第二十話
(1)
聖なる夜であるクリスマスに、教会近くの広場で起きた暴行事件の話は瞬く間に街中の噂として流れた。
目撃者が多数いるにも関わらず、警察が犯人達を捕まえる気配が全く見受けられなかったため、『男爵家のダドリー様が関与しているかもしれない』ということ、暴行の標的となった男女は一体何者なのかなど、様々な憶測が飛び交わされる。
ミランダのことも、歓楽街を中心にまことしやかに噂が拡がり、『ダドリー様の使い古し』と、面白半分に、あるいは悪しざまに口にする者も少なくなかった。
そのことはリカルドとの仲を引き裂かれてこれ以上ないくらいに傷ついた彼女の心を少しずつ、ほんの少しずつだが、確実に蝕んでいったのだった。
そして月日は流れ、あの忌まわしい事件からもうすぐ十年が経とうとしていたーー。
(2)
「……てめぇ、もういっぺん言ってみやがれっ!!」
男は女の長い髪をわし掴みにすると、女を座っている椅子ごと張り倒す。けたたましい音と共に、椅子ごと倒れた女は床に投げ出された。
女は投げ出された衝撃と痛みで顔を顰めつつ、倒れたままの状態で顔だけを上げて男をきつく睨みつける。
「なんなんだ、その目つきは……。この薄汚い売女がっ!!」
男が再び女の髪を掴み上げ、拳で殴りつけようとしたその時だった。
「おい、何やってんだ!やめろ!!」
無精髭を生やした小太りの中年男ーー、この売春宿の店主が慌てて部屋に駆け込み、男を取り押さえてくれたことで女は間一髪、殴られずに済んだ。
男は中年男の腕を振り払おうとしばらく抵抗していたが、押さえ付けられている内に徐々に冷静になってきたのか、次第に大人しくなっていった。
やがて、完全に男が平静を取り戻したことで中年男は腕を放し、解放する。
「兄さん、うちの女があんたに失礼を働いて、本当すんませんでした!!」
自分に向かって、申し訳なさそうに深々と頭を下げる中年男を見下ろしつつ、いささかバツが悪そうにしながらも男は釘を刺す。
「……この女が減らず口叩けないよう、なんとかしろよ」
男はそう吐き捨てると乱暴にドアを開け、部屋から出ていったのだった。
「……お前、……一体何をしでかしたんだ」
男の気配が完全に感じられなくなったのを見計らうと、中年男は女に厳しく問い詰める。
「……『金さえあれば、お前みたいな痩せっぽっちの年増のアル中じゃなくて、若くて綺麗で従順な女を買う』なんてこと言うから、ついカッとなってさ……。『私みたいなのしか買えないような、稼ぎの少ないあんたが悪いんじゃない』って言ってやったまでよ」
女はよろよろと立ち上がり、倒れている椅子を戻すとドカッと音を立てて座り直す。
中年男はおもむろに額に手を当て、はーーっとわざと大きなため息をつきながら、心底げんなりしてみせる。
「……お前、客と何回揉め事起こせば気が済むんだ……。この辺りでも格がお高い娼館の一番人気で、男爵様のお抱え娼婦だったのはもう十年も前の話だろうが……。今のお前の姿を見てみろよ……」
女は座ったまま、先程よりも眉間の皺を一層深くさせ、おもむろに中年男へ反抗的な目線を送る。
かつては子猫のようで愛らしい、と揶揄された琥珀色の大きな瞳は山猫を思わせる獰猛さのみを湛え、眉間に刻まれた深い皺と下瞼にできてる青い隈により、陰欝そうにも見える。
プラチナブロンドの長い髪は艶と輝きを失い、パサパサに痛んで箒のようだったし、白く滑らかだった肌もボロボロに荒れている。更に、歌えば天使みたいだと感嘆された美しい声も、酒焼けによりガラガラに枯れてしまっていた。
「……ただでさえ、年増でしみったれて人気のないお前は、うちの売春宿では稼ぎの元が取れない厄介者でしかないんだよ。置いてやってるだけでもむせび泣いて感謝して欲しいくらいなのに、恩を仇で返すようなことばっかりしやがって……。いいか、今度何か揉め事起こしたら、すぐに叩き出してやるからな!分かったか!ミランダ!!」
女ーー、ミランダのギラギラとした陰惨な目付きに対し、激しい怒りを含んだ目で睨み返すと、中年男は部屋を出て行ったのだった。
ミランダは中年男が出て行ったのを確認すると、椅子から立ち上がりドアを思い切り蹴り飛ばすも苛立ちが収まらず、ベッドサイドの小さなテーブルに並んでいる酒瓶の中の一つを手に取り、そのまま口をつけて豪快にラッパ飲みした。
勢いよく酒を口に流し込んだせいで、酒が唾液と共に唇の端からこぼれ落ち、だらしなく顎まで伝う。
「……そんなこと、自分が一番よーく分かってるわよ……」
けっ、と小さく悪態をつくと、汚れた口元を手の甲で拭い取る。そして、また酒瓶に口をつけた。
そう、この十年の間にミランダは酒に溺れるようになり、すっかり落ちぶれてしまっていたのだった。
いつからそうなってしまったのか??
それは、ダドリーがミランダの唯一の幸せを奪っておきながらーー、すぐにその責任を放棄したことーー、つまり彼女をあっさりと捨てたことから、端を発したことであった。