二人暮らし
新学期の前の三連休に、運よく部屋を見つけることができた。3DKのいわゆる公団住宅。
今住んでいるマンションも年季の入っていた朔矢は、
「立って半畳、寝て一畳。俺は、一畳だと足が出るけどよ」
と、あまり住むところにこだわらないようで、楽器OKであればそれで良いらしい。
朔矢の収入が思っていた以上にあったし、互いにそこそこ蓄えてもあったけれども、これからの織音籠がどうなるかわからないから、不要な出費は抑えて。
オートロックではなくっても、朔矢も一緒に暮らすのだから、もう母が押しかけてきても大丈夫。
学園町より一駅東なので、この先、市内のどこの小学校に転勤になっても通える。
正月に帰省をしていた兄によると、実家で私の話題はほとんど出なかったらしい。唯一出たのが、慶子さんに対する攻撃だったらしく
〔知美がいないことを気にかけないお慶は『冷たい兄嫁』なんだって〕
二日の夜に私の携帯にかけてきた兄は、苦笑いを抑えたような声でそう言っていた。話題には出なくっても、母のまとうピリピリした雰囲気に美雪が落ち着かないので、今年はいつもより早く自宅に戻ったとも。
母は仕事始めの日から、平日には必ず電話を入れてきた。親子の縁を切られてからの方が頻繁に電話がかかってくる、その状況の異常さに気づいて背筋が寒くなる。学校のほうには結婚の報告と一緒に連絡先を携帯の番号に変えたので、固定電話の受話器を上げることはなかった。母は、毎日留守電を相手にしゃべっている。
見合いの話は、年末の一度っきりで触れられなかったので少しほっとした。もしかしたら、年賀状を見たのかもしれない。それでも連絡を入れたら何を言われるかわからないので、ずっと無視を続けた。
引越しさえすれば。電話は朔矢の名義の方を使って、こっちは解約できる。これだけ無視を続けて、携帯にかけてこないということは……母は、携帯の番号を控えていない。
鍵をもらえる日が待ち遠しい。朔矢と暮らせる日が待ち遠しい。
一月の終わりに鍵を貰って、引越しをした。
二人での生活が始まった。
「授業って、考えてみればすっげぇライブだよな」
朔矢がそんなことを言い出したのは、一緒に暮らしだして一週間ほどたったころの夕食後。
「そう?」
「うん。毎日、内容が変わって、それが一日五時間? 六時間?」
私が作っている翌日の授業で説明に使う図を指差しながら、言う。
「それも、ちゃんと準備して。アドリブじゃないんだ」
「とんでもない質問が出たら、アドリブだけど」
「前に使ったモン使いまわさないんだろ?」
「うん。教科書も変わるし。置いておけないから」
えーと。このグラフは……こっちか。
「すげぇな。先生って」
「朔矢の仕事もすごいと思うけど。何もないところから、音や詩が生まれるんだもの」
顔を上げて、ローテーブルの向かいに座る彼を見る。今日は、確定申告の書類書きをしている。さっきまで、数年前に流れていた税務署の啓蒙CMの歌を口ずさみながら。考えてみれば、あれも織音籠だった。
「何もなくはねぇよ。インプットがなけりゃな」
そう言いながら、ノートを出してきて書類の上でなにやら書き始めた。インプット中だ。
『言葉を集めている』
お見合いのときに言っていた言葉が一緒に暮らし始めて、よく判った。常に彼はノートを持ち歩いて、気になった言葉を書き留めている。それが集まって、詩になる。
なんとなく、そんな彼を眺めていたけど。
お昼過ぎから痛み出した下腹部が、存在を主張しだした。
あー。ダメだ。今月はキツイ
お腹を抱えるように、うずくまる。環境の変化とか、暮れからの精神的な疲労とか。一気に疲れが出たのかもしれない。
「どうした? 腹痛いのか?」
声を出さずに、頷く。
「悪いもん食ったか?」
これは、首を振る。
「せ、いり、つう」
「あぁ」
彼が立ち上がる気配がする。テレビの下の収納をあける音。薬箱?
キッチンで、水音。
「痛み止め飲むか?」
顔を上げて、薬を受け取る。
「ありがとう」
「もう、休め」
「これだけ片付けないと。明日の授業が、ぶっつけ本番になるから」
薬が効いてきたら、続きを。
亀のようにうずくまる。
背後で朔矢の気配。
「ちょっと体起こせるか?」
ノロノロと体を起こすと、ひざにコートがかけられた。いつも朔矢が着ているコート。
後ろに腰を下ろした朔矢に抱き込まれる。おへその辺りに手を当てて、立てた膝の間に挟まれるようにして。
「こればっかりは、代わってやれないからな」
「うん」
「手当てってな、つらいところに手を当てるから”手当て”なんだって」
「うん」
気を紛らすためか、いろいろ話しかけてくれる朔矢に相槌をうつことしかできない。
「卵子ってな、ヒトの細胞で一番でっかいらしいぜ」
「そう、なの?」
「そう。で、な。赤ん坊になれなくって今の知美の状態なわけだろ? きっとお母さんにさよならを言ってるつもりなんだぜ。その痛みは」
「何、それ」
「産まれたての赤ん坊って泣いてコミュニケーションをとるじゃねぇ? それより未熟だから、痛みでコミュニケーションとってんだよ、きっと」
「そうなのかも」
「うん、きっとな」
そう言った彼は、お腹に置いた手をやわやわと動かしながら
「ごめんな、まだ、お前を迎えてやれる状態じゃなくって。いつかきっと。俺たちのところに来いよ」
ぺたんこのお腹に話しかけた。
その声を聞きながら、かつての母の言葉が断片的に思い出された。
『初潮? いやらしいわねぇ、もう。頭は育たないのに、そんなところだけ大人になるんだから』
『生理痛、ねぇ。知美みたいな頼りない子がちゃんとした母親になれるわけ無いんだから、無駄よねぇ』
思い出したとたん、痛みが強くなる。お腹に力が入る。
「知美、つらいな。俺たちの子供をいつか迎えるための準備とは言っても、痛いな」
朔矢の声が背中から体の中を通って、子宮に響いた気がした。お腹の力が緩む。
私の体も、卵にさようならを言っているのかもしれない。いつか、”おとうさん”が言うように産まれておいで。
いつか、会える日を。楽しみに待つから。
四月になった。
引越し以来、母からの連絡はなかった。住民票を移してあるし、郵便の転送の手続きもしてあるのにまったく音沙汰が無いということは……おそらく、スイッチが切れたらしい。
体を戒めていた鎖が解けた気がした。
仕事のほうは、今年は持ち上がりで六年生。キャンプに修学旅行。泊りがけの行事の多い学年。子供たちも、思春期を目前に、不安定になる年頃。
そして、”原口先生”としての生活が始まる。
その日、仕事を終えて更衣室で着替える前に、メールをチェックした。朔矢から、一件。
【遅くなりそう。飯、先に食っておいて】
どうしたのだろう。今日は、事務所に行くだけって言っていたのに。何かあったの?
手早く着替えて、学校を出る。
帰りにスーパーに寄らなきゃ、牛乳がそろそろなくなるし。朔矢はあとで食べるなら、温めなおして食べられるメニューは……。
頭の中で家事をシミュレートしながら、電車に揺られる。
意識的に、頭を働かそうとするけど。なんだか、心が騒ぐ。
食事を先に済ませて、お風呂にも入った。壁の時計は、九時半になろうとしていた。
玄関の鍵が開く音がする。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
部屋に入ってきた朔矢は。
抑えても抑えきれないように、笑いがこぼれていた。
「どうしたの?」
「動くぞ」
「は?」
「織音籠、再始動だ」
「決まったの!?」
満面の笑みで彼が私を抱き寄せた。
「JINの歌声が見つかった。これで動き出せる」
「よかったね。よかったね」
それしか言えなくって。涙が、にじむ。戻れるんだね。五人があの場所に。
「心配、かけたな」
その言葉に、頭を振る。私の心配なんて、物の数じゃない。
「今度の声も、凄ぇぞ。前の声の比じゃねぇかもな」
「そんなに?」
お正月に逢ったときは、最後のCDよりはしっかりした声だったけど。前のより凄いって、どう凄いのだろう?
「乞う、ご期待だ」
私の体を離して顔を覗き込んだ彼の目は、久しぶりに見るいたずらっぽい目だった。
それからの彼は、劇的に仕事が増えた……わけではないけれど。
「JINはリハビリだったけどさ。この一年、俺たちは生活のために他所で弾いてたわけ。言ってみれば他流試合をずっと続けてたから、それぞれが好き勝手にバージョンアップしててよ。まず、そこを出し合って、新しい織音籠を作っていかなきゃな」
そう言って、朔矢は、暇さえあれば楽しそうにノートを広げていたり、楽譜を前に何かを書き込みながらベースを触っていたり。
その姿は、朔矢が本当にいるべき場所に戻れたのだと、一目でわかるほど生き生きとしていた。そして、そんな彼の姿を見ることができた幸せを、私は噛み締めていた。
ジワジワとスタートへ向かう彼らの姿に、子供のころに使った足踏み式ミシンのイメージが重なる。
縫い始め、逆回転をしないように注意しながら踏み板とはずみ車の調子を合わせる、あの微妙なタイミングのように、彼らは互いの呼吸を計りながら走り出す準備を始めていた。
本格的に、織音籠が動き始めたらしい。
まだ、公式には何も発表はされていないけど、朔矢の仕事が混んできた。週によって波はあるけれど、土日の私の休みと合わないことが増えてきた。
それでも一緒に暮らしていれば、毎日顔を見られる。話ができる。
「JINの咽喉に無理はさせられないからよ。これでもまだ、セーブしてゆっくりやってんだぜ」
なにやらノートに書いていた手を止めて、こちらを見る朔矢。忙しいと言いながらも、去年より肌つやが良くなっているように見える。好きなことのエネルギーって、すごい。
私も三日後からの修学旅行の準備の手を止めて、彼の前に座る。
「じゃぁ、無理をしだしたらどうなるの?」
「もっと曜日も時間もお構いなし」
うわぁ。体壊しそう。
「っつうのは、さすがに若い頃だけだぜ。元々うちはあんまり、そんな無茶はしねぇ方だし」
冷めてしまっただろうコーヒーに手を伸ばしながら、彼が目じりにシワを刻む。
「大体、咽喉のために酒もコーヒーも飲まないJINに無茶させられねぇよ。俺たちは楽器壊しても、直るけどな。あいつは生身だから」
それでも、やっちまったモンな。今回は。
ひとつため息を落として、彼は再びペンを握った。その姿に声をかける。
「朔矢も。私が留守の間、無理したらダメよ」
「りょうかーい」
おどけた声で、返事が返ってきた。
季節が過ぎ、年が明ける。今年も、朔矢の実家でお正月を祝う。
朔矢の実家に向かう電車の中で、朔矢が思いもよらぬことを言った。
「結婚式、しねぇ?」
と。
「今更?」
「今更っつうか、今だから?」
隣同士に座った私の左手。今日もつけているブレスレットを玩ぶようにいじりながら、朔矢が顔をのぞくようにしてくる。
「JINがさ、俺たちが式をしてねぇのを、妙に気にしやがってよ」
「RYOのせいじゃないのに」
「気になるモンは、なるんじゃねぇ? あいつ、優しいから。でな、RYOが『会費制で食事会みたいなの、やったら?』って言い出して」
「会費制ね」
何かで聞いたことが有る気がする。
「蔵塚市との境目あたりに、日本庭園があるの知ってるか? あれがさ、楠姫城市の持ち物らしいのな」
「東のターミナルのもう二つほど東?」
「そう、それ。あそこのレストランが、市の職員なら安くで借りられるって。お前、市の職員だし、教員が対象外なら、YUKIのところが借りれるからって」
「なんだか、話、進んでない?」
「RYOが噛んでいるから、進む進む。あいつ、こういうこと好きだからよ。昔っから、織音籠の企画部長」
「じゃぁ、朔矢は? 何部長?」
「俺は、宴会部長」
「それ、仕事じゃないと思う」
そう、返事をすると髪をかきあげながら、声を立てて笑う。この一年、朔矢の髪がレトリバー色になることは無かった。そろそろ、戻る日が来るのだろうか。
「まあまあ。それは置いておいて。”嫁さん連中、ご苦労様”の会でもあるわけよ。どことも、苦労かけてるからよ」
「ふぅん?」
「『苦労かけたな、食事でもいかねぇ?』では、なかなか『うん』って言ってもらえねぇから、俺たちがダシ」
確かに。それは、ひとつの大義名分ね。
「それなら、朔矢のご両親とか、お姉さんも呼ぼうね」
「お前のお兄さんもな」
「来れるかな? 忙しいと思うけど」
「来れる日を合わそうぜ。そのために本格的に忙しくなる前に……な」
「まだ、もっと忙しくなりそう?」
「春、あたり? メディアに露出が始まるから」
「いよいよね」
「見てろよ。動くぜ」
彼はそう言って、左のこぶしを握り締め、小さなガッツポーズをして見せた。




