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第三十六話

  それからもリカルドは、ミランダが仕事に出掛ける日は終業時間を見計らい、彼女を迎えに洗濯屋まで出向くようになった。

 夕暮れ時の寒空の下、店の正面に置かれたベンチに腰掛け、ミランダを待つリカルドの姿が最早日常的な光景となりつつあった、ある日の事ーー。


 仕事を終えたミランダが、店の裏口の扉を開けて外へ出て行く。

 今日は忙しかったせいで終わるのが少し遅くなってしまい、その分寒い中でリカルドを長く待たせてしまった。身体をすっかり冷やしてしまっているだろうし、 身体が冷えると足の痛みも悪化してしまう。だから、ミランダは急いでリカルドの元へと駆け寄ろうとしたものの、すぐに足を止める羽目になった。


 なぜなら、一人の女がリカルドに絡んでいる光景が目に飛び込んできたからだった。


 身なりや雰囲気からして、女は街娼の類のようだ。リカルドに自分を買ってもらおうと、しきりに彼の身体にしなだれかかろうとして誘いを掛けている。

 リカルドは女に身体を触れさせないよう、さりげなく動きを避けながら丁重に断りを入れている。にも関わらず、しつこく言い寄り続ける女に対して徐々に怒りが込み上げてきたミランダは、憤然としながら二人の元へ足早に近づいて行った。

 琥珀色の大きな猫目を思い切り吊り上げ、明らかに激怒している妻にリカルドは顔色を青くさせ、すっかり恐れをなしている。対して、女はミランダを面白がってか、挑発するようにわざとリカルドに寄り掛かってみせた。(リカルドはすぐに避けたが)

「この人、私の亭主なの。悪いけど他当たってくれない??」

 ミランダは、自分よりも頭一つ分以上は背の高い女を鋭く睨み上げ、腕組みをしながら努めて冷静な口調で女にこう告げる。しかし女は、小さいけれど獰猛な山猫を思わせるミランダの眼力に一切臆せず、「やだやだ、そんなムキになって目くじら立てんなよって。これだから、とうが経った年増女は面倒くせぇなぁ」と、肩を竦めてみせる程の余裕を見せつけたのだ。

 女は体格こそスラリとした長身でしなやかな身体つきだが、頬や鼻ら辺に雀斑が散っている顔は意外に幼い。せいぜい十三、四歳といったところか。大人ぶった蓮っ葉な口調も、どうにも背伸びしている感が否めない。

 女が、成人女性ではなく年若い少女だと気付くと、途端にミランダはまともに相手をするのが馬鹿馬鹿しくなり、それまでの怒りが嘘のように落ち着いてしまった。

「私からしたら、まだ乳臭いほんの小娘が無理して大人ぶっている方が面倒臭い……、というより、とてつもなく滑稽に思えるわね。どうせまだ十五歳にも満たない子供でしょ。悪い事言わないから、売春なんてもう辞めな。あんた程度の器量じゃ、余程の物好きか、子供にしか性欲感じない変態くらいしか相手してもらえないだろうし」

 ミランダが溜め息交じりに突きつけた、辛辣な言葉に少女はカッとなり、怒りで頬を紅潮させながらミランダの頬を思い切り張り倒してきた。

「ミラ!」

 叩かれた勢いで身体のバランスを崩しかけたものの、すぐにリカルドが手を伸ばして支えてくれたため、何とか倒れずに済んだ。妻に暴力を振るわれたことで、普段は温厚なリカルドも怒り心頭になり、少女を怒鳴りつけようとしたが、「いいの、挑発した私も悪いから。ただ、あの娘にはどうしても分かって欲しいの。一度娼婦に身を堕としたら最後、一生娼婦として生きなければならなくなる、売春地獄から抜け出したくても抜け出せなくなることをね……。だから、貴方は黙っていて」とミランダに制され、怒りを飲み込まざるを得なかった。

「おばさんは良いよね!そうやって庇ってくれて、生活の面倒見てくれる優しい旦那がいてさ!!アタシなんて、父ちゃんも母ちゃんも死んじまって誰も助けてくれる人がいなかったから、こうやって身を売るしかなくなっちまったのに!!分かったような口利いてんじゃねぇ、くそ婆ぁ!!」

 少女は先程の余裕などどこへやら、ミランダに対して口汚い罵声を叫び散らしている。

(……やれやれ、こういうところが子供だって言うのよ……)

「そうね、確かにあんたは可哀想な娘よね。でも、身を売ろうと考える前に、他に生計を立てる方法がないのか、ちゃんとよく考えてみたの??ウィーザーは割と開放的な街だし、女一人でも充分生活できるだけの給金が貰えるような仕事は探せばいくらでも見つかるはずよ。例えば、今目の前にある、私が働く洗濯屋もそう。私は週に四日しか働いていないけど、安息日を除いて毎日ここで働けば、売春するよりは高い給金が稼げる。ただし、それなりに仕事内容はきついけれど。娼婦、特に街娼なんかが身を売る理由としてよく生活苦が挙げられるけど、私からすると本当に??単に、根気に仕事を探すよりも身体を売る方が手っ取り早いからじゃないの??って疑問に感じるのよね。真面目にコツコツと働くよりも身体を売る方が楽だって安易な考え方をしていると、その内痛い目に遭うから」

 これは、ミランダが十九年に及ぶ娼婦生活を送ってきた経験に基づいたものだ。

 ミランダのように自分の意思とは関係なく身を売らされていたならともかく、自ら進んで娼婦となる以上、それなりの覚悟が必要である。

 しかし、まだ子供とはいえ、この少女にはその覚悟が全く足りていないように思う。その証拠に、先程までの威勢はどこへやら、ミランダの言葉に反論の余地がないのか、苦々しげにつぶらな青い瞳で睨んでくるのみで黙り込んでしまっている。


 だが、ようやく口を開いた少女が発した、俄かに信じがたい言葉に、ミランダは耳を疑うこととなった。


「……身を売るのは確かに嫌だけど、それ以上に堅気の仕事なんかしたくねぇ。だってよ、ここは港町だぜ??船の乗客の中に金持ちや貴族様がいる場合もあるし、そういう連中がアタシを買ってくれることだってあるかもしれない。で、アタシの境遇に同情して、囲ってくれるかもしれないじゃないか。そうすりゃ、三食昼寝付の贅沢三昧な生活が送れる。堅気の仕事なんかしてたら、金持ちに気に入られる機会自体に恵まれないだろ??」


 この娘は、正真正銘の大馬鹿者なのだろうか。


 少女の、どこまでも安易で軽率で愚かな考えに、鎮まっていたはずのミランダの怒りは再び頂点に達した。


 次の瞬間、ミランダは無言で少女の腕をガッと勢い良く掴み取ると、有無を言わさず少女をその場から引っ張っていこうとした。腕に爪が食い込んでいるような気もするが、この際どうでも良い。

「放せよ、婆ぁ!何処へ連れて行く気だよ!!」

 少女は当然のごとく抵抗し、ミランダの手を振りほどこうとするがびくともせず、それどころか掴む力が益々強まっていくばかりで、足を踏ん張って見せてもあえなくズルズルと引きずられていく。子供と見紛う程の、この小さな身体のどこに、自分よりも大柄な人間を強引に連れ去れるだけの力があるというのか。

「いい加減にしろよ!人攫い!!」

「五月蠅い!!!!!」

 ミランダの鬼気迫る恐ろしい形相と、酒焼けが原因によるしゃがれた声での恫喝により、さすがの少女もピタリと静かになり、大人しくミランダに引っ張られるがままとなった。

「ミラ、もしかして……」

 ミランダと少女の歩みにようやく追いついたリカルドが、機嫌を伺うように恐る恐る尋ねようとした言葉をいち早く察したミランダは、リカルドの言葉に被せるようにぶっきらぼうに答えた。

「この小娘を家に連れて帰るわ。甘ったれた性根をここぞとばかりに叩き直してやりたいの」

「……多分、そうだろうとは思った……」

 リカルドは杖をつきつつ、フゥ、と息を吐く。

「……ごめんなさい。勝手なことをして……」

「もう慣れっこだから、今更気にしてないよ」

「……うっ……」

 リカルドの諦めたような、それでいて痛烈な言葉に、ミランダは気まずそうに目を逸らす。

「……小娘じゃねぇ……」

 ふいに少女が、ぽつりと呟く。

「何??何か言った?!」

「小娘じゃねぇ、つったんだよ!アタシには、スターって名前があるんだよ!!分かったか、くそ婆ぁ!!」

「私もくそ婆ぁじゃないわ。ミランダって名前があるの。名前を覚えてもらいたかったら、そっちも人の名前覚えなさいよ、ねぇスター」

 唐突にミランダに名を呼ばれたことで、少女ーー、スターは気恥ずかしかったのか、言葉を詰まらせてしまう。その姿が、妙に可愛く思えたミランダは微かに笑みを漏らしたのだった。

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