新しい年
年が明けて、担任している子供たちの年賀状に混じって、朔矢さんからの年賀状も届いた。
彼が何枚くらい年賀状を書くのか想像もつかないけど、印刷の絵に添えられた一言は元より、宛名まで手書きだった。美しい文字で字配りも完璧。なのに、どこか温かみのある字で自分の名前が書いてあるのを見ると、あの声で『知美さん』と呼ばれているような気がして、心のどこかがふわっとする。
「何をニヤニヤしているの。気持ち悪い」
緩んだ顔を母に見咎められた。
「朔矢さんから、年賀状が来たのがうれしくって」
そう答えた私の手から、母がはがきを取り上げ父と眺める。
「これ、本人の字か?」
「違うんじゃないですか? ご両親の代筆でしょう」
「こんな字を書くようには見えない男だったからな」
「字は人を表しますからね」
裏、表とはがきをひっくり返しながら品定めをする両親に、私は自分の宝物を汚された気がした。
返して。それは、私のもの。
そう思うだけで、手も動かせない。声も出ない。
「結婚を考えている相手に、自分で年賀状も出さないとはな」
鼻で笑ってはがきをテーブルに投げ出した父は、そのままテレビをつける。
新年番組を見始めた父を横目に、彼からのはがきをそっと手に取る。
ごめんなさい。
心の中で、はがきに謝る。
そのとき。テレビから流れた音に意識を奪われた。
この声。朔矢さんの織音籠だ。大きく動くと、両親に何か言われそうで。テレビを消されそうで。そのままの姿勢で音だけを聞く。
CMだったらしく、お菓子メーカーのアナウンスが入って、次の音になった。知らずに止めていた息を吐いて、年賀状を抱えるようにして二階の自室に戻った。
十二月のあの日にもらったCDは、通知表が出来上がるまで自室の机の引き出しに包装ごとしまっておいた。終業式の日の帰り道、電器屋によってポータブルのCDプレーヤーを買った。どきどきしながら、夕食のあとイヤホンで聞いた。途中、入浴を促す母が部屋に入ってきたけど、『仕事で使うCDを聞いている』とごまかした。母は、CDプレーヤーに眉をひそめたが、怒られはせずほっとした。カモフラージュに買った百人一首のCDに入れ替えてから、お風呂に入った。
朔矢さんの言う”声”は、最初に一渡り聞いたときには『そんなものなのかな?』という感じだった。けれど、不思議と耳に残る声だった。テレビから不意に聞こえた時でも、私はその声で織音籠に気づけるようになった。
この声のもとに、朔矢さんがいる。
虹をたどってその橋詰めへ行こうとするように、朔矢さんを求めて心が動く。あの声は私にとって、朔矢さんへ向かうための道しるべになった。
朔矢さんの存在を確かめるように、毎晩寝る前に一曲聞いてから眠りにつく習慣が冬休みの間にできた。眠りを誘うような曲が心地よかった。
二月。バレンタインの直前の土曜日にあったのが、この年初めてのデートだった。
この歳になって初めて男性にチョコレートを渡した。そして、大切な報告をひとつ。
「CD、聞きました」
「がんばれたんだ」
そう言って、朔矢さんは目じりにしわを寄せて笑った。
「簡単なこと、だっただろ?」
「そうでしょうか?」
結構どきどきしたし。CDは今も隠してある。
「そうだよ。でも、はじめの一歩だな。じゃぁ、その調子で」
今度は何を言われるのか、固唾をのむ。
「今日の夕飯。和食と、タイ料理。どっちにする?」
「なんですか、その選択は」
「ほら、自分で決めてみな」
左手の指を二本立てて、右手の人差し指で”どちらにしようかな”って、指遊びをしてみせる朔矢さん。
「じゃぁ、タイ料理」
「今までに食べたことあるのか」
「ないですけど。チャレンジしてみます」
彼は、ふぅん、とうなずいて私の顔を覗き込んだ。何かが判ったかのように
「んじゃ、行ってみようか」
そう言って、彼は私の手をとった。
初めてつないだ男性の手は、硬くって大きかった。
タイ料理は、ほぼ食べられた。注文の前に辛いとか、すっぱいとか教えてもらって注文したからそんなにとんでもないものは出てこなかった。
「ちゃんと、食べれたな」
「はい。おいしかったです」
「メニューなんてさ、どんなものか判らないなら訊けばいいんだ。人に合わせずに、食いたいもの食えば、”好き嫌い”じゃなくって”好み”になるだろ?」
頬杖をついて笑う朔矢さんに、タピオカのデザートをすくいながら同じように笑い返す。
ひとつ、進歩できた気がする。
「あ、CDの感想」
宿題の提出をわすれるところだった。宿題は提出をして初めて完了なんだから。
「うん。どうだった?」
「あの声、耳に残ります」
「だろ? 俺たちが惚れたのわかる? JINのあの声がなかったら俺たちは音楽で飯食うつもりなんて、なかったよ」
どこかウットリとした目で朔矢さんが話す。本当に彼の声に惚れているのが手に取るようにわかる。
「あと。皆さん本当に大きいんですね」
「そこ?」
「だって、朔矢さんが大きく見えないなんて」
「そりゃな。JINの本名、”ダイマジン”だし」
そう言いながら、朔矢さんはテーブルの上に指で”大間 仁”と書いて見せた。変わった名前の子は、いろいろ担任してきたけど。これは。ご両親はいったい何を考えてそんな名前をつけたのかしら。
眉間にしわを寄せて、テーブルに書かれた見えない文字を睨む。
「って。また信じただろう?」
また、だまされた?
「そんな名前、俺たちの時代につける親がいるかよ」
そう言って、クスクス笑う朔矢さん。
「”大魔神”は、高校時代のJINのあだ名だよ。で、通称がジンだったと」
それがそのまま、今の呼び名になったそうだ。机の引き出しに隠してあるCDジャケットの中央、一際大きな人のイメージを脳内に呼び起こす。確かに、大魔神って感じの人だった気がする。
いったい誰? そんなぴったりなあだ名を考えたのは。もしかして、目の前で笑っている人?
三月。異動の内示が出た。転任先は、少々通勤に時間のかかるところで、電車とバスを乗り継いで一時間半? では行けないかもしれない。バスの方向が通勤ラッシュと逆で、本数が少ないのがネックになりそうな学校だった。
いつかはこんな日が来るのはわかっていた。自宅のある蔵塚市ではなく、西隣の楠姫城市で教員採用試験を受けたときから。大手を振って家を出ることのできる理由を、誰かにつけてもらえる期待が心のどこかにあったかもしれない。
一人暮らしを、する? できる? 私に。
兄は、他県の大学に入ったときから一人暮らしをしていた。そのまま、向こうで結婚した。
私は? できる? 許してもらえる?
片道一時間半として、毎日の通勤に往復三時間。今までと同じように仕事を持って帰って……と考えると到底生活が成り立たない、よね。転勤だもの。私のわがままじゃない、よね。
その夜、両親に転勤の話をした。
「知美に一人暮らしは無理でしょう」
「どうせ、あの男が入り浸るに違いない」
「そうよね。嫁入り前にふしだらだわ」
両親は、やっぱり反対をした。
「ちょっとまって。じゃぁ、お義姉さんはどうなるの。兄さんと結婚する前は一人暮らしだったそうじゃないの」
両親自慢の”できのいい兄”が選んだ人を味方にできたら……と、兄嫁を例に引き出してみたけど。
「あの子は、一樹がきちんとしていたから」
「そもそもお前とは、できが違う」
兄や、兄嫁に許されたことが、どうして私には許してもらえないのだろう。
娘だから? 私がダメな子だから? きちんとできないから?
春休みに会った朔矢さんは、私の転勤の話を聞いて空中に何か図を描きながら考えていた。
「それは、かなりキツイぞ」
「朔矢さんも、そう思いますか?」
「こう、知美さんの家から駅までがバスって言ってたろ? そこから南下して東のターミナルで快速に乗り換えて、俺の住んでいる駅を通り越して西のターミナル。もう一度バスに乗り換えて」
どうやら、空中に書いていたのは路線図だったらしい。
「九時五時の仕事じゃないわけだし。体壊さないといいけど」
「そうなんですけど」
「絶対無理はするな。年末に俺との約束に無理をしたことがあっただろ? あんなことはするなよ」
でも、朔矢さんには会いたい。無理をしてでも ”私が” 会いたい。私の方の気持ちは、いつの間にか育ってきていた。
「だったら、携帯を買おうかな」
つい、言葉がこぼれた。
「だったら、って、なに?」
「家の電話使うと、両親がいい顔をしないので。朔矢さんと会える時間が減るなら、携帯持ってたらメールとかできるかなって思って」
私ったら、何言っているのだろう。
「電話が使えない?」
「あ、はい。子供が電話を触るもんじゃないって」
「子供って……三十になる娘に言う言葉かよ」
朔矢さんが眉をひそめて、吐き捨てるように言う。
「それ、知美さんは”普通”だと思っている?」
「そう言われて育ってきましたから、そんなものか、と」
「違和感なし、か。じゃぁ、いっそ、文通でもするか?」
いたずらを思いついたような顔で朔矢さんは言うけど。
「それはもっとダメです」
「何が?」
「中身を見られます」
「検閲? 封を開けて?」
うなずく私を、彼は信じられないって顔で見た。
「信書って、親でも見ちゃいけないって知ってる?」
「そうなんですか?」
「らしいよ。大体、成人した相手にする行為じゃないだろうが。だって、考えてみなよ。隣の席の先生が知美さんあての手紙読むか?」
そうか。”当たり前”と思っていたことが、当たり前じゃない。
うちの親がおかしいの?
半年前の私だったら、朔矢さんがアウトローだからで終わらせていただろうけど。何度も朔矢さんが言っていた、『それは、誰の決めたこと?』。
私の当たり前は、両親が決めたこと?
四月、新しい学校への初出勤。
遠かった。これは、きついかもしれない。
転任先には新任のときに指導でお世話になった先生が、教頭をされていた。
「教頭先生、ご無沙汰しております。また、よろしくお願いします」
「ああ、生田先生。お久しぶりで。こちらこそよろしく」
着任の挨拶を教頭先生と交わしたあと、少し雑談をした。その中で、私が実家から通うことに触れられた。
「ここは市外からでは遠いでしょう。一日二日ならともかく、毎日の通勤が長いともたなくなりますよ」
と。そして
「無理をして体を壊すのは子供たちに対して無責任、だと僕は思います。仕事を全うする環境を整えるのも仕事のうちですよ」
と、アドバイスをいただいた。教頭先生から見ると、きっと私は新任のときから成長できていない。もう九年目になるのに情けない。
実際に授業が始まると、本当に通勤の長さが堪えた。
通勤の途中に学校でトラブルがあったら、連絡が取れないのは困る、と、通勤時間の長さを言い訳にして、携帯電話を持つことができたのが、せめてもの救いだけど。
七時過ぎに学校に着くためには、家を六時前に出ないと間に合わない。帰宅も、八時を過ぎるのが当たり前。そのうえで、持ち帰りの仕事をした。週末にはクタクタだ。
朔矢さんとはメールを交わすだけしかできなかった。
毎日、朝夕の食事時間が両親と異なる生活に、母が堪忍袋の緒を切り
「仕事を辞めたら?」
と言い出した。辞めて、朔矢さんとさっさと結婚しなさいと。
産休、育休がきちんと取れて、結婚しても続けられる仕事だから絶対先生になりなさいって言ったくせに。
「教頭先生から『通勤が長すぎると体を壊す』ってアドバイスを頂いたのを無視しておいて、『しんどいから辞めます』はみっともないでしょう?」
そう言ってみると、父が
「そんな事を上司に言われていたなら、ちゃんと言いなさい」
親の常識が疑われるだろう、と、ぶつくさ言う。
連絡帳を見せていない小学生レベルで怒られたけど。
私の一人暮らしが認められた。
新居は、西のターミナルを最寄り駅にするオートロックのワンルームマンション。母と一緒に不動産屋へ行って、部屋を選んだ。
駅近、オートロック、南向き、レディースマンション、管理員常駐。そんな母の条件を不動産屋は軽くあしらった。
「四月の下旬に、そんな物件空いているわけないでしょうが」
と。新入社員も学生もすでに新生活を始めている。そんな時期に、あいている好条件の部屋なんて、逆に怖い。
母の条件を削って削って。駅近に最後までこだわっていた母だったが、
「知美一人で、きちんと戸締りができるわけがない」
と、オートロックを優先して、駅から徒歩二十分のマンションに決まった。駅とは違う方向に、十分も歩けば小学校のほうへ向かうバス停に出ることもできる。さらに、通勤が楽になった。
GW.にバタバタと引越しをして、荷解きをして。
あわただしく連休が過ぎる。
何から手をつけていいか分からず、家事がとっちらかったりもした。途方にくれながら、新任のころに隣のクラスの担任の先生に教わったことを思い出した。
『いろいろ仕事が重なって、どれからしたらいいかわからなくなったらね。やらなきゃいけないことを全部、紙に書き出すの。それで、優先順位に番号をつけてひとつずつ片付けて行けば大丈夫』
まずは、ご飯。それから、もって帰った仕事。掃除と洗濯だったら、洗濯が優先。あ、明日は燃えるゴミだから、そっちを先にまとめて。
朝倉先生。ありがとうございます。おかげで、人間の生活ができそうです。
かつて仕事のスキルを教えてくれた、先輩先生を心の中で拝みながら初めての一人暮らしを作り上げていく。
それでも、格段に楽になった。息をつけるようになった気がした。
引越しの次の土曜の夜。初めて朔矢さんにこちらから電話をした。携帯は持ったものの、いままでメールでしか連絡を取っていなかった。
〔もしもし。生田と申しますが〕
緊張しながらかけた電話に、
〔やっと電話してきたな〕
そう、笑いを含んだ声で言ったのが彼の第一声だった。一月ぶりの彼の声に、とても長いこと会えなかったような気になる。
そんな彼に、引越しをしたことを話す。
彼の住む町にうんと近くなった、と。
〔親離れの第一歩だよな〕
〔ですかね?〕
〔うん。体を壊す前に行動できたな。よかった〕
声を通して、頭をなでられた気がした。
そんな話をしばらくして、そろそろ切ろうかというタイミングで朔矢さんが言った。
〔さっき、オートロックだって言ってたけどな〕
〔はい〕
〔信頼するなよ。その気になれば入り放題だぞ〕
〔え?〕
〔油断していると、一般のマンションより危険だから。きちんと戸締りをすること。それと、オートロックをあけるときに他人。特に男がいるときは、やり過ごしてから入ること〕
〔やり過ごすって?〕
〔俺に電話をするふりでも何でもいいから。間違ってもドアを押さえてそいつが通るのを待ってやったりするなよ〕
母は、オートロックさえ付いていれば安心みたいに言っていたけど。そんな程度のものなの?
〔いいか。冗談でもからかっても無いからな。ちゃんとこれだけは信じて聞いてくれ〕
最後は、あの朔矢さんに頼み込まれた。