第四十五話
(1)
努めて何でもないような、それこそ「明日、一緒に買い物に出掛けない??」というような軽い調子で、ミランダはリカルドに話を切り出した。
リカルドは一瞬、普通に返事を返そうとしたものの、すぐに表情を強張らせ、開きかけた口を固く閉ざしてしまった。
当然と言えば、当然の反応だった。
直接的でなかったとは言え、リカルドの左足が悪いのも、ミランダが長らくアルコール依存症を患っていたのも、元を質せばダドリーが彼らの仲を引き裂いたことが起因しているのだから。
さすがに、彼自身も家庭を築き、街の統治者という重要な地位に就いている現在、今更二人を害するような所業など絶対に行ったりしないだろう。それについて心配する必要はないと思う。
だが、ダドリーの姿を目にすることで、結婚後、徐々に薄れていった彼への憎悪の念が再燃しないか。精神不安に陥り、再び酒に手を出したりしないか。
いつでも自分を差し置いてまで、ミランダの身を第一に案じるリカルドのこと。返答を返さずに無言を貫いている理由は、それらを気にしてのことに違いない。
二人は黙ったまま、宿への帰路を歩き続ける。
シャロンの薬屋から宿まで十五分に満たない距離だというのに、一時間以上もあてもなく歩き続けている気分に陥ってくる。更に、宿に到着した後も、リカルドが口を開く気配は一向に見受けられない。重い沈黙に耐え切れず、つい、小さく溜め息を一つだけ零す。
「ミラ」
ミランダの嘆息に反応したかのように、共にベッドの上に腰掛けていたリカルドが静かに名前を呼んだ。
「……僕もね、『彼』の顔を直接見てみたいとずっと思っていたんだ。君と違って、僕は『彼』の顔を新聞記事くらいでしか見たことがないし。変な話だよね、仮にも同じ女性を愛した者同士なのに、お互いの顔を知らないなんて。しかも顔すら知らない相手に僕は殺されかかった」
十九年前の恐ろしくも忌まわしい記憶が鮮明に蘇り、ミランダの胸の奥がじくじくと疼き出す。
「……あぁ、嫌な事を思い出させてしまったね、ごめん……」
ミランダは返事を返す代わりに、俯いてゆっくりと首を横に振る。
「……ミラには一生黙っていようと思っていたけど……、君を迎えに行くまでの十年間、顏も知らない『彼』の存在が……、ずっと怖かったんだ……。ウィーザーに拠点を移したのは、顔なじみが多かったことが一番の理由だけど……、『彼』の目の届かない遠い場所に行きたかった。もしも、君と一緒に暮らせる日々が訪れたら、今度は絶対に邪魔されたくない、ってね」
「…………」
「情けない男だろ??」
「……そんなこと、ないわ……」
傷付いていたのは何も自分一人だけではなかったのだ。
それなのに、どうして今の今まで気付いてあげられなかったんだろう。
ミランダはベッドから立ち上がると、リカルドの頭を抱え込むようにして抱きしめ、半分近くが白髪と化しているアッシュブラウンの髪をそっと撫で上げた。髪に触れる手の動きが心地良いのか、リカルドはうっとりと気持ちよさそうに目を細める。
「……でも、あれからもう十九年も経ったから、いい加減、『彼』の存在に脅えるのは終わりにしたいんだ」
微睡むように目を閉じつつ、はっきりと告げたリカルドの言葉にミランダは動かしていた手を止める。直後、何を思ったのか、急にコロコロと声を立てて笑い出したのだ。
「ふふふ……、私達って、似た者同士の上に、本当に相性が良いのね」
「何でそう思うの??」
「だって、慰霊の儀の参加理由が、『かつて、自分達を酷い目に遭わせた男爵様を一目見ることで、過去を断ち切ろうとしている』んだから。とんだ罰当たり夫婦だわ」
「確かにそうかもね……。でも、慰霊の祈りをちゃんと心から捧げるなら、神様だって少しくらいは大目に見てくれるんじゃない??」
四十男とは到底思えぬ悪戯めいた笑顔で、悪びれもせずこう答えるリカルドに「リカルドってば、案外ちゃっかりしているのねぇ……」と呆れつつ、夫がようやく見せてくれた笑顔に、ミランダはホッと胸を撫で下ろしたのだった。
(2)
--時は進み、翌日の正午ーー
火災による炎の熱量で変形し、ところどころが湾曲しているボロボロの鉄柵の向こう側には、夥しい数の瓦礫の山が広がっている。
伝染病の蔓延を防ぐために、事件後すぐに死体の発掘作業を進めたため、死臭が漂ってくることは皆無に等しいが、瓦礫の撤去作業は今も続いている。
かつて入場口だった、焼け焦げて半分以上が崩れてしまった赤煉瓦の大門の前に、黒い大理石で作られた慰霊碑が立てられ、その前で、高級そうなオーバーコートの下に礼服を纏った二人の男達ーー、この街の統治者ダドリー・R・ファインズ男爵と、彼の嫡男アルフォンスが並んで黙祷を捧げている。
ダドリー達から少し離れた場所ーー、と言っても、大勢集まった民衆の列の左側前方にて、ミランダとリカルドも慰霊碑に向かって祈りを捧げていた。
今年は儀式に参加できないシャロンとグレッチェンに代わり、彼の亡くなった友人に向けて二人は祈っていた。どこの誰かは知らないけれど、恩人が毎年儀式に参加しては祈りを捧げているくらいだから、あの夫妻とは余程親しい間柄だったのだろう。
やがて、ダドリーとアルフォンスが黙祷を終え、それが合図だったとばかりに、人々も胸の前で組んでいた両手を元に戻し、一斉に顔を上げる。
そして、慰霊の口上を事務的な口調で述べようと、民衆の方へと向き直ったダドリーの姿を、ミランダは大きな瞳で真っ直ぐに見据えたのだったーー。
銀髪の中に白髪が混じっているからか、髪の艶が幾分落ちたような気がするし、頬は痩せこけ、すっかりやつれてしまっている。にも関わらず、この街を統治する権力者としての威厳と貫録に満ち溢れ、その内面を現すかのように一層美貌に磨きが掛かっていた。
ーーあぁ、相変わらず完璧な男ねーー
ミランダは、彼を睨みつける訳でもなく、何の感情も交えずに、それでいて冷たい訳でもなく、口上を述べ続ける彼の姿を茫洋とした眼差しでじっと見つめ続けた。
ーーもしかして、私達のことを、彼も気付いている??--
自意識過剰と言われてしまえばそれまでだが、冴え凍るコバルトブルーの瞳が自分達の姿をそれとなく捉えている、ような気がした。そう感じた途端、ミランダは急に怖気づいてしまい、すぐにでもここから逃げ出したい衝動に駆られた。
そんな彼女の心境を察したのか、リカルドがさりげなくミランダに傍に寄り添ってくれた。
--大丈夫、今の私にはリカルドがついていてくれるーー
恐怖のせいで、足が竦んでしまっている筈なのに。
自分でも信じられないことに、ミランダはダドリーへ向けて、初めて心からの笑顔を送っていたのだ。
まるで、罪人に赦しを与える聖女を彷彿させるような、慈愛に満ちた穏やかな笑顔を。
けれど次の瞬間、自身が見せる笑顔以上に、俄かに信じ難い光景を目撃することとなった。
口上を述べ終わったダドリーが、ミランダの笑顔に応えるかのように口元を緩め、静かに微笑んでいたのだ。
それはほんの一瞬の出来事であり、ほとんどの民衆は彼の微笑みに気付いてすらいなかっただろう。おそらく、半ば強制的だったとはいえ、一年近くダドリーの傍にずっと居続けていた自分だからこそ分かったのかもしれない。
言葉など交わさなくとも、お互いに笑みを交わし合えただけでもう充分だと思った。
彼への憎しみを始めとする負の感情は、たった今葬り去ることができたのだから。
ミランダはリカルドの腕を掴み、今すぐにこの場から離れよう、と目線のみで訴えかける。リカルドは、まだ儀式は終ってないのに??と言いたげな目線を送ったもののすぐに、しょうがないなぁ、とばかりに眉尻を下げて笑った。
そして二人は、迷惑そうに顔を顰める人々にその都度頭を下げながら、人だかりの中をそっと抜け出していったのだった。
後半部分、ダドリー視点との対比にしたかったので、あえて四十三話の文を一部転用しました。