追憶に沈む
全てが白く眩むような気がした。
蝉も鳴けないような突き刺さるような暑さの中で。ゆらゆらと。景色も歪んだ。
色を失った視界の中で真っ黒な影と滴る赤だけがぽつりと沈む。
何故だか少し、いつもより世界は綺麗に見えた。
ーーー
世界は広くない。ましてや人ひとりが生きる世界なんて更に狭い。いくら交通手段が発達したと言えど生まれた国から一歩も出ることなく人生を終える人だっている。
だからこそ、『彼女』の生きる世界は狭くちっぽけでしかない。テレビの中の事件は目の前の小さな額縁の中で起きている手の届かない向こう側の物語でしかなく、それは自分とは全く関係のない優しくも無情な娯楽であると。自分の狭く惨めで優しい世界とは無縁のものである、と彼女自身そういつか言っていた。
世界は広くない。彼女の今はもう言わない口癖。
今日もまた音のないテレビがいつもと変わらない遠い世界の御伽噺を垂れ流している。鳴き方を忘れた蝉が額縁の向こうで落ちていた。窓の外は静かで、そして白く塗り潰されている。
まるで誰もいないみたいに。何もかも白に溶けて死んでしまったようだ。
暗に誰かが、誰かが死んでも生きても、彼女の世界は変われないと言っているようだった。
「夏は嫌いよ」
ポツリと乾いた声で呟かれた言葉が響く。
返ってくる筈もない返事を待つようにほんの少し間が空いた。けれどその声に答える声は既に無い。
「わたしの声はもう届かないの。返事はこないまま。白に、溶けてしまったの。……だから、嫌いよ」
泣きそうに揺れるのに乾ききった声に合わせてゆっくりとした動きで、誰かを真似るように窓の縁に手を這わせた。
「わたしは、どこに居るのかしら」
大切な人の居なくなった人生はかくも空疎で透明だ。
ーーー
日本の夏が不快と言われる理由に突き刺さるような直射日光と一体になって襲いかかってくる纏わり付くような湿気が挙げられる。
それでも、堪えられないほどではなかった。けれど今は昔と違い堪え難い程の不快感が夏と共にやってくる。
ビルの立ち並ぶ都会は熱の逃げる場所がないからか更に暑い。風は熱された空気を攪拌するのみ。意味なんてない。
けれどゆらゆらと景色すら歪んだ夏の中で彼女はひとり、スカートを翻して笑顔を浮かべていた。まるで暑さなんて知らないと言うような笑顔を浮かべていた。
白い日差しに溶けてしまいそうな彼女は
「夏は嫌いじゃないわ」
そう笑っていた。そうあるのが自然であると言うように。
思考することさえ嫌になるような暑さが緩くうねって背中を隠す淡い髪をなぶった。何もかも見透かすような目が透明に揺れて無感動に瞬く。
歪む景色を彼女は愛した。
手を伸ばしても歪んで消える夏を好んだ。彼女は夏によく似ていたから。
手を伸ばしても届かない様はゆらゆらと歪む景色によく似ている。
鳴き方を忘れられなかった蝉が音の無い世界を掻き回す。
蝉が鳴くのを辞めたら、夏が終わってしまうね、なんて。彼女は笑っていた。
暑さに転がった蝉を踏み躙る。
ジジ、とまだ生にしがみついていた命が途切れた音がした。
熱されたアスファルトに灼かれるそれを彼女は乾いた目で無感動に眺め、もう一度踏み躙った。
「鳴くことを辞めた蝉は死んでるのと同じだわ。命を燃やすことをやめた奴は死んでるのと同じ」
命を燃やして生きるのは誰にも等しい。ただそれが、美しいか美しくないかの違いでしかない。
命は、狂ったように燃やして心を擦り減らせて生きるからこそ、美しく映る。
そんな危うさを秘めた独りぼっちの彼女は、とても美しく儚げだったようにも見える。
きっと彼女は感傷的な人だった。
脆く、傷つきやすく、いつも傷ついてそれなのに、なんでもないように笑ってみせる人。きらきらとした仮面で隠して奥底で泣いていた人。
誰も信じられなかった可哀想な人。
欠片程の人間らしさも見せずに、そして吐き気を催す程の人間臭さを同居させたまま。
きっと彼女は人を理解出来なかったに違いない。
だからこそ声を張り上げ、命を燃やし尽くさんとばかりに叫んでいたのではないだろうか。
「わたしは、どこに居るのかしら」
と。
彼女は誰よりも自分が此処に居ることを確認したがっていて、何より、確信出来なかったから。
ビルの影で、交差点の真ん中で、部屋の片隅で。彼女が思い出したように呟く口癖を。
「あなたはここに居るよ」
本当は答えるべきだった。誰でも良かったに違いない。
出来ることならば『わたし』が応えたかった。
それなのに、今更すぎる返事を、既に届かない彼女に贈る。
だからこそ答える声は今も昔も届かないまま。彼女は誰より何より自分と言う曖昧な存在に確信を持てないまま、ゆらゆらと人の間をたゆう。
ーーー
故人のことを思い出すのは苦手の筈だった。それこそ、蜃気楼のようなものの筈だった。
思い出そうと手を伸ばせば伸ばしただけ遠退き、最後には沙の味しか残らないような、そんなもの。
なのにどうしてだか夏の白に溶けたはずの彼女は今も確かに、わたしの中に息づいて、消えない。
焼き付いて、忘れられない。
音のないテレビに不意にノイズが走った。意味もない御伽噺を垂れ流すのを辞めた。
景色はまだ白く焼き付いたまま。
鳴き方を忘れた蝉は未だ思い出すこともなく。
世界はまだ、死んだままだ。
変われないのは、わたしだ。
ーーー
人間とは認識によって為る生物だと述べる人がいた。
わたしがわたしを認識するからわたしが其処に或るのではない。誰かがわたしが此処に或ると認識するが故にわたしはここに生じているのだ、と。
だからこそ彼女は自分に確信を持てなかったのだろうか。
けれど誰も、そんなことは考えていなかった。自分が其処に或る理由に目を向けることもなく意味もないオハナシに興じていただけだ。
その時が確かであれば他に目も向けないその生き方はいっそ潔く、非常に賢く愚かだ。
愚かであるが故に、高尚でこれ以上なく理に適い、普遍的で当たり前のこと。
それを低俗だと見下すことのほうが愚かしい。そう為るべくしてなったことなのだから。
彼女にはそれが分かっていて、それでもなおそれに馴染めなかっただけだ。
彼女は聰明過ぎたのだ。
そして、彼女は聰明であるには弱過ぎた。
生きることに絶望するには、それは十分過ぎる。
もしもこの時誰かが彼女の考えの一端にでも触れ、心を重ね手を差し伸べていたのならば結末は変わっていたに違いない。
過ぎたことを悔やむのに意味がないことは彼女がいつも呟いていた言葉でわかっているつもりだ。
それなのに手を伸ばす人が居なかったことを悔やむ。
『わたし』が手を伸ばせなかったことを、悔やむ。
どうして『わたし』は彼女が何を望んでいるか知っている上でそれを与えることが出来なかったのだろう。
どうして寄り添いながらも確実に距離を置き彼女を厭うたふりをしていたのだろう。
彼女の声に決して応えなかった、その理由は。
単純に、彼女のことが嫌いだっただけだ。
ひたすらに美しい彼女が。辛くても、それでもなお美しい彼女が。
人恋しくて、それなのに人に寄り添おうとしない彼女が。
嫌われてるとわかってなお、わたしに依ったまま離れない彼女が。
わたしは彼女じゃないのに。
彼女はわたしじゃないのに。
人恋しく、其処に或る証明としての人を求めていたなら他の人のところに行けばよかったのに。
目の前のわたしに向かって存在の証明の理想を語る癖にわたしに認識されていることを理解してくれない彼女は、疎ましかったのだ。
自分を見てくれないなんて言いながら一番人を見ていなかったからこそ、彼女は独りぼっちになってしまったのだ。
そして忘れもしない。
彼女が白に溶けたこと。
ーーー
世界は広くなんてない。
そんなことは知っていた。
窓の向こうは額縁の向こうで、額縁の向こうは白く塗り潰されて何もない。
白に侵された景色はひとりで生きるには少し広過ぎるわたしの世界を閉じてしまう。
「夏は、嫌いよ」
今もまだ、わたしは夏に囚われたまま。
彼女に、囚われたまま。
ーーー
世界は白く塗り潰されていた。
白く眩んで、それでいて透明で。蝉も鳴けないような暑さの中。ゆらゆらと景色も歪む。
「わたしは、夏が好きよ」
彼女は腕を広げて言った。
「今じゃ厭われることもあるわ、でも、わたしはこの季節が好きよ。息も詰まるような暑さが。突き刺さる白が。眩む景色が。わたしがやっと、生きてるって思えるの」
彼女は、まるで祈るように手を組んだ。目を閉じ祈る様はまるで何処かの絵画のよう。
彼女は目をゆっくりと目を開き、手を解いた。
彼女はゆっくりと微笑んだ。
「……でも、世界は、美しくなんてないわ。価値もない。意味もない。優しくない。わたしの目に映る世界は、今も色を失ったままよ」
色を失い、音を失った世界の中で彼女の声だけが朗々と響いた。
「どうして最初からこうしなかったのかしらね?」
そんな世界の中でなお色を失わない彼女のしなやかな手が、色のない玩具のようなナイフをその首元に突きつける。
「わたしが生きた証明は、あなたが生きてくれれば良いわ。あなたが、わたしを忘れないでくれたら、私は此処に生きていたことになるわ」
ゆっくりと、世界が回る気がした。
玩具のナイフは白い喉を切り裂いて、其処から少し遅れて命の赤が世界を染める。
手を伸ばしても、届かなかった。
手を伸ばそうと、しなかった。出来なかった。
ぽつり、と彼女は色を失っていく。
ゆっくりと、小さく、確かに彼女の口が動いて、音のない言葉を結ぶ。
それはまるで呪いのようだった。
音をなくした世界で、赤を纏ったナイフが地面に落ちて甲高い音をたてた。
白く塗り潰された世界は何故だか少し、いつもより綺麗に見えた。
音を忘れた世界は色も失い、白く眩んで影法師と赤だけが、静かに沈んでいた。
わたしは、呪われた。
ーーー
結局、わたしは何も出来ないままに彼女が独り、夏に溶けるのを看取った。
彼女を真似て伸ばした髪はもうすぐ、あの時の彼女の長さに追いつく。
そして、いつか追い越すのだろう。
世界は広くない。
これは本当。
けれど、人が一人死んだところで世界が変わらないだなんて、嘘だった。
わたしの生きる狭い世界は、あの時変わり果て、そしてそこから一歩も動けない。
「わたしは、どこにいるのかしら」
もう一度、彼女の口癖をなぞった。
気付けば白はだんだんと夕の色に移ろい、蝉がせわしく鳴いていた。
吹く風も何処か冷たさを孕んだものに変わってきた。
夏が、終わる。
未だ、わたしは彼女の呪いに囚われて、変われないでいる。
彼女が知ればなんと言うだろうか。
もう居ない故人の思いを辿るのは容易く、難しい。
正解がないから。
誰かに縋ることも出来ず、意味もない赦しを請うことすら出来ない。
わたしは独りだから。
今となっては良くわかる。
わたしが今、此処に或る証明を求める気持ちが。
わたしは今、生きているのかすらも曖昧だ。
秋が来れば世界は変わるだろうか。
冬が来れば世界は雪に沈むだろうか。
春が来れば世界は芽吹くのだろうか。
夏が来れば、わたしは忘れているのだろうか。
そんなことはないこと、私が一番よく知っているのに。
けれど、ひとつだけ、ふとした拍子に忘れてしまいそうなことがある。
わたしの、気持ちを。
きっと、わたしが彼女を嫌っていたことは忘れない。
けれど、わたしは確かに彼女を好いていたのだ。淡く、消えてしまいそうな程だけれど。
儚く、美しく命を燃やした彼女に敬意を示し、そして憧れを抱き、ほんの少しの親愛を感じていたのだ。
今となってはわからないことだけれどきっと彼女も同じ。彼女がわたしを欠片程でも好いていてくれたと。そう思いたい。
きっと、わたしはこのことをすぐに忘れて嫌ったことだけを忘れないのだろう。
それでも、別に構わなかった。
忘れてしまえばきっと生きるのはもっと易しいに違いないから。
ふと。
最後に、彼女が言った言葉が脳裏に映った。
たった一言、小さな呪い。
ーーー「わすれないで」
わすれるわけ、ないのに。
わたしは、まだ、あなたに言葉を返せてないから。
けど、返せる目処もないから。
だからずっとわすれられない。
ねぇ。
わたしは確かにあなたをあいしてた。