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08 喧嘩の結末~一発お見舞いしてヤッタ!




 カルスは弟への公開お仕置きを済ませた。

 もしもこれで弟が改心して三人を解放しなければ、カルスはランシィ家を相手どって戦う覚悟までしていた。

 弟――マルゴスがどういう態度をとるかですべてが決まる。


 戦いが終わり、訓練場を後にしたマルゴスは殊勝な顔をしていた。

 どうやら反省の弁を聞けそうだ、とカルスが安堵を覚えたのも束の間だった。

 残念ながら事態は兄弟喧嘩の枠を超えていた。

 今日の模擬戦の結果はスクールの幹部教師陣によって会議がなされているとのことであり、そこへカルスとマルゴスの兄弟は呼びだされたのだ。

 今さら終わったことに対して何を話しあうというのか、とカルスなどは思うのだが、一方で何が話しあわれているのかにも、この若い魔術士には予想がついていた。

 ヴィル・ティシウスの弟子となる以前の経験がそれを教えてくれるのだ。

 教師陣は今回の模擬戦の結果をどういう形で発表するかを思案しているはずだ。

 結果は師弟制度で育成されたカルスの圧勝なのだが、情報というのは発表や伝達の仕方で、いかようにも印象を左右すること可能なのである。

 教師陣はできるだけスクールの体面を守る形での発表を考えているのだろう。

 ランシィ家の嫡男であるマルゴスも当然分かっているようで、苦々しい顔になっている。

 移動中は周囲に人が多くいたので、残念ながら兄弟で話をすることはかなわなかった。

 無言を保ったまま、カルスとマルゴスの二人は幹部教師陣が待つ部屋へと足を踏み入れたのである。


 室内は意外に狭かった。

 だが、ソファーやテーブル、その上にあるティーカップ、香気を放つティー

 室内を飾る絵画などは、いずれも高価な品であった。

 スクールの幹部が会議をするのにふさわしいお金がかけられているようである。

 幹部教師陣は五人だった。

 この五人の間でもおそらく派閥争いがあるのだろうが、とりあえずカルスには関係のないことだ。

 今現在五人はスクールを統括する者たちとして結託しているという事実があるのみである。

 この場での会話は、そのほとんどが五人の教師たちによって占められた。

 時節の話や魔術の可能性、そして魔術士の育成について、魔術士の将来性、その戦い方等々が、何のひねりもなくありふれた言葉で語られた。

 兄弟だからというわけではないだろうが、二人の機嫌は同調しながら急角度で悪くなっていった。

 そしてようやく今回の模擬戦の内容に焦点があてられる。

 本題である模擬戦の話さえも、遠まわしに語られた。

 内容を聞きとろうという努力を重ねなければとても何が言いたいかを理解することはできなかっただろう。

 慣れない者であれば、ある種貴族的ともいうべき正体不明の会話は、熱心に話を聞いても理解できなかったかもしれない。

 だが、カルスとマルゴスはその内容が分かった。

 幹部教師陣が何を求めているのかを理解することができた。

 そして、彼らがカルスの過去をすでに調べあげていることもよく分かった。

 教師の口が閉じるのを待ち、即座にマルゴスが口を開く。


「ここにいるカルスなる者をランシィ家にまつわる人間として語り、だからこそ、この魔術士は特別なのである。模擬戦の勝敗もそこに理由がある――」


 マルゴスは無表情だった。

 だが、その中で瞳だけが鋭い輝きを帯びている。


「――そういった扱いをここにいる皆さんがなさるというのならば、私はそれを侮辱だと考える。我が父、ランシィ家の当主もあなたがたからの挑戦であると受け取り、家名をかけてことの是非にあたることになるでしょう」


 あまりに直截的であるその内容は、大貴族の嫡男としてふさわしくない。

 だが、大貴族の矜持を見事なまでに表現していた。

 幹部教師陣のよく回る口もさすがに動きをとめた。

 以降は、そもそも提案などなかったような話を彼らはなし、カルスとマルゴスはまたもや無駄な時間を過ごすことになったのである。


 それから三十分後、カルスとマルゴスは部屋を辞去した。

 室内では新たな道を模索するための会議が長時間なされるのだろう。

 ご苦労なことである。


 校舎の廊下をカルスは歩いていた。

 背後から声がかけられる。


「――兄上」


 ややためらった弟の口調である。

 カルスは足をとめた。

 弟の呼びかけに応じたというのが足をとめた半分の理由である。

 もう半分の理由は、カルスの目の前にいる。


「――カルスラーシュ・ランシィ」


 鈴のような音色がカルスを呼ぶ。

 ほっそりとした身体つき、青白くか弱そうに見える肌の色。

 守ってあげたいと男に思わせる女性らしい雰囲気を少女――いや、すでに少女期を脱した女性。

 アマネリス・フーラル。

 カルスの元婚約者であり、マルゴスの現婚約者である女がカルスの正面に立っていた。





 アマネリス・フーラルは自分でもなぜここにいるのか分からなかった。

 気がつくといつの間にかカルスラーシュの姿を一人で追っていたのだ。

 アマネリスが感情と思考の整理がつかないでいると、カルスが口を開いた。


「偶然だな――ということもないのか。スクールの生徒なら校舎にいても不自然ではないな」


 何でもないようにカルスが言う。

 アマネリス、カルスラーシュ、マルゴス。

 この三人が同じ場所にいて気まずくないはずがないのに、もっとも早く口を開き、何ごともないかのような空気をつくりあげる。

 本来、一番傷ついている人間は、彼であるはずなのに……。

 穏やかな表情、すべての人に向けられる優しさ、余裕のある理知的な対応――アマネリスの知るカルスラーシュそのものだ。

 彼は変わっていない。


 ――誰に対しても同じ表情、同じ対応。あれは優しさじゃない。感情のない怪物みたいなものだ。


 人目をはばかりアマネリスと二人でいる時に、マルゴスがカルスラーシュを評した言葉である。

 アマネリスのみではなく、誰に対しても優しいカルスラーシュに不満と不安を覚えていた彼女には、その言葉は真実となって響いた。

 だからこそ、強引ではあっても自分だけに向けられる優しさに身を預けてしまったのだろう。

 そして、事が公になりそうな時に、破滅が訪れようとしていた時に、一身に不都合のすべてを引き受け、すべてを終わらせたのが、カルスラーシュ・ランシィだった。

 カルスラーシュは、アマネリスとマルゴスのみならず、両家の体面も守りながら、両家の新たな関係を作りだしたのだ。

 おそらく周囲の人間にもさまざまな思惑があっただろう。

 だが、全員がカルスラーシュの作りあげた脚本に身を預けた。

 都合が良かったからだ。

 マルゴスの評価が高かったというのもあったかもしれない。

 当時のマルゴスの評価は、荒々しいが誰をも惹きつける魅力をそなえた、才気あふれる少年というものだった。

 対してカルスラーシュは失敗をしないが、突き抜けた者のない平凡に属する男というものだった。

 今思えば、マルゴスは可能性を周囲に放出し、カルスラーシュはそれを見せていなかったということなのだろう。

 アマネリスを含め、誰もが見る目を持たず、失うべからずものを失ったのかもしれない。


「マルゴスに用事かもしれないけど、今から兄弟で話をするんでね。後日に延ばしてもらえるか?」


「え?」


 カルスラーシュの言葉がアマネリスには意外だった。

 変わっていないと思っていた目の前の男は、三年前と同じではなかった。

 以前の彼ならば、自身の用事を後に回し、他者に対して譲ったはずだ。

 特にアマネリスの用事であったのなら……。


「マルゴス、どうだ?」


 戸惑うアマネリスに気づいているだろうに、カルスラーシュは彼女に何も言わずに、弟に言葉を投げかける。


「ああ、兄上の用件を優先させるべきだ」


 ぶっきらぼうに言うマルゴスの返事については、アマネリスはすんなりと受け入れられた。

 うまくいっていない二人の関係からすれば、アマネリスへの優先度が下がることはまったくおかしなことではない。


「というわけだから――」


「どこに行くの?」


 話を終わらせようとするカルスラーシュへ、アマネリスはさえぎるようにして言葉を投げかけた。


「それはマルゴスしか知らないな――の割りに、俺が前を歩いているのはおかしくないか?」


 カルスラーシュがマルゴスに話しかける。


「兄上がかってに先を歩いていたんだろう」


「まあ、スクールの敷地を出るのは間違いないんだろう?」


「ああ」


「じゃあ、いいな。このまま正門まで行こう。そういうわけで、さよなら――アマネリス」


 カルスラーシュはアマネリスに言葉を挟むことを許さずに歩きはじめた。

 一度背を見せると、振り返るそぶりはまったくなかった。

 まるで過去を見ることはないというように……。


「言いたいことがあるんなら、言えばいい。私はとめない。だが、もう子供ではないことも忘れないことだ」


 アマネリスの隣を過ぎ去りざまに、マルゴスが重い口調でそう述べた。

 アマネリスはランシィ家の兄弟を見送る。

 心にあるのは、なんとかってな兄弟だろう、という思いと、自分はなんて身勝手なのだろうという思いだった。





 ルハスがぐったりと床に伏せていることを自業自得とするのは、あまりに一方的な解釈だろう。

 セラフィアは思い出さざるをえない。


「うちの師匠は最悪なんだ。何より誰もあの男をとめられないというのが最悪なんだ」というカルスの言葉を。


 ルハスを完膚なきまでに叩きのめした当の人物はといえば、まったく何事もなかったかのようにテーブルについて夫人とセラフィア、レナの三人に対してさまざまな話題をふって場を楽しませていた。

 そもそもなぜルハスがヴィル・ティシウスに対して喧嘩を売るようなことになったかといえば、ヴィル・ティシウスが模擬戦について辛辣な意見を述べたからであった。

 最初に見るべきもののない試合と言った時点で、ヴィル・ティシウスの総評など分かりそうなものだ。

 だが、分かっていても納得できなかったのだろう。

 模擬戦とはカルスの試合のことであり、そのカルスはルハスにとって尊敬している師匠である。

 試合をバカにされるのは、カルスをバカにされるのと同義だった。


 ヴィル・ティシウスはカルスの戦いぶりに関してのみ意見を言い、酷評した。

 カルスは二戦行ったらしく、セラフィアの見ていない一戦はマルゴスチームが相手だった。

 そして、完勝したらしい。

 なのに、カルスへのダメ出しばかりだ。

 ついに我慢できなくなったルハスが爆発する。

 ヴィル・ティシウスは少年に対して年長者としてなだめるとか、教育者として言を重ねて説明するなどといことはいっさいしなかった。

 何もしなかったと言っていいだろう。

 問答無用で、ルハスを無力化したのである。

 その時、何が起こったのかセラフィアには分からなかった。

 しばらくして、感覚が訴えかけてきた。

 こんな室内にあってはならない巨大な力が一瞬だけ姿を垣間見せた――そのような恐怖のみが、剣士としての本能に残滓としてこびりついていたのだ。

 その後、ヴィル・ティシウスは模擬戦の話も魔術の話もいっさいせずに、話題を欠かすことなく女性陣との会話に花を咲かせ続けているのであった。

 ルハスの事故というか問題というかは、本当に一瞬の出来事であり、あまりにも何事もなかったかのように現実が進んでいったので、セラフィアはそれについて意見を述べる機会を完全に逸した。

 カルスの言うように、ヴィル・ティシウスの行動はいろいろな意味で誰にもとめることができないのだ。


「ようやく不出来な者たちが屋敷に来たようですね」


 それまでとはやや異なった微笑をヴィル・ティシウスが閃かせた。


「不出来な者というのは、一人は私の息子のことですね」諦めたように夫人が苦笑した。「息子は他にも誰か連れてきているのですか?」


「ええ、あなたの息子も成長したということでしょう」


「あら、初めて良い評価をもらいましたわ」


「しかし、連れてこられた方の人間が成長しているかは分かりませんが」


 意味深長に言うヴィル・ティシウスに、夫人が対応に困ったように曖昧な笑みを浮かべた。


「この部屋に通すように言っておくのがいいでしょう。それがもっとも効率的に事が運びます。つまらないことはさっさと終わらせたほうがいい」


「あの子も自ら謝罪する気になったということかしら?」


 夫人は使用人に命じて、マルゴスが戻ってきたら、すぐにこの部屋に通すように手配した。

 そう長くはない時間が経過し、使用人に案内されたマルゴスが室内に入ってきた。

 マルゴスが母へと挨拶をする。

 その後ろには、カルスが憮然とした表情で立っていた。

 夫人は始めマルゴスの挨拶へ対応していたが、後ろに立つ人物に一度視線を投じると、動きがとまってしまった。


「カルス!」


 夫人が叫ぶように言って、音を立てながら椅子から立ちあがった。


「勘当された身でありながら、おめおめと姿をさらしてしまい、申し訳ありません」


「ああ、あなたはいったい何を――そんなことはいいのです。つまらぬ建前など、表ですれば充分。うちでは、そのような些末事気にする必要はありません」


 夫人がカルスへと駆けよる。

 カルスは困ったような笑みを浮かべて、夫人の歓待を受けた。


「母上。親子の会話は、それこそうちなる話です。まずは、弟の不祥事に対するけじめをつけることが重要だと思います」


「ええ、そうね。確かに、私もそのことについては思うところがあったのです」カルスに抱きつかんばかりだった夫人がマルゴスへと向きなおる。「あなたのやったことは恥ずべきことです。あなたがなぜこのようなことをしたのかは、分かったような気がします」夫人は一瞬カルスへ視線を投じた。「だからといって、それはあちらの三人には関係のないことです。するべきことをしなさい」


 マルゴスはセラフィアとレナの前に立つと、深々と頭をさげた。


「申し訳ない。私の幼稚に端を発した今回の件はいくらでも詫びよう」


 セラフィアは困ってしまった。

 確かに詫びられる理由が彼女にはあったが、だからといってひどい扱いを受けたわけではない。

 許す気持はあるが、いったいどう伝えればよいのか……。


「許します。ところで、あなたとカルスは兄弟ということでいいのですか?」


 レナである。

 彼女の声には、まったく葛藤がなかった。


「うん? ああ、そうだが」マルゴスが頭をあげた。「しかし、そんなあっさりでいいのか?」


 許すという言葉を待っていたはずなのに、言われた本人が困惑している。


「かまいません。被害といえば、リーダーの試合を一試合見逃したというところですから。でも、完勝だったようなので見る必要なかったようですし」


 レナがさらりとマルゴスの敗戦に塩を塗った。

 マルゴスの顔が引きつる。


「ええと、そうですね。被害はなかったので、謝罪してもらえれば充分です」セラフィアはとりなす。「こうして、無事にカルスとも再会できたことですし」


 和解がなると、もっとも口を動かしたのは夫人であった。

 カルスとセラフィアたちの関係を質問攻めにしたのである。

 本当は、カルス本人からさまざまなことを聞きたいふうであったが、沈黙を守るカルスよりもセラフィアたちのほうが話を聞きやすいと判断したようだ。

 カルスとの旅路を話すのには、それなりの時間を必要とした。

 夫人は聴き上手であるようで、話はおおいに盛りあがった。

 気がつけば――二人の人間がまったく口を開いていなかった。

 カルスとヴィル・ティシウスだ。


「カルス、ずいぶんと無口になったのね」


「母上、気にかかることがありまして」


「遠慮する必要はありませんよ」


「あそこに転がっている少年ですが、なぜ気絶しているのでしょうか?」


「ああ、それは――」


 夫人が口ごもると、すぐにヴィル・ティシウスが後続を行った。


「失礼な子供へのしつけですよ。それ以外にありますか」


「師匠に対してルハスが礼を失する言動を行った――ということですか?」


「それ以外の聞き取りが可能ですか?」


「なるほど、理解しました」


 師匠と弟子の言葉のやりとりは冷静である。

 空気が凍えるようなこともなく、自然だ。

 なのに、セラフィアは二人のやりとりに緊張を覚えていた。

 だが、夫人はまったくその雰囲気を感じていないようだ。


「まあ、カルス。あなたヴィル・ティシウス様の弟子なの?」


「はい、母上。幸運なことに高名な師に弟子入りすることがかないました」


 カルスの言葉に、ヴィル・ティシウスが薄く笑った。


「ヴィル・ティシウス様、カルスが弟子となっているのならそうおっしゃられればよろしいでしょうに」


「弟子が報告を望んでいなかったようなので、私は弟子の意思を尊重したのです」


「まあ、そうですか。水くさい」


 夫人がカルスを軽く睨みつける。


「申し訳ありません。しばらくは距離を置くべきだと考えていたので」カルスは目礼した。「ところで、師匠。私は未熟なので本物の治癒魔術を彼女たちに見せたことがありません。彼女たちに治癒魔術を見せてあげることはできませんか?」


「その少年を私の治癒魔術で治せということですか?」


「ええ、そうです。しかし、今回は結果よりも経過が重要でしょう」


「カルスの言うように治癒魔術が見たいのですか?」


 ヴィル・ティシウスの問いに、セラフィアは頷いた。

 彼女はそんなことを言った憶えはなかったが、本物の治癒魔術を見たことがないのは事実で興味がないわけでもなかったので、頷いた気持ちに嘘はない。

 ただし、カルスに協力しようとの思いもあった。

 彼が何を考えているのかは分からなかったが……。


「分かりました。では、治癒魔術をお見せしましょう――と言っても、地味なものでしかありませんが」


 ヴィル・ティシウスが立ちあがり、ルハスの傍へと移動した。

 気絶させるときは、まったく動かなかったのに治癒するのには傍に行く必要があるのだろうか?

 セラフィアの疑問に答える声があった。


「自分をかっこよく見せるためだけの演出だ」


 この言葉は、すれ違いざまにカルスが小声で言ったものだった。

 カルスはヴィル・ティシウスの傍で控えるように立ちどまる。

 ヴィル・ティシウスがまるでそこに小さな球があるかのように両手で空間を包むようにした。

 すると、光が両手の空間に生まれ、輝く球体が浮かびあがる。

 ヴィル・ティシウスが両手をひろげると、押しだされるように光球が動きだす。

 光球はルハスの胸のあたりへゆっくりと落下し、接着すると少年の身体の中へと消えていった。

 すぐにルハスの全身に淡い光がひろがっていき、かすかな点滅を繰り返す。

 光はすぐに収まった。

 ヴィル・ティシウスが指をならすと、同じタイミングでルハスの目が開いた。

 カルスをのぞいた全員から感嘆のため息がもれ、夫人が賞賛の声をあげる。

 セラフィアもその静謐な魔術のあり方と抜群の効果に驚きを禁じえなかった。

 ヴィル・ティシウスが膝をまげ、軽く頭を下げて、皆の賞賛に応える――その瞬間だった。

 頭をさげ地面へと視線を向けていたヴィル・ティシウスの顔面へ、カルスの拳が下から上へと捻りあげるように打ち放たれた。

 さすがに油断していたのだろう。

 ヴィル・ティシウスの身体がカルスの拳の威力に負けて宙に浮く。

 だが、鼻血が飛ぶようなことはなかった。

 ヴィル・ティシウスはカルスの拳と自分の顔の間に右手を紛れこませることに成功していたのだ。

 カルスの攻撃はとまらない。

 空中に浮き、自由な運動ができないヴィル・ティシウスの隙をついて、腹部へ左の拳を巻きこむように殴りつけた。

 最小限の動きで身体を回転させて放たれた拳は、最大限の力が込められている。

 カルスの拳が師の腹へとぶつかった。

 だが、同時にヴィル・ティシウスの左足が弟子の顔面を蹴りつけている。

 両者の身体が弾け飛んだ。

 二人は転がることなく、体勢を立て直して、床へと着地する。


「いったいどういうことですか?」


 ヴィル・ティシウスが冷たい微笑を漂わせていた。


「まさか、弟子に対してどういった仕打ちをしたのか忘れたわけじゃありませんよね」


「なんのことです?」


 ヴィル・ティシウスの笑みが大きくなる。


「自身の脳に訊いてみてはいかがですか?」


「いっさい思いあたるところはありませんね」


「そうですか。なら、無理やりでも思い出させてあげましょう」


「ほう、どうやって私に無理やりというやつをやるつもりです」


「むろん、実力行使で、ですよ!」


 皆が事の進行速度についていけず唖然とする中、師匠と弟子による戦いの幕が開けた。

 硝子ばりの美しい部屋は一瞬にして潰滅の憂き目を見る。

 硝子は粉々に砕かれ、部屋の一部は消失してしまった。

 師匠と弟子の邂逅が静かに終わるはずがなかったのだ。

 魔術をもちいた会話は周囲に甚大な被害を与えながら、この後尽きることなく続けられていく。

 しかも、後に迷惑な参戦者が現れた。

五大魔術士ペンタグラム】の二人、バルドル・ファンとメッサミリアである。

 事態は怪獣大騒動の態をなすことになる。

 もう誰にもとめることは不可能だ。

 だが、幸いなことにというべきか、あるいは、当人たちが意図した物なのか、被害を受けたのは魔術士協会や一部貴族のみで、一般市民たちはまったく無害であった。

 住民たちはむしろ、大魔術の競演を夜空に打ちあげられた花火のように楽しんだのだった。

 こうして一日を使い、師匠と弟子の喧嘩はようやく終わりを告げる。

 完全なる決着がついたからだ。

 もちろん、ぼこぼこにされたのは弟子のほうである。




 翌日、午前中も後半になって、カルスたちはランシィ家を出発しようとしていた。

 出発の時間帯が翌日に延び、また時間もやや遅くなったのは、カルスの体調の問題であった――さすがにヴィル・ティシウスの攻撃を受けたカルスは大きな負傷を受けたので、すぐに動くことができなかったのである。

 傷の治療は師のヴィル・ティシウスではなくバルドル・ファンが行った。

 そもそも今ヴィル・ティシウスはこの場にいない。

 カルスの態度と行動にすっかり腹を立てて山奥の家へ一人で帰ってしまったのである。

 カルスは師匠を追って、家へと戻ることになった。

 何しろまだルハスのことさえまともに紹介していないのである。

 カルスは師匠ときちんと話をする必要があったのだ。

 この師弟、拳と魔術以外でまだまともに会話をしていないのである。


 ランシィ家の玄関には十人以上の人間が並んでいる。

 カルスと同じ側にいるのは、一人のみ。

 ルハスである。

 後は、カルスの正面に立ち、見送る側となっていた。

 パール国王都ソール・ラントへとたどり着いたことで、すでに旅の目的は達していた。

 それぞれがこれからのことについて考え、答えを導きだした結果が今の状況である。

 セラフィアはカルスたちと別れ、剣の修行に入ることになった。

 メッサミリアの紹介により、古流の門を叩くことになったのだ。

 この女大魔術士はあんがい面倒見が良いらしく、セラフィアが強さについて悩んでいたことを知り、伝手をたどってくれていたらしい――この報告に来たついでに、師弟の喧嘩に参加したのだ。


「守ってもらうんじゃなくて、対等な強さを持たないと、旅の仲間とは言えないでしょう」


 セラフィアはそう言って笑った。

 その意志の強さを見ると、何かしらの決意が以前からあったようだ。

 レナは義父のもとに戻ることになった。

 本気で修行する気になったようだ。


「リーダー程度倒せないと、この世界で強者は名のれません」


 ヴィル・ティシウスの強さによほど驚愕したのだろう。

 こうしてヴィル・ティシウスの住む魔窟へ向かうのは、カルスとルハスの師弟二人になったのである。

 別れの挨拶を終え、夫人――ちなみに主人のほうが仕事のためにカルスに会うことができなかった――が、頬に手を当てながらカルスに言った。


「それにしてもずいぶんとカルスは変わったわね」


 隣でマルゴスが大きく頷いている。


「どうですかね。もしも変わったのだとしたらそれは――師匠と弟子のおかげでしょうね」


 師匠と弟子に責任を押しつけて、カルスは小さく肩をすくめたのだった。

 カルスは頭をさげると、ルハスの腕をもち、魔術を唱えた。


「ちょ――師匠いったい何をするんですかああああ」


 二人の身体が宙に浮かぶ。


「それじゃ」


 カルスはセラフィアやレナに手で最後の挨拶をして、屋敷を後にした。

 あっけにとられたように、残された人たちは二人を見送った。

 師匠と弟子の旅はもう少し続きそうであった。





 師匠と弟子 完








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