第三十七話
唐突ですが、この回はミランダの過去話になります。
でも、ちゃんと次話に繋がっていますので、閑話休題ではなく一応本編です。
あれは、いつの話だっただろうか。
確か、ミランダがルータスフラワーを追い出され、更に格下の娼館、ではなく、売春宿で働くようになって間もない頃だったような気がする。
その日、客引きに出向いたものの、歓楽街の雑踏の中、めぼしい男に次から次へと誘い掛けてはみるものの全て空振りに終わり、気付けば表通りは一通り周り尽くしてしまっていた。
中々客が捕まらない上に、時間ばかりが無駄に過ぎて行く。今自分が身を置く売春宿の店主は口煩い性分に加え、場合によっては暴力に訴えることも厭わない下卑た男なので、このまま客を連れずにのこのこ帰ろうものなら何をされるか分かったものではない。ミランダは、焦りと同時に苛立ちを募らせ始める。最も、二十代も後半に差し掛かり、美貌が少しずつ衰え始めたからか、このところ客が捕まらない日が続くことはザラではあったが。
こういう気分の時は無性に酒が飲みたくて仕方なくなる。
客引きにかこつけて、どこか適当な酒場に入ろうか。
いや……、もしくは危険を承知でサマセット通りをはじめとする裏通りまで出向くか。
ぐるぐると頭の中で様々な思案を巡らせている内に、表通りから外れた場所ーー、裏通りとの境まで足を進めてしまっていた。
(……これはもう、裏通りで客引きをしてこい、ってことかしらね)
歓楽街の裏通りは、多くの浮浪者や犯罪者の巣窟と言われているだけに、長年歓楽街で暮らすミランダであっても、出来れば立ち入りたくない場所だが、店主に散々怒鳴り散らされたあげく、殴られるのも堪ったものではない。
ミランダの額から、冷たい汗がすうっと滲み出てくる。
晩夏とはいえ、まだまだ暑さが残る時期なので汗が噴くのは何ら不思議なことではないが、これは恐怖心からの緊張によるものだ。
怖気づく気持ちをどうにか奮い立たせ、ミランダは腹を括って裏通りへと続く路地へと足を踏み入れたーー、が、すぐにぴたりを歩みを止めてしまう。
ミランダが入り込もうとした、廃墟と見紛う程に鄙びた建物と建物の隙間から、人の気配を感じたのだ。
人数は二人、漏れ聞こえてくる声からして一人は年配の男、呂律が回っていない様子から酩酊状態の酔っ払いとみた。もう一人はーー??
危険だとは思いつつ、気になったミランダは二人から見て死角となる場所に身を隠しながら様子を窺う。
もう一人は、若い女だ。
深夜に、こんなうらぶれた場所を出歩くなんて間違いなく娼婦の類だろう。
大方、自分と同じく裏通りで客を引こうとして、質の悪い酔っ払いに絡まれてしまったに違いない。
女は脅えながらも、毅然とした態度で抵抗と拒否の意を示すものの、大の男の力に敵うはずがなく、壁に押し付けられてしまっている。このままではきっと、女は男に強姦されてしまう。現に、男は「誰にでも股開くような女が気取るなよ!一発くらい、ただでヤラせろ!!」などと喚き散らしている。
誰にでも身体を許すのは、見返りとして金銭のやり取りがあればこそであって、そうじゃなきゃ誰が好きでも何でもない男となんか寝るもんかーー。
男の発言に対し、憎々しげにミランダがチッと舌打ちを鳴らした直後、彼女の横を大きく真っ白な影がサッと通り抜け、一目散に男と女の元へ駆け出していく。影が通った後には、煙草と麝香の香りがふわっとミランダの鼻腔を掠めた。
その影が間近に迫ると、壁に押し付けられていた女は目を見張り、男は顔面蒼白となり慌てて女から身体を離したものの、時すでに遅し。
白い影ーー、三つ揃えの白スーツを纏った、長身の男が力一杯突き出した長い脚によって、酔っ払いは見事に蹴り飛ばされてしまったのだった。
白スーツの男に蹴り飛ばされた弾みで、酔っ払いの男は転倒し地面に倒れ込む。しかし、それでも白スーツの男は無言のまま、容赦なく酔っ払いを蹴り続ける。
「ハル!これ以上蹴るのはもう止めて!!この人が死んじゃう!!」
壁に後ろ手をついて身体を支えていた女が、白スーツの男の凶行を止めようと悲痛な声で叫ぶ。すると、それまで狂気さえ漂わせていた男はぴたりと動きを止め、痛みで起き上がることすらままならない酔っ払いを冷ややかな目で見下ろす。そして、その場にしゃがみ込むとやけにドスの利いた声で話し掛けた。
「おい」
酔っ払いは返事を返さない。と言うよりも、痛みと恐怖で口すら利くことが出来ない。
「金を払ってこいつを抱く分には構わない。……それがこいつの仕事だからな。だが……、それ以外ではこいつに指一本足りとも触んな。絶対にだ。……分かったか??」
「…………」
「おい、返事は??」
酔っ払いは返事をする代わりに、地面に顔を擦りつけてはこくこくと何度も頷いてみせた。それを見た白スーツの男は、侮蔑を込めた眼差しで一瞥した後、ようやく立ち上がると、今度は女の傍に近づく。女は男に怒鳴られるか、もしくは叩かれるのかと覚悟をしたのか、ギュッと目を固く瞑り身を竦ませた。
白スーツの男は、そんな女に向けてフーッと溜め息をついてみせーー、彼女の身体を強く抱きしめたのだった。
予想外の男の反応に、吃驚した女が目を白黒させていると「……アダ。裏通りには行くなって、いつも言ってるだろうが……」と、男は女の身体を抱く力を益々強める。
「……ごめんなさい……。どうしても、客が掴まらなくて……」
「そういう時はこっそり俺に言えって……。今回は無事だったから良かったものの……」
男はそこで言葉を唐突に切ると、「……おい、覗き見とはいい趣味してんなぁ。『男爵様の囲い者』ミランダさんよぉ」と、ミランダに向けて鋭い視線を投げ掛ける。
「失礼ね、こっちは好きで見ていた訳じゃないわよ。裏通りに行こうと思ったら、そこの女と倒れている酔っ払いがひと悶着起こしていたところに、偶々出くわしただけなんだけど。それと……、その通り名で呼ぶの止めてくれない??あの男に囲われていたのは、もう六年も前の話だし」
男に負けじとミランダも、琥珀色の大きな猫目で睨み返す。
「あぁ、そりゃ悪かったよ。以後気をつけよう」
「そうしてくれるとありがたいわ、サリンジャーさん」
「その代わりと言っちゃなんだが、今夜の件は内密にしてくれないか。交換条件だよ」
「別に構わないけど、何を黙っていればいいの??見ず知らずの酔っ払いに暴行加えたこと??その女が貴方と情人同士だってこと??それとも、貴方がこっそりとその女を買おうとしていること??」
「あぁ??全部に決まってんだろ??」
男はミランダの勿体付けた物言いにいささか苛立ち、言葉を荒げる。この男、黙っていれば、端正な甘い顔立ちをした中々の色男なのだが、どうにも口が悪すぎるため、ポン引きというよりも柄の悪いチンピラにしか見えないのが難点である。
「あぁ、はいはい、分かったわ。全部黙っておいてあげる」
ミランダは面倒臭そうに手をひらひらと振ると、「まぁ、せいぜいお姫様と仲良くやれば??じゃあ」と、踵を返して表通りへと引き返していった。
あの白スーツーー、ハロルド・サリンジャーという男は、若さに似合わずやり手のポン引きであり、歓楽街でも名うての遊び人として有名だったが、近頃じゃ女関係の噂がめっきり途絶えてしまっていた。
(その原因が、まさか自分の店の娼婦と恋仲にあったことだったとはね……)
泣かせた女は数知れない色男を射止めるなんて、中々やるわねーー、などと考えながら歩いていると、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえ、その声につられて振り向くとーー。
さっきの女がミランダの後を、必死になって追い掛けていたのだ。
ミランダが立ち止まると、程なくして女は追いついてきた。はぁはぁと息を切らしている女をさりげなく値踏みしてみる。
女は思ったよりもずっと小柄だった。(とはいえ、ミランダと比べたら少し高いが)
白磁器のように、きめ細やかで真っ白な肌に亜麻色の長い髪、エメラルドグリーンの大きな瞳が印象的だが、決して美人だとか綺麗とかいう類ではない。おっとりとした大人しそうな雰囲気も相まって、どことなく地味である。正直なところ、外見的な面ではあの派手な男とは釣り合っていない。
「私に何の用??」
ぶっきらぼうなミランダの口調にややたじろぎつつ、ようやく息が整った女は「……あ、あの……」と言葉を詰まらせながら、二の句をついだ。
「ありがとうございます!ハルと私のこと、口外しないって約束してくれて助かりました!!」
「……別に、礼を言われる程のことじゃ……。……まさかと思うけど、それだけを伝えるためにわざわざ走って来た訳??」
「あ……、ごめんなさい……。もしかして、迷惑でしたか??」
女の大きな瞳は不安気に揺れている。
「いや、迷惑ではないけど……」
「それなら良かった!ハルにも、やめておけと言われたけど……、どうしても伝えたかったの」
呆気に取られているミランダに構わず、女は嬉しそうに満面の笑顔を浮かべる。その笑顔は、青空に輝く太陽のように明るいものだった。
もしかしたらあの男は、この女の、稀に見る純真さと天真爛漫な笑顔に惚れ込んでいるのかもしれない。
かくいうミランダも、彼女の無邪気な笑顔によって、常にささくれだっている心が僅かに和んだくらいなのだから。そして、商売敵であるにも関わらず、彼女と仲良くなってみたい、と、柄にもなく思ってしまったのだ。
「私はミランダっていうの。ねぇ、貴女の名前、教えてくれない??」
「アドリアナよ。皆はアダって呼んでるの」
「そう。じゃ、私もアダって呼ばせてもらうわ。今後はよろしくね」
ミランダの言葉にアダが再び微笑む。その笑顔に影響されたのか、ミランダも珍しく穏やかな笑顔を見せたのだったーー。