決断
朔矢との約束の日まで、決心が鈍らないように何度も繰り返して最後のCDを聴いた。CMで聴いた時に感じたとおり、日本語の詞は”作詞 SAKU”だった。
CMの映像のせいか結婚をイメージさせる歌詞を聴きながら、テーブルにぺたんと頬をつける。
頭の中で、ずっと考えてきたことをトレースする。
私の給料で何とか、二人で生活できそう。子供は……一人、育てられるかな。贅沢はさせてあげられないけれど。
あとの、ネックは両親。新聞広告に活動休止が出たのだから、気づいているよね。連絡してこないだけで。朔矢の就職をごり押ししてきたら……戦わなきゃ。お正月、兄さんが別れ際に朔矢に言っていた。『僕は、両親から家族を守るので手一杯です。原口さんが知美を守ってやってください』って。でも、もう何もできないダメな子じゃない。大丈夫。朔矢との未来をどうしたいか、決められたのだから。私も朔矢を守る。
姿勢を変えようと頭を動かすと、ピアスとテーブルがぶつかって硬い音がする。朔矢の声が甦る。
『好きか、嫌いか。それをはっきり自覚して主張する練習に、変わったところで食事をさせてたんだよ。命に繋がっている食い物は、どんな動物でも一番妥協しない部分だからな。コアラは肉、食わねぇだろ?』
『嫌なものは嫌って、言っていいんだぜ。そこから始まるモンだってあるだろうが』
『知美の言うそれは、誰の価値観だ?』
好きか、嫌いか。
朔矢が好き。目じりにシワを寄せた笑い顔も、楽しそうに楽器を弾いている姿も。時々、答えに困るようなことを言うところも。朔矢の全部が好き。コアラがユーカリが無いと生きていけないのと同じ。
嫌なものは嫌。
朔矢の手を離すのは嫌。だから、行動を始めなきゃ。
誰の価値観?
給料をつぎ込んで二人の生活を維持することに、意味があると思うのは私の価値観。親の常識なんて、知らない。
思考にはまり込んで、ふと妙な言葉を思い出してしまった。
”親離れは、親殺し
親の価値観を壊して、新たな価値観を作り上げる。精神的な親殺し
それがヒトの親離れ”
『おっそい、反抗期だな。水疱瘡と同じで、大人は重症化するな』
親を恐れて、三十歳を過ぎるまで反抗期を先延ばしにしたのだから。仕方ない。
朔矢を手に入れるなら。
親の価値観を
こ わ し て み せ る
約束の土曜日。少し早めにつく電車で、朔矢の住む町へ。
改札の前に、彼はすでに待っていた。
「おはようございます」
「おはよう。知美」
初めて会った時と変わらない声が私の名前を呼ぶ。『”これ”が私の名前だ』と心が喜ぶのがわかった。
「どうする? 部屋に来るか?」
「いいのですか?」
黙って、うなずく彼の横に並ぶ。手をつなぐことなく、彼に従って歩き始めた。
すいすいと路地を抜けるように歩く彼。大学と学生向けマンションの学園町にも、下町っぽいこんな空間があったのか。氏神様があるのも納得できる。
どこか今働いている学校の周りと似た町並みに、吐息が漏れる。
「珍しいか?」
「いえ。勤め先と空気が似ている気がします」
「そうか」
当たり障りの無い話をしながら、角を曲がり、年季の入っていそうなマンションにたどり着いた。
「ここな」
「お邪魔します」
本と、楽譜らしい紙の束とCD。そして、壁際にベースが立てかけてある2Kの部屋。
初めて入った朔矢の部屋は、とても彼らしかった。
「古くってビビッたか?」
笑いジワを刻みながら、ヤカンのお湯が沸くのを待つ、彼の笑顔にほっとする。久しぶりに”彼自身”に会えた。
「防音、大丈夫なんですか?」
「かろうじて? 音を出さない工夫はしているし、マナーも守ってるからな」
棚から、湯のみを出しながら答えが返ってくる。
ガスコンロを止める音がした。
ちゃぶ台という言葉の似合いそうなローテーブルに置かれた湯飲みからは、日本茶のいい香りがした。
お見合いの席で淹れてもらったお茶を思い出す。あの時は、結局飲めなかったように思う。
「いただきます」
「どうぞ」
朔矢が淹れてくれたお茶だから?
やさしい、甘みを感じた。
朔矢は自分の淹れたお茶に手をつけずに、私の顔を見つめている。私の左隣に少し間を空けて座り、組んだ手のうえにあごを乗せて。
湯飲みを置いて、彼の顔を見返す。
彼の瞳が揺れる。
「答え、をもって来ました」
目がそらされた。注射を待つ子供のように、ぎゅっと力を入れてまぶたが閉じられる。
「朔矢、私と結婚してください」
目を見開いて、でも、そのままこちらを見ない彼。左手を伸ばして、彼の右腕に触れる。組んだ手が解かれ、そろっと彼の左手が私の左手に重なる。身じろぎした弾みで、ブレスレットの三日月が彼の指に当たった。
目が合う。
「いいのか? そこまで飛躍して」
「わたしの”決断”は、これです」
「本気で?」
「はい。朔矢のそばに、います。これからもずっと」
ひざを立てて、こちらを向いた彼に私も向き直る。
右の目から一粒、一拍遅れて左の目からも。大粒の涙をこぼしながら、朔矢の目じりにシワがよる。
膝で立った彼の腕が背中に回る。痛いくらいに抱きしめられた。
「待たせてしまって、ごめんなさい」
「いいや。ありがとう。ありがとうな」
彼の鼓動が聞こえる。
それにあわせるように、私の胸も鼓動を打つ。
あるべき場所に、帰ってこれた気がした。
腕ごと抱きしめられた姿勢が苦しくなって、モゾモゾ動いたことで彼の手が緩んだ。
「悪りぃ。かっこ悪いところを見せちまった」
目をこすりながら、照れくさそうに朔矢が笑った。
「いいえ。そんな朔矢を見せてもらえて、うれしいです」
「そう?」
「はい。きっと未熟な私には、見せてもらえなかった姿でしょうから」
肩に置かれたままの左手に、頬を摺り寄せる。あの日以来、半年ぶりに触れる朔矢の指。
「ストップ」
手を引っ込められた。甘えすぎたかも知れない。
自分の行動が恥ずかしくなって、顔が熱い。
「ごめんなさい」
「ああ、怒っているんじゃないからな。勘違いすんなよ」
赤い顔で、額を掻くようにしながら朔矢がそっぽを向く。
「ケジメだけはちゃんとつけたいから。あんまり、煽んな」
顔洗ってくるから、飯行こうぜ。
そう言って彼は立ち上がった。
彼を待つ間に、残っていたお茶を飲んだ。冷めてしまっても、おいしいお茶だった。
駅前まで戻って、サンドウィッチショップで昼食にした。こんなお店には、初めて来た。
ファストフードのように注文するだけだと思ったら、パンの種類とか、ドレッシングの種類とか訊かれた。お野菜の量も加減できるらしい。
「ピクルスは多めで、オニオンは抜いてください」
「マスタードは、無しでお願いします」
自分の”好み”で作られるサンドウィッチ。食べるのが、とても楽しみ。
「オニオン、嫌いか?」
「辛いと胸焼けがしますから、無いにこしたことはない、くらいですね。マスタードも」
「じゃぁ、サンドウィッチ食えねぇだろうが」
また、流されたな、と睨まれたけど。
「いいえ。ファストフードは頼めば、マスタード抜いてくれるのですよ」
「そうなのか?」
「はい。小学生の常識らしいです」
五年生にもなると、そんな話を給食中にしてくれる子もいる。いろいろな家庭で教わったらしい常識を披露してくれる子ども達。互いに『それ、おかしい』とか、『あり、あり』『無しだって』と毎日の教室はにぎやかだ。子供の頃、そんな会話を友達としてこなかったな、と思って、眺めている。
朔矢と二人の家庭の”常識”は、どんなふうになるのだろう。
食べながら、ざっくりと互いの経済状況を話し合った。
「ここ半年、俺一人暮らす分にはプラマイゼロくらいの収支かな」
「じゃぁ、私の収入を合わせたら十分ですよ」
「この状況がどのくらい続くかで、この先変わってくるけどよ」
「贅沢をしなかったら、何とかなりますって」
家賃とか光熱費とかは、単純に倍にはならないし。
そう答える私を、朔矢は見たことのないような目で見つめながら
「自分で決めるってことは、強いな」
と、言った。
この半年、私は経験のないほど悩んだ。いかに、自分がふらふらと人に判断を委ねて、流されながら生きてきたかを実感した。
この決断は、悩んだ道筋が拠り所になるから。もう揺れない。
「ご両親に挨拶に行かなきゃな」
半分ほど食べたところで、朔矢が切り出した。
「それは、朔矢のおうちにもでしょう?」
「そう。どうしたモンかな」
マグカップをつかむようにして、コーヒーを飲む朔矢。
「十二月に入ったら、また通知表のシーズンだろ?」
「そうですね。できれば、それまでに済ませますか?」
「予防接種みたいに言うな。って、最近はやってないだろうな?」
そういって彼は注射を打つジェスチャーをした。
「注射は最初からしてません! 人聞きの悪い。献血と注射を一緒にしないでください」
さっき注射をされる子供みたいな顔をしていた人が、『わかった、わかった』とホールドアップしてみせながら笑う。その笑顔に、頬が緩む。
「大丈夫。もう、していませんよ。約束どおりピアスを最後にしました」
血液の温かさを感じなくっても、この半年悩んだ私は生きていました。
視線で、頭をなでられる。
「んじゃ、まず、知美のところに連絡を取って予定をあわせるか」
「はい。とりあえず、食べてしまいますね」
「急がなくって、いいからな」
目でうなずきながら、私はターキーのサンドウィッチに噛り付いた。
結果的には、私の実家に来週の土曜日。朔矢の実家にその翌週の日曜日。そんな予定になった。
緊張して、迎えた土曜日の朝。
両親と朔矢が顔を合わせるところを想像したら、胃がキュウっとなって食欲が出ない。
親とやりあう根性を入れるには食べるのが常識。
でも、私は食べたくない。
なら、食べないでおこう。
チーズと紅茶だけで朝食を済ませて、出かける準備にかかる。化粧をして、服を着替えて。お正月にはつけていかなかった、朔矢のピアスをお守りにつける。取り上げさせたりするものか。
部屋を出る前に、一度鏡を見る。
いつもの私の顔。いつもと違う私の表情。
東のターミナルのホームで待ち合わせ、北向きの路線に乗る。朔矢も緊張しているのか、言葉少なに二人並んで座席に座る。
今日の朔矢は、スーツでアクセサリーなし。髪がダークブラウンに色が変わっていた。
「髪を”朔”にな。満月じゃまずかろ?」
「いいのですか?」
「表に出る仕事はしばらくストップしているからな」
朔矢も、先月会ったYUKIと同じように、織音籠以外のところでサポート的に弾くことで収入を確保しているらしい。JINが戻ったときに腕を落とさないためにも。
「三日月よりも、きっと霊験あらたかですよ」
そんな私の言葉に、彼の硬い指先がピアスをつついた。
最寄り駅から、さらにバスに乗って。実家に着いた。深呼吸をして、玄関を開ける。
「ただいま」
「いきなり玄関を開けるなんて。チャイムくらい鳴らしなさい」
母と顔を合わせるなり、お小言が降ってきた。そして、ワントーン、声が高くなった。
「まぁ、原口さん。遠いところまで。さ、どうぞ上がってください」
彼の目がヤレヤレと言ったのがわかった。
父は、居間で待っていた。
「はじめまして。知美さんとお付き合いをさせていただいている、原口 朔矢と申します」
「どうも。知美の父親です」
父は見ていたテレビを消すと、立ち上がりもせずに私達に座るように促した。母が、紅茶を入れて持ってきた。
「今日は、結婚のお許しをいただきに参りました」
父の座るソファーの横に母が座るのを待って、彼が口を切った。
「それは、うちの会社に入るという意味で良いのか?」
「いいえ。俺は、このまま音楽を続けます」
ふん、と鼻で笑って、父が紅茶に口をつける。
「公務員の知美に、たかって暮らすつもりか。こいつの給料なんか高がしれているものを」
「俺自身今までの貯えもありますし、それなりの収入は得てます」
「だが、オリオン、だったか? 聞いたこともない名だ。そんなに売れているとは思えんな」
活動休止に触れないって事は、両親は知らない。気にもしていない。
そもそも、名前が間違っている。
「お父さん、さっきテレビ消したときに流れていたCMの曲がそうです」
夏から流れている結婚式の映像を使ったCMは、今でもバージョンを変えながら流れ続けている。そもそも先方のブライダル産業からの依頼で、CMなどに使うために曲が作られたらしい。
けれど、私の言葉はあっさりと打ち落とされた。
「知るか、そんなこと」
の一言で。
「今年も去年も、お父さんがお正月に見ていたテレビでCMが流れていました。気にせずに見ているから知らないだけでしょう?」
「うるさい。大人の話に口を挟むな」
隣に座る私に、朔矢がちらりと視線をよこした。ここでも、ヤレヤレ。
おとなしく口をつぐんで、紅茶を飲んだ。母の淹れる紅茶ってこんなに不味かったかしら。
「四十歳近くで会社勤めの経験のない俺が、縁故で就職してもこの景気では真っ先にリストラ対象になると思いますが?」
「そんなものは、ただの努力不足だ。クビになりたくなければ、努力すればいいだけだ」
父の考え方に、悪寒がする。リストラとか、肩たたきとか。雇用関係の記事は日々新聞をにぎわしているのに。こんな人事部長、嫌だ。
朔矢がああ言えば、父がこう言う。そのやり取りを聞きながら、両親の顔を見た。二人の表情が職員室で見かけるものと重なる。
父は、お小言をやり過ごす高学年の子の顔。
母は、部外者と思っている子の顔。
どちらも話を聞く気のない子の顔。
娘の結婚相手に対する態度なのか、これが。朔矢が根負けするのを待って、自分たちの思うようにしようとでもいうのか。
両親が腹立たしい。いや、腹立たしいを通り越して、疎ましい。
私は、無意識に右手でピアスに触れていた。耳のところの髪をいつの間にか耳にかけて。
こんな両親相手に態度を崩さない朔矢に、パワーを送るように目を閉じる。
「知美?」
母の声に目を開き、視線を向ける。
「あなた、それ。ピアスね。何を考えているの。親から貰った体に傷をつけるなんて」
「それが、何か?」
献血がリストカットの代用だって、気づかなかったじゃない。朔矢は気づいたのに。止めてくれたのに。
「原口さんのせいね。どういうつもりですか。嫁入り前の娘を傷物にしただけでなく、体に傷まで残して」
「どうして、そんな発想になるのです?」
『キレイな身体のまま、親御さんに返せる』
六月のあの日、泣き笑いの顔で朔矢はそう言ったのに。
「私は傷物になんてなっていません。勝手に決めないでください」
「口ではどうとでもいえるわ」
「なら、病院で診断書でも貰いましょうか?」
「嫁入り前に、なんてことを言うの。みっともないでしょう」
「親に口答えをするな。お母さんが心配しているのも判らんのか。歳だけはとっても、所詮、お前はその程度だな」
父の目が、私を蔑んでいる。そのままの目で、朔矢を指差しながら言い放った。
「で、お前は、人の娘をもてあそんどいて、最後はヒモか。知美に似合いのしょうもない男だ」
心のどこかで、何かが切れる音がした。
「朔矢に謝ってください。私を馬鹿にしても、朔矢を馬鹿にするのは許せない。謝ってください」
私が叫んでいる途中に父が立ち上がった。
「親に向かって、『謝れ』だと?」
私を睨みつけながら、朔矢の前を横切る形でテーブルを回り込んできた。私の左横に座る朔矢とテーブルの間に立ちはだかる。座る朔矢を押しのけるかのように無理やり。
怒られる。
身がすくむ。
でも、負けるものか。
父を睨み返した私が感じたのは、衝撃だった。




