第十二話
幸せなひと時である筈だったのに、一瞬にして崩れ去った、あの安息日から数日が経過した、ある日のことだった。
「さっきから、心ここにあらずと言わんばかりだな」
ダドリーは、読んでいた本から目の前に座るミランダに視線を移す。
机に向かい、ノートにペンを走らせていたミランダはダドリーの顔を見上げた。
「やる気がないのなら、もう今日は止めるぞ」
「……ごめんなさい。ちゃんとやるから、そのまま続けて」
ここ最近のダドリーは、店が始まる夕方六時になるとすぐに店に訪れ、客が店にいられる上限の時間である、翌朝八時まで滞在することが多くなっていた。
そのせいか、ミランダは彼のほんの僅かばかりの視線の動きや、ごく瞬間的な目元や眉間、口元の顰め方で、彼の機嫌や気分が理解できる。
それでも、未だに彼の考え方や思考展開はまるで理解を示すことは出来なかったが。
ダドリーと過ごす時間が長くなるにつれ、床を共にする以外の時間も必然的に増えてくる。特に最近では、ミランダはダドリーから字の読み書きを教えてもらっていた。
きっかけは、ある時ミランダが幼児用の絵本をたどたどしく声に出して読んでいたところを、偶然ダドリーに見付かってしまったことだった。
無学な娼婦が、僅かばかりとはいえ識字できることに対し、ダドリーは珍しく驚いてみせた。
「何故、学校にすら通っていないお前が、字が読めるのか」
「……昔の馴染み客の中に、学校の教師がいて、少しだけ教わったの」
悪戯が見つかった子供のように、絵本を後ろ手に隠しつつ、ミランダは気まずそうにして答える。
「……何なら、私が教えてやろうか?」
ダドリーの余りに意外すぎる申し出に、てっきり馬鹿にでもされるものかと覚悟していたミランダは拍子抜けすると同時に、何か裏や魂胆があるのでは訝しむ。
だが、せっかく教えてくれると言うのだから、とりあえず素直に教えを乞うことにしたのだった。
「どうせ、あの男のことでも考えていたのだろう」
「何のことかしら」
「私が何も知らないとでも思っているのか」
ミランダは、ノートに字を書く動きをぴたりと止めると、ペンを握りしめたまま、ダドリーを見返す。
ダドリーは、コバルトブルーの瞳に無機質な冷たさだけを湛えながら、淡々と語り始めた。
「リカルド・ベイル。年齢は二十五歳。身体的特徴として、髪色はアッシュブラウン、目の色はグリーン、中肉中背の体躯で少し猫背気味。この国有数の繊維街で有名なアンバーで、仕立て屋の次男として生まれる。十五歳の時に当時流行った疫病により両親が他界、四歳上の兄は別の街へ出稼ぎに行ったまま戻らず。父親の知り合いの元でしばらく働いていたが十七歳の時に出奔、現在まで街から街を転々と渡り歩く生活を送っている……。ふん、要は、ただの根無し草のろくでなしってだけだ」
「…………」
「どうやって調べたんだって顔をしているが、地の果てまでも追い掛け、調べ尽くしてくれる裏稼業の男が知り合いにいる。無論、それなりの大金は要求されるがな」
より一層冷たい輝きを増す青い瞳に愉悦の色を浮かべ、見る見る内に表情を凍り付かせていくミランダの姿を、ダドリーは愉しんでいる。
「あぁ、そう言えば……。偶然とはいえ、あの男の仕事先にお前の昔の常連客がいて、お前とあの男が一緒にいる時にお前の素性をばらしてこいと言ってやったな」
ダドリーは口元を手で隠すような仕草をすると、これ以上は耐えきれないとばかりにくっくっと声を出さずに笑い出した。正確に言うと、噛み殺していた笑いを思わず漏らしてしまったような感じであるが。
「まったく……。あんな雀の涙程度のはした金を握らせただけで、面白いくらい言うことを聞くとはね……。下賤の者の馬鹿さ加減には笑わせてもらったよ」 「……言っておくけど、私は彼と、一度たりとも寝たりなんかしていないわよ」
必死で笑いを堪えるダドリーを冷ややかに見つめながら、ミランダはやっとのことでこう言い返した。
「……だろうな。だが、心はあの男に完全に傾いてる。いいか」
ダドリーは椅子から立ち上がるとミランダの腕を引っ張り上げ、無理矢理自分と同じように立ち上がらせる。強引に腕を引っ張られたせいで、ミランダは痛みで顔を顰め、その拍子に握っていたペンが手の中からすり抜けて床に転げ落ちる。更に、立ち上がった時の勢いにより、椅子が派手な音を立てて倒れた。
「私の言葉一つでお前をどうにでもすることができる。それだけじゃない、あの男だって始末することもできる」
ダドリーは、痛がるミランダに構わず、彼女の腕を掴む力を益々強めていく。
「私を怒らせたり、逆らうことだけはするな」
そう言うと、ダドリーはミランダの身体を壁際まで引っ張っていき、壁に強く押し付けて唇に激しく噛み付く。
ミランダは、ダドリーの身体を引き離そうと必死にもがく。
しかし、力と体格差の違いによりそれは無駄な抵抗にしかならず、次第に大人しく彼のされるがままとなったのだった。