十八話 ナターシャの涙
「ったく、やれやれだぜ」
最後の客が帰り、カランカラン、という音がだんだんと静かに鳴り止み扉がパタンと閉まる刹那、嵐の様に現れ去って行ったタチアナさんを思い出していた。
彼女は最後まで掴み所がなかったが、底抜けに明るい人である事だけははよくわかった。
「ケンタ様……」
「ってうわナターシャ!? こんなとこにいたのかよ!」
いつの間にかカウンターの内側に体育座りで座り込み、どよ〜んとした空気を纏うナターシャがケンタの足元にいた。
「はー、ビビった。いるなら声くらい掛けろよ。幽霊かと思ったじゃん」
「……すみません」
とりあえずカウンター側に座ってもらったが、さっきから何を話しかけてもこの調子で謝られてばかりだ。
ナターシャなりに先日の事を気にしているのだろうが、現実問題、赤の他人の俺が大した事が出来るわけでもなく、するべきではないと思っている。
ーーゴトン
「ほい。俺の奢り」
最近嵌っている缶詰を利用した飲み物作りで、今の所一番美味かったものをナターシャ差し出した。
ナターシャはお礼を言うと、ごつい木製のコップの中に入っているロングスプーンを不思議そうに見ている。
「スプーンがついてる? わっ、果物が下にたくさん! それに真っ白……これは牛乳ですか?」
「まあ、飲んでみてよ」
「はい! ……んくんくっ」
店主特製のココナッツジュースを一口含むと、目を輝かせたナターシャは直ぐそのまま二口、三口と続けた。
これは適量の牛乳、マンゴーの果物缶を果肉とシロップ丸ごとココナッツミルクと混ぜて味見しながら作ったものだ。
砂糖や蜂蜜は高価なのか販売している商店が見当たらず手に入らなかったので甘さ控えめだが、ナターシャにはお気に召したらしい。
「因みに、今なら特別に当店自慢の店主も付いてくるんだけど?」
「……ふふっ。ありがとうございます」
甘味のおかげで、少し笑顔を取り戻したようだ。
俺に唯一できる事と言えば、話を聞いてやるくらいだと思う。
「私、母と一緒に何かした事がないんです」
「え?」
話を聞いていくと、ナターシャとタチアナさんは幼少期から一日中一緒に同じ時間を過ごした事がないと言う。
家の中にいたはずが、少し目を離せば「お母さんは出かけたよ」と言われ、遠出するのはいつもアルベルトさんと2人きり。
学生時代、学校の参観日に来るのももちろんアルベルトさん。
父親であるアルベルトさんは、永い時を生きる種族だから時間の感覚が違っても仕方がないのだと幼いナターシャが癇癪を起こす度にそう言って宥めていたそうだ。
「仕方がないことだとわかってたんです。わかっていたはずなんですけど……」
前回、タチアナさんが失踪する前に、アルベルト商会主催のファッションショーを予定していた。
ランウェイを歩くようなものではないらしいが、満場一致で大トリを飾る主役として選ばれたのはタチアナさんで、自身も10代の端役として舞台に立つことになっていたナターシャは、はじめて母親と共同作業が出来るとすごく喜んでいたそうだ。
しかし、期待はまたもや裏切られる事となる。
「……何してるの、お母さん?」
「ごめんね。直ぐに帰ってくるから」
ファッションショーの前日。
最後の打ち合わせだと気合いを入れて父と母の部屋を訪ねると、母は旅の衣装に着替えていた。
「え? ちょっと待って……」
母は旅に出ると、最低半月は帰って来ない。
でも、ファッションショーは明日に控えている。
「っすまない! タチアナは行かなければならないんだ」
「お父さん!? やだ、離して! 意味がわかんないよ……!」
母に思わず飛びかかろうとしたナターシャを抱きとめて、「ごめん、ごめんな」と繰り返すばかりの父。
両親に何か事情がある事は、薄々気付いていた。
そしてそれをナターシャに言えないんだという事も。
ーーでも。
……楽しみに、してたのに。
一緒にしようって言ってくれて、すごく嬉しかったのに。
こんなことなら、最初から言って欲しくなかった。
約束なんかしたって守れなきゃ意味がない。
なんで、なんで嘘をついたの?
「母には仕事がどうのって言いましたけど、本当はそんなことどうでも良かったんです」
今回の失踪期間は特に長くて、あんな別れ際だったから余計に心配だった。
もし、母に何かあったらどうしよう。
母に万が一の事があれば、あれが最期の思い出になってしまったら。
もう全部許すから。我儘言わないから。
早く、早く無事で帰って来てーー。
無事であれば何でも良いからと、帰ってくる母を見つけたい一心で日中は草原や森に入り浸り、毎晩祈りながら寝床についていた。
それが、何事もなかったかのようなあっけらかんとした笑顔で帰って来て、悔しくなってしまったのだ。
「……ただの八つ当たりです」
私、最低ですよね。
帰宅を喜んで上げるどころか責めてしまった、と自責の念に駆られているのか、ナターシャはそう自嘲する。
だが、俺は全くそうは思わなかった。
「すみません。仕事終わりなのに愚痴を聞かせてしまって」
「ううん、全然」
人の家庭に他人が首を突っ込むべきではない。
今でもそう思っているのに、気付けば帰ろうとするナターシャを引き止めて、アルベルトさん宛ての手紙を書いていた。




