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寄席ノ異聞録  作者: 紅夕陽
『アサガオ』
2/4

後編

 金谷蕣(カナタニアサガオ)がそこへと初めて足を踏み入れたのは、受験を控えた中学三年生の夏だったという。

 彼女はその時、散歩のつもりでただ何となく、気分転換にこの街の散歩コースとして整備された道を歩いていただけだったそうだ。

 そうして山の麓まで辿り着いた頃に夕立に降られ、雨宿り先を探していた彼女が偶然見つけたのが、その建物だった。

 それはおどろおどろしい廃屋……などではなく、綺麗な一軒家。そう、それは一軒家だったのだ。

 金谷は不思議に思ったそうだが、それを越す驚きのせいで気にする余裕もなかったと告げる。

 何故ならばその家は金谷自身が良く見知った、その時にはもう失われていた筈の、一軒家だったからだ。


「私は元々、この家で暮らしていたわけではないの」


 金谷は語る。悲しそうに、視線を遠くに、そして儚げに。

 彼女の両親は、二年前の春――つまり一軒家を見つけた時と同じ時期に他界していた。その原因は火事であり、僕も聞いたことのあった事件で、記憶の片隅に残っている。

 隣町で起きた、放火事件。金谷はその事件の被害者だった。

 金谷はその時、土曜日登校の日だったと説明してくれる。

 奇しくも両親が揃って家に居る、そんな休日に起きた事件。

 連絡があって、家が火事で燃えて、帰る場所と両親がなくなったのだと先生から聞かされる。

 それは、とてつもなく痛ましい状況だろう。話を聞いているだけの僕でさえ、そう思うのだ。金谷がその時どうなっていたのかなんて、想像する事など出来ない。


「そうして私は、祖父に引き取られる形でこの家にやってきた」


 そして夏に、件の家を見つけた。見つけてしまった。

 彼女の思い出の詰まった家と、まったく同じ家を。一軒家を。


「私はその家を見つけた時、まったく不信に思わなかった。愚かだった。あまりにも無用心だった。あり得なかった。本来ならばそこに、私の家なんてある筈もないのに」


 (いざな)われる様に、彼女の足は一軒家へと向かった。玄関の扉の鍵は開いていて、金谷は自然と家へと上がった。

 普通ならば、玄関先で雨宿りさせてもらうくらいで済ませるだろう。

 だが、金谷は既にその時には普通の状態ではなかった。何の違和感も無しに、そこで境界を越えてしまったのだ。


「流石に驚いたわ。そして恐怖もあった。その家には、私が喪ったものの殆どがあったのだから」


 両親以外の、火事で喪われた全てがその家の中に存在していた。

 戦慄すら覚える異常な景観。金谷の記憶から両親以外を映し出した様な、歪な屋内。

 家の間取りも、家具の配置も、戸棚の中身も、飾られている写真すらも、何もかもが一緒だった。

 そこに居ないのは、両親だけ。ただそれだけの、だからこそ異常な金谷の家がそこに存在していた。


「私はね、“桜真くん”。両親の形見と呼べるものを殆ど持っていないの。持っているのは、この簪だけ」


 そう言った金谷は、烏の濡れ羽色をした綺麗な髪を結っているのに使っている簪を抜き取って、僕に見せる。

 簪はとても綺麗で、それでいて年季を感じさせるものだった。

 金谷の名前――『あさがお』の花の装飾が印象的な良く手入れされているそれを握り締めて、彼女は説明を続ける。


「焼失してしまったものが存在する家で、私は雨宿りをしたわ。そして長居もした。愚かにも私は喪う前の思い出に浸って、安心してしまっていた。違和感すら消えてしまっていた。そして、私は言ってしまったの」


 ――ただいま。


 そのたった一言が、その何気ない言葉が、彼女のその時から今に至るまでを狂わせる。

 学校に最低限な日数しか行かなくなった理由と成り、他者を遠ざけたがる様になる原因と化す。


「それからね。たびたび、外出していると私は迷い込むの。どんな時間であろうとも、どんな場所であろうとも、誰と一緒に居ようとも、私は気付けばそこに居る。その家に、訪れてしまう」


 それはさながら神隠しだとも言えるだろう。物理法則も何もあったものじゃない。


「これを知っているのは今教えたあなた以外だと、私の祖父と綾峰さんと彼女のお父さんだけ。どう? 力になれそう?」


 最後に、締めくくる様に金谷は僕へと尋ねてくる。

 綾峰と綾峰のお父さんが知っているということは、相談でもしたのだろう。

 彼女の家は神職だから、まあまず相談する相手として間違ってなどいない。

 何故そんなことを知っているかと言えば、僕もつい半年程前に相談する機会があったからだ。

 年末年始、クリスマスが過ぎた十二月の末から成人の日まで。学校が冬休みの間に僕が遭遇した事件の時に、綾峰一家には大変お世話にもなっている。

『鬼』に左腕を奪われ、『鬼』に左腕を返して貰い、『鬼』に左腕を(まじな)われた。今は長袖で肩から二の腕まである呪いの刻まれた左腕を隠せているが、夏になれば包帯でも巻かなければならなくなる。

 まあ、そんな僕の抱えている事情のことはさておいて。


「さあ」


 僕は金谷の問い掛けに短く、そしてあっぴろげにそう答えた。

 金谷と綾峰の表情は、僕の答えを聞いて見るからに変わっていく。

 綾峰はオロオロとしたもので、金谷は心底呆れている風だった。


「さあ、ってあなたね……」

「桜真くん、それはいくらなんでも、じゃないですか……?」

「そう言われたって、僕はとりあえず聞いただけだしね」


 綾峰が僕と金谷を会わせた理由、その目的を果たしただけに過ぎない。

 僕はそれぞれの反応を示す二人を後目(しりめ)に、すっかりと冷えている緑茶を啜った。


 さて、金谷へとああいった返答をした僕だがこのまま何もしないというわけでもない。

 だが、そもそもある程度の対策は綾峰一家が打ち出しているだろうし、僕に出来る事なんて本当に少ないと思っている。

 そして、まあ、この件に関して言えば僕は僕の出来る事をあまり行使しなくとも良いだろう。


「取り敢えず、事情はわかった。わかった上で、出来る事はする」

「……信用ならないわね」


 最も頼るべき場所へと既に頼っているんだから、この言葉を信用しなくったって結構。

 怪訝な面持ちで僕を見やる金谷の視線など、この場に限っちゃ何処吹く風だ。


「いいよ、別に。……金谷、お前ってまだ時間、大丈夫か?」

「ええ、別に大丈夫よ。祖父は基本、自由にさせてくれているから」


 それなら、僕も家に連絡を入れておくかな。明日は学校も休みだし、両親も先に断っておけば帰宅が遅くなるのは了承してくれるだろう。

 スマホで時間を確認すると、時刻は既に十九時を回っている。


「綾峰は先に帰っておけ。あんまり遅くなりすぎるとアレだろ?」

「……ですけど」

「ここから先は僕に任せておけよ。頼ってくれたのは、お前なんだから」


 門限があるかは知らないけれど、これ以上綾峰の帰宅を遅らせるのは僕としても忍びない。

 心配してくれているのか、それとも今回の件への責任感なのか、綾峰は渋る様な表情を浮かべている。

 だけど、僕が口に出して言った通り、ここから先は頼まれた僕の役割だ。だから、取り敢えず今日の所は綾峰にはちゃんと家に帰っておいて欲しい。


「後で報告もするからさ」

「そうね、綾峰さん。女の子があまり遅くまで外出するものではないわ。そこはこの男の言に従っておくのが吉だと、私も思う」


 金谷も何だかんだで綾峰の心配をしてくれているらしい。

 この男呼ばわりはいただけないが、今そこに文句をつけるのも野暮というものだろう。

 僕の進言を後押しする金谷に、綾峰は綺麗に整えられた眉を顰めて唸る様な仕草を見せる。


「……わかりました。何かあったら、必ず連絡、くださいよ」


 そうして間を置いてから、綾峰は観念を口にした。



 元々の、というか僕視点で言えば大元の目的である進路アンケートのプリントを金谷に渡してから、彩峰はこの場を後にして帰路に就いた。

 僕は金谷に断りを入れて、その途中まで見送ったりもした。


「おかえりなさい、“桜真くん”。ご飯にする? お風呂にする? それとも――」

「……それとも、なんだよ」


 綾峰の送迎を終え、金谷の居る離れにまた戻ってきた僕を迎えてくれたのは、金谷のそんな冗談めかした問い掛けだった。

 両手を隠す様に背中へと回し、無表情のまま上目遣いをする彼女は勿体ぶる様止めていた言葉の続きを口にする。


「――死ぬ?」


 とんでもない提案だった!

 両手を後ろに回していたのは、その手に持っている包丁を隠す為か!?


「何で新妻ごっこの決まり文句で僕を殺そうとするんだ!? というかそんな思いついた様な悪ふざけで簡単に僕を殺そうとするな!!」


 相当悪質な冗談だ。これから色々と手を貸そうとしている相手に対する態度ではない。

 金谷は空いている手で片耳を塞ぎ、雄叫びめいたツッコミをする僕へと仏頂面を向けた。

 そうして、何でもなかった様に包丁を勉強机の上に置くと、今度は僕の手に持っているビニール袋へと視線を送る。


「それで、何を買って来たのかしら」

「ん、ああ。これからに必要な対価だよ」


 五〇〇ミリリットルのペットボトルに入った水、安価で手軽な菓子パン及び食パン、そして深めの紙皿。コンビニで購入出来る、最低限の対価。

 金谷は不審者を見る様な目で、ビニール袋からそれらを取り出す僕を見ている。

 ああ、そうね。確かにこれが何の対価になって、何の為に必要かなんてわかるはずもないか。


「まあ見てなって。きっと、お前の事情に対して知恵を出してくれるからさ」

「……綾峰さんが帰る前に言ってた人の事、なのよね」


 続行される冷ややかな目。まるで信じていないのだろう、言葉の内に含まれた疑心が強くなっている様に感じる。

 金谷が言っている事については、観念こそした綾峰が帰宅をする事に安心出来るよう、僕が“アイツ”を呼ぶと彼女に伝えたのが聞こえたからだろう。

 正確には金谷の想像通りというわけではないのだが、その時詳しく説明はしなかったし然もありなんだ。

 まあ、兎も角として、蛇の道は蛇、餅は餅屋とはよく言ったものである。だったら今回の様な事情(ケース)は、その“ご同類”を呼ぶのが正解なのだ。


「窓、開けるぞ。良いか」

「ええ、構わないわ」


 二枚の深い紙皿に水とパンをよそい終えた僕は、金谷の了解を得て部屋の窓を開く。

 そのまま窓の縁に紙皿を置いた僕は、心の中で夜空へとひたすらにと来い、と念じた。

 すると、カア、という間の抜けたカラスの鳴き声が周囲に響き渡った。


「……カラス?」

「……勿体ぶらずに早く来い、鳥類」


 わざとらしい鳴き声を発するものだから、思わず仏頂面を浮かべてそう吐き捨てる。

 すると今度は翼を羽ばたかせる音が聞こえて来て、夜の帳に紛れた塊が窓の縁へと降り立った。

 そいつは黒い羽を散らし、黒い嘴を開き、黒い瞳を僕に向けている。

 ――カラス。ただし、その体は普通のカラスよりも随分と大きく、そして足が三本あった。


坊主(ボウズ)、なんだこのしけた供物は。コンビニパンなんて安いものを供えおって」

「贅沢言わないでくれ、八咫烏(ヤタガラス)。僕はただの学生なんだ、小遣いだってそう多くないんだよ」


 やけに渋くバスの利いた頼もしい声で苦言を呈してくる八咫烏に、僕はぼやくように文句を返す。

 バイトをしていない高校二年生が持っているお金なんて、たかが知れているだろう。

 そんな風に、当たり前の様に、現実味のない存在と会話をする。

 僕らが一連の流れを行った後に金谷へ紹介しようと振り向いて見れば、彼女は有り得ないものを見る様な目で僕と八咫烏を凝視していた。


「カラスが、喋ってる……?」


 当然の反応だった。



 八咫烏(ヤタガラス)とは、日本神話に登場する三本足のカラスである。

 厳密な原典から言えば三本足ではないそうだが、目の前に居るこいつは三本足なので、その(てい)で話を進めさせてもらうとしよう。

 八咫烏の逸話で最も有名な物と言えば、やはり日本神話に出てくるものだ。

 高皇産霊尊タカミムスビによって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国――現代で言うところの和歌山県南部と三重県南部から奈良県――への道案内をしたとされている存在。

 その詳しい内容については割愛させてもらうが、とどのつまり僕が言いたい事というのは、八咫烏は“導く”という特性を持っているという事だ。

 八咫烏とは導く者。解決へ、問題へ、勝利へ、欲するものへ。

 そして古くから存在しているが故に、目の前に居るこいつは博識である。

 今回重要なのはどちらかと言えば後者だが、おそらく前者に頼る事もあるかもしれない。


「ふむ、なる程。それはおそらく、『迷い家』だろうな」

「マヨイガ、ですか……?」


 喋るカラスという摩訶不思議な存在に対し、脳が容量限界(オーバーフロー)を起こして思考停止していた金谷がようやく現実に戻ってきたところで、八咫烏へと今回呼び出した用件を掻い摘んで説明した。

 捧げられた供物である食パンの耳を(ついば)む八咫烏は、心当たりがあるのかすぐにその名前を口にする。


「山奥にひっそりと存在する幻の家。無欲な者が訪れれば成功を授け、欲を持っていれば失敗を与える……というのが、ざっくりとした逸話か」

「……遠野物語、ですよね。でも」

「今回、迷った嬢ちゃんが遭遇した『迷い家』は脚色されたものなのだろう。よくある話だ」


 食パンを啄み終えた八咫烏は深い皿に注がれている水を飲んで、首を傾げた。


(オレ)たちみたいな幻想は影響を受けやすくてな。特に、影響は有名な奴ほど顕著になる。例えば、己には“博識”であるという特性が付与されているぞ」


 八咫烏は菓子パンを啄みながら続ける。

 特性の付与。これに関しては以前、僕が『鬼』に(まじな)われた時や綾峰の身に振りかかった事件の際にも八咫烏は語っていた。

 八咫烏は自分たちの事を指して幻想と呼ぶ。妖怪でもなく、化物でもなく、怪異でもなく、幻想と。

 こいつが言うには、自分たちはヒトの想いや信仰がなければ成り立たなず、更にはその内容に引っ張られやすいのだとか。

 そういうものがあれば良い。こういう現象が起これば良い。そういった願いや望み、想像といったものが形になり、現出し、取り憑き、引き起こす。

 故に幻想。現実には有り得ない何か。ある意味で、そして正しい意味で、人々の空想による産物。

『迷い家』というものは有名な話らしい。僕が知らないのは、単純に学が足りないだけなのだろう。

 金谷が知っているという事は、勉強をしていれば知れる様なものなのかもしれない。


『この世にオリジナルのまま残っている幻想なんて存在しない。己たち幻想はどれもが二次創作であり、三次創作なのさ』


 かつて八咫烏がそう言っていたのを、僕は覚えている。

 今回の『迷い家』が脚色されているというのも、つまりはそういう事なのだろう。

 ヒトの手で書き加えられ、ヒトの手で変形させされ、ヒトの手で姿を変えた。

 そうして今回、『迷い家』は金谷の前に原型とは違う現れ方をして、原型とは違う能力を持ち、原型と違う発揮の仕方をしている。


「それで、八咫烏。結局のところ解決策はあるのかよ」

「坊主、そう急かすものじゃない。先に腹を満たさせてくれ」


 確かに以前、お前が「己を呼ぶときは供え物の準備をしておくように」と言っていたから用意したものだが、だからって本当に食って腹を膨らませるのか。

 幻想って言う割にはそういうところ、普通のカラスとなんも変わらない様に見えてしまう。

 金谷が畏まる様にその場で黙りこくってしまっているのは、素直に八咫烏が食事を終えるのを待っているからなのだろうか。

 こういう時、一番急かして良いのはお前だと思うぞ金谷。


「それにしても、『鬼』から始まって結びの嬢ちゃんに継ぎ、今回は迷った嬢ちゃんか。お前さん、とんと()りないものだな」

「……薄々勘付いてはいたけれど、綾峰さんも八咫烏さんのお世話になっていたんですね」


 菓子パンのパン屑を嘴につけながら、八咫烏がからかう様に言い放つ。

 それに反応したのは察しが良くて頭も回る金谷で、彼女はそう口にした後に僕の方を向いた。

 今度詳しく話して欲しい。言外にそう求められている様な気がして、僕は目を背ける。

 そんな面白い話ではない。僕の左腕も、綾峰の縁も、聞いて楽しめる奴なんてのは本当の部外者くらいだろう。


「まあ、この状況で言っても詮無き事か。……さて」


 食パンも菓子パンも食べ終わり、切り替える様に翼を広げた八咫烏は軽く毛づくろいをしながら切り出す。

 さてと言ったのだから、本題に入るのだろうか。いつの間にか近寄ってきていた金谷に肘で小突かれ、僕は思わず姿勢を正す。


「解決策ならある。何、どれも単純な事だ。まず、迷った嬢ちゃんが『迷い家』から持ってきたものを返せば良い」


 八咫烏の提示した内容は、言っている通り至ってシンプルな内容だった。

 だったのだが、僕は首を傾げる。だって、それはおかしいのだ。前提として間違っている。


「おいおい、待てよ八咫烏。拾ってきたものを返せば良いってお前は言うけれど、金谷は別に何か持って帰ってきたわけじゃない筈だぜ」


 確かに、金谷にとって『迷い家』にあるものはどれも掛け替えのないものだろう。

 彼女が愛用している『あさがお』の簪以外、全て火事で焼失してしまっているのだ。

 だが、話を聞いた限りでは持ち出したなんて言っていなかったし、この部屋を見渡したってそんなものがある様に思えない。

 ならば金谷が返せるものなんて、ひとつもない筈で。つまり、八咫烏の言う通りにしようとしても出来ないのである。


「いいや、坊主。それだと今回の様な状況は発生しない」


 されど、八咫烏は淡々と僕に否定を告げる。

 導く者として、全てを見透かした様な視線を金谷に向けながら。


「そも、『迷い家』というのはそういう幻想だ。幾ら特性を付け加えられて変容していたとしても、原型の何れかは必ず残っている。……なあ、迷った嬢ちゃん。お前さんは何かを持って帰ってきて、そして何かを得た筈だ」


 僕への説明をしながら、八咫烏は問い詰める様に金谷へと尋ねる。

 金谷は押し黙り、まるで幼い子供が答えたくないと頑なになっているように見えた。

 沈黙と重い空気がこの部屋を包み込む。


「……まあ、そうなるのも当然か。相当得難いものなのだろうな、嬢ちゃんが持って帰ってきて、得たものは」


 嘆息を吐くように、八咫烏は器用に翼を額部分へと当てながら呟く。

 その『迷い家』について原型すら詳しくは知らない僕だけれど、こいつの言っている事に引っかかりを覚えた。

 得難いもの。金谷が持っていて、なおかつ手放したくないと思うようなもの。

 そこで、僕は金谷が自分の抱えている事情について話してくれた時の内容を思い出す。

 まさか――。


「――簪、か?」


 僕が思わず声を零した瞬間、僕の視界は回転した。

 何が起きたのかわからず混乱する僕の視界に映ったのは、いつの間にか僕の体に馬乗りになっている金谷の姿だった。

 目を見開き、眉間にしわを寄せ、唇を噛んでいる彼女の表情は、今にも泣き出してしまいそうなもので僕は更に混乱する。

 だが、その事について聞いている暇も頭の中で整理している時間も僕にはなかった。首を徐々に圧迫されているのを感じたからだ。


「おい、金谷。落ち着け」

「黙って」

「落ち着けっ、僕の首を絞めるな……!」

「お願いだから黙って!!」

「黙ってられるかッ!!」


 声を荒げ首を絞めてくる金谷の体を押しのける為に、僕はあらんばかりの力を上半身に込めて起き上がろうとした。

 その試みは成功し首が開放されるが、今度は僕が金谷の事を押し倒したような体勢になる。


「ゲホッ……! どういうつもりだよ、お前!」

「……大切なのよ」


 彼女の起こした凶行めいた動きを問い詰める僕に、金谷は唇を震わせながらか細い声で呟く。

 乱れ、はだけた着物から白磁の様に白く綺麗な肌が見えている。

 息を切らして全身を上下させる金谷はそうして、自分の服装も気に留めずに大きく息を吸い、


「大切なもの、なのよ! これは返せない、返したくなんてないッ!! だってこれは、これだけは……」


 ――お母さんから貰った、大切な宝物だったから。


 叫んだ。金谷蕣(カナタニアサガオ)は万感の想いを込め、僕へと叫んだ。

 大粒の涙を目尻に溜め、必死に縋るような目をしている金谷(おんなのこ)の表情から顔を背けるなんて、僕には出来なかった。



 八咫烏曰く、『迷い家』は無欲な者が訪れたならば富を授けるという幻想である。

 この場合、今回の場合、金谷が得た富とは何であるか。その答えは単純なものだ。『繋がり』……もっと言ってしまえば、『思い出』だろう。

 こう言ってしまえば言葉遊びでしかないのかもしれないが、しかして言葉というものはあんがい重要な要因(ファクター)足りうる。言霊という単語が存在する様に、言葉とはそもそも力なのだ。

 思い出は代え難い財産だとか、人との繋がりは得難い財産だとか、つまりはそういう事。

 正しく金谷は『迷い家』から得ていた。喪っていた『思い出』を。掛け替えのない『繋がり』を。

 簪という形見を『迷い家』から持ち出す事によって、それまで記憶の中にしかなかったものを実感していたのである。


「その家から『思い出』を頂戴した事によって、迷った嬢ちゃんは取り込まれたという事だ。今回の話を聞いている限りでは、家そのものだって失いたくなかったものみたいだしな」


 ただただ淡白に自分の見解を述べる八咫烏。金谷は一度顔を洗ってくるという事で、この部屋に今はいない。


「……なあ、八咫烏」


 窓際の壁を背もたれにして立っている僕は、それでもどうにかならないのかと、八咫烏に尋ねようとした。

 だってそうだろう、喪ったものを求めたくなるのは、人間という生き物の性質みたいなものだ。

 ましてやそれが大切な宝物だと思えるほどのもので、親の形見ともなれば尚更である。

 どう足掻いても、現実では二度と手に入れる事の出来ない代物。幻想でしか手にする事の出来ない、本来ならば有り得ない物。

 金谷が取り乱して叫ぶ姿に、僕は彼女からそれを取り上げるなんてあまりにも残酷な事であるのではないのかと、そう思ってしまっていた。


「どっちでも良いぞ、(オレ)は。特に今回は、別に解決しなくたって良い問題だ」

「解決しなくても良い問題って、お前」

「肝要なのはな、坊主。全てはあの嬢ちゃん次第だって事なんだよ」


 八咫烏の言っている事はあまりにも無責任で、そしてあまりにも的確な事だった。

 こいつが口にした通り、金谷は既に選べるのだ。解決するのか、それともしないのかを。


「つまりは気の持ち様だ。原因にしたって、それからの問題にしたって、そして解決するかどうかもな」

「……それは」


 正しい事を、八咫烏は淡々と僕に告げる。

 残酷で、痛ましくて、そして目を逸らしたくなる様な言葉だ。


「おいおい、坊主がそんな気に病む様な事じゃないだろう。優しいのは良いが、行き過ぎれば毒でしかないぞ」

「そんなこと言ったってな、八咫烏。僕は、力になれるかもしれないと、彼女に言ったんだ」

「だからどうした。かもしれない、だろ? 勝手に傷を広げたのも、広げ続けたのも、他ならぬ迷った嬢ちゃん自身じゃないか」


 そもそもの理由として、と八咫烏は吐き捨てる様に継ぐ。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。己たち幻想ってのは、そういうものだろう?」


 僕は八咫烏の言葉にえもいわれぬものを感じて、ズルズルとその場に座り顔を両手で覆う様にした。

 ああ、そうだった。幻想とは、そういうものなのだった。彼らは決して、理由もなく何か事を起こすような奴らではないのだ。


 二年前。二年前の金谷が、事件の被害者となった金谷が、両親と元々住んでいた家を喪ったという心の傷を負っていなかった筈なんてない。

 祖父に引き取られて、今までとまったく違う家で暮らすようになる。そんな環境で望まずに居られるだろうか?

 想像でしかないけれど、それでも決して間違いという事もないと僕は思う。

 家族との思い出を取り戻したい。そう思うことを、誰が否定出来るというのだ。


(……でも、それなら)


 そこまで頭の中で考えて、僕は違和感を感じた。

 いや、違和感というか、何て表現すれば良いのだろうか。

 出来上がったパズルのピースが欠けているような、何かを見落としているような感覚だった。


「何を私の部屋の隅で頭を抱えているのかしら。陰気臭くされても、困るのだけれど」

「金谷……」


 ああでもないこうでもないと自問自答を繰り返していると、金谷がいつの間にか戻ってきていた。

 目の下や鼻先が少し赤くなっているのを見るに、もしかしたら泣いてきたのかもしれない。

 精神的にも疲れているのか、顔色だって良いとは言えるものではなかった。

 そんな金谷の姿を見て、僕は胸にチクリとした痛みを感じる。

 彼女はそのまま僕と一歩ほどの距離に正座をすると、真っ直ぐな視線を向けてきた。


「……さっきは、ごめんなさい。どうかしていたわ。気が動転して、あなたの首を絞めてしまうだなんて」


 そして、金谷は深々と三つ指を付き、頭を下げて謝罪を口にする。

 予想していなかった事態に僕は目を丸くして彼女を見た。


「この通りです。どうか、お許しください。許して貰う為なら、私は何だってします」

「何だってって、お前な……」


 まさかあの金谷に此処までされるとは思っていなかった僕は、困った表情を浮かべるしかなかった。

 綺麗な土下座。金谷はそのままの体勢で微動だにする気配もない。多分、僕が許すと言うまで頭をあげる気もないのだろう。


 そんな事を言わないで欲しい。どうか、謝らないで欲しい。だってお前があんな行動を起こすほど、僕は無神経な事を言ってしまったのだから。

 お前の心に土足で踏み込むような事を言って、そして踏み荒らすような事をしてしまったのだから。


「気にしてないよ。それに、僕はあの程度じゃ死なない。気が動転していたのは僕だってそうだ。お前の事を、押し倒した」


『鬼』からの影響は、未だ(まじな)われた左腕から受けている。その影響の一部として、僕は人一倍生命力が強くなっていると言っても過言ではない。

 だからどちらにせよ、多少苦しくは感じても金谷の細腕であれ以上僕の首を絞めて殺すなんて、出来る筈もないのだ。


「なあ、金谷。これを僕が言うのはおかしいかもしれないけれど、お互い様って事にしないか?」

「……あなたが、それで許してくださるのであれば」

「許すよ。そういう事にしてくれるならね」


 答えるまでに間があったいうことは、金谷は内心納得いっていないのだろう。

 だけど、僕はそれで良いんだ。お前が何でもするっていうのなら、僕はそれで良い。


「まあ、それはそれとしてだ。これからどうするのか、ちょっと相談しようぜ」


 過ぎた事を気にしていたって仕方ない。僕は前向きになろうとして、金谷にそんな提案を持ち出した。

 彼女は頭をあげると、拍子抜けしたような表情を浮かべて僕に向ける。

 というか、八咫烏もそうだった。嘴を半分開いて、呆ける様に僕を見ている。


「相談しようぜって……」

「八咫烏が言うには、今回重要なのはお前の気の持ちようだって事だからさ。大切なんだろ、その簪。だったら、返さなくたって良い方法を探してみよう」


 もし無理に金谷を説得して簪を返した所で、『迷い家』という幻想は再び現れるだろう。無理強いして元の木阿弥では、なんの意味もないのである。

 ケジメをつけて、折り合いを見つけて、納得しなければ解決に繋がるわけじゃない。

 僕が『鬼』に出逢った時だってそうだった。綾峰が『縁』に巻き取られていた時もそうだった。

 全部が全部、大大円で終わるわけじゃないのだってわかってる。でも、出来る限りの事はしたいと、僕は思うのだ。

 何故なら、僕は彼女の力になれるかもしれないと言ったから。綾峰に頼まれて、任せろと口にしたのだから。

 なら、こんな所で諦めるわけにはいかないだろう。僕は――和堂桜真(ワドウオウマ)は、諦めの悪い男なのだ。


「ふ、ふふ……」

「何だよ金谷、笑うような事か?」

「ええ、ええ、笑うような事よ。お腹を抱えて、呵々大笑(かかたいしょう)としたいくらいに」


 口元を着物の袖で隠し目を細め、金谷は笑いを堪えているのか体を小刻みに震わせる。

 目尻にまた涙が浮かんでいるのが見えて、僕はそこまでのものかと溜息を吐きたくなったが、すぐにまあ良いかと心の中で呟いた。

 僕には笑いどころが何処なのか分からなかったけれど、ようやく笑ってくれたのだ。

 金谷は一分ほどそうして笑いを堪えた後、ようやく治まったのか八咫烏の方へと体を向ける。


「……ねえ、八咫烏さん。この簪を『迷い家』に返せば良いのよね」

「ああ、何だ。決心でも付いたのか?」


 そして、確かめる様に彼女は八咫烏へと尋ねた。

 八咫烏はようやくかと言わんばかりの口調で答え、くいっと首を傾げる。

 おいおいおいおい、待て待て待て待て。


「金谷、良いのかよ。だってそれはお前の大切な宝物なんだろ?」

「……良くはないわ」

「だったら」

「でも、返さないといけないなって、そう思っているのも事実よ」


 どういう心境の変化か、金谷の突然の変容に僕はついていくのも精一杯だった。

 訳が分からない。顔を洗いに行くまで真逆の態度だったと言うのに、今では八咫烏の示した解決策に前向きになっている。

 わからなかった。僕にはどうして金谷が急にその気になったのかが、わからなかった。


「あいわかった。そうと決まれば善は急げだ。己が『迷い家』へと導こう」

「八咫烏」

「野暮な事を言うなよ、坊主。これは迷った嬢ちゃんが決めた事だ。お前さんが安易に口出しして良いことじゃあない」


 混乱する僕へと、その場に釘付けにされる様な迫力のある目を八咫烏は向ける。

 声音こそ普段通りバスの利いた頼もしいものだが、その内容は僕に動くなというものだった。

 わかってる、わかってんだよそんな事は。

 そりゃあ、金谷が自分で決めて『迷い家』から持って帰ってきた簪を返すのなら、一番良いのかもしれない。

 それはケジメで、折り合いだよ。だけど、金谷は本当に納得しているのだろうか?


「ありがとう、“桜真くん”。やっぱりあなたは優しいわ。でも、良いのよ。私は自分で考えて、自分で行動する事を決めた。……だけど、そうね。もしもあなたがそれでもと言いたいのなら」


 そこで言葉を止めて、金谷は綾峰とはまた違った女性特有の小さな手を開き、僕に差し出す。

 彼女の顔と手を交互に見る僕は、試されている様な気持ちだった。

 息を呑み、僕は金谷の言葉の続きを待つ。


「私と一緒に、来てくれませんか?」


 そう言い放った金谷の真っ直ぐな瞳は、惹き込まれそうになるほど美しく、真剣なもので。

 僕は迷わず、その手を取ったのだった。



 そもそもの問題として、金谷は自覚的に『迷い家』へと行く方法や条件を知っているわけではなかった。

 だが、その問題を無視して目的へと導く事が出来るのが、八咫烏という存在である。

 半ば反則と言っても過言ではない存在のおかげで、僕と金谷は件の『迷い家』へと訪れる事に成功した。

 と、言うよりワープさせられたと言った方が正しいだろうか。

 目を閉じて、開いてみればそこは山の中だったからだ。

 そんなわけで、僕の目の前には山中という景観から浮いている一般的な一軒家が、ポツリと存在している。

 赤い屋根で、二階建てで、玄関口の表札に『金谷』と書かれた一軒家。

 隣に立っている金谷の顔を見る。キュッと桜色の唇を引き締め、緊張している様だった。


「……行きましょうか」

「あ、ああ。わかった」


 歩み出す金谷の声には決意の色が濃く含まれていて、僕はその一歩後ろを着いて行く。

 鍵が掛かっていないのか、『迷い家』のドアは当たり前の様に開いて、僕ら二人を迎え入れた。

 玄関には、二足の靴が綺麗に置いてあった。サイズ的に金谷の両親が履いていたものだろう。

 僕らは靴と下駄を脱いで、境界を越える。


「私はね、“桜真くん”。薄々ながらだけど、わかっていたのよ」

「……何をだよ」


 金谷の思い出から再現された『迷い家』の廊下を歩きながら、彼女の独白めいた言葉に敢えて問う。


「此処は私の家じゃない。此処にあるものは、私や私の家族のものじゃない。ただ、全く同じものがあるだけなんだって」


 金谷は淡々としたペースで言葉を続ける。


「それでも、私は情けない事にこの家に訪れる度、期待を抱いていた」


 僕は黙して金谷の言葉に聞き入る。

 今はそうするべきだと思うし、そうしなければならないと思ったから。


「おかえりなさいって、お父さんとお母さんが、もしかしたらそう言って迎えてくれるのじゃないかって。この簪を付けていれば、この家にもいつか二人が現れてくれるかもしれない、なんて」


 廊下の隅、リビングの手前に僕らが着いた時、金谷の語る内容に自嘲が混じる。


「……そんな事、有り得るわけ無いのよね。嫌でも理解はしているの。お父さんとお母さんは、もう居ないんだって」


 僕らがリビングの中に足を踏み入れた時、金谷の声が震え始めた。

 彼女の発したその言葉で、僕は腑に落ちていなかった、見落としていたこの『迷い家』に存在していないとおかしいものに気がついた。

 両親だ。『迷い家』が金谷の記憶から彼女の求めていたものを再現しているというのなら、父親と母親が居ても何ら不思議ではなかったのである。

 だが、『迷い家』は両親をこの家に再現する事が出来なかったのだ。金谷の中で、その事にはもう決着が着いていたのだから。

 金谷が求めていたのは、あくまで喪われてしまった『形見』だったのだ。

 思いを語る振り返らない彼女の表情を、僕は見ることなど出来ない。


「私は、私はそれでも縋るような気持ちでこの簪を手にした。これは私の一番の宝物で、両親がどこにもいないのならせめてって……。それで、両親との繋がりである形見を求めたのよ」


 リビングの中央で、僕らは足を止めた。

 見渡してみると、広く、清潔で、それでいて温もりを感じられる様な空間だった。

 テレビの前にはガラスで出来た背の低いテーブルを挟む様に大きめな白いソファが配置されていて、キッチンもリビングと繋がる様になっている。恐らくだけど、料理をしながら家族で会話とかもあったのだろうなと想像する。

 テーブルの上には、ひとつの写真立てが置いてあった。金谷はそれを手に取って、愛おしそうに縁を撫でていた。


「……そんな事をしたって、現実は何一つ変わらないというのに」


 僕は金谷の寂しそうに呟いたその言葉を耳にして、両手に握り拳を作り奥歯を強く噛み締めた。

 ああ、そうだ。八咫烏が言うには、僕は何もしてはいけない。僕はただ、見ている事しか出来ない。

 これは儀式だ。金谷が決意して、迷い込んだ『迷い家』から出て行く為の儀式みたいなものなんだ。

 むざむざと宝物を手放す金谷の姿を、僕は見届けなければならない。過去と今を繋げる唯一の宝物を、また喪う体験を彼女にさせなければならない。

 僕はそうする事しか出来ない自分があまりにも無力に思えて、それがあまりにも情けなく思えた。

 だからと言って、無理やり彼女の意見を変えるわけにもいかないのもわかっているから、なおさらだ。

 傲慢だな、と八咫烏が今の僕が抱えている思いを知ったら、間違いなくそう吐き捨てるに違いない。


「ねえ、“桜真くん”。そう言えば、私とあなたは今日初めてまともに顔を会わせたというのに、お互い一度も自己紹介をしていなかったわね」

「えっ。……あ、ああ。そう言えばそうだな。すっかりと忘れてた」


 自分の無力感に苛まれている僕に、写真立てをテーブルに戻した金谷が振り返ってそんな事を言い出した。

 僕は話しかけられるとは思っていなくて、慌てながら声を上擦らせつつ何とか返答する。


「僕はお前の名前を元々知っていたし、金谷だって僕の事を名前で呼んでいただろ? それで、すっかりとタイミングを見失っていたのかな」

「そうなのかもしれないわね。……まあ、私はあなたの事なんて、今日会うまで知らなかったわけだけれど」

「クラスメイトの名前ぐらい、知っておけよ」

「知る必要ないと思っていたんだもの。学校には、学歴の為だけに行っている様なものだったから。というか、クラスメイトだったのね」


 今日初めて会った時の様な不遜な態度で、金谷は失礼極まりない事を僕へと言い放つ。

 渋い表情を浮かべる僕を尻目に、金谷はクスクスと笑って話題を続けた。


「まあ、そういう意味で言えば綾峰さんも意地悪よね」

「どういう事だよ」

「私たちの間に立ってそういう事が出来るのって、彼女だけでしょう?」


 言われて、確かにな、と僕は口元を緩めた。

 綾峰は普段こそしっかりとしているのだが、どこか抜けている性格をしている。

 そこがまた愛嬌と言うか、彼女が愛される部分でもあるんだけど、今回に関しては金谷の意見に同意だ。

 あの時では唯一、綾峰だけが僕らにそのタイミングを作る事が出来た。

 とは言え、そんな状況でもなかったなと、僕は思い出しながら心の中でぼやく。

 じゃあ何で金谷が僕の名前をしっかりと呼んでいたかと言えば、なんてことはない。綾峰がそう呼んでいたからなのだろうと僕は自分を納得させた。

 僕と金谷はそんな他愛もない会話をして、互いに微笑みあった。緩やかな時間が、『迷い家』のリビングに流れる。


「……なあ、金谷」

「言わないで。今だけは優しくなんてしないで。八咫烏さんも言っていたでしょう」

「安易に口出しするな、か。……わかってるよ、そんな事。わかってんだよ、そんな事。でも、それでも僕はお前の口からちゃんと納得しているのか聞いていない」


 そんな緩やかな時間を、僕は自分の手で破壊する。やっぱり僕は、物分り良くなんてしていられない。

 僕が金谷に差し出された手を取ったのは、本音を知りたかったからだ。

 僕がこうやって金谷に尋ねるのは、本当にそれで良いのか聞きたかったからだ。

 八咫烏は言っていた。これは別に、解決しなくても良い案件なのだと。要は金谷自身の気の持ちようだと。

 見方を変えれば、それは彼女がその宝物を手放さなくったってこの『迷い家』から出ていけるという事である。

 僕は最低だ。金谷の心にまた土足で入り込んで、なおかつ踏み荒らす様な事をしている。

 でも、このまま見届けてしまうくらいなら僕は最低で良い。傲慢だって軽蔑されても構わない。

 僕は綾峰に任せろと言ったのだ。力になれるかもしれないと、金谷にそう言ったのだから。


「僕を投げ飛ばして、馬乗りになって首を絞めてくるくらい、その簪が大切で手放したくない宝物なんだろ!? 僕と八咫烏がちょっと言ったくらいで納得しました、みたいな顔すんなよ。物分り良い顔すんなよ! 何でお前はそのまま我が儘言わないんだよ!!」

「知った風な口を利かないで! 私の何があなたにわかるっていうの!? ずっとずっとわかっていたのよ、ずっとずっと悩んでいた! 私は自分に嘘を吐いて、吐き続けてここに閉じこもってきただけなの! だから、それをもうやめようとしているだけなのよ!!」

「それが物分り良いって言ってんだよ!」


 良いじゃないか、嘘を吐き続けたって。

 確かに、この『迷い家』にお前は閉じこもっていただけなのかもしれない。この『迷い家』で足を止めていただけなのかもしれない。

 それでもわかってたって言うのなら、悩んでたって言うのなら、もっと他の方法だって探せる筈なんだ。

 そんな、子供みたいな我儘も許されて良いんだよ。だって、僕らはまだまだ子供なんだ。成人すら迎えていない高校二年生なんて、親を必要としている年代に違いないじゃないか。


「ああ、確かに僕にはお前の事なんてわからないさ、まだ会って一日も経ってないんだから。それでもな、金谷! 記憶にあるからそれで良いって、そんなの悲しすぎるだろ! そんなの、寂しすぎるだろ!!」


 思い出とは所詮、思い出でしかない。ヒトの記憶は色褪(いろあ)せていくし、ヒトの気持ちは時と共に変わっていく。

 このまま金谷がまた両親との思い出の詰まった簪を喪うのが良い事だとは、僕には到底思えない。

 金谷に望まれていなければ、この『迷い家』は見つけらない筈だった。八咫烏はその事に対して残酷な言い方をしていたが、僕はそんな風に考えていないのである。

 八咫烏の言っていたことの逆。金谷が望んだからこそ、この『迷い家』はそれに応えたと僕は考えている。

 ならば納得出来る形がひとつではない様に、折り合いの付け方だってひとつに(こだ)わる必要もないのだ。

 八咫烏が提示した解決策は、数ある中のひとつでしかない。あいつの特性上、一番近道になる様なものを取り上げて言っただけなのである。あいつは聞かれなければ答えてくれないだろうけど、知恵がそれだけなんてことは有り得ないのだ。


「……だったら、最初から答えを出す様な事しないでよ。私をその気にさせて、私の背中を押して、私に優しくして、私を追い詰めたのはあなたでしょう!?」

「だからこそ僕はお前の本音を聞きたいんだよ!」


 出来る事はすると言った時点で、協力を取り付けた時点で僕には責任というものが生じている。

 金谷の叫んでいることは、ああ、確かに僕を発端としたものなんだろう。

 だからどうした。だからなんだ。だからこのまま黙って見てろって言うのか?

 それこそ無責任極まりない、最低な行為だ。僕の行為で金谷が無理に片をつけようとしているのなら、尚更である。


「この家に来てから言ってた事は嘘じゃないよな!? 現実は何一つ変わらない? 変わってんだろ! お前のその手に握られた簪はなんだよ!!」


 少なくとも、その簪ひとつで金谷の心境に変化が起きていない筈はないのだ。

 確かに『迷い家』はそれに付随する形で、彼女を度々迷い込ませる様な事をしている。それでも簪があるのと無いのでは、心の持ち様だって変わっていたんじゃないのか。


「もっと単純に考えろよ! お前の何処に思い出を諦めなくちゃいけない理由があるんだよ! お前の何処に、負い目を感じなくちゃいけない所があるんだよ……!」


 今回、もしもこのまま金谷の抱えている事情が解決しなかったとしても、僕に彼女を責める権利などないだろう。むしろ、誰がそんな物を持ち合わせていると言えるのだろうか。

 これはそういう問題で、もしも悪人が居るとするならば、それは金谷の家に放火を行った犯人くらいだろう。

 しかし今、そんな事はどうでもいい。


「答えてくれよ、金谷。本当にその簪をこの家に返しても良いのか?」

「私は……」


 僕の最後通牒めいた問いかけに、金谷は今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。

 彼女は答えに詰まり、言葉に詰まり、何度も口を動かしては噤む。

 僕はそんな金谷を見つめて、答えを待った。

 時間が許す限り岩の様に動かないという気概で、そうしてその答えを聞いたら、それに従おうと決めて。

 別に、諦めるわけじゃないけれど。結局これは僕の我儘で、これまで僕が言った事は金谷にとって詭弁の様に聞こえていたかもしれない。

 それでもこれまで叫んだことは僕の偽らざる本音で、金谷に対して抱いていた気持ちだということに間違いなかった。

 そうしてどれくらいの時間が経ったのだろう。空白とも言える時間を置いて、金谷は意を決した様に口を開く。


「……私は、それでもこの簪を、『迷い家』に返すわ。私はそうする、そうしたいの。お願いよ、“桜真くん”。私にこの簪を、元あった場所に返させてください」

「……わかった」


 金谷の選んだ答えは、それだった。

 簪を握り締めて、真っ直ぐな視線を僕に返して、そうして口にした答えは……それだった。

 僕はそんな彼女に了解の意を伝えて、小さく笑みを浮かべる。

 これで、僕の我が儘へと答えてくれた金谷へこれ以上なにか言える立場ではなくなった。

 最後の最後にそれでも良いと金谷が言ったのなら、僕はそれで納得する。……するしか、ないのだ。



 金谷はその後僕を連れて、この家が焼失する事件の時まで使っていた二階にある自分の部屋まで向かった。

 その部屋の内装は今現在彼女が住んでいる武家屋敷の離れの中の様に、質素なものだった。

 勉強机に簪を持っていない左手を置き、瞳を閉じながら金谷は僕に言う。


「私はね、“桜真くん”。嬉しかったわ。初対面の筈なのにこんなに力を貸してくれて、最後までああ言ってくれて、必死になってくれて、本当に嬉しかった」


 唐突に感謝の意を示されて、僕は思わず馬鹿を言うなと漏らしそうになり、少し開いた口をすぐに閉じた。

 感謝されるような事なんて、僕は何もしていない。結局、僕はお前の本心を聞きたかっただけなのだ。

 その為に声を荒げたりもしたのだから責められたって文句も言えないのに、何でそこで感謝が出てくる。


「綾峰さんにも感謝しなければいけないわね。彼女があなたを頼っていなければ、私はこうして決心出来ず、この『迷い家』に何度だって迷い込んでいたでしょうから」


 これは『不幸な事故』なのだ。

 元々、全くの接点など生まれる筈もなかったし、生むつもりもなかった。本来ならば僕が関わる必要も、要素も、関係性もなかったのだから。

 その場に居たからそうなった。その場で見られたからそうなった。その場に行き遭ってしまったからそうなった。その場、その時に不幸にも現れてしまったからそうなった。

 そういう類のものだったのに。


「ありがとうございます、“桜真くん”。あなたのお陰で私はきっと、未来(まえ)に進めます」


 そう言って、金谷はあっさりと簪を勉強机の上に置いた。

 この『迷い家』に、放火される前の金谷の家に元々置かれていたその宝物を戻した。

 ポタ、と水滴が落ちる音を僕は耳にする。僕の足は自然と部屋を出て、階段で止まった。

 閉められたドアの隙間から聞こえてくる泣きじゃくった声なんて、僕には聞こえなかった。


(……気の持ち様、か)


 きっと、僕の今回の行動は金谷の事を掻き乱しただけなのだろう。

 助けたかったとは口が裂けても言えないけれど、だからって金谷の事情を知りながら何もしなければ良かったとも言えない。

 本当に僕は必要だったのか、という問いは無意味だ。そんな事を論ずるくらいなら、そもそも僕は此処に居るべきではないだろう。

 さて、そんな陰気臭い事を考えるよりも、帰ったら綾峰にどう報告するべきかをそろそろ考えなければならない。

 彼女を家に返す為の方便としても使ってしまったし、まあそもそも伝えなければならない立場にあるだろうし、どう伝えるか悩む所だ。

 そんな風に頭を抱えてどうしたもんかなとしていると、背中越しにドアの開く音が聞こえた。

 そのまま金谷が出てきたのだろう足音もして、僕は立ち上がって振り返る。


「ごめんなさい、気を使わせてしまったようね」

「何のことやらわからないな。……それは兎も角、帰ろうぜ」


 金谷の赤くなった目元には、泣きはらして出来た隈がくっきりとあった。

 時おり、鼻をすする音をさせているので下手に声を掛ける気にもならなかった。

 僕が苦し紛れに出した提案に金谷が頷くのを確認して、先にそのまま階段をゆっくりと降り始める。

 もうこの『迷い家』に金谷が来ることはないと信じたくて、だったら彼女にはこの家の中をしっかりと改めて記憶していて欲しかった。

 金谷はそんな僕の意図を汲み取ってくれたのか、階段を降りるペースを僕に合わせてくれていた。

 そうして玄関に繋がる廊下に出た所で、金谷が僕の着ている学ランの裾を掴んだ。


「どうした、金谷」

「……ねえ、“桜真くん”。自己紹介をしましょうか」


 それはあまりにも唐突な切り出しだった。タイミングとしてもあまりにも変で、僕は思わず吹き出す様に笑う。

 振り返ってみれば金谷も小さく笑っていて、そうだな、と僕は呟いた。


「じゃあ、まずは僕から。僕の名前は和堂桜真(ワドウオウマ)。和風の和に威風堂々(いふうどうどう)の堂、桜の真実と書いて和堂桜真だ。私立比内田高校の二年生で、お前のクラスメイト。よろしくな」

「次は私ね。私の名前は金谷蕣(カナタニアサガオ)。苗字は金色の谷と書いて金谷、名前の(アサガオ)は漢字検定一級で出される難しい方の漢字ね。私立比内田高校の二年生で、あなたのクラスメイトよ。よろしく」


 そうして、僕らの随分と遅れた自己紹介は滞りなく終わる。

 この時、この瞬間から僕らは綾峰を共通にした知り合いという関係ではなくなった。

 僕には金谷蕣(カナタニアサガオ)という新しい友人が出来て。

 金谷には和堂桜真(ワドウオウマ)という新しい友人が出来た。

 金谷の表情は憑き物が落ちた様に晴れやかなもので、中性的な顔立ちも相まって、とても美人だなと僕は思った。


「……多分、これからずっと、ね」


 玄関口。僕が靴を、金谷が下駄を履いた所で、彼女は何かを呟いていた。

 僕はその内容が聞き取れず首を傾げて見せると、金谷はそれを気にするなと言わんばかりに首を左右に振る。

 その直後だった。『迷い家』を出ようとしたその時、金谷が足を止めて勢いよく振り返ったのは。


「――うん、うんっ。行って来ます、お父さん、お母さん……!」


 そうして感極まった震える声で、彼女は『迷い家』へと完全に別れを告げる。

 僕にはその姿は見えなかったけれど、目を見開いていた金谷には何かが見えていて、何かが聞こえていたのだろう。

 大粒の涙を流しながら最後に『行って来ます』と笑顔で言った金谷の表情に、僕は見蕩れた。

 まるで、朝露に濡れながら美しく咲き誇る、『アサガオ』の様だったから。


 僕らはそうして、家路に着く。僕らの今、暮らしている家へと帰る。

 どうしようもなく当たり前なことだけれど、その当たり前をもう少ししっかりと噛み締めよう。

 今回色々とから回っていた僕は、心の中でそう思うのだった。

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