表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誓いの月  作者: 園田 樹乃


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/17

迷い

 目の前で両手を床につけて、頭を下げる人を見る。

 朔矢を見下ろす日が来るなんて。

「それは別れよう、ってことですか?」

 声がかすれて、自分の声じゃないみたい。

 朔矢は顔を上げないまま、首を振った。

「ごめん。それすら今の俺には決められない」

 テーブルに肘をついて、組んだ両手に額をつける。ぼやけた視界に、ブレスレットが揺れる。

「どう、して?」

「お前の手を離さなきゃ、苦労をかけてしまうって解ってるのに。お前を離してやることもできない」

 目の隅で、彼が体を起こしたのがわかった。私も顔をあげる。

 真っ赤な目をした朔矢は

「だから、別れるのかどうするのか、知美に決めて欲しい。酷なことを言っているのは、十分判っている。どれだけ時間がかかってもいい。どんな答えでも、俺はお前の決断に従うから」

 そう言って、無理に笑顔を作った。

 笑いジワの見えない、痛々しい笑顔だった。


「この一年半、お前が変わっていく姿を見れたのが幸せだった。たとえ別れることになっても、お前との時間は俺の宝物になるから」

 手の届く距離まで近づいた朔矢はそう言って、いつの間にか流れていた私の涙を、掌の全体を使うようにしてぬぐった。そして、私の目を覗き込んで

「キレイな身体のまま親御さんに返せることだけが、俺にできる誠意なのが申し訳ないけど」

 と、言うと、そのまま頬を両手で包み、

「最後にこれだけ、想い出にくれ。な?」

 羽が触れるようなキスをした。


 もう一度、親指で私の目元を撫でて、彼は立ち去った。




 あっという間に、朔矢が私の部屋に来た日から、一ヶ月近くが過ぎようとしていた。

 変わらず授業をして、それに伴う作業をこなし、担当する校務を行う。

 百字帳のチェックとか、テストの採点とか。一人で作業をしていると、あの日の朔矢の泣いたような表情が浮かんで、仕事の手が止まりそうになる。


 それでも

「先生」

「生田先生」

 子供たちの呼び声が目覚まし時計のアラームのように、私の中の”生田先生”を起こす。先生の顔になって、授業をする。子供たちと話をする。そして、それと入れ替わるように、朔矢のことを想う”知美”が眠りにつく。


 帰宅して独りになると、誰も”知美”を眠らせないから。

 際限なくあの日の朔矢が浮かんでくる。

 玄関ドアをくぐるように入ってきた、キリンのような姿。

 ローテーブルの向こうで、カップを手に逡巡していた顔。

 床に手を突いて、頭を下げたレトリバーのような色の髪。


『ごめん。俺には決められない。どうするのか知美に決めて欲しい』

 無理です。朔矢。私には、もっと決められない。



 この日の私は、すがるものを求めて部屋を見渡した。テレビの上のカレンダーが目に入る。

 そろそろ一学期の通知表に取り掛からないといけない。


 これから一ヶ月の最優先順位は、仕事。

 そのために、今日はまず、ご飯。


 それは”逃げ”だったかもしれない。

 繰り返す記憶から目を逸らすように、テレビをつける。冷蔵庫のドアを開けたところで、声に意識を捕まえられた。


 織音籠だ。


 冷蔵庫のドアを閉めて、テレビに向き直る。

 チャペルから出てくる花嫁。ライスシャワーの中を花婿と腕を組んで歩く。かぶさるJINの声。

 英語の歌詞なので、意味はもう一つわからないけど。今までに何度も聞いたCDと同じ声。


 朔矢を音楽の道に引きずり込んで、今は苦しめている。失われた魔性の声。


『あいつ歌うって。俺、音楽やめられねぇ』

『この先、どうなるかわかんねぇけど。心中覚悟でつきあう』

 記憶から逃げることも許されないの?

 私はテレビのスイッチを切った。




 がむしゃらに学期末の仕事を片付け、夏休みが来てしまった。

 心の中で、問答を続ける。


『知美は、どうしたい?』

 一緒にいたい。朔矢と離れたくない

『知美と音楽を天秤にかけたら、俺は音楽をとっちまう』

 朔矢が音楽をするためには、私は邪魔?


 考えても考えても、堂々巡りで答えが出ない。

 仕事中も、アラームになる子供たちがいないから、『生田先生』の時間が短くなって、物思いにはまり込んでしまいそうになる。

 一人暮らしの部屋はさらに変化がなくって、何度も何度も同じところをめぐってしまう。


 朔矢が心置きなく音楽を続けるためには、私が手を離さないと。それは解っている。

 けれども心が、離れることを拒み続けている。



 考えることに疲れたその日。

 何かのきっかけを求めるようにつけたテレビで、また、織音籠のCM。チャペルを歩く花嫁の姿に、この前とはメロディーも違う、日本語の歌詞。

 ああ、きっとこれは。朔矢の詞だ。

 何を根拠にしたのか自分でも判らないけど、勝手に確信する。

 包み込むような歌詞に、朔矢の体温を思い出す。


 クリスマスの抱擁。 

 つないだ手の温もり。

 ピアスに触れる硬い指先。

 最後のキス。


『これだけ、想い出に。この一年半は、俺の宝物になるから』 

 私にとっても、あなたと過ごした時間は宝物です。




 二学期が始まって半月ほどたった日曜日。

 部屋で翌週の授業の準備をしていた私は、BGMにつけていたテレビの音に顔を上げた。

 あの、包み込むような朔矢の詞。なのに、どこか儚げなハスキーボイスの歌声。

 これがJINの声?

 初めて聴いたライブでのあの力強さがウソのようなその声に、ショックを受けた。

 あの声にほれ込んでいた、朔矢は大丈夫? 壊れていない?

 答えはまだ、出ていないのに。

 無性に朔矢の笑顔が見たかった。




 それから、しばらくして。織音籠の活動休止を伝える広告が新聞に出た。




 三十二歳の誕生日を目前にして、私はCDショップに向かった。織音籠最後のCDを買うために。

 あのCMに使われた曲だけを収めたミニアルバムが、活動休止とほぼ同時に発売された。最寄の店では売切れていたので、取り寄せてもらった。その一枚を受け取りに。

 買い物を済ませて、まっすぐ帰るか、久しぶりにぐるっとお店を見るか、ちょっと迷いながら信号を待つ私の横に、大きな人が立った。

 朔矢くらい身長がありそう。

 手の甲の位置から、かつて横にいた人を思い出しなんとなく顔を見上げた。


「やっぱり、知美さんやった」

 にっと笑った人は、YUKIだった。

「買い物?」

「ええ、まあ」

「時間、大丈夫やったら、お茶でもどない?」

 あ、SAKUに怒られるかな? とか言いながら、とっとと道を渡ってコーヒーショップに入っていこうとするYUKIを追いかける。


「YUKIは、今日は?」

 カウンターでカフェオレを受け取って、隅のテーブルに座る。織音籠が休止になってメンバーはいったいどうしているのだろう。

「俺は、お仕事。娘のおむつ代、稼がなあかんし」 

 そう言って、YUKIはリズムをつけてテーブルを叩いた。バチの代わりに両手の人差し指を立てて。

「あ、そうですね。家族を養わないと」

「ありがたいことに、チョコチョコ叩く場所貰えとうから、どうにかなりそうやけどね。で、話変わるけど。SAKUと、もめとん?」 

 直球で質問されて、ついポロリと事情を話してしまった。


「なんかアイツ凹んどんな、思ったら。まぁ、それは二人で悩まんと仕方ないし」

「YUKIの奥さんは、何か言ってました? 今回のこと」

 子供がいたら、家計とか心配は尽きないだろう。別れましょうで済むほど話は簡単ではない。

「MASAの所もやけど、ウチのんはデビュー前から付き合っとったから。まず、デビューの時で悩んだやろ? で、結婚でも悩んで。それで今回、『とうとう、来てしもたな』って。腹据わっとうし」

「そうなんですね」

「俺が言うことやないけど、こんな稼業の男に惚れてもたら、諦めて腹くくるしかないんちゃう? うちのメンバー、どこの嫁さんも仕事続けとうやろ? いざ、いう時に家庭支える覚悟して結婚してるわけやん?」

 MASAの所はナース、RYOの所は楽器店の技術者、ウチは市役所。と、指を立てて数え上げるYUKI。


 ああ、そうか。男性が家庭を支えるのは”常識”じゃないのかもしれない。

「ありがとうございます。悩むにしても、道筋ができた気がします」

 YUKIに頭を下げると、

「SAKUにはちょっと世話になったから、たまには恩返しをしとかんと。今回は織音籠(うち)のカウンセラー担当自身が、悩んではるから」 

「朔矢が、カウンセラーですか?」

「いや、JINな。やっぱ商売道具がらみやし、すんなりとは行かんわな。やけど、手ごたえを俺たちは感じとうから」

 しばらくは、嫁さんらに苦労させるけど。って、浪速節やな。

 そう言って、YUKIは苦笑した。



 YUKIに会って、考える方向性が見えた。

 私の給料で二人の生活がまかなえるのか、それを考えないと。

 帰宅してまず、一人暮らしを始めてからの家計簿を調べる。母がつけていたから、”そういうもの”と思って記録をしていたのが役に立ちそう。

 家賃、光熱費、食費、通信費……。

 とりあえず書き出したところで、手を止める。

 明日は、月曜日。今日中に片付ける家事が優先。考えるのはそれから。


 一週間分の作り置きのおかずを作りながら、頭の中でさっきの家計簿の数字を、ひねくり回す。

 家賃は当然変わってくる。どのくらいの相場なのか調べる必要がありそう。

 私は給食がある分、食費が少なめで過ごしているから。二人分でだったら……二倍半?

 思いついたことを新しくメモに取りながら、日曜の夜を過ごした。



 YUKIと話してから、半月あまりが経った十一月。

 決心をつけて、メールの送信ボタンを押した。


 着信が鳴る。半年ぶりに聞く朔矢の番号に設定してあるメロディー。 

〔もしもし?〕

〔朔矢、です〕

 変わらぬ彼の声に、涙が出そうになる。よかった、声は元気そう。

〔お久しぶりです〕

〔うん。久しぶりだね。元気にしていた?〕

〔はい〕

 ひとつ息を吸って、

〔心が決まりました。近いうちに会えませんか?〕

 一気に言う。勇気が逃げないように。 

〔わかった。じゃぁ、今週の土曜日十時。学園町の駅で〕

〔はい〕

〔じゃぁ、そのときに〕

 初めて『お休み』の言葉が無いまま、電話が切れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ