結婚
十二月。私は今年も相変わらず通知表の作成に追われたが、朔矢のほうが今年はコンサートが出来ない事もあり、クリスマス当日の土曜日に会うことが出来た。
この日はただのデートではなく、二人で市役所に来た。婚姻届を提出に。
用紙を見て、改めて結婚は『両性の合意のみに基づいて成り立つ』なのだと思った。親が記入しないといけない部分なんて存在しない。唯一、本人以外が記入する”証人”は朔矢のお父さんと、YUKIにお願いした。
朔矢が事務所で会ったときに頼んだそうで、
「RYOも居たけどな。”大人の字”のYUKIに書いてもらった」
とか、ひどいことを言っていたけれど。確かに、RYOが書いたら小学生に書かせたみたいになりそう。
午前中に届けを済ませ、私は”原口 知美”になった。
結納も結婚式もせずに、二人で指輪の交換だけの結婚。ウェディングドレスに憧れがないわけではないけれど。そのうち落ち着いたら写真だけでも撮ろうねって。
「去年のクリスマスに言ったこと、覚えてるか?」
昼食のあと、駅へ向かおうと公園を通り抜けているときに朔矢が言い出した。
去年のクリスマス。遠い昔のことに思える。確か……ピアスを貰って、初めてキスをした。
「献血を止められました」
「そう。それから?」
「ピアスで傷をふさぐ?」
「それも言ったけどよ。もうちょい先」
もうちょっと先?
考えるために立ち止まってしまうと、後ろから覆いかぶさるように抱きつかれた。耳元で声がする。
「指輪と一緒に、もっと大きな『生きている実感』を、おまえにやるよ」
ああ。言われた。それまでの繋ぎのピアスだった。
「思い出したか?」
「はい」
「夕飯、俺の部屋で食って、そのまま泊まっていけるか?」
そうか。夫婦だ。今日から。
顔が赤くなるのを感じながら、私はうなずいた。
一度、自分の部屋に戻って泊まりの用意をして、彼の待つ学園町へ。駅で待ち合わせて二人でスーパーへ行った。
「鍋、食いたいな」
「土鍋、ありますか?」
「無ぇな。カセットコンロもか。引越し前に荷物増やすのも、アレだな」
「ですよねぇ」
「じゃぁ、クリスマスメニューか」
「一日遅れですね」
「今日がクリスマスなんだから、構わないだろうが」
肉、肉、鶏肉、とか歌う彼と、夕食の買い物をして。ショートケーキも買って。
彼の部屋へと向かった。
三時のおやつ。の前に、彼の部屋で指輪を交換した。
ベースを弾く邪魔にならないようにと、朔矢の指輪はいつも右手。だから結婚指輪は普段の彼の指輪とは違う、細身のプラチナリング。
「シェークスピアのおっさんが要らんこと言ったせいで、こればっかりは月にはできなかったな」
「大丈夫ですよ。私の月はこれからずっと一緒に居るのですから」
そんな私の言葉に、にっこり笑った彼は
「富める時も貧しい時も、ずっとお前と共に」
と言って、額にキスをした。
「目には見えなくっても存在する、朔の月に誓って」
午後は、これからのことを詰める。
十二月の間に朔矢が集めてくれていた不動産の情報を元に、明日から部屋探しを始めて、できるだけ早く引越し。いつ、織音籠の活動が再開するかわからないから、動けるときに動かないと。
私の職場には事務的な報告だけをして、年度内は旧姓で。新年度から『原口先生』で働く。
年賀状はまだ書いていないから、結婚の報告を文面だけで入れて。とりあえず住所は互いに今のままで。
夏から半年、足踏みをしていた状況が、この日一度に動き始めた。
夕食は、二人でああだこうだと言いながら、料理をした。二十年近く一人暮らししている朔矢は、自炊もきちんとしてきたらしい。
「食い物は命の基本、って、JINがマメでよ。いつの間にか影響されてな」
「JINが?」
「そう。あいつ、結構細やかだぜ。ああ見えて」
「そういえば、YUKIが『カウンセラー担当』って言っていました」
「いつ、YUKIとそんな話した?」
「先月? いや、先々月になりますね。悩んでいた時期に道でお会いして、背中を押してもらいました」
「あいつ、なんて?」
鶏のモモ肉に塩コショウをしながら、尋ねられた。
「二人で悩んで、腹くくるしかない、と」
「JINは関係ねぇだろ? どんな話の流れ方をしたんだ?」
「今回はカウンセラーが悩んでるから、たまには朔矢に恩返し、だそうです」
私はキャベツを刻みながら答えた。包丁を置いてザルに手を伸ばす。
「恩がえし、ねぇ。つうか、知美。その包丁の置き方やめろ」
「はい?」
「まな板の向こう側に置きな。柄に手が当たったら落ちるだろ?」
切っている状態からそのまま手を離したように置いた包丁を九十度まわして、調理台のふちと平行に置きなおされた。
「ああ、なるほど」
なるほど、は学習の基本。もうこれで間違わない。コンロに置かれた片手鍋。取っ手が調理台と平行。
「お鍋も同じなんですね」
「ひっろーい台所だったら、良いけどよ。狭いとぶつかるし、そのうち子供でも」
彼は、そこで言葉を切った。
沈黙が落ちる。視線が絡む。
ほのかに赤い顔で彼が、目をそらす。
「そうですね。子供が居たら、もっと危険」
「だろ?」
危なくない習慣をつけるに越したことはねぇし。
そう言いながら、手を洗った彼は片手鍋にパックのコーンスープを空けた。
初めての、互いの手料理をどこか緊張をはらんだ和やかさで食べて。二人で後片付けをして。
「風呂、先どうぞ」
彼のその一言で、一気に緊張が高まる。
「私は後でも……」
「客が先」
「客、ですか?」
ちょっと、すねてみる。”妻”ですよ、と。
「言うようになったねぇ。成長、成長」
いたずらを思いついたような顔をされた。これは、危険。
「じゃぁ、”妻”」
「なんでしょう?」
「そろそろ、敬語やめようぜ」
「は?」
「俺は、夫婦は対等、だと思う。年の差なんて関係ない。もう一歩近づいて来い」
カモーン、と、手招きされた。外国人のように、手のひらをうえ向けて。
私だって、負けない、もの。いつまでも、からかわれてなんていない。
「わかった」
朔矢のように、ニヤって笑って。胸元めがけて、飛び込んでやった。
「ほら、近づいた」
「だから。煽んな。さっさと風呂行け」
額を軽く、指で弾かれた。
冗談で、少し緊張がほぐれた気がして。おとなしく、お風呂に向かった。
私がお風呂から上がると、朔矢はテーブルにノートを広げて、難しい顔をしていた。
「お先に」
「ああ、うん」
「どうしま……どうしたの?」
「なにが?」
「難しい顔」
敬語をやめようと思うと、単語でしゃべってしまう。なんだか、子供みたい。
「お前もな」
ノートを片付けながら、眉間を撫でられた。
「ちょっと、詞を考えていただけ」
「仕事?」
「いいや、趣味」
そういい残して、彼もお風呂へ向かった。
彼の声に呼ばれるまでの時間は、長いようで短いような不思議な時の流れ方をした。
彼の言うように、この日彼に与えられた『生きている実感』は。
強烈な存在感で、私に刻印された。
愛おしさと、熱と、痛みを伴って。
彼の引き締まった胸に抱かれて、『生きている実感』の余韻に浸っていた。彼は、私の腕をフニフニともてあそんでいる。
「見合いのときにさ」
手首を持ち上げられた。
「お茶を飲むお前の手が、ひじの辺りまで振袖から見えて。それが、すっげぇ目に付いてさ。やっぱ、民族衣装っつうのは、女を最高に魅力的に見せるな」
「運動会のあとで日焼けしていたし、プニュプニュなのに?」
「腕の内側が白くって、旨そうだった」
裸のままの二の腕に唇が寄せられる。食べないでください。
「だから、夏服の腕がまぶしくって。余計に内出血が痛々しくって。肌に傷をつけることが許せなかった」
「ピアスも、駄目だった?」
「それはなぁ。俺もやっているから、とやかく言えねぇけど。数が増えたらどうしようか、とは思ったな」
「朔矢に近付きたかっただけだから、追い越しませんよ?」
「ああ、そういう意味だったんだ」
ピアスの横を甘噛みされる。言葉戻ってんぞ、と、囁かれる。
「名前ほど、時間をかけないように頑張る。ね?」
「じゃぁ、年内な」
「あと、一週間しかないの?」
「がんばれー」
クスクス笑いながらベッドから降りた彼は、床に脱ぎ捨てられたパジャマを拾い上げて渡してくれた。
あと二日ほど残っていた出勤日を終わらせて、今年も仕事納め。
今日から、冬休み明けまではずっと朔矢と過ごす。今夜はとりあえず私の部屋で、遅くなった年賀状を書きながら過ごす予定。連名で出す分の印刷は朔矢がPCでしてくれていたので、その宛名書きと、担任している子供たちに出す分の準備と。
二人で黙々とはがきを書いていると、電話が鳴った。立ち上がって電話に手を伸ばしかけ、なぜか躊躇した。
「鳴ってんぞ。取らねぇの?」
朔矢の声が聞こえたかのように、留守電に切り替わる。
〔知美、お母さんです〕
悲鳴を上げかけた口を両手で押さえて、彼の顔を見る。眉間にしわを寄せて、電話を睨む彼。
〔お正月、いつ帰ってくるの? 連絡をちゃんと入れなさい〕
〔それと、こんな時間まで帰っていないなんて。嫁入り前に、みっとも〕
プー。と音がして、録音が切れた。最後の言葉は『みっともない』か。
「私が帰るって、思っているんだ……」
呆然として、つぶやく。
殺したつもりの敵役が甦ったら、こんな気持ちかしら。
手にしたペンに蓋をした彼が、立ち上がった。
「台所、借りるぞ」
「あ、どうぞ」
ヤカンに水を入れる音がして、コンロの火がつく音がする。
「まぁ、座れ」
後ろに立つ彼に、肩を押さえるように座らされる。お茶と急須の場所を尋ねられる。
お湯が沸くのを待つ間、彼は私の向かいにしゃがみこんで両手を握ってくれた。
「一度、テーブルの上片付けて」
ヤカンの音で立ち上がった彼はそう言って、コンロに向かった。
いつも私が飲んでいるのと同じはずのお茶が、いつもとは違う香りで湯飲みに入れられた。テーブルにお茶を運んできた彼は、私の横に胡坐をかいて座ると、テーブルに肘をついてゆるく握った拳を口元に当てた。私の様子を観るときの彼のクセ。
「大丈夫か?」
「不死身のゾンビに出会ってしまった気分です」
お湯飲みを手に取る。湯気が、心に沁みる。彼の温もりのように。
彼は、ひとつ笑いをこぼした。
「だな」
「私は帰る気はないけど。返事しないと、また電話かかるのかなぁ」
「お兄さんには、結婚のこと伝えたのか?」
話題が飛んだ。
「いえ、まだです」
「正月にこっち戻って、いきなりとばっちりが行くと気の毒だな」
「確かにそうですね。私より、上手にやり過ごせるでしょうけれど」
「高校生で、あのご両親の裏をかいた人だからな。お兄さんに、対策を相談してみたらどうだ?」
「メール、してみます」
時刻は午後九時。電話には、非常識だけど。メールなら。
義姉の慶子さんにメールを送る。
程なく、兄から携帯に電話がかかってきた。
〔もしもし〕
〔こんばんは。遅い時間にメールしてごめんなさい〕
〔いや。で、何なの? 話って〕
結婚したこと、親に縁を切られたこと、さっき電話。と事情を話す。
〔原口さんは、今、一緒にいるの?〕
〔はい。かわりましょうか?〕
〔うん。そうしてもらえる?〕
横で、心配げに見ていた彼は話が判っていたように、手を出してきた。節高い彼の手に携帯を置く。ライトグリーンの携帯が命綱に見える。
ええ、とか、そうですね、とか。短い返事では、何を話しているのか判らないけど。
〔では、こちらは、そのように。お兄さんにもご迷惑をおかけしますが〕
そんな彼の言葉に兄がどんな返事を返したのか。朔矢は、目を細めるように笑ってうつむいた。
〔そう言っていただけると……はい。判りました〕
そんな言葉で、彼は通話を終えた。
「明日からは、俺の部屋」
携帯を私の手に戻しながら彼が言ったのはそんな言葉だった。
「せめて冬休み中は、うちに泊まっとけ。お兄さんが言うには、『多分、思い込みの変なスイッチが入ってる』ってさ」
「スイッチ……。あ、今日は仕事納め」
「それがどうした?」
「毎年、仕事納めの日は父が飲んで帰ってくるので遅くなるのですけれど、それを待つ母は、居間で座り込んでじーっと考え事をしているのです。どうやら、一年分の反省? をしているみたいなのですが、下手に顔を合わせると、一年分のお小言がもう一度降ってくる日で」
「一年分?」
「はい。たとえば、お見合いの年には朔矢にお茶を淹れてもらったこととか、足がしびれて立てなかったこととかを、一通り」
「あったな、そんなことも」
思い出して、二人で顔を見合わせて笑う。
朔矢は冷めてしまったお茶を飲みながら、私の顔を覗き込んだ。
「で、お兄さんは『多分、大丈夫とは思うけど、押しかけてくるかも』つってたから、俺のところに避難しとけ。で、元旦は、俺の実家に一緒に行こうぜ」
「ご迷惑では?」
「大丈夫。嫁が正月の挨拶に行くのに何の問題があるよ。あ、姉貴がちょっと強烈だけどよ。丁度いいから顔合わせ、な」
強烈なお姉さんって。
「実家からの電話のショックで、さっきから言葉が戻っているぞ」
あと、三日だぞー、と言って笑いながら、彼は飲み終わったお湯飲みを手に立ち上がった。




