第三十九話
(1)
スターがミランダ達の元に居候し始めてから、もうすぐ二カ月が過ぎようとしていた。
その間にも、季節は長く厳しい冬が終りを告げ、穏やかな春がそろりそろりと控えめな足音を立て、少しずつ近づきつつあったのだったーー。
スターは四つん這いの姿勢で床に膝をつき、懸命に掃除をしていた。居間と廊下は先程磨き終わったので、残るは玄関付近のみだ。
水を張った掃除桶の中にブラシを突っ込む。まだまだ寒さが残る初春の時期において、水仕事はなかなか厳しい仕事であるが、だからと言って適当に済まそうとすれば、たちまちミランダからこっぴどく叱られてしまうだろう。
桶のふちに濡らしたブラシの刷毛を押し付け、余分な水分を取り除くと、スターは丁寧に、それでいて腕に力を入れてゴシゴシと床を磨いていく。玄関の端から真ん中、真ん中から反対側の端に向かって、汚れの見落としがないよう隅々まで目を配らせながら。
「あら、頑張ってるじゃない」
玄関の扉が開く音と共に、箒とちりとりを手にしたミランダがスターの後ろ姿に声を掛ける、家周りの掃き掃除を今し方終えたようで、家の中へ戻ってきたようだ。
ミランダは、スターが床掃除を行う姿を無言でじっと眺める。手を動かしつつ、スターの背中に緊張が走った。この二カ月、ミランダから家事に関する駄目出しを散々受け続けた名残で、注意されなくなった今でもつい身構えてしまうのだ。
「ミランダ、掃除終わったよ」
ブラシと桶をそれぞれ片手に持ち、スターはミランダに確認を促す。ミランダは、丹念に磨かれ、僅かに光沢すら放っている茶色い木の板を、目をうんと凝らして目視する。スターは大きな身体を竦ませ、ミランダの返事を静かに待つ。
「うん、とっても綺麗に磨かれているわ。ありがとう」
ミランダから褒め言葉を貰ったスターは、安心して大仰なまでにほーっと息を吐き出す。
「さ、リカルドもそろそろ出先から帰ってくる頃だろうし、お茶でも淹れて休憩しましょ」
「やったー!!」
スターは桶とブラシを持ったまま、両手を上げて喜んでみせる。大柄な身体に反し、年相応の少女らしい無邪気な反応が微笑ましく、ミランダは目を細めて思わず表情を和らげた。
この家に来た当初、スターは掃除一つろくにこなせない上に、ちょっと注意をするだけですぐに不貞腐れて手伝いを放り出してしまったり、「うるせぇ、クソ婆ぁ」と突っかかっては反抗したりと、時にはミランダと激しい口論を繰り広げることもしばしばだった。
それでもミランダは匙を投げようとせず、根気にスターと向き合っていく内に、徐々に二人は打ち解け始め、今では本当の母娘のような関係になりつつあったのだった。
「スター、また髪がくしゃくしゃに乱れてるわよ」
掃除道具を片付け終ったスターの髪に、ミランダは手を伸ばしてそっと触れる。
スターの髪はミランダと同じくプラチナブロンドだったが、癖のない真っ直ぐなミランダの髪とは違いやや癖のある縮れ毛で、櫛でよく梳かさないとすぐに広がってしまうのだ。
「髪を梳いてあげるから、ちょっと寝室においで」
ミランダはスターを手招きすると、寝室の中へと連れて行き、鏡台の前へと座らせる。そして、ごわごわした硬い髪を強く引っ張ったりしないよう注意を払いながら、櫛で優しく整えていく。広がり放題だったスターの髪は、櫛で梳かれる度に少しずつ収まっていった。
スターの髪を梳かしつけている内に、ミランダはあることをふと思いつき、琥珀色の大きな瞳を輝かせて、鏡越しでスターに悪戯っぽく笑い掛ける。
「せっかくだから、ちょっと遊んでみてもいいかしら??」
「へ??」
ミランダは、スターの後頭部のちょうど真ん中ら辺で後ろ髪を左右に分ける。それから、まず左側に流した髪の表面部分を三つの毛束に分け、三つ編みを作る要領で一回編み込む。その後、編み込んでいない残りの髪を使い、三つ編み部分に付け足していくように、更に細かく編み込んでいく。左側が終わると、今度は右側も同じように編み込みに形作っていく。
スターは、ミランダの器用な手先の動きを物珍しそうにずっと眺めていたが、いざきっちりと髪を編み込まれた自分の姿を鏡で確認すると、気恥ずかしいのか、目線を泳がせる。
「三つ編みでもいいかな、と思ったけど、編み込みの方が垢抜けて見えると思ってね。よく似合ってるわよ、スター」
ミランダは俯いているスターの両肩を掴み、鏡を見るようそれとなしに促す。
「なんか……、自分じゃないみたい……。ねぇ、ミランダ、これどうやってやればいいの??教えてよ」
編み込みのお下げを、それぞれの手で撮み上げるスターに、「えぇ、いいわよ。早速今夜、編み込みの作り方を教えてあげるわ」と、ミランダは柔らかく微笑んでみせる。
「本当!?やったね」
「いーえ、どういたしまして」
頬や鼻の周りに散った雀斑といい、あどけなさが残る顔立ちといい、無理して大人ぶるよりも、こういう素朴な雰囲気の方がスターには似合うわね、と、スターのはにかんだ笑顔を前に、とても穏やかな気分にミランダが浸っていると。
「ただいまー、ミラ、スター、どこにいるんだい??」
いつの間にか帰って来たらしいリカルドの、二人を呼ぶ声が廊下から響いてきた。
「さっ、リカルドも帰ってきたことだし、私たちも居間に行きましょ」
ミランダはスターの肩をポンと軽く叩いて椅子から立ち上がらせると、二人は寝室を後にしたのだった。
(2)
居間のテーブルをミランダとスター、リカルドで囲み、お茶を飲みつつ寛いでいる時であった。
「そう言えば……、パン屋のラドクリフさんが、店番や屋台を開く時の売り子を頼める人を探してるって言っててね。以前店にいた売り子さんが辞めてしまったみたいで……、スターの事を話したら、ぜひうちの店で働いて欲しい、ってさ」
リカルドがふと口にした言葉に、ミランダとスターは思わず彼の方に視線を注目させる。次に発する言葉を待ち構えるように凝視する二人に、リカルドはやや気まずそうに一瞬目を泳がせる。何か不都合でもあるのだろうか。
「ただ……、住み込みで若い女の子を雇うのは家族もいるし、ちょっと無理なんだって……」
またか、と、ミランダとスターは同時に肩をガクリと落とす。
この国の法律では、十五歳未満の者は賃貸住宅を借りて住むことが禁じられている。よって、まだ十三歳のスターがこの家を出て働くには住み込みの仕事をするしか方法がないのだ。
「住み込みの仕事となると……、リチャーズ侯爵様の屋敷で使用人を募集している話もあるけど……、スターの場合、お屋敷奉公するよりも小さなお店でコツコツ働く方が合っているんじゃないかと僕は思うんだよね……」
確かに、まだようやく家事を一通りこなせるようになったばかりなのに加え、言葉遣いも悪く、短気ですぐ人に突っかかる性格のスターでは、由緒正しい貴族の下で働くには少々荷が重いものがある。
探せばいくらでも仕事は見つかるーー、などと言ってはみたものの、実際はそう簡単には事が運ばないことは、スター以上にミランダとリカルドにとって密かな悩みの種であった。
「あのさ、ミラ……」
リカルドが、歯の奥にものが詰まったかのようにもごもごと口ごもりながらも、ミランダにこう切り出した。
「いっそのこと、スターが十五歳になるまで家で彼女の面倒を見続けないかい??勿論、働いてもらうこと前提にだけど」
ミランダは表情を強張らせて黙っている。それにも構わず、リカルドは更に言葉を続ける。
「これはスターのためでもあるけど……、ミラのためでもあるんだ」
「……私のため??……」
怪訝そうに少しだけ眉根を寄せて、ミランダはリカルドを大きな猫目でまじまじと見つめ返す。
「だって、スターが家に来てから、ミラはお酒を一滴も口にしていないし、それどころか、お酒のこと自体忘れてるよね??」
「……あっ……」
言われてみれば、この二カ月、ミランダは酒についてほとんど考えることなく、いや、考えることすらもすっかり忘れてしまっていたことに、今更ながらはたと気付かされる。
もしかしたら、子に恵まれず行き場を失くしてしまった母性をスターに注ぐことで、長い間渇いていた心が徐々に潤されていったのかもしれない。
(……スターを救ったようで、実は私の方がこの子に救われている……??)
リカルドから、隣の席に座るスターに目線を移す。
どことなく重苦しい空気にも関わらず、スターはビスケットを口一杯に詰め込んで、モグモグと咀嚼を繰り返している。げっ歯類の動きを思わせる、余りに呑気なスターの姿にミランダは拍子抜け、思わず盛大に噴き出してしまう。
「……な、なんだよ!」
笑われることが心外だ、と言わんばかりに、顔を赤くして怒るスターに向かって、ミランダは尚もクスクスと笑い声を上げてみせる。
「そうねぇ、こんな風にすぐムキになって怒るようじゃ何かと心配だから、せめて十五歳までは様子見してあげようかしらね」
「じゃあ、決まりだね。スター、明日にでもラドクリフさんのところに一緒に行こうか」
ミランダが出した結論に安堵したのか、先程とは打って変わり、リカルドもにこにこと満面の笑顔を浮かべてみせる。
「え、別にいいよ。そのラドクリフさんって人の店を教えてくれれば、アタシ、一人で行く。『自分のことは、出来るだけ自分でやりなさい』ってミランダにも言われたしさ」
「そっか。スターがそう言うんだったら、君に任せる。その代わり、粗相のないようにだけは気をつけるんだよ」
「はーい」
「返事は『はーい』じゃなくて、『はい』でしょ」
(……やれやれ、まだまだ前途多難な予感はするけど、一応は自立への一歩を踏み出せたから、まぁ、いいかな)
今後もこの生意気娘には悩まされることもあるんだろうな、と、スターの横顔を見つめながら、今から覚悟を決めるミランダであった。