔?


 怪訝な顔をするヴァレンからサラヤはスッと離れていく。

 どうにも動きが読めない。自然とその姿を目で追うとサラヤはスープを作り始めようとしている。


「俺はいらな」

「また口をつねられたいですか?今度は手も足も出せないように縛って。どうします?」

「俺にそんなことしていいと……」

「縛られて身動きが取れないの想像してください。悪い子だからしょうがないですよね?さっきより怖いと思いますよ?」

「なっ……何てこと」

「あまり聞き分けのない子はお仕置きが必要ですからねぇ。ヴァレン様はいい子だから私の言うこと分かるでしょう?」


 スッとその言葉が映像になって脳裏に浮かぶ。

 今までそんなことしたことも、もちろんされたこともないのに。手足を括られてまるで芋虫みたいに転がされている自分が安易に想像出来てしまった。それにサラヤのいうお仕置きという言葉が何を指しているのかも分からなくて怖い。


 こいつなら本当にやりかねない。

 そんな気がしてとりあえず頷いておく。


 逆らえないとか、自分より上だと認めたとか、そんなことはないけど。

 初めて人の意見を素直に受け入れたことに自分でも驚いた。


「良かった。本当はお腹空いているでしょう?すぐにできますからね。少しだけ待っていて下さい」


 トントンと野菜を切る音が聞こえてくる。

 そんな音を聞きながらヴァレンはとりあえず椅子に腰かけた。

 座った途端ドッと疲れが押し寄せてくる。

 とりあえず難しいことは明日考えよう。

 ヴァレンは机に突っ伏しながら目を閉じて、慣れない生活音に耳だけ傾けていた。



 ヴァレン14歳。サラヤ20歳。

 王宮から森の中の小さな小屋に住まいを移して。今日からここで生きていく。


ご覧頂きありがとうございました(^^)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 本当は異世界転生した日本人ではないかと思ってしまったほど、サラヤのサディスティックな性格とハイスペックっぷりに驚かされた、とても面白い作品でした。 また、悪役が処刑をまぬがれた後の物語を描…
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