第十七話
(1)
宵の口が近いこの時間帯、普段の歓楽街ならば人で溢れ返っているのだが、イヴとクリスマスに限っては家や教会で静かに過ごす者が多いので、今日は人気がまばらである。
いつもの三分の一にも満たない人通りを潜り抜け、ミランダは教会、ではなく、広場へと足早に向かっていた。
歓楽街を抜け、下層の人々が暮らす安アパートがつらなる一画に差し掛かると、家々のドアノッカーには簡素ながらもクリスマスリースが飾られている。
そう言えば、スウィートヘヴンに売られる前、ほんの幼い頃に一度だけ、母と一緒にクリスマスリースを作ったっけ。
今まですっかり忘れていた遠い記憶を、何故今この時に思い出したのだろう。
ずっと自分を邪魔者扱いしていたと思っていた母と、こんな風に母娘らしいやり取りを交わしたこともあったんだ、と思うと、心に温かいものがじわりと流れ込んてきた。
教会に近づくにつれ、歓楽街の通りとは逆に、いつもは閑散としているブナの木の遊歩道には多数の人々が並ぶようにして歩いている。
ミランダは教会へ向かう人の流れと逆行するように、遊歩道を進む。
大勢の人の波を押しのける形で進むため、時折、波の一部になっている人から鬱陶しげに睨まれることもあったが、そんなことに構ってなどいられない。
八時までに、あの場所へーー、リカルドが待つ場所まで行かなければいけないからーー。
ミランダの足は、徐々に小走りし始めたのだった。
(2)
ようやく遊歩道を通り抜け、広場に辿り着く。
教会へ訪れる人達を目当てにしてか、これまた、いつもならばとっくに店じまいしているはずの屋台が、少数ながらも立ち並んでいる。
夜の暗闇の中、月と星の光だけを頼りにして、あの銀杏の木の場所を探す。昼間と夜とでは景観が様変わりしてしまうため、慣れた場所でも初めて来たかのように迷ってしまうのだ。
だが、辺りをぐるりと見渡しただけでミランダは銀杏の木が何処だったか、すぐに分かってしまった。
なぜなら、その木の下には、ギターケースと小さなトランクを抱え、キャスケットを被った青年が佇んでいたからだった。
銀杏の木を発見するなり、ミランダはスカートをたくし上げ、その場所に向かって一目散に走り出す。その際、被っていたヘッドドレスが外れて地面に落ちたが、拾い上げることなくひたすら走り続けた。
はぁはぁ、と息を荒げ、ようやく木の下へ辿り着いたミランダに青年ーー、リカルドは、驚きを隠せないと言った顔を見せた。
「……来てくれたんだね、ミラ。手紙を捨てられたから、もう来ないかもしれない、と、諦めかけていたのに……」
随分長い間ミランダを待っていたのか、リカルドの唇は真っ青だった。
「でも、こうしてまた逢えたことが本当に嬉しいよ」
違う、私はただ、この髪留めを返しにきただけで……、と、言って、ヘッドドレスで隠すようにして前髪に挿していた髪留めを取り外し、リカルドの手に押し込む。
頭の中で何度も予行練習を繰り返していたのに、いざ彼を目の前にした途端、ミランダの言葉は喉の奥に押し込められてしまった。
「それにしても……、まさか女性用のスーツ姿で来るとはね」
「……教会へ行く振りをして、店を出て来たから……」
「そっか……。君に危ない橋を渡らせてしまったみたいで……、本当にごめん」
頭を下げるリカルドに、ミランダは無言で首を横に振ってみせる。
「違うわ、リカルドは何も悪くないの。私が考えた末に決めたことだから……」
「じゃあ……、僕についてきてくれるんだね」
それまでの暗い表情から一転して、リカルドは心から嬉しそうに、満面の笑みを浮かべる。その笑顔を見たことで、ミランダの中でずっと忘れようと努めてきた彼への想いが一気に溢れ出してしまった。
身を売り出してからは金しか信じておらず、身体を売る生活を早く抜け出せるなら何でもいい、愛だの恋だのくだらない、ってずっと思って生きてきたのに。
どんな頭の悪い人間だって、根なし草のように生きる清貧のリカルドより、囲い者ではあれど、上手くやりさえすれば贅沢が許される生活をさせてくれるだろうダドリーの方を選ぶに決まっている。
だけど、身も心も汚れきってるにも関わらず、私を受け入れて共に生きようとしてくれる。だから、私も彼がどんなに醜くボロボロになったとしても、ついていきたいんだ。
(……きっと私は、どうしようもなく頭が悪いのね……)
ミランダは自分の正直な気持ちを認め、リカルドについて行くことを遂に決心したのだった。
「……ねぇ、リカルド。私はね、今までお金しか信じられるものがなかったの。でも、今の私は貴方を信じてる。貴方といるだけで凄く幸せなの」
「……僕もだよ。君と離れたくなかったから、この街に定住しようかとも考えてた。君の無邪気な笑顔が……、君のことが本当に好きなんだ」
「……知ってるよ」
ミランダは照れたように目を伏せながら、リカルドの腕に自分の腕を絡ませる。 凍てつく寒さの中にいたせいか、薄いコート越しに伝わってくる彼の体温はとても冷たかったが、反対にミランダの心は春の陽気が訪れたかのように温かった。
「……そろそろ汽車が出るから、行こうか」
リカルドはミランダの腕を引き離すと、代わりに彼女の手を握る。
「……冷たいな」
「リカルドの手の方がもっと冷たいわ」
氷の塊みたいにすっかり冷え切ってしまっているリカルドの手を、ミランダは温めるようにギュッと強く握り返す。
リカルドが、ミランダと繋いでいる手と反対側の手でギターケースを持ち、すぐさまトランクをミランダが持とうとした。
「あぁ、自分で持つからいいよ」
そう言って、リカルドが繋いだ手を離そうとしたので、「いいの。だって、手を繋げなくなるじゃない」と、微笑みながらミランダは答える。
たったこれだけの些細なやり取りにすら、ミランダの心は充分に満たされるのだった。
しかし、その幸せな気持ちはすぐに取り消されることとなった。