迷い
目の前で両手を床につけて、頭を下げる人を見る。
朔矢を見下ろす日が来るなんて。
「それは別れよう、ってことですか?」
声がかすれて、自分の声じゃないみたい。
朔矢は顔を上げないまま、首を振った。
「ごめん。それすら今の俺には決められない」
テーブルに肘をついて、組んだ両手に額をつける。ぼやけた視界に、ブレスレットが揺れる。
「どう、して?」
「お前の手を離さなきゃ、苦労をかけてしまうって解ってるのに。お前を離してやることもできない」
目の隅で、彼が体を起こしたのがわかった。私も顔をあげる。
真っ赤な目をした朔矢は
「だから、別れるのかどうするのか、知美に決めて欲しい。酷なことを言っているのは、十分判っている。どれだけ時間がかかってもいい。どんな答えでも、俺はお前の決断に従うから」
そう言って、無理に笑顔を作った。
笑いジワの見えない、痛々しい笑顔だった。
「この一年半、お前が変わっていく姿を見れたのが幸せだった。たとえ別れることになっても、お前との時間は俺の宝物になるから」
手の届く距離まで近づいた朔矢はそう言って、いつの間にか流れていた私の涙を、掌の全体を使うようにしてぬぐった。そして、私の目を覗き込んで
「キレイな身体のまま親御さんに返せることだけが、俺にできる誠意なのが申し訳ないけど」
と、言うと、そのまま頬を両手で包み、
「最後にこれだけ、想い出にくれ。な?」
羽が触れるようなキスをした。
もう一度、親指で私の目元を撫でて、彼は立ち去った。
あっという間に、朔矢が私の部屋に来た日から、一ヶ月近くが過ぎようとしていた。
変わらず授業をして、それに伴う作業をこなし、担当する校務を行う。
百字帳のチェックとか、テストの採点とか。一人で作業をしていると、あの日の朔矢の泣いたような表情が浮かんで、仕事の手が止まりそうになる。
それでも
「先生」
「生田先生」
子供たちの呼び声が目覚まし時計のアラームのように、私の中の”生田先生”を起こす。先生の顔になって、授業をする。子供たちと話をする。そして、それと入れ替わるように、朔矢のことを想う”知美”が眠りにつく。
帰宅して独りになると、誰も”知美”を眠らせないから。
際限なくあの日の朔矢が浮かんでくる。
玄関ドアをくぐるように入ってきた、キリンのような姿。
ローテーブルの向こうで、カップを手に逡巡していた顔。
床に手を突いて、頭を下げたレトリバーのような色の髪。
『ごめん。俺には決められない。どうするのか知美に決めて欲しい』
無理です。朔矢。私には、もっと決められない。
この日の私は、すがるものを求めて部屋を見渡した。テレビの上のカレンダーが目に入る。
そろそろ一学期の通知表に取り掛からないといけない。
これから一ヶ月の最優先順位は、仕事。
そのために、今日はまず、ご飯。
それは”逃げ”だったかもしれない。
繰り返す記憶から目を逸らすように、テレビをつける。冷蔵庫のドアを開けたところで、声に意識を捕まえられた。
織音籠だ。
冷蔵庫のドアを閉めて、テレビに向き直る。
チャペルから出てくる花嫁。ライスシャワーの中を花婿と腕を組んで歩く。かぶさるJINの声。
英語の歌詞なので、意味はもう一つわからないけど。今までに何度も聞いたCDと同じ声。
朔矢を音楽の道に引きずり込んで、今は苦しめている。失われた魔性の声。
『あいつ歌うって。俺、音楽やめられねぇ』
『この先、どうなるかわかんねぇけど。心中覚悟でつきあう』
記憶から逃げることも許されないの?
私はテレビのスイッチを切った。
がむしゃらに学期末の仕事を片付け、夏休みが来てしまった。
心の中で、問答を続ける。
『知美は、どうしたい?』
一緒にいたい。朔矢と離れたくない
『知美と音楽を天秤にかけたら、俺は音楽をとっちまう』
朔矢が音楽をするためには、私は邪魔?
考えても考えても、堂々巡りで答えが出ない。
仕事中も、アラームになる子供たちがいないから、『生田先生』の時間が短くなって、物思いにはまり込んでしまいそうになる。
一人暮らしの部屋はさらに変化がなくって、何度も何度も同じところをめぐってしまう。
朔矢が心置きなく音楽を続けるためには、私が手を離さないと。それは解っている。
けれども心が、離れることを拒み続けている。
考えることに疲れたその日。
何かのきっかけを求めるようにつけたテレビで、また、織音籠のCM。チャペルを歩く花嫁の姿に、この前とはメロディーも違う、日本語の歌詞。
ああ、きっとこれは。朔矢の詞だ。
何を根拠にしたのか自分でも判らないけど、勝手に確信する。
包み込むような歌詞に、朔矢の体温を思い出す。
クリスマスの抱擁。
つないだ手の温もり。
ピアスに触れる硬い指先。
最後のキス。
『これだけ、想い出に。この一年半は、俺の宝物になるから』
私にとっても、あなたと過ごした時間は宝物です。
二学期が始まって半月ほどたった日曜日。
部屋で翌週の授業の準備をしていた私は、BGMにつけていたテレビの音に顔を上げた。
あの、包み込むような朔矢の詞。なのに、どこか儚げなハスキーボイスの歌声。
これがJINの声?
初めて聴いたライブでのあの力強さがウソのようなその声に、ショックを受けた。
あの声にほれ込んでいた、朔矢は大丈夫? 壊れていない?
答えはまだ、出ていないのに。
無性に朔矢の笑顔が見たかった。
それから、しばらくして。織音籠の活動休止を伝える広告が新聞に出た。
三十二歳の誕生日を目前にして、私はCDショップに向かった。織音籠最後のCDを買うために。
あのCMに使われた曲だけを収めたミニアルバムが、活動休止とほぼ同時に発売された。最寄の店では売切れていたので、取り寄せてもらった。その一枚を受け取りに。
買い物を済ませて、まっすぐ帰るか、久しぶりにぐるっとお店を見るか、ちょっと迷いながら信号を待つ私の横に、大きな人が立った。
朔矢くらい身長がありそう。
手の甲の位置から、かつて横にいた人を思い出しなんとなく顔を見上げた。
「やっぱり、知美さんやった」
にっと笑った人は、YUKIだった。
「買い物?」
「ええ、まあ」
「時間、大丈夫やったら、お茶でもどない?」
あ、SAKUに怒られるかな? とか言いながら、とっとと道を渡ってコーヒーショップに入っていこうとするYUKIを追いかける。
「YUKIは、今日は?」
カウンターでカフェオレを受け取って、隅のテーブルに座る。織音籠が休止になってメンバーはいったいどうしているのだろう。
「俺は、お仕事。娘のおむつ代、稼がなあかんし」
そう言って、YUKIはリズムをつけてテーブルを叩いた。バチの代わりに両手の人差し指を立てて。
「あ、そうですね。家族を養わないと」
「ありがたいことに、チョコチョコ叩く場所貰えとうから、どうにかなりそうやけどね。で、話変わるけど。SAKUと、もめとん?」
直球で質問されて、ついポロリと事情を話してしまった。
「なんかアイツ凹んどんな、思ったら。まぁ、それは二人で悩まんと仕方ないし」
「YUKIの奥さんは、何か言ってました? 今回のこと」
子供がいたら、家計とか心配は尽きないだろう。別れましょうで済むほど話は簡単ではない。
「MASAの所もやけど、ウチのんはデビュー前から付き合っとったから。まず、デビューの時で悩んだやろ? で、結婚でも悩んで。それで今回、『とうとう、来てしもたな』って。腹据わっとうし」
「そうなんですね」
「俺が言うことやないけど、こんな稼業の男に惚れてもたら、諦めて腹くくるしかないんちゃう? うちのメンバー、どこの嫁さんも仕事続けとうやろ? いざ、いう時に家庭支える覚悟して結婚してるわけやん?」
MASAの所はナース、RYOの所は楽器店の技術者、ウチは市役所。と、指を立てて数え上げるYUKI。
ああ、そうか。男性が家庭を支えるのは”常識”じゃないのかもしれない。
「ありがとうございます。悩むにしても、道筋ができた気がします」
YUKIに頭を下げると、
「SAKUにはちょっと世話になったから、たまには恩返しをしとかんと。今回は織音籠のカウンセラー担当自身が、悩んではるから」
「朔矢が、カウンセラーですか?」
「いや、JINな。やっぱ商売道具がらみやし、すんなりとは行かんわな。やけど、手ごたえを俺たちは感じとうから」
しばらくは、嫁さんらに苦労させるけど。って、浪速節やな。
そう言って、YUKIは苦笑した。
YUKIに会って、考える方向性が見えた。
私の給料で二人の生活がまかなえるのか、それを考えないと。
帰宅してまず、一人暮らしを始めてからの家計簿を調べる。母がつけていたから、”そういうもの”と思って記録をしていたのが役に立ちそう。
家賃、光熱費、食費、通信費……。
とりあえず書き出したところで、手を止める。
明日は、月曜日。今日中に片付ける家事が優先。考えるのはそれから。
一週間分の作り置きのおかずを作りながら、頭の中でさっきの家計簿の数字を、ひねくり回す。
家賃は当然変わってくる。どのくらいの相場なのか調べる必要がありそう。
私は給食がある分、食費が少なめで過ごしているから。二人分でだったら……二倍半?
思いついたことを新しくメモに取りながら、日曜の夜を過ごした。
YUKIと話してから、半月あまりが経った十一月。
決心をつけて、メールの送信ボタンを押した。
着信が鳴る。半年ぶりに聞く朔矢の番号に設定してあるメロディー。
〔もしもし?〕
〔朔矢、です〕
変わらぬ彼の声に、涙が出そうになる。よかった、声は元気そう。
〔お久しぶりです〕
〔うん。久しぶりだね。元気にしていた?〕
〔はい〕
ひとつ息を吸って、
〔心が決まりました。近いうちに会えませんか?〕
一気に言う。勇気が逃げないように。
〔わかった。じゃぁ、今週の土曜日十時。学園町の駅で〕
〔はい〕
〔じゃぁ、そのときに〕
初めて『お休み』の言葉が無いまま、電話が切れた。




