楽園シリーズ
きっかけは、どこにでもありそうな喫茶店を見つけた事から始まった。
「ご注文は?」
「・・・あー、コーヒーで。エスプレッソね。」
たまたま寄った喫茶店は静かに流れるジャズがいい雰囲気を出していて、軽い仕事をするのには持ってこいだった。人も多すぎず、人々はゆったりと過ごしていた。
ここらなら会社も近いし、休憩がてらに丁度いいだろう。私は、持ってきたパソコンを開き、仕事をはじめた。
「お待たせしました。」
ことり、と置かれたコーヒーは店の人の手が離れてもしばらく揺れている。私は、カップを持ち口に含んだ。鼻に通る、香り。そして、舌を刺激する、味。それはなかななもので、私の舌をうならせた。
しかし、この日は三時間ほどして帰った。が、また来ようと店の場所を覚え会社へと戻った。次は休みの日にでも行ってみてもいいだろう。窓辺のテーブルでお気に入りの本を読もう。
私は少し浮きだった足で会社に向かうのであった。
* * *
数日後。今日はお気に入りの本をもってあの喫茶店に訪れていた。
カランカラン、とドアを開くとコーヒーのいい香りが鼻をかすめる。
「こんにちは」
所々に白髪が生えた店主は、少し前に来ていたのを覚えていたのか笑顔で挨拶をしてくれた。
「こんにちは。また来ちゃいました」
「いえいえ、こんな辺鄙なところでよろしければいつでもどうぞ」
ここは大通りから離れていて来る途中小さな路地を通る。
・・・ほんとに、よくここにたどりつけたものだ。会社から近いといっても、2、3分の距離ではない。路地を抜けるのに5分以上はかかるのだ。だからこそ、ここを見つけたのも奇跡に近い。
「ご注文は?」
店の人は作業をしている手を止めずに、私に尋ねた。
「エスプレッソで」
窓辺側の席に着くと、カバンの中から本を取り出す。栞を挟んでいたところを開き読み始める。BGMは前と変わらず落ち着いたジャズがかかっていた。
「それって、楽園シリーズ…」
本に集中していたせいか、突然の人の声に驚いた。一体、誰だろうと声のする方に顔を向けると一人の男の人が立っていた。
「楽園シリーズしっているんですか?」
楽園シリーズ、とは愛読者でもしているかどうかの小説でありなかなか世の中に出回っていないレア中のレアものだ。今持っているこの本も待ちに待った新刊だ。手に入れるのにどれだけ努力したか…。
「ええ、ちなみにシリーズ4で持ってますよ。最新刊でたっていう情報は知ってたんですけど、全然手に入れられなくて…」
そりゃそうだ。楽園シリーズを知ってる人に対して販売しているのは半分以下だ。早々、手に入るわけがない。
それにしても、楽園シリーズを知ってる人がいるとは…。
同じ趣味の人に出会えた喜びに胸が躍りそうになる。
「もしよければ、一緒に話しませんか?楽園シリーズを知っている人と面を向ってはなすの、初めてなんです。それに、私が読み終わってからでよろしければお貸しできますし」
「…いいのですか。自分も、会って話すのは初めてでして。あなたがよろしければお話ししたいです」
私が椅子を勧めると、男の人は照れたように頭をかくと軽く頭を下げた。
男の人は黒髪に、きりっとした目をしていていわば、イケメンというやつだった。名前は、新垣圭吾というらしい。普段はIT会社に勤め、休日はここでのんびりと過ごしているのだとか。
「圭吾さんは、いつからここに?」
「…2年ほどかな。何も考えずに歩いていたら偶然みつけまして。…え、と」
「あ…すみません、まだ名乗っていませんでしたね。秋沢由紀といいます。ここの近くにある○○会社に務めていまして、つい最近ここを見つけたんです。」
「いいところでしょう、静かで、時間を忘れられる。」
「ええ、ほんとにです」
窓から見える小さな庭に目を向ける。するとそこにはスズメが芝生の上で楽しそうに飛び跳ねていた。その姿を見ているとなんだか微笑ましくなる。
私は、頼んでいたコーヒーをそっと口に含んだ。
「ここのコーヒーもすごくおいしいです。ついついコーヒーだけを飲みに来ちゃいそうです。」
「ここの紅茶も珍しいものがおいているので試してみるといいですよ」
「では、次に来たときはそうします」
二人は軽く話すと、それからはお互いもってきていた本を出し読書を始めた。あの楽園シリーズを知っている二人だ。それぞれの世界に入るのが早かった。
それに、本好きの仲間だからだろうか気兼ねなく読書ができるのでとても充実した時間であった。
時は過ぎ、外はいつの間にか夜空となっていた。
「今日はとても楽しかったです。ありがとうございました」
喫茶店の前で圭吾さんにお礼をする。
「いえ、こちらも楽しませてもらいましたよ。本、ありがとうございます」
先ほど読み終わった、楽園シリーズの最新刊だ。店から出る前に渡したのだ。彼は嬉しそうに本の表紙を眺めた。
「読むのが楽しみです。読み終わったら連絡します、またここで会いましょう。ぜひ、あなたの感想を聞きたい。…あ、今はだめですよ?」
「ええ、言いませんよ。ネタバレは私もいやですからね。では、連絡お待ちしています」
「では」と別れた二人はお互い反対の方向に進んでいく。
私の足取りは異様に軽く、大股で路地を抜けていった。今日はなんていい日なんだろうか。ニヤニヤは止まらず、帰宅しても続くのであった。