第十六話
過ぎた話など思い出しても仕方ないことーー、思い直したミランダは蝋燭の朧げな光を頼りに、一旦中断した読書を再開し始める。ダドリーの指導のお蔭で、児童書程度の本なら読めるようになったのだ。
ミランダが今読んでいる話は、ケチで強欲、冷酷で非情な人物として周囲から嫌われている男の身に起きた、クリスマスの奇跡を描いていて、その男の元に現れた三人の幽霊により男が改心するという話だ。
この話を読み進めていく程、主人公とダドリーとよく似た気質だとミランダは感じ、ダドリーの元にも三人の幽霊が現れればいいのに、そうすれば、自分が世界の中心にでも立っている様な傲慢さや、無感情な冷徹さが緩和されるかもしれないのに、などと子供じみた発想を浮かべたりしては、何を馬鹿なことをと自身に呆れたりしていた。
こんなつまらない事を考えてしまうのは、今日がクリスマスだからに違いない。
前日のクリスマスイヴと、クリスマス当日だけは、マダムは店の娼婦達を自由に行動させることにしている。だから、大半の女達は恋人や情夫、馴染み客と外で過ごしたり、または家族がいる者は家に帰ったりしていて、いつもは女達のかしましい声で溢れ返っている店も、この二日間だけは静寂に包まれている。
そんな中、今年もミランダはただ一人、静かに二日間を過ごしていた。
今までも仕事と私生活を混同させたくないがゆえ、仕事以外で客と会う事は一切してこなかったし、ダドリーも屋敷で家族と厳かに晩餐会を行うため、この二日間に限っては店に来ないからだ。
だから、例年通りに今年も教会のミサに参加しよう、と決めていて、もう少ししたら出掛けようと思っていたのだった。
本を読み終えたミランダは、教会へ出掛ける支度を始める。
女性用の真っ黒なスーツに着替えながら、先程の話を書いた作者の別の本の内容をふと思い出す。
救貧院から脱走した少年が苦難を乗り越え、幸せになる話だったっけ。
しかし、ミランダはその少年よりも、作中で少年を気に掛けたことにより殺されてしまった娼婦の方が強烈に印象に残っていたので、その話は余り好きではなかった。
クリスマスくらいは嫌な事は考えないようにしなきゃ、と、頭を二、三度振る。 そして、ヘッドドレスを探す為にクローゼットの中を漁っていたミランダは、赤いビロードの小箱を目にして息を飲む。
(そうだ……、これ……)
小箱を手に取り、中を開く。
そこにはヴェネチアングラスで作られ、琥珀色の星のような形をした飾りがついた、髪留めが収められている。
何度も、売るか捨てるかしよう、と迷ったけれど、結局どちらも選べずに今日まで来てしまった。
(……そう言えば、今日だったっけ……)
あの手紙に書かれていた、リカルドがこの街を旅立つ日ーー。
クリスマスの夜、最終の汽車でこの街を出ることに決めたんだ。
だから、無理を承知で、君にお願いがある。
僕と一緒にこの街を出て行こう。
その日の午後八時までに、いつもの場所ーー、広場の北側にある銀杏の木の下で待っているから。
万が一にでも、僕に付いてきてくれる気になってくれたらーー
億が一でも、希望を捨てたくないからーー
とにかく、いつもの場所で待っているよ
僕の最愛の恋人、ミランダをことを待っている
(最愛の恋人、か……)
掌の中でキラキラと輝く髪留めを何となしに弄りながら、ミランダは激しい葛藤に苛まれていた。
店は今、女達のほとんどが出払っていて人気が少ない。
ダドリーは今日、店には絶対に現れない。
今日だけは、自由に何処へでも、それこそ一人でも夜に動くことが可能だ。
考えてみれば、これ程までの好条件が揃っているのに、躊躇する理由が一体どこにあると言うのだ。
それでもミランダは、決断できずに悩んでいた。
本当に、誰にも見つからずにこの街から逃げ出すことが出来るのか、ということが一番の気掛かりであったが、危険を冒してでも連れ去りたいというリカルドに、果たして自分は見合う相手なのか。
他の街へ行けば、自分とは比べ物にならない程素敵な女性など、ごろごろと存在するのだから、何もこんな薄汚れた女なんかの為に必死にならなくともいいのにーー。
今まで必死で築き上げてきた、店の一番人気というなけなしのプライドをダドリーによって何度もへし折られてきたせいか、ミランダは自分への自信をすっかり失ってしまっていた。
更にそのことで、リカルドに対する想いすらも自信を持てなくなっていたのだ。
だが、悩んでいる間にも、時間は刻一刻と過ぎ去っていく。
壁時計の針は、もうすぐ七時を指そうとしている。
(……ついていくことは出来ないけど、この髪留めを返しに行くくらいなら……、いいわよね??)
遂にミランダは重い腰を上げて、階下へと降りて行く。
「ママ、教会へ出掛けてくるわ」
ミランダはマダムに一声掛けてから店を出て行き、夜の雑踏の中へ消えて行った。教会ではなく、広場に向かうために。