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第四十一話

 スターが、ミランダとリカルドの元から巣立っていきーー

  やがて季節がいくつか巡り、また年の暮れ、クリスマスが近づいてくる。


 リカルドとの仲を引き裂かれた、人生で最も悲嘆に暮れた日でもあり、彼と十年越しの奇跡的な再会を果たした、人生で最も歓喜にむせび泣いた日でもあるクリスマスは、二人にとって様々な意味を持ってしての特別な日であった--。


 だが、そうとは言っても、すでに結婚九年目を迎えようとしているのに加え、ミランダは三十八歳、リカルドは四十四歳と、中年と言っていい年齢に差し掛かったせいか、今更何をするでもなく、そんな日すらも普段通り静かに過ごしている。

 だから、今年も例年通りの過ごし方ーー、おそらくスターが遊びに来て多少は賑わしくはなるかもしれないがーー、と、当然のように思っていたミランダに、リカルドが思いがけない提案を持ち掛けたのだ。


「ねぇ、ミラ。今年のクリスマスから新年に掛けて、一緒に旅に出てみないかい??」


 そう言えば、五年前にミランダが断酒の誓いを破って以来、年に二回程出掛けていた旅行の習慣は途絶えてしまっている。更に、ミランダのアルコール依存が続いていたこと、スターの面倒を見ていたことで、ここ数年は旅行に出掛けるような時間的、金銭的、精神的な余裕など皆無に等しい状態だった。

「でも、ずっと旅行資金の小銭を貯めていなかったから、旅に出掛けるお金なんて……」

「それがあるんだよねぇ」

 リカルドは、悪戯っ子が悪だくみを企んでいる様な、ニヤニヤした笑みを浮かべると(彼がこのような笑い方をするのは珍しい)椅子から立ち上がり、居間から仕事の作業部屋へと向かうため、一旦部屋から出て行く。部屋から出て行くリカルドの曲がった背中を(元々猫背気味だったが、年を取って更に曲がってしまったように思う)見送った後も、ミランダは怪訝そうな表情のまま、入り口の扉をずっと見つめ続けていた。


 数分後、開いた扉と共に、今度はニコニコとこれまた子供っぽく破顔したリカルドが再び居間に戻って来た。かつて旅行資金用を貯めるために使っていた箱と、もう一つ、同じくらいの大きさの箱との二つを両手に携えて。

「まさかと思うけど……」

「うん、そのまさか」


 どうやらリカルドは以前と変わらずに、ミランダが酒を飲まなかった日はドライ・ジンの瓶一本分の小銭を何年も掛けてコツコツとため続けていたようである。

 呆気にとられているミランダに構わず、リカルドは再び席に座り、二つの小箱をドンとテーブルの上に置く。箱を置いた際の音からして、二箱共に相当数の小銭が入っている気がする。

「ちなみにね、僕だけじゃなくて、スターも時々協力してくれていたんだ」

「スターも??」

「うん。『ミランダのアルコール依存が治ったら、いつかまた夫婦水入らずで長旅に出掛けられるように』ってさ」


 リカルドとスターが、こんなにも自分のこと想ってくれていたなんてーー


 ミランダの胸の奥がきゅぅぅっと締め付けられ、嬉しくもあり、なぜか切なくもある、何とも不思議な温かさで一杯になり、気付くと琥珀色の大きな猫目が徐々に潤みを帯びていく。涙に変わるのも、時間の問題だろう。


 神様、私は今、身に余り過ぎる、贅沢で大きな幸せを、ちっぽけなこの身で痛い程に感じています。


 今にも泣きそうなのを必死で堪えるミランダの痩せた肩を、再び椅子から立ち上がったリカルドが抱き寄せる。幼気な幼子をあやすような手つきで、抱き寄せた肩をそっと撫でさすりながら。しかし、リカルドの行動はミランダにとっては逆効果でしかなく、遂に大きな瞳から一粒、二粒と、涙の雫をテーブルの上に次々と落としていく。

「ミラ、泣かないで」

「……違うの、リカルド。貴方とスターの気持ちが嬉しくて……」


 ミランダは先の言葉を続けることがどうしても出来なかった。

 言葉を続けようとしてみても、嗚咽ばかりが唇から洩れ出でる。

 リカルドもそれ以上は何も言わず、ただ、ミランダが泣き止むまで肩を撫で続けるより、他がなかった。


 どれくらい時間が経過しただろうかーー


 ようやく泣き止んだミランダが、真っ赤に充血した大きな瞳と、すっかり泣き膨れて浮腫みが残る顔のまま、どうにか笑顔を作ろうとぎこちなく表情を緩めながら、告げる。


「……ねぇ、リカルド。私、もう一度あの街に行ってみたいの。あそこには、ほとんど辛い思い出しか残っていないし、二度とあの街の地を踏むものか、って、ずっと長い間思っていたけど……。でも、僅かにだけど、リカルドやスターのように私のことを思ってくれた人、例えばシーヴァやアダ……もいたし、何より貴方と出会ったのはあの街だった……。そう考えると……、あんなに嫌だと思っていたあの街なのに、やけに懐かしく思えてきてね……。それに、一度シーヴァや、シーヴァの子供達にも会ってみたいの。勿論、リカルドが行きたくないなら……」

「じゃあ、今度の旅はあの街に行こうか」

 ミランダの言葉に被せて、力強い口調でリカルドが告げた。

「本当に良いの……??」

「うん。だって、あそこが君が今一番行きたい場所なんだろう??」

 う、うん、と、ミランダは口籠りつつ、未だ硬い表情のままに頷く。

「だったら、僕が反対する理由なんか一つもないよ」

 ミランダの表情を和らげようとしてか、リカルドが微かに微笑む。つられてミランダも、ほんの少しだけ口元のみで笑みを表してみせる。

「よーし、出掛ける場所も決まったことだし、後は今請け負っている仕事をちゃっちゃっと片付けてしまおう」

 リカルドはすくっと席から三度立ち上がると、仕事を再開すべく、すぐに居間から出て行こうとする。

「リカルド」

 ドアノブを握ったリカルドの後ろ姿に声を掛ける。

「……ありがとう。私、貴方と出会えて、本当に、本当に良かった、って心から思ってるわ」

 ミランダの言葉に、リカルドは思わず後ろを振り返る。

「……僕もだよ。紆余曲折を経てきたけど、こうして君と日々を穏やかに過ごせることを幸せに思っている」

 それだけ言うと、リカルドは扉を開けて居間から出て行ったのだった。


 リカルドと一緒なら、きっと大丈夫。

 もしも、あの男とも再会してしまったとしてもーー。



 リカルドには黙っていたが、ミランダがあの街へ行きたいと言った最も大きな理由ーー、それはーー


 傲慢で冷徹な希代の放蕩息子から、あの街始まって以来の名君と謳われ、国中の者から賛辞を贈られるようになったダドリーの姿を、十九年前と比べて一体どう変わったのか、一度この目で見ておきたいーー


 特に会いたい訳でも言葉を交わしたい訳ではない。

 一目姿を垣間見る程度で良いのだ。


 たったそれだけでいい。

 

 いい加減、ミランダは終わりにしたかった。

 十九年前から続き、未だに残されているダドリーへの憎しみから解放されたかったのだった。

  

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