第九話
(1)
ミランダとリカルドが広場で出会ってから、二カ月が過ぎようとしていた。
「あはははは!!!何なのそれーー!?」
穏やかな昼下がりの広場。北側にある銀杏の木の下で、ミランダの屈託のない笑い声が響く。
その隣では、ギターを抱えたリカルドが「……ちょっ、そんなに笑うかぁ?!」と、腹を抱えて笑い転げる彼女を呆気に取られた様子で眺めている。
「えぇーー、だって可っ笑しいんだもの……」
「そうかぁ?!まったく、ミラは本当に笑い上戸だよなぁ……」
呆れながらも、リカルドがミランダを見つめる眼差しには優しさが満ちている。
「僕はね、本当はこんなにお喋りな人間じゃないんだよ??ミラが、あんまりにも楽しそうに僕の話を聞いてくれるから、つい喋り過ぎてしまうんだ」
「何よ、私のせいだって言うの??」
ミランダはわざと唇を尖らせ、琥珀色の大きな猫目でリカルドを睨む。
「うん、そうだよ」
悪びれもせず、リカルドもあっさりとこう答える。
「何それ!ひどい!!」
ひどい、と責める割には、ミランダは心から楽しそうに笑っていたのだった。
こんなやり取りを、これまでに一体何度繰り返しただろうか。
さすがに毎日ではなかったが週に三、四日は、ミランダはこの広場へ足を運び、リカルドの歌を聴いたり、彼とたわいもないお喋りに興じたりしていた。
リカルドは、広場から歩いて七分程の場所にある鉄工所に住み込みで働いていて、昼休憩になるとギターを弾いたり曲を作ったりするために広場へ来ているという。
なので、頻繁にここへ来るのは練習の邪魔になるのでは……と思い、始めの一ヶ月は週に二回程度行くだけだったが、ある日、「ミラと一緒にいると楽しいから、毎日でも会いたいなぁ」と、リカルドがぽつりと呟いたのを聞いてしまったのだ。
「そんなこと言うんだったら、本当に毎日ここに来るわよ??」
ミランダが、あくまで冗談っぽく返したところ、「それはむしろ、願ったり叶ったりだよ」としれっと言われたため、その言葉に甘えた結果、会いに行く頻度が増えたのだった。
いつしか、リカルドはミランダのことをミラと呼ぶようになり、ミランダは彼の前ではいつも楽しそうに笑っていて、端から見たら、二人は仲睦まじい恋人同士にしか見えなかった。
ミランダ自身も、自分がこんな風に自然体で笑うことが出来る人間だったとは全く予想もしていなかった。
笑顔なんて、客の気を引くための愛想笑いーー、いわば自分を売り込む武器の一つくらいにしか思っていなかったからだ。
リカルドと一緒にいる時の自分が、本来の姿なのかもしれない。
彼と会う回数を重ねるごとに、ミランダの中で想いは日増しに募っていくばかりだった。
(2)
「……ねぇ、またお昼食べないの??たまには食べないと、身体に良くないよ??」
「んーー、食べないのが習慣になってるから、別に大丈夫。その分、お金も貯まるし」
「……まぁ、そうなんだろうけど」
節約だと言って、昼食を取らないリカルドを心配する気持ちに嘘はない。
だが、それ以上にそんなにお金を貯めようとしないで欲しい、お金が早く貯まれば貯まる程、彼がこの街から出て行く日が早まってしまうから。
リカルドは、ジプシーのように街から街を転々と流れて生きる人だった。
辿り着いた街で仕事と居住する部屋を見つけ、半年から一年程その街で暮らし、旅の資金が貯まったところで街を離れ、また別の場所で暮らす。
彼は十七歳から八年間、そんな生活をしているという。
ミランダは、リカルドが今まで過ごしてきた様々な街の話を聞くのが大好きだ。
生まれてから一度もこの街を出たことがない、しかも夜の歓楽街という狭い世界しか知らない自分にとって、違う街の話は何もかもが新鮮で聞く度に胸がわくわくと湧き踊った。
ミランダが大きな琥珀色の猫目を一段と輝かせ、夢中になって話を聞くので、リカルドも快く語ってくれる。
例えば、彼が一番長く滞在したのはウィーザーという港町で、船乗りや乗船客向けの大衆酒場で働いていた時に、酒場専属のギター弾きにギターを教えてもらったとか。
「その酒場では毎晩のように訪れる常連さんもいたけど、船旅の途中でたまたま店に足を運んでみただけのいちげんさん、言葉が全く通じない異国の人とか、常に新しい出会いと別れが毎晩のようにあってさ。お蔭でたくさんの人と知り合うことができたから、楽しくて楽しくて。結局、ウィーザーには二年も滞在していたし、ここに骨を埋めても良いかな、とも思ったりもしたよ」
「そんなに気に入ってたのに、なぜ定住しなかったの??」
ミランダからの質問に、リカルドはうーんと首を捻り、少しの間逡巡するが、言葉を選び取るように、慎重に口を開く。
「ウィーザーに定住したい気持ちと、まだ見たことのない景色や出会っていない人達と会いたい気持ちとを比べたら、後者の方が思いが強かったからかな」
「そっか。……羨ましいな、そんな風に自由に生きることができて」
見えない足枷に繋がれ、お金に縛られて生きてきたミランダは、自由奔放に生きているリカルドが心底羨ましかった。
「でも、ミラはこの街で生きていくことに必死だったんだよ。違う街のことやたくさんの人との出会いとかを考える余裕がないくらいに。詳しいことは分からないけど……、僕は何となくそんな気がするんだ」
リカルドは、労るようにミランダの頭を優しく撫でる。
「もうそろそろ時間だから、今日はもう行くね。君も夕方から仕事だろ??」
平日の真昼間から広場に来るからか、一度だけ、仕事はしているのかと尋ねられたので「夕方から始まる仕事だから、昼間は空いてるの」とだけ答え、彼もそれ以上は聞いてこなかった。
リカルドに嘘はつきたくないが、娼婦だということはもっと知られたくなんかない。
リカルドのことなので、ミランダの正体を知ったとしても今までと変わらず接してくれるだろう。それでも、彼の前だけはごく普通の娘でいたかった。いくら生きていくためとはいえ、誰にでも身体を開いているような女だと思われたくないのだ。
「じゃあ、またね」
リカルドに促されたミランダが、名残惜しいながらも立ち上がった時だった。
「ねぇ、ミラ。今度の安息日、この広場でちょっとした催し物が開かれるみたいなんだ。良ければ、一緒に行ってみない??」
ギターをケースのなかにしまい、立ち上がったリカルドがミランダに誘いかける。中背の上にやや猫背なせいか、実際よりもリカルドは背が低く見えてしまうのだが、子供と見紛うくらい小柄なミランダからは見上げなければ顔が見えない。
自然と上目遣いでリカルドを見上げながら、ミランダは口元を綻ばせ、迷うことなくこう返す。
「うん、リカルドと一緒なら喜んで行くわ!」
いつになくはしゃいだ様子のミランダに向かって、リカルドは「良かった!じゃあ、いつもの時間にこの銀杏の木の下で待ってるから」と、嬉しそうに告げたのだった。