決別
叩かれた、と判ったのは床に倒れてから。肘置きのない椅子に座っていた私は、叩かれた勢いでテレビの前のスペースに転がっていた。
「親に向かって、何様のつもりだ! 子供が言って許される言葉だとでも思っているのか!」
「知美、お父さんに謝りなさい。それから、スカートがめくれ上がってるわ。女の子がなんて格好をしているの、はしたない。直しなさい」
両親の声がした。耳が痛い。音が変。
次の瞬間、お皿同士がぶつかるような音がした。
何事かと、ひじを突くように体を少し起こすと、父がテーブルにしりもちをつくように倒れ、その足を乗り越える朔矢が見えた。
「大丈夫か?」
彼が横にしゃがむのと同時に、乱れたスカートが整えられた。抱き起こされる。やっぱり、音が変。朔矢の声が、こもって聞こえる。
「何をする!」
父のわめく声が聞こえた。しゃがんで私を抱き起こした姿勢のまま、朔矢が父を睨んだ。
「それは、こちらのセリフです」
「なに?」
「あなた、今。知美に何をしました?」
「親が子を叱って何が悪い。他人が口出しするな」
は、と、朔矢が息をついた。
「俺は、四月生まれでこの身長ですから、物心ついたころから両親に口をすっぱくして、しつけられたことがありましてね」
「いきなり、何の事だ」
父が立ち上がりながら言い返す。
「女の子、年下、自分より体の小さい相手には絶対手を上げるな。そんなことをする奴は、男のクズだと。知美は、すべてに当てはまります。そんな相手を殴り飛ばしたあなたは、どうしようもないクズですよ」
「うるさい! 貴様なんか、うちの会社に入る資格はない!」
「ですから、最初から言っているでしょうが。入りません、と」
立てるか、と私に確認した彼が肩を抱くようにして立ち上がらせてくれた。
「お父さん、お母さん。心配してくれているのはわかっているつもりです。でも、彼にとって音楽は天職です。他人が勝手にゆがめてはならないと思います」
あ、自分の声もおかしい。
「わかったようなことを」
「わかってます。少なくとも、彼の音を聴きもしないで言っているお父さんよりは」
父の顔がどす黒くなった。また、叩かれる。
朔矢が、守ってくれるように半歩前に出た。目の前に立ちはだかる彼の身長に気おされたように、父が一歩下がる。下がったところで、虚勢を張るように大声を出した。
「出て行け! お前なんか、お前なんか。もう、親でも子でもない。出て行け!!」
とうとう、言われてしまった。
できの悪い私が、いつか言われるだろうと恐れていたことを。
でも、どこかでそう言われて、ほっとしている自分も居た。
「わかりました。今まで、お世話になりました。では、部屋に残っている荷物を持って行きます」
「私の稼ぎで買った物を、自分のものみたいな顔で言うな」
この一年間、無くっても生活に困らなかった物ばっかりだから、まあいい。どうにでも処分してもらおう。
朔矢が支えてくれている手をはずして、倒れたときに椅子から落ちたかばんに手を伸ばす。ポケットから、キーホルダーを取り出した。
震える手を励ましながら、実家の鍵をはずしてテーブルに置いた。テーブルの上は紅茶がこぼれ、ひどい有様だったけれど。これを片付けるのは、私じゃない。母の仕事だろう。
「ここの鍵は、お返しします。私のマンションの鍵を返してください」
両親が、顔を見合わせる。
「親でも子でもない他人なら、鍵を持っているのは”常識として”おかしいでしょう? 貸主との契約にも違反しますので。返していただけますよね?」
「知美、それは……」
母が、何かを言いたそうに私の顔と父の顔を見比べる。
「返してください」
「もういい。鍵でも何でも持っていけ。その代わり、二度とこの家の敷居はまたぐな」
そういい捨てた父は、音を立ててドアを閉め、居間を出て行った。
残された母が、涙を流しながら本棚の引き出しからとり出した鍵をテーブルに置いた。
母の涙は、いったい何に対する涙なのだろうか。
「これまで、ありがとうございました。お母さんもお父さんもお元気で」
鍵を握り締めて、頭を下げる私の横に並んだ朔矢が同じように頭を下げた。
「お嬢さんを、いただきます」
母が嗚咽をこぼした。改めて、二人で頭を下げてから、部屋を出た。
玄関を出て、ため息が出た。
「知美、近所にコンビニか薬局あるか?」
「はい、バス停の前に薬局がありますが?」
「顔、冷やしたほうがいい」
そう言って、左の頬に触れた朔矢の手がいつもよりひんやりしていて気持ちよかった。
「それよりも、耳鼻科に行かせてください」
この耳はまずい気がする。音が篭るのが治まらない。朔矢の耳でなくって本当によかった。
朔矢が腕時計を確認する。
「昼を過ぎてしまったな。土曜の午後で、あいている病院か……」
「じゃぁ、バス停の二つほど向こうの角にコンビニがあります」
「コンビニ?」
「はい。新聞に、休日診療の病院の一覧がありますから」
目を見開いた朔矢が、なるほど、とつぶやいた。
コンビニへと歩きながら、左側の髪を持ち上げられて耳の周囲を確認された。
「耳、おかしいのか?」
「音がこもった感じです」
耳たぶにそっと、指が触れる。
「悪りぃ。耳の後ろに、ポストが当たったみたいだな」
「傷になってますか?」
「うん、ちょっと血がにじんでる」
「朔矢が謝る事じゃないですよ」
「だけど、”朔矢”のピアスがお前を傷つけた」
お前を守るために、渡したのに。
彼は、そう言って唇を噛んだ。
新聞で調べた病院の耳鼻科で診察を受けた。
問診表を記入して、診察を受ける。
傷と、症状を確認した医師から指示を受けた看護師さんに導かれて、オージオメーターの部屋へ連れて行かれた。
「生田さん」
「はい」
「その怪我、殴ったのは待合室の彼?」
「いいえ。彼は守ってくれた人です」
「本当に?」
「はい」
看護師さんは私の顔を見ながら、ポケットから小さなカードを出して私の手に握らせた。
”DV 電話相談”
「もしも助けが必要なら、勇気を持って相談してくださいね。こちらでも診断書など、協力しますから」
そう言って微笑んだ看護師さんにヘッドフォンを渡されて、検査が始まった。
検査の結果、『鼓膜が倒れている』と言われた。ヘッドフォンで妙な音を聞かされただけで、そんなことが判るってとても不思議。
治療は、少々痛かった。鼻と耳に管をつけて、鼻から空気を送り込まれた。耳から通り抜けた空気を逆に流して戻すらしい。
涙がにじんだところで、管が抜かれて、音が戻った。後は、耳の後ろの傷を消毒してもらって治療が終了した。
会計を終わらせて、遅い昼食に向かった。病院からすぐのところで、目に入ったファストフードに入った。
「すみません。両親がいやな思いをさせて」
席についてまず、頭を下げる。
「いや。見合いのときから、ある程度の予想はしてたから。想像を超えてはいたけどな」
コーヒーにミルクを入れながら、朔矢が苦笑する。
「普通、ああいう席で娘とはいえ他人の茶は飲まねぇよ」
「あ」
「だろ?」
恥ずかしい母親だ。なにが”常識”。なにが”女の子らしく”。
「俺のほうこそ、スマンな。もう少し穏やかに距離をとらせてやるつもりだったのが、しくじった」
「いいえ。朔矢から離れないと決めた時に、”両親を殺す”覚悟も決めましたから」
「物騒なこと言うな」
「自分が生きるほうを選んだだけですよ」
それに、と、さっき病院で貰ったカードを見せる。
「十分、犯罪ですよね。娘とはいえ暴力を振るうのは」
「なんだ? これ?」
「看護師さんにいただきました。誤解をされてはいたようですが」
裏、表と眺めながら、朔矢がうーん、と唸って心臓の上を押さえた。
「『生活費を渡さない』。これ、俺のこと言われているみてぇ」
「それは違います! 『渡せるのに渡さない』って意味でしょう? そんな事を言ってたら、失業している夫は全員当てはまるじゃないですか」
カードをテーブルに戻して、ハンバーガーの包みを剥がしながら、朔矢がにやっと笑う。
「うん。そのとおり。判ってきたな。それにちゃんと言えるようになった」
そう言って、手を頭に伸ばされた。
「ちょっと待ってください」
「なに?」
「その手。ソースの付いた手で、髪を撫でないで」
私が身を引くようにして言うと、首をかしげながら左手を確認する彼。
「付いてねぇよ」
「右手だったでしょう? 今伸ばしていたの。どうして、わざわざハンバーガーを持ち替えて見てみるの!」
「よしよし。突込みまで、できるようになってきた」
うれしそうに言いながら、ハンバーガーをかじる姿を見ているとなんだか、強張った身体と心が解れた気がした。
私の口から、抑えきれず笑い声がこぼれた。
両親と決別したその日。
思ったよりも、私の心は傷ついてはいなかった。
翌週、彼の実家を訪ねた。お見合いでお会いしたお母さんと、彼よりも頭ひとつ背の低いお父さん。レトリバーのツキコちゃんとも会った。
「さっちゃん、あちらのご両親はなんて?」
「よせって言ってるだろうがよ。その呼び方は」
ふふん、と彼によく似た顔で笑うお母さん。
「だって、ねぇ。どうせ、芙美子に会ったら、いつものように呼ばれるでしょ?」
「姉貴は言ってもしょうがねぇし」
ガブリと、お茶を飲む彼にちょっと驚く。
「で、なんて言われたの? あんたの仕事の事」
「やめねぇっつっても、暖簾に腕押し。最後はこいつ殴って、勘当言い渡しやがった」
あら、まぁ。と、頬に手を当ててお母さんが私を見た。
「すみません。お恥ずかしい両親で」
「大変だったわね。知美さん。よくがんばったわ」
その言葉に、涙がにじみそうになる。
『がんばったわね』
そんな言葉をかけてもらう事が、こんなにうれしいなんて。
「ありがとうございます」
「困った事があったらいつでも頼ってね」
「はい」
「朔矢とケンカになったら、オレたちは知美さんの味方だから」
お父さんまでそんな事を言ってくれる。
「ケンカしないように努力します」
「そんな努力、すんな」
口を尖らせた朔矢に、頭を小突かれた。
「朔矢? お前、今何をした?」
「はい。ごめんなさい」
「ご両親に縁を切られたってことは、家族はあんたと、いずれ生まれてくるだろう子供だけなんだからね、知美さんにとっては。ちゃんと肝に銘じておきなさい」
「はい」
ご両親の言葉に彼が素直にうなずいた。
「知美さん」
「はい」
「不安定な仕事で、これから迷惑も心配もかけることと思います。よろしくお願いします」
「こちらこそ。不束者ですが」
「いいえ。大丈夫。知美さんなら大丈夫」
そう断言したお母さんが、私を見守るときの朔矢と同じ顔で笑った。




