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第三十三話

(1) 

 何度か小刻みに瞬きを繰り返した後、ようやくミランダが目を覚ますと同時に、ベッド脇に座るリカルドと視線がかち合った。彼の深いグリーンの瞳はひどく不安気に揺れている。

 どうやら、いきなりドライジンの瓶を一本空けてしまったことで急性アルコール中毒を引き起こし、そのまま倒れてしまっていたようだ。

 断酒の禁を破ってしまった上に一歩間違えれば死んでいたかもしれない。

 自らが犯した二重の過ち。申し訳なさの余りにいたたまれなくなり、ミランダはリカルドから視線を逸らそうとした。が、あえなく阻止されてしまう。

 リカルドが、ベッドに伏したままのミランダに覆い被さるように、彼女の身体を強く抱きしめたからだ。

「……良かった……。目を覚ましてくれて……」


 どうして彼は、こんな自分にどこまでも優しいのだろう。

 しかし、彼の優しさは今のミランダにとって、どんな責苦を受けるよりも残酷な仕打ちでしかなかったーー。


  人から施しを受けたならば、対価として相応のお返しをしなければいけない。

 例えば、自らの身体を差出し男の欲望を満たしてあげる代わりに、お金を貰う。

 

 人と人との関係性に置いて必ず等価交換が発生するーー、それは長年ミランダの中で培われてきた考え方だった。

 しかし、その考え方に照らし合わせた場合ーー、ミランダはリカルドから与えられてばかりで何一つ返すことが出来ていないような気がしていた。


 ダドリーによって仲を引き裂かれ、再会するまでの十年間ーー、自分が生きているのかどうかすら全く分からないにも関わらず、身を粉にして早朝から深夜までずっと働きづめで身請け金を貯め続けていたリカルドに反し、彼の行方を捜そうともせず、ただただ己の不運を嘆き、アルコールに溺れ身を持ち崩していただけの体たらく振り。結婚したものの、家事もろくにこなせずリカルドに手伝ってもらっている始末。

 

 だから、せめてリカルドの子供を産むことで返したかった。


 なのに、それすら私には許されない。

 役立たずの極みもいいところだ。

 

 いっそのこと、「お前なんかもういらない」と言って、打ち捨ててくれればいいのに。

 

 そんなことを思いながらも、自分からリカルドの元を離れることは何にも耐えがたく、到底できることではないのも事実だった。

 彼の優しさを辛いと思う癖に、別れるのは身を裂かれるより辛いと思っているなんて。相変わらず狡くて汚い女だ。


「……ねぇ、何で私なの……」

 ミランダは、かつてダドリーに投げ掛けた同じ言葉でリカルドに問うた。

「……どうしてこんな女ーー、若くもなければ美貌も衰え、家事もできない子供も産めない、アルコールに溺れて身も心も汚れきった女を、わざわざ選んだの??」

 リカルドはミランダを抱きしめるのを止め、身体を離すと再び彼女の琥珀色の瞳をじっと見据えた。深いグリーンの瞳には、先程よりも一層悲壮感が籠っている。

 しばらくの間、リカルドはミランダの問いに答えようとしなかった。否、正確に言うと答えられずにいた。

 それでも、今度は視線を外そうとせず、ミランダは彼の瞳をじっと見つめていた。答えを今か今かと待ち詫びながら。その答えがどのようなものなのか、一抹の恐怖をひそかに胸の内に抱えながら。


「……僕自身、何で君を選んだのか、未だによく分からないんだ……」

 リカルドが、絞り出すようにして出した答えは、ミランダにとって全くの想定外の言葉だった。

「……もっと言えば、君を好きになった理由も未だにはっきりと分かっていないんだ。出会った当初は『こんな可愛くて綺麗な子と知り合えてちょっと幸運だ』くらいの気持ちだったけど、君と接していく内にいつの間にか好きになっていて、気付いたら絶対に手放したくないと思うようになっていた。確かに、結婚してから君の良い部分も悪い部分も目の当たりにしてきたし、正直うんざりすることだってあったし、喧嘩だっていっぱいしてきたよ。それでも……、もしもまた、君と離ればなれになってしまったら……、考えるだけで気が狂いそうになる。君の言う通り、君より若くて綺麗で、家事もできて健康で子供を産める女性は星の数ほどいるだろう。それでも……、僕はどうしても君じゃなきゃ嫌なんだ。その理由もよく分からないけど……、分からないからこそ一緒にいられるのかもしれない。……って、長くなった割にまともな答えになってなくて、ごめん……」

 項垂れるようにして頭を下げるリカルドに、ミランダは力なく首を横に振ってみせる。不器用なりに、正直に吐き出してくれたリカルドの真摯な想いは、傷付く余りに閉ざされかけていたミランダの心にもしっかりと届いたからだ。

「ねぇ、ミラ。君はさ、僕にしてもらうばかりで何も返せていない、って、いつもそのことで僕に引け目を感じているよね??」

 ミランダは、少し間を置いてゆっくりと頷く。

「それは僕も一緒なんだよ」

「……え??」

 リカルドは、フッと寂しそうに薄く微笑む。

「十四年前ーー、僕が感情に任せるままに、君とあの街から逃げようとして……、結果、君は十年もの間苦界の中で極限の生活を送る羽目になってしまった。そのことがね、僕は一生悔やんでも悔やみきれないんだ。だから、君のアルコール依存も……、その……、子供が産めないことも……、僕の責任でもあると思ってる」

「……それは違うわ!男爵からの手切れ金を使っていれば、いくらでも苦界を抜け出せただろうに、つまらない矜持のために意地を張って……」

「でも、最終的にはその矜持を曲げてでも、君はシーヴァを助けるために手切れ金を使い果たしたのだろう??しかも、後悔すらしていないよね??」

「……うん……」

「だったら、その話は持ち出しちゃ駄目だよ。それに、僕は君のその行動には尊敬の念すら抱いているしね」

「…………」

 再び、二人の間に気まずい沈黙が訪れる。が、すぐにリカルドは言葉を続けた。

「ミラ。お互いがお互いに対して引け目を感じるのは、もう止めにしよう。だから……、もっと僕に甘えてもいいし、言いたいことがあれば包み隠さずはっきり言って欲しいんだ。僕も君にもっと甘えようと思うし、きついことも言う時があるかもしれない。それが原因で、時には大喧嘩に発展するかもしれないし、君のアルコール依存や不妊の苦しみには逆効果になるかもしれない。そしたら……、またどうすればいいか、一緒に考えてくれないかな??君が僕を嫌にならない限り、これからも僕は君の傍にずっと居たいんだ。それだけは……、どうか信じて欲しい」

 リカルドは、掛布を少し捲り上げると、家事や水仕事ですっかり荒れてしまっているミランダの小さな掌をぎゅっと握りしめる。

 ミランダは込み上げてくる感情を抑えきれずにはらはらと静かに涙を流し、枕を濡らしていた。


 彼の優しさで胸が痛いことには変わりなかったが、それ以上に、どこから湧き出でててくるのか分からない程、底なしの深い愛情に少しでも応えていきたいーー、と、少しだけ、ほんの少しだけ、真っ暗な絶望に支配されていた心に、一筋の小さな光が垣間見えた、ような気がしたのだった。

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