三者面談
大晦日に実家へ帰ると、兄一家だけが居た。去年は姪の美雪が生まれたてで、『移動が大変』と帰ってこなかったので、二年ぶりに兄と顔を合わせる。姪とは初対面だ。
両親は、兄に留守番を任せて買い物に出ているらしい。
荷物を持って自室に入った私は、自分の目を疑った。
私の部屋はベッドなどの家具はそのまま残っているものの、半ば物置と化していた。母の小言に耐えて、帰宅の連絡を三日前に入れたのだから、もう少し何とかならなかったものか。
両親にとっては、私はもう”いない子”なのだと思った。
自室にいると気が滅入るので、階下に降りた。
「知美、付き合っている人が居るって?」
居間でテレビを見ていた兄が、そう尋ねてきた。
「はい」
「付き合って、どのくらいになるの?」
「一年ちょっと」
「見合いって聞いたから、結婚前提だよね? 一度、会わせてもらえるかな?」
できれば、正月休みでこっちに居る間に、と、重ねられて、渋々自室から携帯を取ってきた。アドレス帳を呼び出す私の横で、義姉の慶子さんが、
「知美さん、あとでメアド交換してね」
と、自分の携帯を顔の横で振っていた。
朔矢さんに連絡をとった結果、三日に兄が自宅に帰る途中で東のターミナル駅で落ち合うことになった。
「親に言ったらダメだよ。ややこしいことになりたくないからね」
兄は、電話を切った私にそう言った。両親のことを、いつから兄はこんな風に言うようになったのだろう。
両親はおせち料理を買ってきたらしい。嵩高い風呂敷包みを下げて帰ってきた母は、私の顔を見るなり
「色気づいて」
そう言って、私の肩口の髪を掴んだ。これは髪型のことか。ブレスレットとピアスを外してきて正解だったみたい。ピアスなんて、絶対許してもらえない。取り上げられる。
「結婚前に親の目の届かないところで、何をしているのやら。いやらしいわね。一人暮らしなんかすると、やっぱり碌なことをしないんだから。傷物にした責任はちゃんと原口さんに取ってもらわないと」
そんなこと、朔矢さんはしていない。クリスマスのキスが初めてだったのに。
どうして、決め付けるの? お母さん。
初めて、母の”常識”を、気持ち悪いと思った。
三日の日まで実家に居ることが耐えられなく感じて、兄たちより一足早く二日の昼には自宅に戻った。
玄関を入って、息をついて。荷物を片付ける前に、朔矢さんに貰ったピアスをつける。
実家の”常識”に穢れた身体が、清められた気がした。
一月三日のお昼前。
待ち合わせ場所に一番先にいたのは朔矢さんだった。
「あけまして、おめでとう」
「あけまして、おめでとうございます」
「お兄さん、急にどうしたって?」
「結婚前提なら、一度あわせてって」
ふーん。と、うなずく朔矢さん。兄たちが乗ってくる電車も、そろそろ着くはず。
「ピアス、つけたな」
「はい。お守りです」
私の髪をかき上げるように耳を出して確認するので、こっちも、と、ブレスレットも見せる。
「霊験あらたかですよ。きっと」
「そりゃ、お月様印だしな」
「知美さん、お待たせ」
キャリーバッグを転がした慶子さんが、手を振って寄ってきた。兄は、美雪を抱いている。実家でこの子を抱っこしていたりしたっけ?
不審な顔をしてしまったらしく、兄が苦笑する。
「男らしくないとか何とか、父親がうるさいしね。ひどい時は、お慶がけなされるから」
「母親が、抱っこするものって決まっているそうですよ」
慶子さんが言葉を足しながら、夫婦で朔矢さんの反応を見ているようだった。
「立ち話もなんですし。軽く食事でもしましょうか」
朔矢さんはするっと話をはぐらかして、進行方向を手で示す。そして、いつものように私の手を握った。
荷物を持った兄夫婦のためにコインロッカーに寄ったあと、行ったのはお蕎麦屋さん。
「娘さんは、お蕎麦はもう大丈夫ですか?」
そんな確認をした朔矢さんに、義姉が目を丸くする。
「男の人で、そこまで気が回るなんて」
「姉がうるさかったんですよ。甥が小さかったころはアレルギーを警戒して」
「お蕎麦はまだ早いですけど……おうどんがあるみたいなので、ここで大丈夫です」
一歳になったばかりって、まだ食べられないものもあるのか。お蕎麦のアレルギーが怖いのは仕事柄知っているけど。それさえなければ、お蕎麦なんて食べやすそうなのに。身近に赤ちゃんがいたことがなかったので、知らなかった。
みんなでメニューを眺める。お野菜が食べたいので”けんちん そば”にしようか。
間合いを計ったように朔矢さんが声をかけてきた。
「知美、決まった?」
「はい。”けんちん そば”にします」
「あら、それおいしそう。私は、そのおうどんにしようかしら。かず君はどうするの?」
「鴨南蛮にするよ」
かず君! 慶子さんは、そんな呼び方をしているんだ。そういえば兄も、さっき義姉のことを『お慶』って呼んでいた。実家では、互いに『ちょっと』とか『おい』とか言っていた気がする。
兄夫婦は、両親の前では普段と違う姿を見せているのかもしれない。
「さて、原口さん?」
お茶を手に口火を切ったのは兄だった。
「はい」
「織音籠、調子良いみたいですね」
「ありがとうございます。知っていただいていたのですね」
「ええ。一昨年でしたか。コンサートも見に行きましたよ」
そう言って兄は、自分の住む市の名前を挙げた。
「ああ。一昨年になりますね。知美さんとお会いする少し前でしたか」
お見合いの前に兄が、織音籠のコンサートに行っていたことに驚いた。私と同じようにクラシックしか聞いたことがないと思っていたのに。
「知美さん、ひどいと思わない? 私が身重で動けないのに、かず君一人でコンサート行ったのよ」
「だって、仕方ないでしょ? 十五年以上、生で聞いてないのだから、近くであるなら行くよ」
「それでも、ねぇ?」
慶子さんが、美雪の口元にコップをあてがいながら私に同意を求める。
「ちょっと待ってください。十五年以上って、デビューから今度の春で十四年なんですが」
「僕ね、柳原西の卒業生なんです。だから、大学の学祭に出ていた織音籠も見ていますよ」
兄の出身高校の名前を聞いた朔矢さんは
「そんなところで繋がるか」
と、頭を抱えた。
「ってことは、知美」
「はい」
「お兄さんの高校の文化祭とか行った?」
「いいえ」
「来てませんよ。この子は校区から出られない子ですから。バスと電車を乗り継いでうちの高校までなんて、一人では来れませんよ」
兄が、鼻で笑うように言った。
そう、私は校区から出ることを許されていなかった。小学生の間は小学校の校区、中学生の間は、中学校の校区。高校でやっと市内が解禁になった。兄も同じだと思っていたのに。
うつむいた私の視界に、握り締めた朔矢さんの拳が目に入った。腕を伝って視線を上げていく。盗み見た彼の表情は、兄を殴りかねないほど険しかった。
「そう言う僕も、高校に入るまでは同じでしたけどね」
兄が自嘲するように言った。
その場の嫌な空気を断ち切るように、注文していた料理が届いた。
大判のハンカチを三角に折って、姪の胸元に涎掛け代わりにつける義姉の手元を眺めながら、私もいつものように髪をくくる。
「あら。知美さん、かわいいピアス。彼からのプレゼント?」
「あ、はい。そうです」
「ふふ。知美さんたら、うれしそうね」
そういって笑う慶子さんに、朔矢さんの雰囲気がいくらか緩んだようだった。箸を割りながら、会話が再開される。
「一昨年に十五年以上たっているなら、当時お兄さん高校生ですよね」
「ええ。高二でしたね。織音籠はまだドラムが居なくって、四人でされていた」
「俺たちの大学は、高校の校区外でしょう?」
「微妙ですね。理数と英語コースは全県学区ですし」
「その言い訳、通じるご両親ですか?」
「通じないでしょうね。さすがによくご存知で。さっき、『高校までは』って、僕言いましたよね。高校でやっと両親が絶対じゃないことを知ったのですよ」
兄が蕎麦を箸で持ち上げながら、彼の顔をうかがう。
「そうして親の裏をかくことを覚えたので、隣の市まで見に行けました。原口さんもしたでしょう? 親に隠れて悪い遊びとか」
「あるわけないじゃないですか。そんなこと」
うそだ。朔矢さんのその顔は、私をからかうときの顔だ。
「俺は、まじめですよ。こう見えて」
「またまた、ご冗談を」
「ひどいですね」
「悪い遊びはともかく。好き好んで知美なんかと付き合わなくっても、女の子が放っておかないでしょう?」
顔を見なくってもわかる。兄はきっとあざ笑うような顔で私を見ている。兄とは似ても似つかない、できの悪い私を。
「いい加減、そういうオンナは食いあきましたからね。知美がいいんです」
朔矢さんの返事に、兄がむせた。
お茶を一口飲んで、憮然として言った。
「やっぱり。相当遊んできたクチですか」
「どうして兄妹そろってこう、だまされやすいんです? 冗談ですよ」
朔矢さんは、涼しい顔でお蕎麦の上のてんぷらをつまみあげた。
しばらく無言で、蕎麦をすする。義姉が、「みーちゃん。はい、あーん」と姪に話しかける声だけがしていた。
「原口さん、先ほどは失礼しました」
「いいえ、どういたしまして。そういう目で見られる外見なのは仕方ないですし」
「うちの親などは、特に外見で人を判断する傾向が強いので、苦労されるでしょう?」
「見合いのときにお会いしたっきりなので、今のところ特には」
「知美との付き合いを続けるなら、覚悟、してくださいね」
再開された会話に、朔矢さんが苦笑で応える。
「少し、思い出話に付き合ってもらえますか」
兄が、チラッと慶子さんのほうを見てから話し始めたのは、私自身のことだった。
「知美は小さいころからよく怒られる子でね。世間では下の子は兄の叱られる姿を見て学習する分、要領が良いといわれるでしょう? ところがこの子には通用しなかった」
朔矢さんは、箸を一度おいた。黙って話を促す。
「怒られる基準が僕とこの子で違うのです。僕に許されたことが、”女の子”には許されなくってね。その上、父親がこの子にはすぐに手が出る。”男の子”は叩くことができないのにね」
「知美だけが、お父さんに叩かれていた?」
「ええ。幼稚園くらいかな? 父親の平手で、部屋の隅まで吹っ飛んで。前歯が欠けたことがあったよね。覚えている?」
兄はそう言って、そばの存在を思い出したようにすすりながら私を見た。
記憶をたどるけど。
幼稚園のころなんて、覚えていない。そもそも、私が通った幼稚園ってどんなところだったっけ?
「覚えていないね。その顔は」
「はい。幼稚園の記憶自体があいまいで……ごめんなさい」
頭を下げてから兄の顔を見ると、意味ありげに朔矢さんのほうを見ていた。
「僕たちの親、特に母親は”みっともない”ことが嫌いでね。トラブルに巻き込まれて、取り乱すような”みっともない”ところを世間に晒すことが怖くて、とにかく僕たちを手の中に入れておきたいみたいで。それでいて、他の子よりも出来が悪いような”みっともない”子も我慢できない。だから『やったらダメ』と『できなきゃダメ』に振り回されながら育てられてきたのです」
蕎麦がのびますよ、との兄の言葉に朔矢さんが改めて箸を手にした。
「僕には少し緩かった母の束縛が、この子は同性な分きつくってね。女の子だからって、小学校に入ったころから家事を手伝わされていたのだけれど、自発的でないと『気が利かない』と言って貶され、逆に気を利かせると『子供が余計なことをして』と怒られて。そのどちらになるかが、母親の気分次第なんですよ。タイミング悪く、父親が居たりしたものなら、『子供のクセに、親の言うことが聞けないのか』で、バーン」
兄が、左手で小さく平手打ちのしぐさをする。
「さすがに、思春期を迎えたあたりで叩かれなくなったようですけれども。この子にとっては、怒られるよりも貶されるほうが負担が軽かったのでしょうかね。そのころには、もう自分で考えずに親の言いなりな子になってて」
「お兄さん自身は?」
「僕は勉強と運動ができて、”危ないこと”さえしなければ何も言われないのです。小器用で、そこそこ人並みのことはできましたし。だから、さらにこの子は言われるんですよ。『お兄ちゃんと違って、手のかかるできの悪い子』と」
「私は、兄さんみたいに縄跳びも鉄棒もできなかったし、勉強も駄目だったから……」
つい、口を挟んでしまった。兄に睨まれて、首をすくめる。
「あのね。三歳違えば、できて当たり前のこともあるの。六年生と三年生でどっちができるかなんて、比べるの? 知美の学校は」
「いいえ。子供を比べることはしません。意味がないし」
「なのに、どうして僕と比べるの。自分のことは思考停止しちゃっているよね」
あれ? そういえば、そう? なのかな?
「同い年の子に負けないように、って僕が頑張らされているのに、さらに三歳も年下の知美ができるわけないでしょう? さっきの話だって、知美が幼稚園なら、僕は小三。記憶に差があって当たり前なの。だいたいね、知美は少なくとも勉強ができないわけじゃないよ。高校は鈴ノ森だったし。中学の成績だって、僕の学年とベビーブームのお前の学年とでは生徒数が違うのだから、単純に席次を比べたらダメじゃない? 二百人中二十番と、三百人中四十番だったら、そんなに違わないよ。そんな単純なことすら判らない人たちなんだから」
「失礼。鈴ノ森高って、レベルどの辺りです?」
それまで黙って箸を動かしていた朔矢さんが、口を開いた。
「柳原西より一ランク下、市内で三番手ですね。でも、僕たちの中学校からだったら、トップの蔵塚南高に行く子が学年で二、三人。そこそこできる子の親は『せめて鈴ノ森、できれば柳原西』って感じでしたね」
「ははぁ、なるほど」
「それに、就職がバブルもはじけてベビーブームでって、”土砂降り”とか言われていた世代でしょ、この子。その時期に教員試験に一発合格しているのですから」
兄の言葉にフムフムと、朔矢さんがうなずくけれど、自分では納得がいかない。全然。
私の顔を見ながら兄がため息をつく。
「貶されすぎて自信の持ちようを失ってしまったね」
「お兄さん自身は、そこからどうやって抜け出しました?」
「僕はね、知美のように叩かれなかった分、洗脳されていなかったのと、高校で何をどうやっても勝てないような化け物に会ったせいで、『親の言うとおりにするなんて、無理』って悟っちゃって」
兄の話に、キーワードのように出てくる高校。私も、兄のように変わるチャンスがどこかにあったのだろうか。
両親のお気に入りの兄が、内心でこんなことを考えていたとは知らなかった。
「原口さん」
「はい」
「こんな家庭で育ったこの子を、正直どう思ってます?」
「素直に人の言うことを信じる人だと思います。本人は素直じゃないって思っているみたいですけど」
「ああ、それも親のせいですね。あの人たちにとっては、素直な子=自分たちの思い通りに動く子、ですから」
あれ? 素直ってそもそもどういう意味だった?
首をかしげていると、朔矢さんが
「帰ったら、国語辞典」
と、笑った。はい。愛読書ですね。
「従順といえばいいのでしょうか。人を疑うことも、自分の意思を示すこともできなくって。誰かの決めたことに、黙って従ってしまう。例えば……一緒に食事に行くでしょう? メニューも見ずに俺と同じものを注文して、嫌いなものを泣きそうな顔で食べるんですよ。見ていてたまらなくなりましたね」
「今日は、自分で選んでたよね」
兄が、成長に気づいてくれた?
「一年かけて、大分、変わってきました」
そう言って、私の顔を見ながら朔矢さんはやわらかく笑った。
「外見を変えたのは彼女の意思です。化粧も髪形も少しずつ変わってきた。ピアスを開けるのも自分で決断した。一人暮らしでは、起きる時間や食事の内容、決めないといけないことって数限りないでしょう? それをきちんと決められているから、この一年、病気もせずに仕事もこなせているのだと、俺は思いますよ」
そんなものですか? 秋に一度、風邪を引いて寝込みましたけど。
心の声が聞こえたように、朔矢さんは私の手をブレスレットごと握った。目じりの笑いジワが、くっと深くなった。
「そこまで判っていらっしゃるなら」
そう言って、兄が姿勢を正した。それに合わせる様に、朔矢さんも兄に向き直る。
「知美をお願いします。あの家から、この子を切り離してやってください」
「もとより、そのつもりですがね。俺は」
「では?」
「ただ、今のままでは一緒になるのは、まだダメでしょう。ちょっと大きな事柄になると、俺に判断を頼ってしまう。それでは何も変わらない」
「重荷、ですか?」
「いいえ。彼女一人くらい抱える甲斐性はあるつもりです。ですが俺のほうが年上ですし、平均寿命も男のほうが短い。将来、知美が一人になる確率は、俺のほうが残るより高い。そのときのために、もう少しだけ彼女に頑張ってほしい」
そんな未来、考えたくもない。けれど。そこまで考えている彼の気持ちに、私のほうがまだ追いつけていない。
育てよう。私の気持ちを。彼に追いつけるところまで。