第三十二話
それから更に、三年の月日が流れたーー。
(1)
ミランダは、玄関の前に散らばっている落ち葉を箒で掃いている。
家の付近には目立った樹木は見当たらないというのに、一体何処から飛ばされてくるのだろう、と、ぼやきたくなる程、気付くと家の周辺が落ち葉だらけになっているため、こうして毎日のように掃き掃除を行っているのだ。
港町であるウィーザーは年中強い海風が吹いていて、特に冬場は寒気と相まって一段と風が冷たく吹きすさぶ。そのせいで、箒を握るミランダの手は寒さですっかりかじかみ、冷えで指先がジンジンと痛み出していた。
でも、あと少しで粗方落ち葉を片付けられるから、と、冷えと痛みで手が動かし辛くなってきたにも関わらず、作業を続けていたミランダにある男が声を掛けてきた。
「おや、奥さん。今日も精が出ますねぇ」
「あら、ティボルトさん。こんにちは」
ミランダは箒を握りしめたまま、男に向かって会釈をする。
「この間、修理に出した時計を引き取りにお邪魔したんだが……、リカルドはいるかい??」
「えぇ、相変わらず部屋に籠って作業しています。良かったら、寒いですし家に上がってください。すぐに温かいお茶を用意しますから」
そう告げると、ミランダは手早くササッと落ち葉を塵取りで集め、箒と塵取りを手にしがてら、男を家の中へと案内したのだった。
「ティボルトさん、お待たせ」
ミランダがお茶を用意している間に、リカルドは男が修理に出した懐中時計を持って居間に姿を現した。
男は、リカルドから懐中時計を受け取ると確認するようまじまじとよく見入った後、「さすが、リカルドは腕が良いねぇ。前に他の所に出したら修復不可とか匙を投げられたのに」と、しきりに感心した様子でリカルドを褒める。
「うーん、どうかなぁ??僕が付いていた親方さんのやり方を引き継いだだけだけどねぇ」
「そうやって謙遜するところもリカルドの良いところだよなぁ。腕が良いだけじゃなくて、人柄も良い。だから、商売も繁盛するんだろ」
そう言って、男は今し方ミランダが淹れたお茶に口を付ける。
「それと、美味い茶を淹れてくれる別嬪の女房もいるし」
「あら、嫌だ。ティボルトさんてば、こんな年増を捕まえて何を言っているの」
ミランダは、ティーポットを持ったまま苦笑を浮かべてみせる。
「いやいや、本当だぜ??奥さんのことはリカルドの美人妻って、近所じゃ評判なんだから」
確かに、若い頃と比べたら美貌は数段衰えたものの、リカルドと結婚してからのミランダは苦労をしつつも幸せであることには変わりなく、酒や煙草も今の所断てていることも含め、心身の状態が安定しているせいか、本来の美しさを取り戻しつつあった。
「あとは、子供さえいれば言う事ないけどなぁ。お前さん達、結婚してもうすぐ四年だろ??もうそろそろ、一人くらい出来てもいいだろう??」
途端に、ミランダの笑顔は凍り付き、かろうじて口元に笑みを張り付かせているような状態に陥る。
男の言葉に悪意の欠片もないことは充分に理解できる。だから、ここで怒ったり傷付いた表情を見せる訳にどうしてもいかない。
「まぁ、こればかりは授かりものですし……、その内できればいいかなぁ、と思ってますよ」
すかさず、リカルドが穏やかな、それでいていつもと比べたら曖昧な笑顔で、それとなく話題を濁そうとする。
「そうは言ってもなぁ……、お前さんももうすぐ四十だし、年取ってからの子育ては大変だぞ??」
話題を変えたがっている二人に構わず、男は尚も畳みかける。
男は一度熱くなると、相手の顔色を無視してまで長々と語り出す性質らしく、自分や周りの人間の経験を元に子育てに関する話を延々と続けた挙句、「奥さんも、リカルドの為にも一人くらい産んでおけよ」と、とどめの一言をミランダに発し、ようやく帰ったのだった。
(2)
「……ミラ、ごめんね……」
男が帰った後、二人分のカップとティーポットを流し台まで運ぼうとするミランダの後ろ姿に向かって、リカルドがすまなさそうに謝ってきた。
「リカルドが謝ることじゃないわ。それに、ティボルトさんだって親切心で言ってくれただけだし、私は全然気にしてないから」
リカルドを安心させようと、ミランダは彼の方を振り向いてにこりと微笑んでみせる。
それでもリカルドはまだ何か言いたそうにしていたので、彼が言葉を口にするのを遮るように、「あ、そうそう!昨日シーヴァから手紙が届いてね、二人目の子が出来たんですって。上の子が男の子だったから、今度は女の子が生まれるといいわね、って、手紙に書いたわ。まぁ、どちらにせよ、健康な子が生まれればそれに限ったことはないけどね」と、努めて明るい口調でミランダはリカルドに妹分の朗報を告げた。
「……誤解しないでね。あの子が、好きな人と結婚して幸せな家庭を築いていることは、私にとっても凄く嬉しい事なの。そりゃあ、羨ましい気持ちが全くないとは言い切れないけど、私も私で今の生活は幸せだと思っているの。本当よ、嘘じゃないわ」
「……ミラ……」
ミランダはリカルドに切々と、嘘偽りない正直な心情を吐露するが、それでも重苦しい空気は一向に変わらない。だが、そこをどうしても変えたいミランダはわざとらしいくらいの明るい口調で話題をガラリと変える。
「それはそうと……、あのお金がまた貯まってきたことだし、今度の旅はどこへ行く??私ね、ちょっと気になっている場所があるの」
「……え、あ……、ミラの行きたいところってどこ??」
ミランダが街、というより、その村の名前を出すと、「あぁ、確か国で一番有名な美しい湖水地方の村だね。僕もそこは訪れたことがないから、興味があるし、じゃあ今度はその村に行ってみようか」と、ようやく彼らしい、穏やかな笑顔を見せてくれたので、ミランダは心底ホッと胸を撫で下ろしたのだった。
その時、胸の辺りが急にむかむかと焼けつくような気分の悪さを覚えた。まるで、酒を飲み過ぎた後のような感覚で、もう三年以上酒は口にしていないのに……、と訝しんでいると、とてつもない吐き気に襲われ始める。
「ミラ??気分悪いのかい??」
ミランダは返事をする代わりに大きく頷いてみせる。直後、限界に達したミランダは慌てて便所へ駆け込み、派手に嘔吐した。
吐いている内に、徐々に気分と共に頭もすっきりし出したことでミランダはハタと気付く。
そう言えば、今月に入ってから生理が少し遅れているような……。
まさか、でも……。
結婚してから四年が過ぎ、今では半分以上諦めかけていたのに……。
ミランダの中で、小さく消えかかっていた希望の灯が、再び大きく炎を点し始めたのだった。
(3)
ーー数日後ーー
ミランダは、診療所の寝台の上に寝かされていた。
医者による触診とはいえ、リカルド以外の男の前であられもない格好を見せるのは少々抵抗を覚えるものの、そこはグッと堪えて大人しく羞恥に耐えている。
やがて診察が終わり、寝台から起き上がったミランダは医者と向かい合った状態で椅子に座った。
「ベイルさん。残念ですが、今回貴女は妊娠しておりませんでした」
医者から告げられたのは、ミランダの予想を見事に裏切るものだった。
「……え……、でも、悪阻のような症状がここ数日続いていましたし、それに、生理も来る気配が……」
「あぁ……、それは……。もしかしたら、想像妊娠というやつかもしれません」
「想像妊娠……??」
「えぇ。妊娠を望む気持ちが強すぎる余り、本当は子を身籠っていないにも関わらず、あたかも妊娠したかのような症状が身体に現れる、というものです」
つまり、この数日の吐き気や生理の遅れは、平たく言えば妄想がもたらした身体の異変ということなのか??
ショックで呆然となるミランダに向けて、医者は少し言い辛そうにしながらも、更なる衝撃的な発言を告げる。
「それと……、大変言いにくいことではありますが……。ベイルさんの卵巣は発育不全のせいか……、妊娠できない体質のようです」
脳天に稲妻が落とされ、そのまま爪先まで突き抜けるような衝撃がミランダの全身を瞬く間に走り抜けた。
目の前で眼鏡を冷たく光らせながら、事務的に話すこの男は一体何を言っているの??
医者は、何故ミランダの身体に問題があるのか、彼女に納得させるために延々と理由を話してくれているようだが、右から左で頭にちっとも入って来ない。いや、理由などこの際、はっきり言ってどうでも良い。子供が産めないという事実の前では、理由など何の意味も成し得ないのだから。
その後、ミランダはどうやって診療所を出て、家路を辿ったのか、よく覚えていない。
ただ、気付くと台所の隅で、三年以上振りに、ドライジンの瓶に口を付けてしまっていたことだけは確かであった。