はじめの第一歩
原口さんのほうから電話をいただいて、それから数回お食事に行った。
二回目にお会いした時に
「知美さんと呼んでもいい?」
と訊かれて、互いに名前を呼ぶようになった。その時点では、まだ私は朔矢さんの曲を聞いていなかった。
「無理しなくってもいいよ」
とは、言ってくれるのだけど。とても失礼なことをしている気がする。
「じゃぁ、俺が医薬品メーカーに勤めてたら、薬使ったことがあるか気になる?」
「代表的なお薬の名前を聞いたら『使ったことある』って思うかもしれないでしょう?」
「うーん。代表的ときたか」
指先で自分の頬をトントンと叩きながら彼が考えている間に、料理が出てきた。この日は、イタリアン。サラダのようなものが出てきた。食べ始めた彼に倣って、私もフォークを手にする。トマト……目をつぶって食べる。
「トマト、嫌い?」
「え?」
「すごい顔してたよ。嫌いなものがあったら、遠慮なく言ってね」
他にも何かある? と、顔をのぞかれた。
「ないです」
「本当に?」
「大人になって、好き嫌い言うのはみっともないですから」
「誰が、決めたの? それ」
誰? 誰だろう。
「でも、常識ですよね」
「うーん? 誰の常識?」
アウトローだ。やっぱり普通じゃない。
「まあ、いいや」
そう言いながら、彼はおいしそうにトマトを口に入れた。
「知美さんって、普段どんな本を読んでる?」
答えにくい質問が来た。
「朔矢さんは?」
「俺? 愛読書は国語辞典」
「辞典って読むものじゃないですよね?」
「そんなの、決まってないでしょ? 適当なページを開いて、端から端までじっくり読んだら面白いよ」
左手で開いた本を持つジェスチャーをして、右の人差し指で字を追うしぐさをする。ちゃんと、国語辞典で言葉をたどる形になっている。
落語ですよね。朔矢さん。それって。
「って。何で、俺が答えているの。知美さん?」
そんなことを言われても。国語辞典が愛読書な人にファンタジーとかミステリーなんて子供っぽい本を答えるのが恥ずかしい。でも、見栄を張って下手なことを言ったら、朔矢さんのほうがきちんと読んでいそうで。
「あれ、答えにくかった? 意外と、物凄いヤツ読んでたりする?」
「物凄いって」
「えー。人前で言えないような凄いの」
「読みません! ファンタジーとか、ミステリーとかです!」
私の答えにくすくす笑いながら、朔矢さんはワインを口にする。
「言えるじゃないか」
からかわれた、というか、言わされてしまった。
両親は、こんな本を読んでいるといい顔をしない。朔矢さんも、呆れてませんか?
「どうした?」
「子供っぽいって思いませんか」
じっと、目を見られた。恥ずかしくって顔が下がる。朔矢さんって、時々こうやって見てくるのが苦手。
「それも。誰の価値観かな?」
彼が小さくつぶやいた声に顔を上げた。
いったい、何のこと?
目が合うとなんでもなかったように、にっこり笑った彼が、ひとつの小説のタイトルを出してきた。それは十年、いやもう少し前から始まった異世界ファンタジーのシリーズ。
「読んだことある?」
「はい。学生のころに」
学校の図書館で借りて、夢中になった。大好きで、大好きで一冊ずつ自分でも買った。でも、成人してからも持っているのを父に見つかって、『子供じみている』と破られた。苦い思い出。
「それがね、年明けからアニメになるんだ。それのエンディングを俺たちが担当する」
「部外者なのに聞いていいことですか?」
「うん。昨日、公式に発表されたから。ネットにも、もう出てるよ」
そう言いながら、朔矢さんはトマトソースのパスタをフォークに巻きつける。
「でね、もし原作に興味があるなら、一度見てみたら。ついでに俺たちの歌も聴けると。一石二鳥だね」
無理だわ。フォークを持つ手が止まってしまう。
「どっちも無理です」
「うん?」
「アニメなんて、親の前で見れません」
「叱られるのが、怖い?」
うなずく私に、質問が重なる
「知美さんの家って、チャンネル権はお父さん?」
もうひとつ、うなずきながらなんだか、自分がすごく幼い気がして。自分が情けなくて。涙が出そうになる。
「そうかぁ」
いつの間にかパスタを食べ終えたらしい彼のフォークを置く音に、一生懸命涙を押し込めて、食事を再開する。いけない。ペースを乱している。
「焦らないでいいよ。落ち着きな」
ここのワインおいしいから、ゆっくり楽しませて。
ね、とか言いながらにっこり笑う。
その笑顔に、肩に入った力が抜ける。
そのあとは、ゆっくりと世間話をしてその日はお別れをした。
五度目になる食事の約束をした日は十二月に入ってすぐ。
私は二学期末の通知表の作成で、実は忙しい時期だった。その日の夜の時間を確保するため、直前の一週間ほどは少しずつ前倒しで通知表を作っていった。毎日の持ち帰った仕事にプラスして。
少しずつ、寝不足が積み重なる。
「知美さん、体調悪くないか?」
私の顔を見るなり、朔矢さんはそう言った。
「顔色が、よくない。仕事忙しいの?」
そこまで言って、うーん? と、空を睨む。キンと冷えた冬の夜空。それまで予約を入れてくれた店で待ち合わせていたのが、この日は、分かりにくい場所だから、と初めて外で待ち合わせをした。
「小学校って、通知表あるよな?」
「はい。朔矢さんの子供のころとは少し違いますけど」
「今って、通知表の準備中だったりする?」
「ええ、まあ」
「そうか。師走だもんな。坊さんだけじゃなくって先生も走る季節だ。わるい。気づかなかった」
「いえ。気にしないでください」
「今日は、このまま帰って休むか?」
そんなことになったら自己管理がなっていないって、両親に怒られる。あわてて、首を振る私に朔矢さんは
「いきなり帰っても、晩飯がないか」
と、一人納得していた。そう思ってくれても良いです。帰れって言わないで。
「寒いし。取り合えず店に行こうか」
そう言って歩き始めた彼の後姿に、ほっとして。私は後を追いかけた。
この日、連れて行ってもらったのはこじんまりとした、定食屋?
朔矢さんの行きつけなのか、カウンターの奥さんとジェスチャーだけで会話をした彼は、奥まった小上がりに上がった。
きょろきょろ見回している私に、朔矢さんは笑いながら
「仕事の具合で外食が続いてるから、ちょっと胃がしんどくって。今日は、和食にさせて」
「朔矢さんこそ、無理をしていませんか?」
「今年で二回目になるけど、年末にコンサートがあってな。このまま、毎年恒例のイベントにしていこうと思っているから、ちょっと頑張りどころなのよ」
そういいながら、彼はメニューをテーブルに広げた。
「いらっしゃい、サクちゃん。久しぶりじゃない」
「女将さん、ご無沙汰です」
「はいはい。みんなも元気? 頑張ってるみたいだけど」
「元気、元気。殺しても死なないくらい」
そんな会話をしながら、奥さんは温かいお絞りとお茶を出してくれた。
「今日は、何にする?」
「うーん。野菜食わしてくれる?」
「じゃ、ぶり大根の定食は?」
「あ、それ。知美さんはどうする?」
ブリ、か。ちょっと、苦手なんだけど。
「私もそれで、お願いします」
「はいよ。じゃ、ぶり大根の定食二つね」
奥さんは威勢よくそういうと、立ち上がった。
「知美さん、これ、あげる」
料理を待つ間に、朔矢さんが薄い包みをかばんから出してきた。折り紙くらいのサイズで、固い手触り。素朴なクラフト紙の袋に入れてある。クリスマス、じゃないよね。私、何も用意していないのに。
「どうぞ。あけてごらん」
言葉に従って、封を開ける。中から出てきたのはCDだった。
ジャケットに、男性が五人。右端に、髪を跳ねさせた朔矢さんが居る。
「これって……」
「そ、俺たちのCD。今年の春に出た、一番新しいのね」
貰っても、私、聞けないのに。
お見合いから一ヶ月以上たつのに、まだ私は彼らの曲を聞けていなかった。聞いてみたいと、欲は募るが、両親の目のほうが怖い。
「知美先生に、冬休みの宿題。そうだなぁ、一月中にそれを聞いて、感想文ってどう?」
にやっと笑いながら、そんなことを言われた。
「それくらい大義名分があれば、聞けるんじゃない? きっかけをあげる。そこからどうするかは、知美さんだよ」
そう言って、彼は私をじっと見た。
「おまちどうさま」
そんな声がして、ご飯がきた。ご飯に、粕汁とぶり大根。それにかぼちゃのそぼろ煮。白菜のお漬物。
「粕汁って、別メニューじゃなかった?」
朔矢さんが、お箸を手に取りながら奥さんに尋ねた。
「野菜食べたいんでしょ。大将からのサービスだよ」
「わお。サンキュって言っておいて」
左手で拝むようにしながら、奥さんに向かってにっこり笑う。愛嬌って、言うのかしら。こんな顔で笑われたら、いくらでもサービスしたくなるんだろうな。
「彼女さんも。しっかり食べてね」
いきなりそう言われて、私はただ黙ってうなずいた。ああ、だめだ。こういう場合、どう返事をすればいいのか。誰も教えてくれなかった。
『愛想のない子ね』 母の、小言が耳に甦る。朔矢さんも、奥さんも呆れているだろうか。
ソロっと、目を上げて彼の顔をうかがうと、なんとも表現のできない眼の色で私を見ていた。
「サクちゃん。今までとはずいぶん傾向の違う子ね」
「かわいいだろ? スレてなくって」
奥さんの言葉に、彼はそう言って目を細めるように笑った。
恐る恐る、ブリを口に運ぶ。あ、あたりのブリだ。よかった。
かんだときの歯ごたえがどうにも嫌なブリが時々あるけど。このブリ大根は大丈夫みたい。
「嫌いなものは言えって言わなかったか?」
朔矢さんの声に顔を上げると、怖い顔をしていた。
どうしよう。言うことを聞かなかったから、怒られてしまう。
頭の中が白くなる。身がすくむ。
「って、言うのは冗談だけど」
声のトーンがすとんと落ち着いて、こわごわ彼の顔を見なおすと普通の顔だった。
「こっちが変に気を使うから。俺のためにちゃんと言って。な?」
「ごめんなさい」
「食いモンにも、悪いだろ?」
食べ物に悪い?
「イヤイヤ食べたら、栄養にならないらしいぜ」
「そうなんですか?」
「せっかくの命。おいしく食べるようにしような。ブリ、嫌いならひきうけようか?」
そんな。箸をつけたものを。
「いえ、大丈夫です。これだったら食べられます」
「無理するなよ?」
「はい。これは、大丈夫そうなブリです」
私の顔を、観察するように見つめる朔矢さんに、私も彼のまねをして笑ってみた。彼は、ふっと優しい目で私を見た。
「やっと、笑ったな」
そう言って。
「知ってるか? 笑わないと、頬の筋肉が弱って年寄り顔になるんだぜ」
かぼちゃを箸でつまんでそういう彼に、思わず箸を置いて両手で自分の頬を撫でた。普段の私、笑っているのかな? 仕事では、子供たちにハラハラしたり、怒ったり。家でも笑うことって少ない。
「って、また信じた?」
「ウソなんですか?」
「さあ。どうだろう?」
また、いたずらっぽく笑う朔矢さんの笑顔に見とれる。笑いジワと年寄りジワって同じシワでも大きく違う。私はこんないい顔をしたことがあるだろうか。
「知美さん、騙されやすい?」
「でしょうか?」
「キャッチセールスに引っかかったことがありそう」
「それは無いですよ」
「そう?」
「はい。あれって、化粧品とかエステとかアクセサリーとかですよね。声をかけられたことはありますが、チャラチャラと身を飾ることを親が嫌いますから」
それに私なんて、磨いても飾っても一緒。どう繕っても、できの悪さが行動に出てしまう。
朔矢さんは、男でもアクセサリーが似合うのにな……。
今日は指輪とピアスをしている彼を見て、ため息が出てしまう。
「仕事柄、じゃないのか」
箸をおいた彼は、そんなよく分からないことを言いながら、頬杖をついてテーブルの角を睨んでいた。
無言の彼をチラチラ見ながら、私はブリを片付けた。
食事を食べ終え、食後のお茶を飲んでいてふと、思い出した。
「朔矢さん、年賀状出してもかまいませんか?」
「知美さんって、あけおめメール世代じゃないの?」
「私、パソコン持っていないから、メールしなくって」
「携帯は?」
「持ってません。必要ないですし」
そう答えると、朔矢さんは目を丸くしていた。
「いまどき、必要ないって……。あぁ、でもそうか。今までアドレスとかの話にならなかったのはそれか」
「やっぱり、持っていたほうがいいですか?」
「それは、知美さんが考えること。ないと不便なら、持てばいいだけでしょ? 俺は、無いと仕事にならないから持っている。そういうことじゃないの」
お金払うのは自分だよ。そういいながら、朔矢さんは自分のかばんを引き寄せた。
あ、話がよそにずれちゃった。これは年賀状出すなって、逸らされたのかしら。これ以上しつこくしたら、怒られるかな。
「で、年賀状だっけ?」
「はい。出してもいいですか」
彼が、話を戻してくれた。
「うん、いいよ」
「あの、じゃぁ住所を……」
「そうだね。正月はどうせ実家に行くから、とりあえず実家の住所な」
そう言われて、かばんから手帳を出す。と、彼は自分もノートを出してきて、
「自分で書くから、知美さんもこっちに書いて」
と、交換させられた。
サラサラっと書いている手元をふっと見て、彼の字の美しさに驚いた。ペンを持つ持ち方もキレイ。書写の教科書に出てくるような。やっぱり、持ち方って大事よね。頭の中に、あの子とかこの子とか、鉛筆の持ち方の怪しい児童の顔が浮かぶ。三学期もう少し気をつけてみないと。
「あれ? もう書けた?」
「あ、いえ。まだです」
「住所忘れた、とか」
「覚えてます!」
怒るとそれもシワになるよーとか、失礼なことを言う朔矢さんに、丁度お茶のお代わりを入れにきた奥さんが
「女の怒りジワは、男が甲斐性のないせいだよ」
と、口をはさむ。
「だから、女将さんはシワがないのか。さすがは、大将だねぇ」
のろけられちゃった。そんなことを言いながら、彼がお茶を受け取る間に私のほうも書きあがった。うーん。あんな字を書く朔矢さんに見せるのはちょっと恥ずかしい字だ。
「書けた? ああ、”先生”の字だな」
「朔矢さん、きれいな字ですね」
「でしょ。ちょっとそれが自慢。あ、そうだ。知美さんにちょっとクイズ」
さっきのCD出して、と言われて、かばんからCDを渡すと彼はこちらにジャケットを見せて言った。
「さて。この五人で一番字が汚いのは誰でしょう」
って、何ですかそれ。
「イメージでいいよ」
「すごく失礼なイメージだと思いますけど」
「じゃ、逆にしようか。一番字がきれいそうに見えるのは誰? あ、俺は抜いた四人でね」
うーん。誰だろう。真ん中の大柄な人は、荒っぽい気がする。その人の横でしなを作るようにもたれかかっている髪の長い人。この人が一番繊細そうに見えるから、この人。うん、きっと活字のようなきっちりした字を書きそうな気がする。
私が指差した人を見て、朔矢さんがにやりと笑った。
「やっぱり、こいつだと思う?」
「はい」
「そいつの書いた字ね」
パラパラとノートをめくった彼が、ほらこれ、と示した文字に、開いた口がふさがらなかった。
「小学六年生でも、もう少しマシな字が普通です。これ、かなり勉強のできない子の字です」
「ふーん。そういう見方もあるんだ。こいつも俺と同じ大学の法学部。そこそこ勉強はできるぜ」
と彼は笑った。
『そこそこ』ではないでしょう? あの大学の法学って、国文といい勝負の偏差値だったと思います。
「そんなに勉強のできる人たちが何で、音楽……」
「だから、言っただろ。こいつの声に惚れたから」
そう言いながら、彼は真ん中の大柄な人を指差した。
「ちなみに。俺たちの中で一番勉強ができるのもこいつ」
彼の周りは、本人も含めて見た目どうりでない人たちのようだ。
彼はクスクス笑って、CDをもう一度手渡してくれた。手帳と一緒にかばんに大切にしまい、奥さんが入れてくれたお茶を飲んだ。
「そろそろ、帰るか」
そう言って立ち上がる朔矢さんに慌てて私も席を立つ。
CDをいつ、どうやって聞こうか。携帯電話を持つのかどうか。
今年の冬休みは、考えることが多そうだ。