第三十話
ミランダは、琥珀色の大きな猫目をこれでもかというくらい目一杯見開き、目の前に立つ男ーー、リカルドのぎこちない笑顔を、彼のシャツの襟元を掴んだままでしばらく茫然と見つめ続けていた。気のせいか、シャツを掴んでいる両手が微かに震えている。
リカルドもミランダの動向を伺っているのか、彼女の手をどけようともせずあえてその態勢を保ち、黙り込んでいる。
どのくらいの時間、二人はそうしていただろう。
「……何で、貴方がここにいるの……」
先に沈黙を破ったのはミランダだった。
ミランダはシャツを掴んでいた両手を離し、リカルドをようやく解放する。しかし、次に言うべき言葉が上手く紡ぎ出せず、再び口を閉ざしてしまう。
生きていてくれて本当に良かった。
もう二度と会えないだろうとずっと思っていた。
私のせいで酷い目に遭わせてしまってごめんなさい。
どの言葉も十年間抱え続けていたものだけれど、今この場で口にすべきふさわしい言葉なのか、いま一つ自信が持てない。もっと他に言うべき言葉があるはずだ。
リカルドは相変わらず黙ったまま、ミランダの言葉を待っている。十年前と変わらない、ミランダが愛したあの優しい笑顔を浮かべながら。
あぁ、私はすっかり落ちぶれて、若さも美しさも失くしてしまったのに、彼は、彼だけは、変わらずに私を真っ直ぐな瞳で見つめてくれているーー。
「……ずっと、貴方に、リカルドに……、会いたかったの……」
ミランダの口から零れ出したのは、あのクリスマスの夜から心の奥底にずっとひた隠し、必死に忘れ去ろうとしていた言葉だった。その直後、十年間押し殺し続けてきた様々な感情が一斉に溢れ出し、遂にミランダはその場で泣き崩れてしまった。
床にへたり込んで、小さな子供のように声を上げて泣きじゃくるミランダに何も言わず、リカルドは彼女と同じく床に膝をついて(その際、左足が痛んだのか、僅かに顔を顰めたが)、その小さな身体をそっと抱きしめる。
「……やっと、君を迎えに行く準備が出来たんだ。あれからーー、十年前のクリスマスの夜ーー、僕は意識不明になるまで男爵の手下から暴行を受けたけど、奴らが去った後にある青年が僕を助けてくれてね。しばらくの間、彼の元で静養させてもらっていたんだ。怪我の後遺症は多少残ったものの、まぁ元気になったし、あの時に君と向かう筈だった場所……、以前話した、二年間滞在したウィーザーという港町に戻って、君を身請けするためのお金を必死で稼いでいた。ちなみに今もその街で働いている。随分と時間が掛かってしまったけど、今度は堂々と正面切って君を迎えに行きたかったんだ」
「……私は、貴方を酷い目に遭わせたのよ。その足だって、あいつらにやられたものなんでしょ??」
すでに目を真っ赤に腫らしているのに、ミランダは尚も泣きじゃくっている。
「そんなの君が悪いんじゃない。君こそ、あいつに、あの男爵に人生を狂わされて、僕の想像を絶するような辛い思いを散々してきたんじゃないのか??」
リカルドは、ミランダの痛んでパサパサになってしまった長い髪にそっと触れる。まるで、壊れ物を大切に扱うような丁寧な手つきで。その変わらない優しさにミランダの胸が痛む。
「……そんな風に優しくしないで。私はあの頃以上に汚れてしまったし、年を取ってすっかり醜くなってしまったわ。身も心もね。おまけに、酒に溺れて手放せなくなってしまった、ろくでなしの売女なのよ」
「……違うよ。君は傷つきやすい綺麗な心を守り続けてただけだ。今もずっと。もう君の雇い主に身請け金は渡したから、君は今すぐにこのまま僕と一緒にここから出ればいいだけさ」
リカルドと再会できただけでも、ミランダにはこんな奇跡が起きるなんて信じられない、と、喜びよりも戸惑いの方が大きいくらいなのに、更に彼は今すぐに自分を身請けするとまで言っている。
もしかしたら、私は幸せな夢を見ているだけなのだろうか、と疑い、思い切り手の甲を抓ってみる。皮膚が突っ張り、じんとした痛みが走る。
これは夢じゃない、現実なんだとはっきりと思い知らされる。
「……そんな、今すぐだなんて……。再会したばかりなのに、強引だわ……」
「だって、このくらいしないとまた君と離れ離れになってしまう気がして。だから」
リカルドは左足を庇いながらゆっくり立ち上がると、まだ座り込んでいるミランダの痩せ細った腕を掴み、少年のように悪戯っぽく笑い掛ける。
「君は、ただ黙って僕についてきてくれば、それでいいんだよ」
ーーあぁ、この人の笑顔には逆らうことなんて、私には絶対に出来やしないーー
リカルドに反発することを諦めたミランダは呆れたように、それでいて少女のようなあどけない笑顔を浮かべ、立ち上がってみせる。こんな風に笑うなんて、一体何年振りになるだろうか。
「……仕方ないわね。そんなに言うなら、貴方についていってあげる。でも、ちょっとだけ待っててくれない??」
そう言うと、ミランダは大量の酒瓶が置かれた丸テーブルの隅っこから、やけに光沢を持つ赤い布地の小箱を持ち出す。それを目にしたリカルドは、思わずあっと、声を上げる。
「……まだ持っていてくれていたんだ……」
「当たり前でしょ。だって、これは私の一番大切な宝物なんだもの」
「じゃあ、せっかくだから、着けてみせてよ」
「え、それは無理。だって、私、二十九のおばさんだもの。もう似合わないわ」
「そんなこと言ったら、僕だって三十五のおじさんだよ??じゃあ、後で宿に到着したら着けてよ。僕が見るだけなら構わないだろう??」
ニコニコと嬉しそうに微笑むリカルドに、「もうっ、分かったわよ!リカルドは相変わらず押しが強いんだから!」とミランダは思わず噴き出したのだった。
そして、リカルドに手を引かれて部屋を出る時にミランダはふと思い出す。
そう言えば、今日はクリスマスだということを。
こんな素晴らしいクリスマスプレゼントを与えてくれた神様、本当にありがとう。
ミランダは、心の底から神に対し、多大な感謝の念を送るのであった。
次回は閑話休題的なお話になります。