その02『血の匂いが強すぎる』
今東の視線に鼓動が跳ね上がり、ランチバッグを持つ手が微かに震えてしまう。
な……何なのよ、ちゃんと香水を付けてるんだから同族だとバレた訳じゃないわよね?
エレベーターが階下に着くと、峯西さんの影に隠れたままさり気なく降りた。視線を切ったおかげか、今東も再び南澤さんの方に意識が戻ったらしい。もうコチラを振り返る事はなかった。
二人並んでエントランスから出ていく背中を見送ると、思わずホッと胸を撫で下ろす。
あぁもう、アイツさえ居なきゃ彼をお昼に誘えたのに。確か同期で仲が良いという話だっけ。つくづく邪魔な男だわ。
イラつきながら峯西さんの方へ向き直ると、何故か彼女はボーッとした表情でその場に立ち尽くしていた。
あれ……?? その様子を怪訝に思いつつもそっと話しかけてみる。
「あの、峯西さん。どうされましたか? 何か忘れ物でもありました?」
「…………」
「それとも……もしかして気分でも悪いんですか?」
「――――えっ!?」
少し口調を強めにしてみると彼女はハッと我に返る。その頬が薄っすらと紅く染まってるように見えて、思わず眉をひそめた。
「あ……ゴ、ゴメンなさい。ちょっとボンヤリしちゃって……」
それは……見れば分かるけど。
「何処か具合でも悪いんですか?」
「えっ! あ、そうじゃなくて……その、同じエレベーターに営業の今東さんが居たんですよ」
あー……あの男、ムダに目立つものね。吸血族臭が分からなくても峯西さんも気付いたか。
「実はその時、彼とバッチリ目が合っちゃったんです。あんな綺麗な瞳に見つめられたら、つい頭の中が真っ白になっちゃって……」
「は……?」
頭の中が真っ白? ……目が合ったって? 少し考えてからはたと思いつく。
あぁ、そっか。ああいうタイプは常に好みの子を物色してるはずよね。……って事は私も偶然目が合っただけなんだわ。
直ぐにそう納得すると、狼狽えている彼女にニッコリと笑いかけた。
「えーーっと、今東さんって確か営業企画部の人でしたっけ。同じエレベーターに乗ってたなんて全然気付きませんでした。まぁたくさんの人が乗って居ましたし、たまたまじゃないですか」
そう言ってさり気なくスルーさせたつもりだったのに……。
「たまたまって……と言うか、代田さんったら他部署なのに良く知ってるんですね。あ……もしかして彼の事、気になってチェックしてるんですか?」
「――――は?」
彼女は少しこわばった表情でそう詰め寄ってくる。
ちょ……、な、何言ってんの? 私は慌てて大きく首を振った。
「い、いえ、そういう訳では……この間北園さんとお昼をご一緒した時にチラリと聞いたのを思い出しただけです」
「あ! あー……そっか、北園さんね。彼女は同期だから今東さんと仲が良いですもんね。それで色々と聞いていて詳しいんですか……」
「べ、別にたいして詳しい訳では……」
一応納得してくれたようだが、私としては不満が残る言われようである。何であんな吸血族を気にしなくちゃいけないのよ。いや、常に警戒は怠ってないけどさ。
それにアレに対する物言いも気になった。
えーーっと、まさか峯西さんはあの男が気になってるとか言わないよね? 内心ドン引きしつつも穏やかな口調で問いかけてみる。
「あの……そういう峯西さんこそ、もしかして彼に興味があるんですか?」
「えっ! ま、まさか……!」
動揺が激しい。非常に分かりやすい反応だ。呆れる私の前で彼女はションボリと肩を落とす。
「その……私はそんな事言える立場じゃないです。ろくに声をかけてもらった事がないし……そもそも彼の眼中にないと思います」
ふーーん……眼中ねぇ。あんな男ならその方が有難いと思うけどなぁ。
「そりゃ……確かに見た目(だけ)は格好良いと思いますし、社内でもかなりモテてるらしいですね」
「そう……ですよね……」
「でも、私はああいうタイプ、正直苦手です。話が合わないと思います」
「えっ?」
キッパリとした否定に彼女は驚いて目を瞠ったが、直ぐにホッとしたように笑う。どうやら私が興味ない事に安心したらしい。
うへぇ……本気であんなのに憧れてるワケ? むしろ見た目以外では、何処に魅力があるのか教えて欲しいぐらいよ。だいたいその唯一の取り柄の見た目も吸血族の特殊性のおかげだし。
どうやら吸血族ってのは、その容姿が優れてる者が多いそうだ。吸血対象に容易に近付く為に、その方が便利だったからと考えられている。
しかし見た目だけで惹かれるのはかなり危険だ。何よりも……あの男は血の匂いが強過ぎる。
あぁ……本当に気持ち悪い男だわ。
先ほど今東から漂ってきたのは、実は吸血族臭だけじゃなかった。そこには薄っすらと血の匂いも混じっていたのだ。
吸血族はしょっちゅう血を吸ってる訳じゃないので、普通はあそこまで臭うようにはならないはずだ。
――――つまり……
モテるのを良い事にあの男、人間相手にたくさん吸血行為をしているんだろう。
多分社内にも彼の吸血欲求を満たした犠牲者が何人もいるはずだ。しかも吸血された事は相手の記憶には残らないので、証拠隠滅なんて簡単である。
確かに母親に教えてもらった通り、吸血でお腹は満たされなかった。しかしどうやら性的欲望が高まると吸血欲求が湧いてしまうものらしい。
血を吸うと言っても命に別状はない程度で収めるのが普通だ。加減を知らない同族も居るらしいが、そういうのは多分組織に駆除されてると思う。
とにかくアチコチで吸血行為を繰り返すヤツは、この世で一番低劣な生き物だ。ああいうタイプは近付かないのが一番である。吸血族としても男としても絶対にマトモじゃない。
実は私も学生時代に一度だけ、好奇心に駆られて吸血をした事があった。相手はその時付き合っていた人間である。
しかしそこまで夢中になるものとは思えなかったし、相手も気を失ってしまってウンザリした覚えしかなかった。
――――しかも同族同士で血を摂取し合ったら、強制発情を起こしてしまうのだ。そうなると理性の抑制が効かなくなるらしい。
一度だけ強制発情を起こした同族を見た事がある。その時は瞳が琥珀色に変わるだけだったが、先祖返りで容姿が変化する者も居るらしい。とにかくそんな事に巻き込まれるのはゴメンだった。
「あの……そう言えば聞いてみたかったんですけど、代田さんが付けてる香水って何処のメーカーのモノですか?」
「え……?」
あぁ……吸血族臭を消す香水の事ね。市場にはない所為か、たまにこんな風に訊かれる事があった。
「えぇっと、コレは……フラリと入った雑貨屋さんで買ったんです。在庫処分で安かったけれど、メーカーまではちょっと分からないですね。有名なところではないと思いますけど」
「へぇ……何だ、そうなんですか。スゴく好みだったから知りたかったのに……残念です」
本気でガッカリしたようだ。まぁ人間が付けても何の害もないと思うが、ファロスを紹介する訳にもいくまい。
香りは気に入っているが、この香水をつけるのはあくまでも身を守るためだ。今東にも気付かれなかった事で、改めてその効力を実感してる。
でもホントに吸血族って面倒くさいよなぁ……香水さえ好きなモノが選べないんだもん。そう考えるとついため息が洩れてしまうのだった。
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ファロスという組織は基本、困った同族の為に動いてると言われてる。
しかし吸血族の秩序を乱す同族を排除しているというウワサもあった。多分母親が言った怖い人達に襲われるという話は、この事を指してると思われる。
まぁ人間にバレないように生活してる以上、仲間の立場を危うくする存在が問題になるのは理解できる――――が、彼らが不気味な存在である事も確かだ。
そして実は少し前の話だが、私は彼らとトラブルを起こす失敗を犯してしまった。そのため今はファロスの監視対象になっている。
正直このヤラカシは痛かった。だからこれ以上彼らに目を付けられるような事は絶対にしたくないのである。
「あれっ? もしかして……君、代田さんじゃない?」
「……は?」
陽射しを避けて街路樹の下に居た私は、背後から苗字を呼ばれてギョッとして振り返る。昼食をとった後、峯西さんが銀行に用事があると言うので道端で待っていたのだ。
声を掛けてきたのは同年代くらいのスーツを着たサラリーマン。今日も暑い所為か額に汗を滲ませていた。彼は親しげな笑みを浮かべながら私の顔を覗き込んでくる。その図々しい態度にハッとなった。
げっ……! コイツは確か二つ前の会社でやたらと呑みに誘ってきた男じゃないか。あまりのシツコさにウンザリして、その会社との契約更新を止める原因となったのだ。
当然の事ながら全く趣味ではない。その証拠に顔には見覚えがあっても名前は全然思い出せなかった。
「あ……、えぇっと、どなたでしたっけ?」
「えぇ? またまた……俺の事、覚えてるよね、鈴間だよ。分かってるくせに」
そう言いながらニヤリと笑う。あぁ……そうね、そのウザい態度だけは良く覚えてるわ。そう突っ込みたい気持ちをなんとか抑える。
「こんなところで会えるなんてスゴい偶然だね。ほら代田さんって契約更新せずに辞めちゃったから、お別れも言えなかっただろ」
チッ……ホントに空気が読めない男ね。何にも言わずに消えた時点で気持ちを察しなさいよ。だから嫌なのよ。
「ちゃんと連絡を取ろうとしたんだけど、代田さん、携帯解約しちゃってるしさ。もう会えないかと思ってマジでショックだったんだよ」
「そ、そうだったんですか……ご迷惑をおかけしてすみません」
「でもここで会えたって事は、正に運命だよね」
「…………」
い……いやいやそんな運命なんか要らないってば。あぁもう……こんなところでこんなヤツに会うなんて、ツイてなさ過ぎて泣きそうなんだけど。
実はスマホには二枚のSIMを差していて、会社用のSIMは派遣の契約が終わる度に解約してる。
理由は勿論、こういうウザいヤツと二度と連絡を取りたくないからだ。
だいたい名前も覚えてないのに、親しげに声をかけられても困惑しかないっつーの。参ったな……峯西さんったら、早く戻って来てくれないかしら。
心にダメージを受けつつも、表面上は申し訳なさそうに頭を下げた。
「実は……携帯を落としてしまったんです。それで新規で契約し直したんですよ」
「えーーっ、そうだったんだ。……って言うか、もしかして今の派遣先ってこの近くなの?」
「え! あ……ええっと……」
「まぁイイや、とにかく再度連絡先を教えてもらっても構わないよね? 今度こそ飯に行こうよ」
「あー……いや、その……」
うぅ、死ぬほど嫌だ。せっかく縁が切れたのに、こんなヤツに教えたくない。
だけど派遣会社の手前、あまり取引先の社員を邪険にする訳にもいかなかった。しばらくアレコレと考え、それから腹を決めた。
仕方がない、ここは素直に連絡の交換に応じよう。連絡が来ても忙しいとか言って無視しておけばイイんだもの。とにかくこの場をやり過ごす方が優先だわ。
そう結論付けた私はランチバッグからスマホを取り出す。――――と、その時だった。
「アレ? 何ダ、清泉サン、ジャナイデスカ」
「……え?」
清泉と言うのは私の下の名前である。たどたどしい片言の日本語と共に、大きな手が気安く肩を叩いた。突然の接触にギョッとして隣を振り仰ぐ。
ちょっ……い、いきなり何すんのよ?? 真横に立っていたのはスラリと背の高い男だった。眼鏡をかけた華やかな雰囲気の青年である。
それと共に独特の匂いが鼻を突いてくる。甘やかで魅惑的な……今東とはやや違うが、コレも明確な吸血族臭だ。
「げっ……!」
「コンナ街中デ会ウナンテ、スゴイ偶然デスネ。清泉サン、何シテルンデスカ?」
眼鏡の奥のからかいを含んだ美しい灰色の瞳と視線が交わる。予想外の同族の出現に、私は更にピンチに陥ってしまうのだった。
お読み頂いて有難うございます。