第三十四話
ミランダが三年以上守ってきた断酒の禁を破った日から、一年近く経過したーー。
(1)
「……ミラ、これは何なんだい??……」
外へ出掛けようと玄関まで向かうミランダの後を、すぐさまリカルドが追う。彼にしては珍しく、険のある厳しい顔付きをしながら。
それもそのはず、リカルドの手にはラム酒の小瓶がしっかりと握られていて、それに気付いたミランダは気まずそうに彼から必死で目を逸らそうとする。
「ミラ、僕の目をちゃんと見て」
「…………」
「買い物は、僕が付き添っている時以外はしない、って、約束だろう??何で破ったの??」
「……えっと……、仕事帰りに、ちょっと疲れていたから……、つい……、ふらふらと……」
「……まあ、そんなことだろうとは思ったけどさ……。だけど、こうも何回も同じことをされると……、ね??」
リカルドは、わざと肩を大きく竦めて深いため息をついてみせる。その姿を目にしたミランダは、ムッとなりつい表情を歪めてしまう。
「……あのね、ミラ。僕の方がそういう顏をしたいんだけど」
「したければ、すれば??どうぞご自由に」
「ミラ!!」
さすがのリカルドもミランダの反抗的な態度に腹を立て、思わず声を荒げてしまう。
「わ、私、これから洗濯屋の仕事に行かなきゃいけないから……、じゃあ!」
「ミラ!!まだ話は終って……」
「行ってきます!!」
憤慨するリカルドを尻目にバタンと勢い良く扉を閉めると、ミランダは足早に仕事場ーー、彼女が働く洗濯屋へと一目散に走っていったのだった。
そんなミランダの後ろ姿を見届けたリカルドは、はぁっと一段と更に大きなため息をついたのだった。
約一年前の出来事の直後、突然ミランダが切り出したーー、「外へ働きに出たい」という頼み。
四六時中、家の中でずっと過ごすよりも働きに出ることで気が紛れるかもしれないし、お金も稼げるからーー、と。
だが、ミランダが働きに出ることにリカルドは始めの内断固反対したものだった。
確かに、仕事に没頭している間は彼女の頭を悩ませている事々から解放されるだろう。しかし、その分、仕事で受ける心労でまた鬱屈したものが積りはしないか。または、仕事帰りに酒屋へつい足を運んでしまわないか。
リカルドの反対を押し切って働き出したミランダは、思いの外仕事での心労は感じていないらしく、重労働にも関わらず、むしろ楽しんでいるくらいだったが、たまに酒屋へ寄り道してしまう時があり、一長一短といった印象がどうにも拭えない。
だからと言って仕事を辞めろと言おうものなら、ミランダは烈火のごとく怒り狂って大暴れするだろうし、仕事が楽しいのに無理矢理辞めさせれば依存が悪化してしまうに違いない。
(……言いたいことをちゃんと言い合うようにはなれたし、楽しいと思えることもできたしで以前と比べて明るくはなってきているんだけど……、あと一歩のところがね……)
リカルドは頭をガリガリ引っ掻きながら、作業を続けるべく部屋へと戻っていったのだった。
(2)
洗濯屋の裏手に設置された大きな井戸端には、二人の女がそれぞれ桶の中に洗濯板を突っ込み、板に押し付けるようにして衣類を洗っていた。
この店で使用している洗濯板はガラス製のもので、持ち運びの面では重たいのが難点だが、ブリキや木製のものと比べて板の色が衣類に付着しないという利点がある。
しかし、いくら防寒具を身に付けているとはいえ、寒風吹きすさぶ中で肘まで袖を捲り上げ、冷たい水に手を長時間晒し続けるのは結構な重労働だ。そのため、冬場は井戸から汲み上げた水を沸かし、お湯を使っている。それでも、時間と共に湯は冷めていく。
すでに寒さにより手先の感覚がなくなりつつある中で、女の内の一人ーー、ストロベリーブロンドの長い髪とアイスブルーの大きな瞳をした若い女は、更に困惑するような状況に陥っていた。
というのも、早いところ洗濯を終わらせて次の作業に移りたい、何より寒いから中に入りたいしーー、と思って仕事に集中したいと思っているのに、もう一人の老女と言っても過言でない女にペラペラと無駄話、それも返答し辛い一方的な会話を次から次へと繰り出され、思うように行かないのだ。
女は割と気の強い質ではあるものの、ウィーザーへ移り住んでこの仕事を始めてからまだ日が浅く、またこの老女はそれとなく迷惑そうな素振りを見せても一向に気付かず、はっきり伝えない限り分かってくれない上に、伝えたら伝えたで機嫌を損ねてはあることないことを周りに吹聴する、いわば大変面倒臭い質のため、とりあえず適当に相槌を打つより他に手がなかった。
「ねぇねぇ、そう言えば、あんたが同じくらいの年頃の男の子を家に連れ込んでる、って本当??この辺りでは見掛けない、綺麗な顔した子だって。あんたとどういう関係な訳??実は結婚してたの??」
「……え、あ……、結婚はして、ません、が、将来的にはするつもりですけど……」
「あら、嫌だ。結婚前なのに、女一人だけで住む部屋に男を上げるなんて……、もしかして一緒に寝てたりしてる訳??」
女は、老女の好奇心に満ち溢れた、厭らしくも愉しそうな顔つきに思わず絶句してしまった。心の中で思う分にはともかくとして、直球でこんなことを尋ねてくるなんて、正直人としての品性を疑いたくなってくる。その時だった。
「メリッサ、あとどのくらいで終わりそう??アイロン掛けが立て込んできたから手伝って欲しいの」
女ーー、メリッサの前にミランダが現れ、思わず大仰に胸を撫で下ろしそうになった。
「あ、私の分は終ったんですけど……」
メリッサは横目で老女の様子をチラリと伺う。洗濯は基本二人一組で行うので、自分の分が終わっても相方の分が残っていたら否が応でも手伝わなければいけない。
だが、ミランダはふん、と軽く鼻を鳴らすと「リーさん、悪いけどメリッサ借りるわよ。自分の分くらい、人に頼らずちゃっちゃと一人でやって頂戴」と、幾分厳しい口調で老女にすげなく告げる。
「……でも、洗濯は二人一組って決まりなんでしょ??勝手に破ったら、店主が何て言うか」
「は??そしたら、アイロン掛けの方が忙しかったし、洗濯は二人でやる程の量ではなかったから、臨機応変に動いたまでです、って言えばいいだけの話よね??それで怒られたら、その時はその時だし。そういう訳で、メリッサ、行くわよ」
ミランダは先程よりも更に、有無を言わせぬ厳しい態度で老女を黙らせると、半ば強引にメリッサを自分の持ち場へと連れて行ったのだった。
「ミランダさん、ありがとうございました」
中に戻る途中、小さな声でメリッサはミランダに礼を述べる。小柄なミランダよりも一〇㎝以上背の高いメリッサが身を縮ませる姿が可笑しかったのか、ミランダは思わずクスリと笑った。
「いいのよ、気にしないで。量の割に洗濯に時間掛かり過ぎていると思ったら、案の定、あの能なしの口たたき婆が貴女に絡んでいて、やっぱり……、ってね。まぁ、アイロン掛け手伝って欲しかったのは本当だけど」
ミランダの痛烈な言葉に、メリッサは苦笑いを浮かべる。その様子を見ながら、日に日に彼女の表情が和らいできていることを実感し、ミランダは安堵したのだった。
メリッサは、とある事情により、ファインズ家が治めるあの街から一時的にウィーザーへ逃げてきた身だった。
彼女の事は事前にシーヴァから手紙で知らされていたこともあり、ミランダとリカルドで住む場所や仕事の紹介を始め、何かと親身になって世話をしてあげたのだった。
そのお蔭か、ウィーザーに来た当初は憔悴しきっていたメリッサも徐々に本来の明るい性格を取り戻していき、今では「洗濯屋の看板娘」として周りから可愛がられるほどに回復していた。
メリッサは取り立てて美人という訳ではなかったが、青空に輝く太陽のような、明るい笑顔が印象的で、彼女の笑顔を見るだけで元気になってくる、そんな魅力を持つ娘だった。
だからか知らないが、メリッサと一緒にいると自然にミランダも明るい気持ちになってくるのだ。
しかし、それでも疲れが溜まったり落ち込むことがあると、ついつい酒に手を伸ばしてしまう。いけないことだと分かっているし、いい加減仕事帰りにこっそり酒を買うことを辞めなければ、リカルドの堪忍袋の緒もそろそろ切れてしまうかもしれない。
『せっかく、愛する人と結ばれたのだから……、簡単に諦めたりしないでください』
先日、メリッサの居場所を聞く為にミランダの元へ訪れた青年ーー、メリッサの恋人マリオンから告げられた言葉を思い返してみる。
サラサラとした銀髪に高級な猫を思わせるコバルトブルーの瞳を持つ、中性的な美しい顔立ちのマリオンを初めて見た時、一瞬ダドリーが現れたかと思い、身構えそうになったものだ。だが、次の瞬間、彼が見せた真っ直ぐな優しい笑顔は若い頃のリカルドとよく似ていて、ミランダの警戒心はすぐに解けることになった。
最も憎しみを抱く男と、最も愛情を抱いている男。
その両方の特徴を併せ持つ、マリオンの一点の曇りもない、純粋な言葉はミランダの心に少しずつ変化をもたらそうとしていたのだった。