鏡界線
吹き荒れる気まぐれな嵐風の狂気
室内では暖炉の赤い輝きと
子供時代の喜びの巣
魔法のことばが汝をしっかり捕らえ
汝は荒れ狂う風雨に気づくこともない。
──ルイス・キャロル「鏡の国のアリス」*1
*
こんにちは。
とってもすてき。わたしの話をきいてくれる人がいるなんて。
ねえ、そこにいるわよね?
…………。
そう……返事はしてくれないの?
わたし、あなたがそこにいるってこと、しっているよ。
だれにもしられないで合わせ鏡をのぞいたら、十三番目にはべつの人がうつるんだって。わたし、ちゃんときいたもの。
…………。
ほら、これ、女王さまの手鏡みたいだとおもわない? ごつごつした花びらの絵がいっぱいついているし。彫刻っていうのかしら? きっとこれは百合の花びらね。とがっていて、くるりんとした先っぽがいくつもあるもの。裏の絵は百合の花輪になっているのよ。まあるいお月さまの中にわたしがうつっているみたい。そんな一番目のわたしのうしろにうつっているのは波のない湖ってところかな。それはね、古い鏡台よ。二番目のわたしがうつっているでしょう?
そして十三番目はあなた。──ねえ、あなたはだあれ?
…………。
そう。返事はくれないんだっけ。それじゃあまた明日。
こんばんは。
今日はじめて声をだしたわ。今この時までだれとも話していないのよ。チェス盤の駒たちが眠ったから、わたしはあなたに会いにゆくの。
ほら、なにかいってよ、十三番目のあなた。──ねえ、あなたはだあれ?
…………。
今日も返事をくれないつもりなのね。もしかして、わたしと話したくないの? あなたもあのいじわるな駒たちといっしょなの?
もういいわ。それじゃあまた明日。
おはよう。
お日さまきらきらまぶしいね。朝が来れば日なたと日かげのチェック模様がひろがる。そして今日も駒たちがうごきだすの。わたしのことなんか見向きもしないで。
すみっこにぽつんと立っている駒はわたし。役立たずの駒なんていつものようにたおしていけばいいんだわ。
ほら見て、十三番目のあなた。これがわたしなの。パパやママやお兄ちゃんや、子猫ちゃんにまで邪魔者あつかいされるのがわたし。駒がとおりすぎるとき、邪魔な駒をはじくみたいに。邪魔邪魔と手で追いはらうの。キングもクイーンも役立たずのポーンのことなんてそっちのけ。
あなたはもっているかしら? お花の涙ほどの小さな思いやりくらいなら。
チェス盤に影もうつらないさみしいわたしをあなただけは見つけて。もしもわたしのことをかわいそうとおもってくれるのならね。
おねがいよ、声をきかせて。──ねえ、あなたはだあれ?
…………。
うん。わかっていたわ。返事がないってことくらい。
お話をきいてくれてありがとう。それじゃあまた明日。
こんばんは。
夜がおうちの中までやってきたわ。いじわるな駒たちがすむチェス盤も夜でいっぱい。白と黒のチェック模様もまっくらで見えない。このままずっと夜ならば、さみしいのはわたしだけではなくなるのにね。
今夜もわたしは百合の手鏡をにぎりしめ、合わせ鏡の奥をのぞいているの。けれどもあなたはだまったまま。やっぱりなにもこたえてはくれないのね。あなたはほんとうにいるんでしょう?
──ええ、いるわ。
はじめまして。鏡の外のあなた。冷たい湖と月に閉じ込められたわたしに話しかけてくれたひと。冴え冴えとした白い月と凍てつく冬の夜にすむひと。
まあ。信じられない。ほんとうにいたなんて。いいえ、信じてはいたのよ。信じてはいたのだけれど……。ああ。ほんとうに? ほんとうにあなたなの?
ええ、もちろんほんとうよ。あなたの話は聞こえていたわ。いきなり話しかけたら驚かしてしまうと思っていたのよ。わたしだってあなたとお話してみたかったの。ずっと、ずうっとね。
だってわたしもひとりきりなんだもの。
ねえ、お願いがあるの。わたしとお友達になってくれないかしら? もしもわたしのことが怖くなければでいいのだけれど。
うれしい。こわくなんてないわ。ちっともこわくない。
お友達なら名前をおしえて。
あなたはだあれ? わたしはみよ子。
みよ子ちゃんっていうのね? みよ子って呼んでもいい?
ええ、わたしの名前も教えるわ……わたし……わたし……わたしはだあれ?
わたしは、そう──わたしはアリス。
*
こんばんは、アリス。
こんばんは、みよ子。
ああ。なんてすてきなのかしら。こうして毎晩あなたとお話しできるなんて。
あのね、今日はね、こんなことがあったの。子猫ちゃんったらひどいのよ。
涙をこぼしそうなほどにうつむいているから、どうしたの? って声をかけたのね。するとパッとふりむいて、そこにいるのがわたしだとわかると、プイッとどこかへいっちゃったの。
まあ、そうなの? 失礼しちゃうわね。それで? それからみよ子はどうしたの?
ええ、それからね、わたしはいつもママがやっているみたいにカリカリをお皿にいれてあげたの。子猫ちゃんのいたところにはからっぽのお皿があったんだもの。きっとごはんがほしかったのよ。子猫ちゃん、ごはんをどうぞって呼んだけれどちっともこないから、抱っこしてつれてきてあげようとおもったの。
それなのにあの子ったら、ちょっと持ち上げただけでさけんだのよ。フギャー! って。わたしびっくりして落としちゃった。
もちろんケガなんてしていないわ。子猫ちゃんはね。わたしは引っかかれたけど。ほら、見えるでしょう? 手首のところ。もう血はかわいてきたけれど、まだいたいわ。
まあ、ほんとうに? それはひどいわ。わたしの大切なお友達を苦しめるなんてゆるせない。
ああ、かわいそうなみよ子。血が出るほどに引っかかれてさぞいたかったでしょうに。
それだけじゃないのよ。子猫ちゃんがそのあともフーッ、フーッてうなるから、お兄ちゃんが心配してみにきたの。だからわたしは子猫ちゃんったらひどいのよっていおうとおもったの。それなのにお兄ちゃんったらまっすぐ子猫ちゃんのところにいって、こういうの。猫だってかぞくなんだぞ。いじめてるんじゃないぞ。って。子猫ちゃんはきゅうにかわいい声でニャ~ンとかないちゃって、お兄ちゃんのまあるいおなかにだきつくもんだから、わたしかなしくなっちゃって、なにもいわずにもどってきたの。
ねえ、どう思う? わたしは悪くないわよね?
ええ、もちろん。あなたはちっとも悪くなんかない。悪いのは子猫ちゃんよ。許せない。許せないわ。
ああ、みよ子。愛しのみよ子。わたし、あなたの力になりたいわ。信じて。あなたにはいつだってわたしがついているのよ。
うれしいわ。あなたがいてくれてどんなに心強いことか。
お話をきいてくれてありがとう。だいすきよ、アリス。おやすみなさい。
おやすみなさい、愛しのみよ子。
アリス! ねえ、アリス! ちょっときいてよ。
まあ、みよ子。今日はずいぶんあわてているじゃないの。
そうよ! だって今日、子猫ちゃんが死んだのよ。いろんなところがいろんな向きから切られていたの。
子猫ちゃんはシャンプーのあとみたいにびっしょり濡れていたそうよ。耳なんてとれかかっていたって。
おどろいたわ……。あの子に引っかかれたときは、まさかこんなことになるなんて……。
あら。おめでとう、みよ子。よかったわね、いじわるな子猫ちゃんがいなくなって。あなたにケガなんかさせるから死んだのよ。いい気味だわ。みよ子は子猫ちゃんのことをちゃんと見たのかしら。さぞかしせいせいしたでしょうね!
ううん。わたしはみていないの。パパやママはわたしにはみせてくれないんだもの。お部屋にもどっていなさい、って。ぐいぐい背中をおされたわ。邪魔な駒は退場ってわけ。
子猫ちゃんはね、お兄ちゃんがみつけたの。子猫ちゃんがごはんの時間になってもお皿の前にこないから家中さがしたんだって。でもどこにもいなくて……。
それで? それからどうなったの? 早く続きを聞かせて。
それでね、お庭をみようとしたけれどお外がくらくてよくみえなかったんだって。だから窓をあけてお庭にでたら、ヌルッてすべってサンダルがぬげて、ころんじゃったらしいの。それでサンダルをひろって──そうしたらそこにヌルヌルになった子猫ちゃんがいたってわけ。
ほらね、やっぱりあなたはちっとも悪くなかったのよ。悪い子猫ちゃんは死んじゃった。みよ子をいじめる子は死んじゃった。
ほ~ら。もう安心。
アリス、アリス。わたし、なんだか怖いわ。
そんなにふるえないで。だいじょうぶよ。
ああ、みよ子。愛しのみよ子。わたし、あなたの力になりたいわ。信じて。あなたにはいつだってわたしがついているのよ。
そうよね。わたしにはアリスがいるもの。ええ、もう怖くなんかないわ。あなたがいてくれてどんなに心強いことか。
毎晩お話をきいてくれてありがとう。だいすきよ、アリス。おやすみなさい。
わたしこそいろんなお話を聞かせてもらえてうれしいわ。小さなできごと、大きなできごと、なんでも話してちょうだいね。
おやすみなさい、愛しのみよ子。
こんばんは、アリス。
こんばんは、みよ子。
ねえ、アリス。ちょっときいてよ。
今日ね、こんなことがあったの。お兄ちゃんったらひどいのよ。
ママがいつもみたいにおやつを用意してくれていたの。そうよ、テーブルの上にフカフカの蒸しパン。ママの手づくりよ。わたし、ママの蒸しパンだいすき。
それでね、わたしが席について蒸しパンをもったとたん、椅子から落ちていたの。蒸しパンじゃないわ、わたしが落ちたのよ。どうしてだかわかる?
さあ? わからないわ。どうしてみよ子がそんな目に? 教えてちょうだい。
お兄ちゃんよ! お兄ちゃんがわたしをつきとばしたの! これはぼくのおやつだ! って。そんなにくいしん坊だからあんなふうにまんまるなおなかをしているんだわ。アリスをお兄ちゃんにあわせてあげたいわ。みたらびっくりするわよ。たまごみたいなんだから。
まあ、ほんとうに? それはひどいわ。わたしの大切なお友達を苦しめるなんてゆるせない。
ああ、かわいそうなみよ子。おやつもとられて、つきとばされてさぞいたかったでしょうに。
椅子から落ちたときにひざをうったの。ほら、ここ、あざになっている。いたいとおもったもの。
あのね、アリス。あなたならわかってくれると思うの。わたしの蒸しパンがお兄ちゃんのおやつだなんて、もちろんうそよ。お兄ちゃんはじぶんのぶんをもうたべちゃったものだから、うそをつくの。
わたしはひとのものをとったりしないわ。
ねえ、どう思う? わたしは悪くないわよね?
ええ、もちろん。あなたはちっとも悪くなんかない。悪いのはお兄ちゃんよ。まんまるたまごのお兄ちゃんはうそつきでいじわるね。許せない。許せないわ。わたしのみよ子を傷つけるなんて。
ああ、みよ子。愛しのみよ子。わたし、あなたの力になりたいわ。信じて。あなたにはいつだってわたしがついているのよ。
うれしいわ。あなたがいてくれてどんなに心強いことか。
お話をきいてくれてありがとう。だいすきよ、アリス。おやすみなさい。
おやすみなさい、愛しのみよ子。
アリス! ねえ、アリス! ちょっときいてよ。
まあ、みよ子。そんなにあわててどうしたの? まるでいつかのようじゃない。
そうよ! あの時と同じなのよ! 今日、お兄ちゃんが死んだのよ。
二階から階段をまっさかさま。一階のろうかには割れたたまごがトロリとたまっていたわ。まっかなたまごがね。
おどろいたわ……。お兄ちゃんにつきとばされたときは、まさかこんなことになるなんて……。
あらまあ。おめでとう、みよ子。よかったじゃないの。いじわるなお兄ちゃんがいなくなって。あなたにうそをついてケガなんかさせるから死んだのよ。いい気味だわ。みよ子はお兄ちゃんのことをちゃんと見たのかしら。さぞかしせいせいしたでしょうね!
ううん。わたしはよくみていないの。パパやママはわたしにはみせてくれないんだもの。お部屋にもどっていなさい、って。下からものすごく怖い声でさけぶんだもの。今回も邪魔な駒は退場ってわけ。
お兄ちゃんが落ちていく音がきこえたの。はじめはなんの音だろうとおもったのよ。ゴトンゴトンって足もとにひびくから。部屋をでてみたら、おおきなたまごが転がり落ちる。ゴトンゴトンって右に左にぶつかりながら。わたし、おどろいちゃって声もでなかったわ。
それで? それからどうなったの? 早く続きを知りたいわ。
それでね、落ちたたまごは割れて中身がとびでちゃった。なんだかへんな形にかわっていたの。腕ってこんなところで曲がったかしら? 足ってこんな向きに生えていたかしら? そんなことを考えていたらパパとママにどなられてしまったからもどってきたの。
ほらね、やっぱりあなたはちっとも悪くなかったのよ。悪いお兄ちゃんは死んじゃった。みよ子をいじめる子は死んじゃった。
ほ~ら。もう安心。
アリス、アリス。わたし、なんだか怖いわ。やっと子猫ちゃんのことを忘れかけていたのに、今度はお兄ちゃんだなんて。
そんなにふるえないで。だいじょうぶよ。あなたが怖がることなんてなにもないわ。そう、なあんにもない。
ああ、みよ子。愛しのみよ子。わたし、あなたの力になりたいわ。信じて。あなたにはいつだってわたしがついているのよ。
そうよね。わたしにはアリスがいるもの。こうして毎晩あなたとお話できてうれしいわ。いやなことも怖いこともあなたにきいてもらえばたちまち薄れていくの。あなたがいてくれてどんなに心強いことか。
今夜もお話をきいてくれてありがとう。だいすきよ、アリス。おやすみなさい。
今夜は久々に愉快なお話だったわ。明日からもいろんなお話を聞かせてね。
おやすみなさい、愛しのみよ子。
こんばんは、アリス。
こんばんは、みよ子。まあ、どうしたの? その姿は?
それがね、アリス。ちょっときいてよ。
今日ね、こんなことがあったの。ママったらひどいのよ。
ここのところまいにち寝てばかりいるの。おやつはなくなってしまったし、ごはんだって夜パパが買ってくるお惣菜だけ。だけどね、今日はパパ、出張なんだって。おうちにかえってこないんだって。だからママにいったの。今日のごはんは? って。わたし、きいただけなのよ?
ええ、わかるわ。いけないママね。それくらい聞いて当然よ。
そうでしょう? それなのにママったら、いきなりほえたのよ! そう、トラやライオンみたいにガオーッて。ほんとうよ。それから「かってにたべればいいでしょ!」とかいって冷蔵庫をあけていろんなものをなげてきたの。チーズとかハムとかマヨネーズ、トマト、豚肉、納豆、おしょうゆ、バター、ヨーグルト……。手あたりしだいになげるからわたしやかべにいっぱいぶつかって、中身がとびちって、部屋はきたなくなるし、生ごみみたいなにおいがしてきたの。わたしにもおしょうゆやヨーグルトがかかってぐちょぐちょになっちゃった。
まあ、ほんとうに? それでこんな姿なのね。ひどいわ。ひどすぎるわ。わたしの大切なお友達を苦しめるなんて許せない。
ああ、かわいそうなみよ子。こんなによごされてつめたかったでしょうに。
それだけじゃないのよ。ママはわたしなんていなければよかったっていうの。ずっとそうおもっていたって。わたしよりたまごみたいなお兄ちゃんや女王さま気どりの子猫ちゃんのほうが大事みたい。
わたし、ただごはんのことをきいただけなのよ?
ねえ、どう思う? わたしは悪くないわよね?
ええ、もちろん。あなたはちっとも悪くなんかない。悪いのはママよ。とんだクイーン気取りね。小さなクイーンの子猫ちゃんも生意気だったけれど、ママにくらべればずっとましだったわ。許せない。許せないわ。わたしのみよ子を苦しめるなんて。
ああ、みよ子。愛しのみよ子。わたし、あなたの力になりたいわ。信じて。あなたにはいつだってわたしがついているのよ。
うれしいわ。あなたがいてくれてどんなに心強いことか。
お話をきいてくれてありがとう。だいすきよ、アリス。おやすみなさい。
おやすみなさい、愛しのみよ子。
アリス! ねえ、アリス! ちょっときいてよ! 大変なのよ!
いやあね、みよ子ったら大声出して。お行儀悪いわ。そんなにあわてていったいどうしたというの?
静かにお行儀よくなんてしていられないわ。だって今、こんなことがあったのよ。ママが死んだの。ねえ、信じられる? ママが死んだのよ。
お酒をのんでテーブルでねむったままおきないの。さわってみたらびっくりするくらいつめたくて。ママはおしょうゆやヨーグルトでグチョグチョにぬれて、それがシャリシャリにかたまって死んじゃった。お勝手口や窓があいていて、キッチンはものすごくさむかった。まるでお外にいるみたいに。
おどろいたわ……。ママにいろいろなげつけられたときは、まさかこんなことになるなんて……。
ふふふ。おめでとう、みよ子。よかったわね。いじわるなママがいなくなって。あなたにケガなんかさせるから死んだのよ。いい気味だわ。さぞかしせいせいしたでしょうね! ああ、どうしよう。心の底から笑いがこみ上げてくるわ。なんてすてきなのかしら。
神様はちゃあんと見ているのよ。やっぱりあなたはちっとも悪くなかったの。悪い子猫ちゃんは死んじゃった。悪いお兄ちゃんも死んじゃった。悪いママも死んじゃった。みよ子をいじめるからみんな死んじゃった。なんてすてきなのかしら。みよ子をいじめるやつらなんかみんなみ~んな死んじゃえ~!
──ねえ、アリス。もしかしてあなた、よろこんでいるの? わたしをいじめた人たちが死んでうれしいの?
おかしなことを聞くのね。決まっているじゃない。もちろん嬉しいわよ。だってそうでしょう? あなたを傷つけるものは許さない。
そんなにふるえないで。だいじょうぶよ。
ああ、みよ子。愛しのみよ子。わたし、あなたの力になるわ。信じて。あなたにはいつだってわたしがついているのよ。あなたにはわたしが必要なのよ。
アリス、アリス。わたし、なんだか怖いわ。あなたのことが怖いのよ。
まあ、みよ子。どうしてしまったの? わたしはいつだってあなたのためを思っているのに。あなたのことだけを思っているのに。
身体に刻まれた赤い糸はみよ子には似合わない。赤の女王の方がお似合いよ。
卵はどしんと落ちて割れたらおしまい。ひとのものを横取りすることもできやしない。
ポーンだって進めばクイーンになれるもの。新たなクイーンはあなたよ、みよ子。
ああ、やっぱりあなただったのね。あなたが進めたチェスなのね。昼と夜を渡り歩きながらポーンがクイーンに変わるように仕向けたのは。
ええそうよ。だったらなんなの? 邪魔なんだから死んでもらえばいいじゃない。みよ子が望んだことでしょう?
わたしは望んでなんか……
あら、そうかしら? ほんとうに望んでいなかったって言える? 消えちゃえばいいって思わなかった?
でも、だからって……
しっかりなさいよ。これでいいのよ。
ええ、ええ、そうよ。私がやったのよ。全部、ぜぇ~んぶね。
だけど、鏡の中のあなたがどうやって……?
そんなの簡単。鏡があればどこだって。夜の窓ガラス、光るドアノブ、階段の手すり、張られた水、あなたの瞳──わたしはいつでもみよ子のそばに。
そんな。いつもそばにいてほしいなんて言っていないわ。わたしは話をきいてほしかっただけ。
話? なんの話? あいつが死ねばいい。こいつも死ねばいい。だったらみんな殺しちゃおう。──そういう話でしょう?
ちがう、ちがう、ちがう! そんな話じゃない。わたしはそんなことのぞんでいない。
あなたが望んでいないのなら、誰が望んだの? さあ、言ってごらん。誰が死を望んだの?
わたし? いいえ、ちがうって言っているじゃない。
あなたでないならわたし?
わたしでないからあなた?
あなたはだあれ? わたしはだあれ?
あなたはあなた。わたしはわたし。
わたしはわたし。あなたはあなた。
あなたはだあれ? わたしはだあれ?
あなたはわたしでないあなた。
わたしはあなたでないわたし。
あなたはだあれ? わたしはだあれ?
あなたはあなた。わたしもあなた。
あなたはだあれ? わたしはだあれ?
あなたはわたし。わたしもわたし。
あなたもわたしもわたしもあなた。
あなたはだあれ?
わたしは──────
*
…………。
…………。
………………。
……………………。
…………………………。
………………………………。
……………………………………。
「なんだこれは……!」
あら。パパが帰ってきたみたい。
「ママ、ママ! しっかりしろっ!」
まあどうしましょう。わたしもママみたいにグチョグチョに濡れたままだわ。ああ、パパがやってくる。お洋服を汚してしまって叱られるかしら。でもわたしがやったんじゃないもの。ママよ。ママがいけないのよ。
パパ。どうしたの? そんな怖い顔をして。
「母さん! いったいなんてことを!」
そんな乱暴に揺らさないで。お洋服を汚したのはわたしじゃないわ。ママよ。あの女のお洋服を汚したのはわたしだけどね。
パパ。あなたも子供の頃は食べ方が下手でいつもこんな感じだったのよ。ああ、懐かしいわね。あなたが生まれたのも今日みたいに寒い真冬だったわね。
わたしはだあれ? わたしはみよ子。わたしはだあれ? あなたの母親。
さあ、寒かったでしょう? すぐに暖かくしてあげるわ。あの頃のように抱き締めてあげる。
「…………!」
──ほら。あたたかいでしょう。もっとあたたかくなるように、わたしの思いをわが子の胸に深く深く刻み込みましょう。あなたの胸からこんなにあたたかな思いが流れ出てくる。わたしも寒いわ。あの頃、まだ目の見えないあなたを抱いているととてもあたたかかった。戻りましょう、あの頃に。懐かしいわね。あたたかいわね……。
ねえ、アリス。まだそこにいる?
ほら、これ、女王さまの手鏡みたいだと思わない? 細やかな凹凸が美しい花弁重なる彫刻。きっとこれは百合の花。鋭利な先端は緩やかな曲線を描く。裏面には百合の花輪。まあるい月のような手鏡に映るわたしの姿。そのわたしの背後に見える凪いだ湖面。いいえ、それは古い鏡台。わたしの嫁入り道具。幾星霜も共に暮らした鏡台。
手鏡と鏡台で合わせ鏡。この手に、この顔に、皺が刻まれていくのをずっと眺めてきた鏡たち。ずっと側にいたお友達。だれにも知られないで合わせ鏡を覗いたら、十三番目には……
ねえ、アリス。まだそこにいる?
鏡が赤く曇ってよく見えないの。そちらは冷たいわね。わたしの手は夏の日射しを絡めたようにねっとりあたたかいのに、そちらは冬の月影が闇を切りつける刃物のように白く冴えている。
あなたはだあれ? わたしはみよ子。
十三番目に映るわたしが進み出てくるわ。共に生きた年月を数えるように無数の皺に覆われた顔。知っている。わたしはあなたを知っている。
わたしはだあれ? わたしはみよ子。あなたはわたしでわたしはあなたでみよ子はわたしであなたはわたしの一部であなたは………………
──ねえ、あなたはだあれ?
わたし?
わたしは──────アリス。
【引用】(巻頭言)*1:ルイス・キャロル「鏡の国のアリス」©2000 山形浩生 プロジェクト杉田玄白正式参加作品