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一歩、そしてもう一歩

 打ち上げの日から、朔矢さんは当たり前のように『知美』と呼び捨てにしてくる。この人にとっては異性の名前を呼ぶことなんて、たいしたハードルではないのかもしれないと、僻む私がいる。

 そして、あれからもう一度会った美紗さんも『SAKUさん』と呼び名を変えてきていた。

 私だけが変われないまま、夏休みになった。

 夏休みは、実家に帰ることなくそのままマンションで過ごした。授業はなくっても仕事はあるし、こっちにいるほうが、朔矢さんと会いやすい。

 門限のない生活は、仕事のあとでのデートも可能にした。




 八月中旬のある日。朔矢さんのオフに、楠姫城からは西隣の鵜宮(うのみや)市までプラネタリウムに出かける約束をしていた。

 前日から私はお盆休みという名の有給消化の休日で、駅前をウロウロしていた。そこで献血車に出会った私は、こっちに来て初めての献血をした。のは、いいものの、出かける当日になって針のあとが内出血してきてしまった。

 これを見たら、朔矢さん、心配しそう。

 冷房対策の名目で薄いカーデガンを羽織って、待ち合わせの駅に向かった。



 改札を入って、ぐるっと見渡す。今日は私のほうが先に着いたみたい。彼が降りるホームへと通じる階段から見えやすいところに立った。

 少し離れたところに、ズボンをずらして穿いた高校生ぐらいの男の子が携帯をいじっていた。そういえば、この前、バスの中であんなズボンの穿き方をしている高校生が、裾を引っ掛けたらしくって、立ち上がったときにズボンがずり落ちてたな。あれが、かっこいい履き方というのが判らない。


 その男の子がふっと顔を上げて、目があった。眉をしかめたと思うと、こっちに近づいてきた。因縁をつけられたら、どうしよう。

「生田センセ?」

「はい?」

「あ、やっぱりそうだ。四年生で担任してもらった、河崎」

「あぁ。河崎 弘くん? 大きくなったわね。高校生?」

 三年目に担任した、教え子だった。体格も力も、もてあましているような大きな子だった。しょっちゅうケンカをして、なかなか大変だった子だ。今も、朔矢さんくらいの身長がありそう。

「うん。あん時センセが言ったように、オレ、女子と下級生は殴らないようになったぜ」

「自慢にならないでしょ」

「でもな、おかげで道を外れずに高校に行けたし」

 ピースサインをする河崎君。よかった。当時はどうなるかと思ったけど。


「で、センセの彼氏?」

「?」

「おはよう、知美」  

「……おはようございます」

 いつの間に、朔矢さん隣に居たんですか!? 

 驚いて、一瞬言葉に詰まった。

「知美の、知り合い?」

「はい。昔の教え子で」

「センセの彼氏、SAKUに似てない?」

「よく言われるけど。俺のほうがいい男だろ?」

 親指で、自分を指しながらにやっと笑う。河崎くんは、

「よく言うぜ。センセの相手にしちゃ意外」 

 げらげら笑いながらそう言うと、着信した携帯に返事を返し、片手を振りながら立ち去った。


「改めて。おはよう」

「おはようございます」

「知美が先生をしているところ、はじめて見た。いい先生みたいだな」

「そうでしょうか」

「うん。あの年頃の男が立ち話をするなんて、いい先生だった証拠だよ。それに、”女子供に手を上げるな”って、男が守らなきゃ行けない大事なことを、ちゃんと彼の心に届けられたんだろ?」

「朔矢さんも、守っていることですか?」

「俺? そういうケンカしねぇし。うちの連中は皆、温和。JINなんか、中学のころいじめられてたクチだし」

「あの、体格で?」

「声が、子供らしくないってな。今みたいな、陰湿なイジメではなかったけど」

 彼は嫌な思い出を消すように、話題を変えた。 

 

「髪形、変えたんだな。こういうのも似合う」

 先週ストレートのロングだった髪を切って、ゆるくパーマを当ててみたのに気づいてくれた。

 やわらかく、頭を撫でられる。スーッと手が下りて、肩口の髪をクルクルと指で弄ばれる。

「そう、ですか?」

「うん。柔らかい感じ。どんな心境の変化?」

 五月の打ち上げの帰り道。並んで歩くJINと美紗さんは、とてもお似合いに見えた。大柄で荒っぽそうに見えるJINと、小柄でどこかフワフワしたイメージの美紗さん。外見にはどこにも共通点のなさそうな二人なのに、マーブリングの絵の具が混ざり合うことなく互いが互いを包み込んでひとつの模様を作るようにしっくりと馴染んでいた。。

 それに引き換え、ショーウィンドに映った私と朔矢さんの雰囲気は、まるで水と油に見えた。

 先生にふさわしくない外見にはできないけど、一歩だけ朔矢さんの雰囲気に近づけたら。

 そう思って、少し勇気を出してみた。

 だけどそれは、朔矢さんにはナイショ。にっこり笑ってみる。

「言いたくない、ってか?まぁ。いい変化だよな。じゃぁ次は、名前の呼び方か?」

「それは……」

「ガンバレー」

 そう言って笑いながら、彼は私の手をとってホームに向かった。



 快速電車から、各駅停車に乗り換えて。降りた駅は、真夏の暑さ。気温に負けて、ついカーデガンを脱いでしまった。

「知美、これなに?」

 朔矢さんが目敏く右腕をつかむ。しまった。内出血のことを忘れていた。

「えーと。昨日、献血をして」

「で、こんなことになるのかよ」

「どうも、針先がぶれたらしくって」

 うー、と唸りながら私の腕を睨みつける。

「時々、なるんですよね。朔矢さんはなりませんか?」

「ならないというより、献血しないからな。腕に何かあったら、飯の食い上げ」

 バンザイをしてみせて、苦笑する。あ、腕は彼にとっては商売道具だ。

「そうですね」

「知美は献血、よく行くのか?」

「はい。好きなんです」

 その返事に、自動改札を通っていた朔矢さんがぎょっとした顔で振り向く。

「血液が通るチューブが腕の上にあると、血液が温かいことが感じられて。『あ、私、生きている』って思えるのが好きなんです」

 ほの温かい自分の血液に、命を感じる。その感覚が好きで、十六歳から毎年限界ギリギリの回数、献血をしている。血圧が低いし血液の比重も軽いので、断られることのほうが多いけど。


 立ち止まった朔矢さんは、無言で私の左腕をつかんだ。痛い。腕の内側、手首から肘までを指でたどられる。眉間にしわを寄せた厳しい目が、観察するように私の腕を見つめた。

 ほっと息をついて、手が離された。

「どうしたんですか?」

「お前のその言い草。まるっきり、リストカットだろうがよ。親は何も言わなかったのか?」

「売血みたいでみっともないとは言われましたけど」

 私にだってできるボランティアなんだから、いいじゃない、と、両親の言葉は聴かなかった。それくらい、血液の温かさは私には魅力的な感触だった。

「その反応は、親としてありかよ」

 頭イタ、と、彼はこめかみを押さえた。



 献血の話はそれまでにして、プラネタリウムへ向かう。隣の駅の近くに大きなホールがあって、去年の年末のコンサートはそこでしたらしい。そんな話を聞きながら、炎天下の遊歩道を歩いた。



 プラネタリウムで夏の星座の物語を見て、隣接するレストランで食事をした。今日は、トルコ料理のバイキング。駄目そうなものは見なかったふりができるから、朔矢さんに気を使わせなくって私も楽。


「そのスープみたいなの、何?」

「花嫁のスープって書いてありました。スープというより、お粥みたいですね」

 花嫁向けのスープなら、お肌にいいのかな、なんて下心で選んだスープ。トマトスープっぽい色しているけど、チャレンジ。

「トマト嫌いなくせに。食えるのかよ」 

「だから、少しだけ入れてみたんですー」 

 おかしそうに突っ込む彼に、あっかんベーっと、子供みたいに舌を出す。兄にも、こんなことしたことない。

 そんな私を見て、朔矢さんはクスクス笑いながらキヨフテにフォークを刺していた。

「バイキング形式って、嫌いなものは少なくできるのがいいですよね」

「くそ、しくじった」

「はい?」

「知美に『嫌いだから、食べられません』って言わすのが目標だったのに」

 フォークを口に運びかけて、お皿に戻した彼はそう言って頭を抱えた。

「なんですか? それは」

「ナイショ。俺を呼び捨てにできるようになったら教えてやるよ」

 それは、一生教えてもらえないってことでしょうか。




 何かと忙しい、二学期。朔矢さんも九月にアルバムが出る関係で忙しいらしくって、なかなか会えない。

 そんななか、少々体調を崩してしまった。運動会の代休で休みなのを幸いに、駅前の病院に行った。

 診察を受けて『風邪です』と言われ、三日分の薬の処方せんをもらった。かかりつけの薬局なんてないから、そのまま近くの薬局に行った。

「生田 知美様」

 名前を呼ばれて返事をする。立ち上がった私のところに早足でやってきたのは、美紗さんだった。指輪はしていないけど、名札の名前も間違いない。

「おかけになったままで結構です。生田様、こちらに来られるのは初めてでいらっしゃいますよね? お手数ですが、お薬を安全に使用していただくための問診表にご記入いただいてもよろしいですか?」

 まるで、初対面のような顔でそう言うとクリップボードを差し出してきた。

 渡された問診表を書きながら、チラチラと美紗さんの様子を伺う。こちらを気にすることもなく、他の患者に対応し、仕事をこなしている。

 美紗さんは、打ち上げのときとは違う社会人の顔をしていた。こんな、しっかりした表情の子だったんだ。


 薬を美紗さんとは違う薬剤師さんから貰って、部屋に戻る。

 あぁ、疲れた。病院に行くだけでだるい。

 ベッドに入って、ふと思う。

 美紗さんからJINを通して朔矢さんに体調を崩したこと、ばれるのだろうな。

 朔矢さん、なんて言うだろう。

 


 意外なことに、その週末に会った朔矢さんには何も言われなかった。

 『大丈夫か』の一言もなかったことに、傷ついている私がいた。

 お見合いから、もうすぐ一年が経とうとしている。

『互いの気持ちが育つまで、ゆっくりでよければ』お見合いの直後、そんな返事だった朔矢さん。

 朔矢さん。あなたの気持ちは、育っていないのでしょうか。

 時々、見せる呆れたような彼の表情とか声とか、心に浮かんで苦しい。




 何かを変えたくって、変わりたくって。思い切ってピアスをあけた。

 朔矢さんに少し近づけた気がした。




 誕生日の前日、二年前に出た織音籠のベスト盤”Hush-a-bye”を買った。九月に出た新しいアルバムはすでに買ってあったので、これでCDはすべて揃った。今の朔矢さんにたどり着いた。


 ”Hush-a-bye”。お休みなさい。


 夜の電話では切るときに必ず、朔矢さんは言う。『じゃぁな。お休み』と。私はいつまで彼の『お休み』を、聞くことが許されるのだろう。

 もう一歩、がんばって近づかないと。彼がすり抜けていってしまいそう。

 ピアスだけでは、まだ足りない。 




 誕生日の三日後のデートは、去年の冬にも行った定食屋さん。

「知美。誕生日おめでとう」

 料理を待つ間に包みを渡された。

 朔矢さんが『先生、これ見て!』って持ってくる子供と同じ目をしていたから

「開けてもいいですか?」

 と尋ねると、どうぞって視線で促された。

 包装紙を破るのももったいなくって、ゆっくりテープをはずして紙を広げた。中から出てきたのは、掌に載るくらいの正方形に近い薄めの箱。アクセサリー?

 そっとふたを開けると、ブレスレットが入っていた。

「ありがとうございます。大切にしますね」

「しまいこむなよ」

 貸してみな、といわれて渡すと、そのまま左手につけてくれた。

「それなら、身につけれそうか?」

「はい。仕事中は外したほうが良いでしょうけれど、それ以外はずっとつけていられると思います」

 仕事中は、何かの弾みで切れたら悲しいから外すとしても、通勤の服とも違和感がなさそう。手首で三日月のチャームが揺れる。

「お月様……」

「さすがに新月のデザインは無理だし。せめて、”月”な」

「ツキコちゃんですね」

 目じりにしわを寄せて彼が笑う。


 ”月”を貰ったことが、うれしかった。

 朔矢さんは、私を見てくれている。

 風邪を引いたときの不安は、きっと体調が悪かったせい。

 一人で暮らして、初めての不調だったし。



 新しいおもちゃを買ってもらった子供のようにブレスレットを眺める私。それを黙って眺める彼。

 料理が届くまで、ふんわりした無言の時間があった。

「おまちどうさま」

 奥さんが料理を運んできた。今日は、太刀魚のホイル焼き定食。小さな骨が多いけど、あっさりとしていて大好きなお魚。朔矢さんは豚の角煮定食。今日は『肉が食いたい』らしい。自分の食べたいものに正直な朔矢さん。

 食事の邪魔にならないようにシュシュで髪をくくったら、朔矢さんが手を伸ばしてきた。耳たぶを探るように触られた。

「ピアス、開けたのか」

「はい」

「いつ?」

「二週間ほど前、ですね」

 ポストの先に指を当てて、彼が更に尋ねる。

「ファーストだよな、これ。まだ」

「はい」

「聞いていたらプレゼント、セカンドピアスにしたのに」

 どこか残念そうに言われた。

 手を引っ込めた彼が箸を持つのにあわせて、私も手を合わせる。

 いただきます。




 去年の反省を元に、今年は互いが忙しい十二月のデートは避けた。今年も、織音籠はプラネタリウムの隣の駅のホールでコンサートがあるらしくって、この月に初めて会えたのはクリスマスの翌日だった。


「お待たせしました」

 コートのポケットに手を入れて、駅前で私を待っていた朔矢さんに後ろから声をかける。

「よう、お疲れ。仕事納めだって?」

「はい。今日で、今年の仕事はおしまいです」

 カレンダーの具合で、今年は早めの仕事納めになった。けれども両親と顔を合わせる事がわずらわしく、大晦日に実家に帰る予定にしている。夏に帰らなかったことも含めて怒られそうで、まだ両親には言っていないが。

 両親に『電話しないといけない』と、考えただけで気が重い。

「また、疲れているのか?」

 心配そうに彼が覗き込んでくる。慌てて事情を話すと、

「おっそい反抗期だな」

 と笑われた。水疱瘡と一緒で、大人になると重症化するな、って。



 この日の夕食は、ロシア料理屋。いったい、この人の頭の中の地図はどうなっているのだろう。

「俺の行ってた大学の近くに、外国語大学があるだろ? その関係かな。この辺は結構、多国籍に食事ができるんだぜ。食べ歩きで、世界一周できるかもな」

 そんなことを言いながら、ピロシキをかじっている。

「ボルシチって、俺たちのころの給食のイメージだとトマト味だったよな」

「トマトの赤さではないですね。これは」

 給食のボルシチは食べるのでトマト味でも大丈夫と思って注文したけど、これは透明感のあるきれいな赤。本物の色ってこんな色なんだ。



 食べ終わってコーヒーを飲んでいて、持ってきたものを思い出した。危ない。忘れるところだった。

「これ、クリスマスプレゼントです」

 手が商売道具なのに手袋をしない彼に、手袋をプレゼントに選んだ。節の高い指だけど、そんなに大きなほうではない、といつだったか本人が言っていたので、サイズも大丈夫だと思う。

「うわぁ。用意してくれたのか」 

 彼はそう言って、全開の笑顔を見せてくれた。

「俺も、これ。プレゼントな」

 彼がくれたのはピアス。三日月と矢のモチーフにドキッとした。新月はデザインできないから、と誕生日に言っていた彼。これは、彼の名前だ。きっと。

「朔、矢。ですよ、ね?」

「わかったか? 」

「はい。ありがとうございます。これもずっと着けるようにしますね」

 左手のブレスレットに触れながら言うと、優しい目で彼はうなずいた。



 私のマンションまで送ってもらう途中、人通りの途切れた夜道でふっと彼が立ち止まった。名前を呼ばれて、振り仰ぐといきなり抱きしめられた。今までになかった近さで彼の声がする。

「知美、すごくドキドキしているな」

 ドキドキどころか。動悸が激しくって、口から心臓が出てきそうです。

「生きている実感が欲しくなったら、この心臓の音を思い出せ。もう、自分に傷をつけるなよ」

 彼は背中に回した右手をスルスルっと動かして、私の右耳を触った。

「傷は、このピアスで最後にするんだ。最後のこの傷は”朔矢”のピアスが塞いでやるから」

 声が出なくって、黙ってうなずく。

「もう少し互いの気持ちが育ったら、指輪と一緒にもっと大きな”生きている実感”をお前にやるよ」

 これはそれまでの繋ぎな。

 そんなささやきと一緒に、暖かいものが唇に触れた。一気に頭に血が上る。顔が火照る。

「ピアスを見るたびに、思い出せ」

 悪い魔法使いのような顔で、彼が笑う。 


 そんな呪文かけられたら、ピアスがつけられないじゃないですか。

花嫁のスープ

 花嫁 ”が” 作ったスープだそうです。

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