ウサギと焦燥
響 (ひびき)への複雑な感情というものは、私の人生から消え去る事は無いのだろうか。
言葉を尽くしても聞く耳を持たず、不満を称えた眼でこちらを睨み据え、反抗しては風のようにこの手からすり抜けてゆく。
あの奔放な弟が死んで何年経とうが、まるで私を蝕む毒のように、緩慢な空虚感は満たされる事が無い――
長谷川理奈 (はせがわ・りな)が怒りも露わに立ち去ったサロンにて、宇佐木優 (うさき・まさる)は疲れたように溜め息を吐いてどさりとソファーに身を投げ出した。次いで、せっかく纏まりそうな空気に水を差してぶち壊してくれた次男へと、彼は無言のまま視線を投げる。
「なぁに、父さんその顔。
理奈さんが怒って帰っちゃったのは、僕のせいだとでも言いたいの?」
優の二人目の息子、蓮 (れん)は父の眼光に全く堪えず、悪びれる素振りもみせずに首を傾げるのみ。
「違うとでも言うつもりか」
「違うね」
優の進めていた策を、意味の分からぬ願い事とやらでぶち壊しにした張本人でありながら、蓮は即答した。
「僕の早合点は、理奈さんにちゃんと謝ってこなきゃだなぁ……
でもさ、僕はてっきり、父さんと理奈さんの間には、もっと信頼関係っていうの? 親愛感情が芽生えてるんだとずっと思ってたからさ」
「お前は本当に、何を訳の分からない事を言っている」
優にとって理奈は、彼の姪である咲来 (さら)を生んだ女性であり、それ以上でもそれ以下でもない。信頼関係だの、親愛感情だの、夢物語の世界を生きていそうな彼の息子の言いたい事は、今日はいつにも増して難解である。
蓮は苛立たしげにサロンの絨毯をタンタンと踏みつけ、父に向かってビシッと指を突き付けてきた。
「ああもう、僕、今日ほど父さんを頑固親父だと思った事ないよ、このアンドロイド!
僕は理奈さんと咲来ちゃんを見送ってくるからね!」
「それなら、私も……」
「ブブーッ! 父さんには咲来ちゃん接近禁止令が出ています」
法的な権限など持たないくせに、理奈といい蓮といい、またしても優が咲来の側へ近寄る事を拒もうとする。
蓮はサロンの扉、そして廊下へと駆け出し、階段を足早に駆け下りて玄関へ向かって一直線に突き進む。そんな息子の後を、家主でありながらこっそりとつける自分に、優はやや虚しさを感じつつ。
玄関アプローチでは、理奈の乗る自転車の後部に跨がった咲来へ話し掛けている、四番目の息子である翔 (しょう)の姿が。
あの素直すぎるほどに素直な息子を見ていると、優は不思議と胸に過ぎるモヤモヤとした不快感が薄れていく。
「じゃあ、また明日な、咲来」
「ええ、今日はご馳走さま。また明日、学校でね」
「理奈さん、外ももう暗いですし、お気をつけて……やっぱり僕、送っていきましょうか?」
「いえ、私達を送ったりしたら、逆に蓮君の帰り道が心配だわ」
咲来と翔の注意が逸れている隙に、蓮が何事かを理奈の耳に囁きかけ、ぺこりと頭を下げた。それに対して理奈はというと、疲れたような微妙な表情を浮かべて、小さく首を横に振った。と、彼女の視線が玄関ホールに佇んでアプローチの様子を見守っている優へ向けられ……キッ! と、鬼のような形相で一睨みして、猛然と自転車のペダルを漕ぎ始めた。
「やれやれ、だな……」
ふう、と、一進一退だった筈の長期戦相手の態度に、優は溜め息を吐く。
世の中の厄介な女というものは、得てして金で解決するケースばかりであったが……どうもあの理奈という女性は解せない。やるというのに「金など要るか!」と突っぱね、咲来に貧しい暮らしを強要しておきながら、何故ああも強気でいられるのか。
「父さん」
「バイバーイ」と、仲良く並んで手を振り理奈と咲来の親子を見送る、蓮と翔。そんな息子達を見詰める優という構図に、廊下の奥から玄関ホールへと姿を見せた長男の匡 (たすく)が、不思議そうに声を掛けてきた。
「お客様がいらしてたんですか? すみません、ずっと部屋に居たので気がつきませんでした」
「ああ、匡君。いえね、翔君のお友達の咲来さんが来てくれていてね」
敢えてウキウキとした表情と声音で語る優に、匡は「ああ」と頷いた。
「確か以前、どこかで見掛けた事があります。叔父さん似の子ですね」
咲来を宇佐木一族として強引に周知させよう、とは考えていない優は、息子達にも響の娘について一度も話していなかった。
蓮がどこからともなく響の高校時代の卒業アルバムを引っ張り出してくるまで、あの次男が咲来の存在に気がついてるとは思ってもみなかった。優はそれまで気取られるような態度をとった覚えもないのに、『自分と血縁関係があるのでは』と言い出した事にも驚いたが……万事おっとりとしている匡まで、勘付いていたのか。
響は彼らが幼い頃に亡くなっていて、写真さえわざわざ昔のアルバムを引っ張り出してこなければならないほど、彼らには馴染みが薄い叔父である筈なのに。
……例え、匡と蓮の本当の父親が優ではなく、響だったとしても。
「……匡君はそう思って、翔君や咲来さんに、何か話したりしたのかい?」
「いいえ、何も。ただ俺がそんな印象を抱いたというだけですし、わざわざ吹聴して回る意味もありません」
鈍いようでいて、この長男はなかなか面白い考え方をする息子だった。
その彼がどんな気持ちを咲来に見いだしたのか、ふとそんな疑問が過ぎり……優は何故か、胸に一瞬痛みが走った。それは時折、咲来や理奈の事を考えた際に何故か覚える不可解な痛み。
「父さんはどうしてこんなところに居たんです? こんなところに立っているくらいなら、蓮達と一緒に見送れば良いのに」
チラリと、見送りを終えて玄関ホールへの扉を潜ってくる弟達を見やり、匡はふとそんな問いを投げかけてくる。
接近禁止令だそうだよ、と内心で吐き捨てつつ、優は困った表情を浮かべた。
「どうもお父さん、咲来さんのお母さんに失礼をしてしまったみたいで……嫌われてるんだ」
「そうですか。俺は、謝罪はなるべく早い方が良いと思います。
早く仲直りできると良いですね」
本人としては何気ない一言を置き土産に、匡は食堂へ向かって踵を返した。
しかし、言われた方の優としては、意外過ぎる言葉を聞いたとばかりに、玄関ホールで固まったまま、息子の台詞を脳内で反芻する。
(……嫌われているから謝罪する? いや、そもそも『仲直り』?)
やや混乱している優の背を、突然背後に立った蓮がグイグイと押し始めた。バランスを保とうと足を踏み出すと、先ほど下りてきた階段の方へと強引に向かわされる。
「ちょっ、蓮君、そんなに乱暴に押されたらパパ痛いよ」
「問答無用~。僕、怒ってるんだから!
ほら、さっきの話の続きしよう!」
「蓮兄、おれも父さんと遊びたいんだけど……何かあったのか?」
そんな次兄と父のやり取りに、同じく見送りを済ませた翔がおずおずと口を挟んできた。
普段、蓮にはオブラートでくるまず殆ど地のままで接しているが、翔に対しては甘い父親像を崩したくない。どうしてかは自分でもよく分からなかったが、真っ直ぐな翔に自分の激しさや凍りついたような一面を見せたくないと、優は昔からそう思ってしまうのだ。
のんびりとした穏やかな父と、息子達にはそう思っていて欲しかった。蓮はそんな優の思惑をあっさりと無視して、ズケズケと穏やかさの奥に踏み込んできた訳だが。
「いい、翔?
僕の人生の一大事を、父さんが今まさに台無しにする危機なんだ。いってみれば、薔薇色の未来が瀕死に陥ってる!」
「な、なんかよく分かんねえけど、引き下がっといた方が良いっぽいのは分かった」
蓮は弟に渋面を見せ、珍しく早口で叫ぶように不満を訴える。そんな兄のただならぬ雰囲気に気圧され、優の心のアイドル末っ子翔は一歩後退り、頷いて了承を示す。
引き止める者が居なくなった蓮は、再びぷんぷんと怒りを露わにしつつ、優を二階のサロンへと強引に押し込んだのである。
「それで?
お前はいったい何がしたいんだ、蓮」
ひとまず蓮へ飲ませてやろうと新しいコーヒーを淹れながら、優は風変わりな息子を眺める。
彼の息子は、がっくりと肩を落とした。
「ねえ、父さん。僕は父さんの事、嫌いじゃないよ?
だけどあんまり意固地になられたら、これからどうなっちゃうか分からない」
「……だから、どういう意味だ?」
「父さんが独裁政権を握ってられるのは、従う側の人間が自分の意志で従ってるからだって事。
……僕、さっき理奈さんに約束してきたんだ。『明日、佳音 (かのん)ちゃんにさようならを言ったら、もう会わないようにします』って」
「なんだそれは。お前はその佳音さんを気に入っていたんだろう?」
私は会った覚えが無いが、と呟く優に、蓮はコーヒーを引ったくるようにして奪い取り、熱いだろうにゴクンと一口飲み込む。
「本当に分からないの? 僕が父さんの息子だからだよ。
僕があの子と出会ったのは偶然で、佳音ちゃんが咲来ちゃんの妹だなんて初めは知らなかったし、家族がどうとか関係なくあの子が気に入ったんだ。
だから、もっと一緒にいられる時間が欲しいと思ったけど、十代で六歳差はね……友達だなんて主張しても、悪い意味で見られる事があるんだよ。佳音ちゃんは女の子だし」
「……後半の言わんとするところは、分からないでもない」
小さな子供でもあるまいに、『あの子といっぱい一緒にいたいから、パパ、あの子のママと結婚して!』結論に至るのは正直どうかと思ったが、蓮は自分でも、優と理奈の二人は結婚の話が出てもそれほどおかしくはないような関係だと勘違いしていた、と言っていた。気が逸り、直訴に踏み切ったという事らしい。
「お願いだから、前半も分かってよ」
「お前が私と理奈さんの関係を、そんな勘違いをした根拠が知りたいものだ」
「だって、理奈さんがウチに対して何も文句言ってこないから。
僕が理奈さんの立場だったら怒り狂って裁判沙汰、示談なんか応じず断固戦うね」
やけに強い自信を持って断言した息子に、優はどう言って聞かせれば良いのかと眉をしかめた。
理奈は宇佐木家に下手に関わりたがらない人物で、金も持っていないから叩き潰されるリスクを犯してまで裁判など起こさないのだ、と。
「ねえ、父さん。
父さんは本当に偉いよ。だけど、それは何をしても許される立場だって訳じゃない。
僕はね、僕が佳音ちゃんに近付くせいで、理奈さんを不安にさせたくないんだ。そんなお母さんの態度に、佳音ちゃんは絶対に気付く。
どうして僕があの子と過ごしたら、理奈さんが落ち着かなくなると思う?」
問い掛けてくるその言葉は、優を責め立てているようで……しかしその眼差しは、ただ悲しそうに伏せられた。
「……父さんが理奈さんに信用されてないからだよ」
手にしていたカップを口元にあてがい、蓮はごくごくと一息に飲み干した。果たして味わっているのか、むしろ舌を火傷しないかと心配になるが、コーヒーありがとう、と一言告げて、優の言葉を待たずにサロンから駆け出した。
もう二度と、子供にあんな顔をさせないと決めていたはずなのに。
自分はいったい、どこで何を間違えてしまったのだろう。
蓮が最後に見せた懸命に訴えかけてくる表情は、響が何かを耐えるように、悔しげに唇を噛んで言葉を飲み込んだ時の表情と、綺麗に重なった。
優は父親だ。
たとえ仕事が忙しくとも子供達に何不自由なく暮らしてもらいたいと、衣食住には気を配ってきたし、子供らとの会話を欠かさず、多くの時間を共に過ごせるように心を砕いて育ててきた。
しかし、それだけではまだ何かが足りないのだろうか。子供らが満ち足りるには、そして咲来との距離を、ほんの少し縮める為には。
仕事の合間の移動時間、夜眠る前の短い一時、食事の最中……そうして考えて、考えて抜いた優は、ふと気がつく。
自分の感情や行動を把握しているのは当然だが、問題の理奈本人の考え方や行動基準を自分は全くといって良いほど、分かっていない。
分かろうと、理解しようと考えるのは息子達や咲来の趣味嗜好や考え方ばかりで、その他の彼らを取り巻く多くの人々について、優は本当の意味では何も分かっていないのだ。
オフィスであちらこちらへ電話を掛け終え、既に外はとっぷりと暗くなっていた。
掛けているデスクの上には、今月の報告書が広げられており、その中の文字に目を留めて苦笑する。
咲来の存在に気がついて以降、知ったからにはそのままにする訳にはいかないと、優は様々な方面に手は打ってきた。その中の一つが、咲来の身辺警護。
理奈がもっと即物的で金銭目当てならば話は簡単だった。しかし、彼女はそんな単純明快な人間ではなく、母親だった。
決して本人にも周囲にも悟られぬよう、常に身を潜めるようにしてガードに当たらせている彼らは、咲来の存在を悪意を持つ者に嗅ぎ付けられぬよう、そして世間に満ちる数多の危険から必死に守ってくれている。
初めから、仕事と同じように、上げられたその報告書を常に隅々にまで眼を通していれば、優はもっと早くから大切な事に気がつけていた筈だ。いつもいつも、最上段に書かれた『咲来嬢に異変無し。健やかに過ごされている』の言葉に安心して、流し読みなどせずに。
今回提出された内容には、しっかりと佳音と蓮の交流が記載されていて、『公園で楽しそうにご一緒されていらした』という簡潔な一文が、優の胸になんとも言い難い感覚をもたらす。
優が彼らに指示したのは咲来が毎日を無事に過ごせるようにであり、理奈や佳音の事についてなど、一言たりとも言及していない。
――父さんは、自分が興味あるものにだけ関心を持つ悪癖、なんとかした方が良いよ。
にも関わらず、彼らは当然のように理奈や佳音の様子についても報告書に書き込み、彼女らの身辺にも気を配っている。何故ならばそれが、彼らの任務である咲来の生活を護る事に繋がるからだ。そう考え行動に移す事が、『人として当たり前』だから……
優は一面ガラス張りの向こう、ネオンの灯りが灯る夜景を眺めながら、他ならぬ、彼の息子から言い放たれた苦言について、もう一度考えてみる。
(私はもしかしなくとも、自分では思ってもみなかったほど、視野が狭まっていたのかもしれない)
いつからだったか分からないほど、優は他人というものに関心を抱けなくなっていた。
気にかけている、気にとめていた筈の響や息子達に対してさえ、表面上構うばかりで、知らず知らずのうちにその心情を汲む努力を怠っていたのかもしれない。いや、もしかしたら初めからその方法さえ誤っていたのかもしれない。
人としてあって当たり前の感覚が抜け落ちた、不完全な人間なのだとしたら……
一度そんな疑問を抱くと、優は自ら口にした言葉や行動、その全てが疑わしく思えてきて。
足下が揺らぐ。
寄りどころのない不安感に、優はガラスに手を突いていた。自分の事が欠片も信用出来なくなったなら、いったい何を信じれば良いというのだろう。
ずっと眼を背けていたツケは、最悪の形で回ってくるものなのだろうか。
それから急いで帰宅した優は、子供部屋へと足を向けた。
仕事が立て込んだせいで、すっかりと子供達の就寝時間が過ぎている。足音を殺して、こっそりと立ち入った蓮の寝室もまた、電気が消されて薄暗い。
手探りでそろそろとベッドに歩み寄り覗き込んでみるが、肝心の息子は頭から上掛けを被っていてグッスリと眠り込んでいるようである。
寝ている蓮を起こさないように、優はベッドの端に慎重に腰を下ろし、頭がありそうな位置をそうっと撫でた。
「蓮、すまない……私が何もしなかったせいで、お前が尻拭いをする羽目になって。
今頃気がつくような情けない父さんで、ごめんな」
蓮は、荒唐無稽な願い事を申し出てくるほど、佳音の事を気に入っていたのに。
何も知らない翔と咲来には、今まで通り何も知らせぬまま。優と理奈の関係が険悪だと、血縁関係や互いの思いが拗れていると知っている蓮は、これ以上の波風を立てぬよう身を引いて。
当事者ではないが事情を知る故に、身の振り方を考えねばならない。刺激しないよう、悪化しないよう、注意を払って。
そうして蓮が出した結論が、自分の望みを押し殺す事。それは彼と親しいという佳音にも、別離の寂しさを与える事に他ならない。
それらは全て、息子ではなく父である優が負わなくてはならない筈のものだった。
子供達には関係の無い大人の事情として、優と理奈の間だけで片付けておかねばならなかった問題に、子供らを巻き込んだのだ。息子達を悲しませていて、その理由にここまで思い至らないでは、父親失格だと言われても仕方がない。
(……こんな父親では、詰られるのも当たり前か)
優の口から嘆息が漏れる。と、撫でていた上掛けの下が小さくもぞもぞと動いた。
「……本当だよ。僕があんなに一生懸命怒って、それで父さんが気がつくのは三日後ってどういう事?
第一、真っ先に許してもらう相手は僕じゃないでしょう?」
起こしてしまったか、と焦る優に、寝具の間からくぐもった蓮の声が聞こえてきた。
まだ眠っていなかったらしく、優の先ほどの台詞をしっかりと耳に入れていた。
「そうだな……父さんは自分で思っていた以上に、自分の事も人の事にも、無知だったらしい。
これからもっと考えてくるよ……許してもらえるまで」
しかし大いなる問題は、いったいどれだけの相手に謝らなくてはならないのか、またその方法も皆目見当もつかない、という事だった。
(ああ、本当に。私は知らないままでいた事が多すぎる)
父さん達の事は気にせず、これからも好きなように佳音さんに会ってきなさい、そう言ってやる事は簡単だ。
しかし蓮は、それを善しとしないだろう。他ならぬ、理奈の心情を重んじて。父親が軽んじてばかりいた彼女の心を思いやり、ひたむきに生きる息子の方が、よほど人間の器が出来ている。
「僕、決めたんだよ父さん。
今は自分磨きを頑張って、父さんと理奈さんがキチンと和解してから、堂々と佳音ちゃんに会おうって。
だから父さん、あんまり僕を失望させないでね」
「ああ……頑張るよ」
寝返りを打ったのか、優が上掛け越しに撫でていた蓮の頭の位置がズレた。本格的な寝入り体勢に入った息子に「お休み」と囁いてから、優はそっと寝室を後にした。
優は父親だ。
自分が信用出来なかろうが何だろうが、子供達を守り育てて、悲しませないように尽力しなくてはならない。
どんなに不安に駆られようとも、優は決して、一人ではない。
まず、理奈が何を考えているのかを知りたいと思っても、怒り狂った母は手強かった。電話を掛けても繋がらず、着信拒否にでもしているのかもしれない。
直接話し掛けに行こうにも、向こうは威嚇してくるのは目に見えている。
昼間に空き時間を無理やり捻り出して、遠巻きに理奈や咲来、佳音の親子の様子を窺ってみる。やっている事はすっかりストーカーだが、彼女らの普段の様子を直接自分の目で見て知る事は出来た。
理奈が娘達に向ける眼差しは、いつも優しい。咲来はいつも率先して妹の面倒を見ているし、佳音は……誰も居ない公園へ頻繁に足を運んでは、誰かの姿を探していた。
蓮は、あの日以来優を責めるような言葉を口にする事はない。その態度が、より一層優の胸が痛む要因なのだが、彼が傷ついたからといっても、何も進展しやしないし、誰も救われない。
「でさ、聞いてくれよ!
スリーポイントシュートをどっちが多く決められるか、ってタイマン張ったんだけど、咲来の奴、余裕綽々でブロックすり抜けやんの! アイツの身体は軟体生物に違いない!」
「……翔、軟体生物だったらそれはもう既に人間じゃないぞ。
それ以前に、軟体だったらドリブル自体が出来ないんじゃ……?」
何も知らない翔が、楽しそうに語る毎日の何気ない日常にこそ、細やかな幸せがある。
優が目指すべきところはそれの筈で、では何を間違えたので理奈と拗れたのだろうか。
そもそも、と、優は事の発端についてを考える。
理奈はどうして、響の子を産む気になったのだろうか。金目当てかと尋ねたら、「侮辱しているのか」と怒りを露わにするような、気性の激しさを秘めた女性だ。ならば、自身の望まぬ事など、受け入れるとは思えない。
その疑問を直接問うてみるべく、彼女の携帯番号をプッシュしてみるが、やはり出ない。
しかし、動きださなくては何も解決しない。このまま手をこまねいていても、蓮を傷付けてゆくだけでしかない。最悪の状況に向かう危険を犯そうとも、優には行動する義務がある。
オフィスにて、彼の率直な疑問と、理奈への詫びをしたためた簡素な手紙を書き終え、優は溜め息を吐く。
こんな物を書いたところで、投函した手紙が届いたら届いたで、「咲来や佳音の目につくような物を寄越さないで!」と、怒りに油を注ぐだけではないだろうか。
柱に掛けられた時計を見やる。時刻は丁度、昼時を回ったところ。
(……確か、長谷川さんは今日はパートに出ている時間の筈だ)
そう思い立ち、もう直接会いに行こうと立ち上がる。秘書に昼休憩を告げると、引きつった笑顔で見送られた。……仕事に戻った後は、秘書室に陣中見舞いを届けるべきかもしれない。
理奈が勤めるパート先は、彼女の住むアパートの近所に建つスーパーマーケットである。結婚前に勤めていた商社は寿退職し、夫が亡くなってからこちらに勤め始めたらしい。
優は堂々とスーパーに入店して、店内を闊歩した。自慢ではないが、実はこういった場所に足を踏み入れるのは初めてであったりする。物珍しさからあちこちを興味深く観察していると、逆に優の方もすれ違う利用客からの注目を浴びている事に気がついた。
平日のこの時間、利用客の大半は主婦であり、スーツ姿の成人男性はやけに目立っている。全く居ない事も無いのだが、チラホラ見掛ける彼らは惣菜コーナーに直行して、出来合いの弁当やラップに包まれた握り飯を購入して、せわしなく立ち去ってゆく。
肝心の理奈の姿がまだ見つかっていないが、何となく人目が気になって、優も陳列されていた手作り弁当とやらを手に取り、レジに向かう。
(……私は何をしているのだろう?)
本来ならば、今日の昼食はオフィスで仕事の合間にとる予定だったのだが。
幾つか開いているレジのうち、テキパキ打ち込み人がスムーズに流れてゆくレジに並んだ優は、そのレジ係の顔を見て「あ」と声を漏らした。
「いらっしゃいませ」と、お決まりの挨拶を口にしたレジ係……スーパーの制服エプロンを着用している理奈もまた、職場に現れた優を唖然とした顔で見つめている。
「……長谷川さん、会計はまだ始まらないのかね?」
確かに、優は理奈と話をしたいと思い、彼女の職場にまでやって来てしまった訳だが、二人してこんなに近づくまで互いの存在に気がつかなかったというのもマヌケな話だ。
幸い、優の後ろには誰も順番待ちをしておらず、突然仕事を中断した理奈を咎めねばと待ち構えているスーパーの従業員もいないようであったが、このまま睨めっこなどしていては、周囲の目に奇異に映るだろう。
「宇佐木さん……何をなさっているんですか、こんなところで」
「見ての通り、初めての買い食いに挑戦中だ」
ピッと、バーコードをスキャンして小計金額を告げる理奈は、よほど優の行動に虚を突かれたらしく、呆然と「かいぐい?」とオウム返しに呟いた。
普段はカード支払いばかりなのだが、取り出した札入れに奇跡的に入っていた万札を渡して会計を済ませ、
「君の休憩時間は、いつ頃だろうか?」
と、問うてみた。これで、「もう今日の休憩は終わりました」だとか、「三時間後です」などと答えられたら、今日のところは直接話し合う事は出来ないだろう。そもそも、こんな騙し討ちのような職場突撃などもう二度と使えまい。
「……半からです」
理奈は優の問いに眉をしかめたが、ひとまず話し合いには応じてくれる気にはなったらしい。
「スーパー裏の公園で、待っていたら来てくれるだろうか?」
「知りません、そんなの」
(拒絶したいのか議論に応じる気はあるのか、どちらなのかハッキリして欲しい)
しかし、いつまでもレジでグズグズしていたところで、理奈の仕事を邪魔するだけだ。
買い求めた弁当を手に、優はスーパーを後にして建物の裏側に回った。
蓮が何を考えてこんな場所に足を運んだのかは分からないが、この小さな公園で、蓮は佳音と遊んでいたらしい。
遊具も殆ど置かれておらず、均された地面の空き地に、砂場とベンチが幾つか。
あまりにも侘びしい閑静なこじんまりとした公園の、木陰になっていた小さなテーブルベンチで、優は買い求めた弁当を広げてみた。
パクリと、試しにおかずを一口。保存の関係か、味付けはやや濃いめ。
理奈が来るのかどうかは分からない。
来なければ、また別の日に違う方法で会いに行き、その時にポケットに忍ばせた手紙を渡してみよう。
しかし、それを読んでくれるかどうかも分からない。返事がこなければ、更にまた別の方法を考えて……肝心の打開策が何も浮かばない無限ループだ。
と、モグモグと無言で弁当のミニおにぎりを咀嚼していた優の視界の端に、巾着と布袋を手にした理奈の姿を捉えた。
来るか来ないか分からない彼女を、漫然と待っていた優は、割り箸を置いて立ち上がった。
理奈は非常に困った顔で、優が陣取っているベンチの傍らに佇む。
「こんにちは、長谷川さん。
仕事中にお呼び立てして申し訳ない」
「あなたが直接私に会いに来られたのは、これが初めてですからね」
思い返せば、呼び出したり呼び出されたり、そんな行動すら取った事がない。いかに彼女を軽視し、歩み寄りの努力を怠っていたという事か。
「……」
「……」
気まずい沈黙が降り立った。
理奈が手にしている巾着は、恐らく昼の為に用意してきた弁当なのだろう。彼女の昼食時間に割り込んできた身ではあったが、
「長谷川さん、立っていないで座ってはどうだろうか。
こうしている間にも、君の休憩時間が無為に過ぎ去っていくが」
とにかく座ってくれないかと勧めてみると、理奈は優の掛けているテーブルベンチを通り過ぎ、隣のベンチに座った。わざわざ食事を同席したくはない、という訳か。相当嫌われているな、と苦笑しつつ、優は再びベンチに腰を下ろす。
だが既に過ぎ去った時間は巻き戻らない。
「長谷川さん、今日君の時間を割いてもらったのは、聞きたい事があったからだ」
「何です?」
例え離れたベンチに腰掛けていても、理奈は即座に相槌を打ってくる。それだけ、この時間を早く済ませようと考えているのだろう。
「君は……高校生の頃から響と親しい関係だったそうだが、どうして咲来を産んでくれる気になったのだろう?」
蓮が引っ張り出してきた響のアルバムに学生時代の理奈の姿を認めて、彼らはそこまで親密な関係だったのかと感心したものだ。あの生意気な響が、しっかりした優等生タイプの理奈との付き合いを持続させる事が出来ていたなんて。
「宇佐木さんは何か勘違いなさっているようですが、私と響は別に恋人なんて関係ではありませんでした。
私と彼はただの友人で、私は彼を……」
理奈は一旦言葉を切り、膝の上に広げた質素な弁当に目を落とした。
「鼻持ちならないあんぽんたんで、甘えん坊っちゃまだと思ってましたから。
あれですね、一度拾った捨て犬は、どんなに手間が掛かろうと拾った責任が付きまとうようなものです」
何とも形容しがたい感情が、優の胸に満ちていく。兄弟揃って面倒くさいと言いたげな理奈の言を否定したくても、彼にとっても弟は似たようなものだった。
「馬鹿ばっかりするから叱りつけて、蹴飛ばして、それでも最後にはしがみついてくる、泣き虫で馬鹿な弟みたいな奴でした。
咲来を授かったのも偶然ですし、産もうと決心したのは……あの夜、響はベロンベロンに酔っ払っていて、それでも泣いてたからです」
「響が……泣いていた?」
優の記憶の中にある弟の響は、とにかく反抗的な目つきで睨み付けてくる顔ばかりで……泣き顔など全く思い出せなかった。
「私は、出来たら響には笑っていて欲しかった。あんな馬鹿でも、友達ですから」
優は立ち上がると、理奈が腰掛けているベンチに歩み寄り、深々と頭を下げた。
「……すまない」
「それは、何にたいしての謝罪ですか?」
「響の、私が面倒をみるべきところを、私は反抗されているからと投げ出して、結果的によき友として接してくれていた君に押し付けていた事だ。
……そして、君を詐欺師呼ばわりして話を聞こうともしなかった事を」
響の友人知人などろくな連中もいないに違いないと、交友関係をきちんと調べもせず、理奈へと葬儀がある事を知らせようともしなかったのは、間違いなく優の落ち度だ。
「宇佐木さんは私を買い被っていらっしゃる。
私は正義感に燃えた慈善で響を更生させようと思った訳ではなくて、八つ当たりだとか、嫉妬めいた感情で叱りつけていただけです」
「それでも、きっと弟にはそんな君が必要だった」
何が違うのかは分からない。きっと、優には人間として必要なものが掛けていて、それ故に弟が必要としていたものを与えてやれなかった。理奈は響にそれを当たり前のように与えてやれていたから、きっと泣いたり甘えたりしていたのだろう。
仕事へとサッサと向かう理奈の背中を見送って、優は無言のまま考える。
(きっと私は、今度こそ咲来にそれを与えてやりたいのだ)
肝心の『それ』が何なのかは、曖昧で名付ける事が難しい感情の中に、答えがあるのだろうか。自分自身の身の内から勝手に作り出された問題は、向き合うことをサボっていた優には、解くことが本当に本当に、難しい。
優は近頃、とにかく考えている。
今まで放置し過ぎた問題は山積みで、どこから手を着けていけば良いのかさえ分からない。
理奈へは謝るべき事柄と、返すべき大きな恩義まであると知ってしまった以上、何とか彼女には償わなくてはならない。けれども、それは何をもってすれば成し得るのだろう。
簡単な方法は金だ。けれど、理奈は決してそれを望まない。だからそう、優に求められている事は、敬意と誠意を持って接する事。
自宅のサロンでぼんやりと考え事をしていた優は、コーヒーが入ったカップを片手に窓の外を眺める。
と、不意にコンコンと扉がノックされて、
「父さん、相談したい事があるんですが、入っても良いですか?」
三番目の息子、彬 (あきら)の声が掛けられた。
「うん、もちろん構わないよ。入っておいで」
「失礼します」
扉を開けて入室、そして几帳面にお辞儀を寄越してくる息子に、優はいそいそと立ち上がって、サロンの一角に備え付けられたキッチンカウンターで、息子の為にコーヒーを淹れてやる。
「彬君は、ブラックよりミルクたっぷりカフェオレの方が好きだったよね。お砂糖は三杯ぐらい入れようか?」
「……いえ、一杯で構いませんが。砂糖三杯って、オレがいくつの頃の話ですか」
「確か、彬君が八歳ぐらいの頃だったかな? あの時はお砂糖六杯入れたんだよ。
翔君も匡君もコーヒーは嫌いだから、彬君が頑張って飲んでくれた時は、パパ嬉しかったなあ」
優は別に、子供達に無理やりコーヒーを飲ませている訳ではなく、興味を示してくれたのが蓮と彬の二人だったという話だ。
息子達が大人になった暁には、皆で一緒にコーヒーを飲みたいものだと思っている。そこで酒を酌み交わしたい、という発想には至らない優である。
いそいそと彬にカフェオレを用意し、ソファーに息子と向き合って腰掛けた優は、首を傾げて彬の用向きについて水を向けてみる。
「それで彬君、私に相談したい事って、どんな事なんだい?」
「それは……その」
彬はひどく切り出しにくそうに言いよどみ、俯いた。用意されたカフェオレの表面を通して、何かをじっと見つめている。
やがて彬は、意を決したように顔を上げた。
「父さん、母さんが住んでた家に、行っても良いですか?
そろそろ遺品整理をするべきだと思うんです」
予想もしなかった彬の相談事に面食らい、優はしばし言葉を失った。
「だけど、お母さんの遺品整理なら、お葬式の後にもう済ませたよ?」
「行きたいと、思ったんです。お葬式の後の整理って、ざっと纏めただけですよね?
オレが行ったら……ダメですか?」
「ダメなんかじゃないよ。行こうか」
優は努めて優しく微笑みかけつつ、息子に向かって頷いた。
互いに意に添わぬまま籍を入れた亡き妻、殆ど他人同然の生活を送っていた彼女……瑶子 (ようこ)が住んでいた屋敷へ。
優は元々、彼を義務的に育てた家政婦こそが母親だと信じるような、そんな放置された幼少期を送ってきた子供だった。
産んだら産んだで、子供達に関心を持たない瑶子のような女性が彼の生きる世界では当たり前だと思っていたが、子供達は母親をどう思っていたのか、そもそも瑶子は本当に子供達に無関心だったのか、それさえも今となってはよく分からない。
彼女が住んでた屋敷は、優が子供達と住む宇佐木家本宅からは県を二つ跨ぐほど離れた市にある。
夏期には避暑地として訪れる人が多く賑わうその街は、時期外れの今は人通りもまばらだ。
優が運転する自動車は見晴らしの良い丘陵地帯を上り、その屋敷に到着した。
週末、母親が住んでいた屋敷へ遺品整理に行く、と聞いた息子達は皆一様に控え目ではあったが、自分も連れて行って欲しいと言い出してきた。
(……やはり私は、妻の事も軽んじ過ぎていたのだろう)
子供達にとって、母親はたった一人しか居ないのに。父である優が、妻との相互理解の努力を初めから放棄していたせいで、息子達は寂しい思いをしていたのだろう。
自動車からそれぞれ下り立った息子達は、優の「自由にしてくれて構いませんからね」という言葉を受けて、めいめい屋敷内の散策・探索に移った。
主人が亡くなった後も、屋敷の管理をしてくれていた人々に労いの声をかけつつ、出迎えてくれた彼らに荷物を任せる。
瑶子は生前、この屋敷を拠点に世界中を駆け巡り、あちらこちらの観光地や世界遺産に足を運んでいた。それは豪華クルージング世界一周旅行だったり、気楽なぶらり旅と様々だったが……
旅行先の風土病で呆気なく命を落とすなど、瑶子らしい最後だったのかもしれない。
彼女の葬儀は海外で執り行ったし、参列者の国籍も様々だった。
「父さん」
居間に飾られていた、瑶子が旅先から持ち帰ったらしい、何に使うのか今ひとつ分からない捻れた棒状の謎の置物を眺めていた優の背に、いつの間にか居間にやってきていた彬から声が掛けられた。
「ああ、彬君。どうかしましたか?」
「……この家、変な物がいっぱいあるんですが」
母親の屋敷に来たのはこれが初めてではない筈なのだが、彬の目にはひどく奇異に映ったようだ。いったい何を発見したのだろう。
「瑶子さんは熱心な収集家だったんですねぇ。
お隣の部屋は確か、風景写真の展示室でしたよ」
謎の棒状置物の隣に飾られていた謎の干物を息子の目からさり気なく隠しつつ、優は彬を連れて隣室へと足を運んだ。
瑶子が自分で撮ったのか、それとも他の誰かが撮った写真を飾っているのかは知らないが、この部屋に飾られている写真は世界各国の絶景が集められていた。
壮観な眺めに、彬は目を奪われたように言葉を失う。
「彬君、こんなにたくさんの品は、整理しきれないと思いませんか?」
「……オレ、元々、ここに来たかったから、父さんにお願いしたので……」
「そうですか。
彬君にとって、瑶子さんはどんなお母さんだったのか、聞いても良いですか?」
遺品整理をしようにも、優には価値も何も分からない。このまま屋敷に置いたままにしてあっても、誰も困らない……そう思い、促すと、彬はもじもじと気まずそうに『ただ来たかっただけ』だと答えた。恐らく、息子達は皆そんな気持ちだったのだろう。
そんな彬に、優は聞いても良いのかとずっと迷っていた事柄を問う。
「父さんにとっては、母さんはどんな人でした?」
すると息子は、当然のように質問に質問を返してきた。優は瞠目し、自らの胸の内に問い掛ける。
一人の人間を、仮にも妻として迎え、子供まで成した相手を、ひたすらに『無関心』を貫いたその罪も纏めて。
「瑶子さんは……不思議な人でしたね。
私の隣に強引に縛り付けて、屋敷の中に押し込めておこうだなんて、決して思ってはいけない人でした。
『あたしは世界に飛び出すの』と、晴れやかに笑っているのがお似合いの、明るい……」
(なあ、優。
お前は本当は、彼女の事に関心を抱けないだなんて、嘘だったんだろう?
どうしてこんなに言葉が出てくる。あの日の彼女の声が過ぎる。
本当は違うくせに、幼稚な虚勢を張っていただけだ)
「と、父さん、すみません、もういいです、いいですから!」
彬から肩を掴まれて、優はハッと物思いから我に返った。何故か視界がぼやけていたが、幾度か瞬を繰り返したらクリアになっていく。その拍子に頬を伝った感触に、優は内心とても驚いた。
「すみません、彬君。
パパちょっと、考え事に気を取られてたみたいです」
「いえ、オレの方こそ……」
「パパは、彬君からみたお母さんの事が知りたいな」
彬は気まずそうに言葉を濁し、言うべきか言うまいか、躊躇う様子を見せた。
「母さんは……父さんが独りじゃ居られない人だから、オレ達が側にいた方が良いんだと、言ってました。
『お母さんは強いけど、お父さんは弱いのよ』って」
「ははは……的確過ぎて、何も言えないなあ……」
まるで頑固なアンドロイドのような、面倒くさい優に愛想を尽かして、自分の幸せを探しに行った瑶子はきっと正しい。
瑶子が響を見詰める視線の意味にすぐ気がついて、結婚する前から『彼女とは合わない』と一方的に決め付けて、話し合う事も思いやる事も拒否した優では、瑶子が見切りをつけてしまうのも無理は無い。
――産もうと決心したのは……あの夜、響はベロンベロンに酔っ払っていて、それでも泣いてたからです。
(瑶子さん。あなたも同じですか?
愚かな私を哀れんで、それでも精一杯の思いやりを込めて、私に最高の贈り物をくれたのですか?)
優の問い掛けには、決して、もう二度と答えは返ってこない。その機会はいくらでも与えられていたのに、自ら目を背けて過ごしてきたのだから。
いつだって気がつくのは遅過ぎて。
自分にも涙が流れるだなんて、久しく忘れていた感覚だった。
その日は、雲一つ浮かんでおらず、よく晴れ渡っていた。
優は一人、花と用具を手に宇佐木家の墓に向かう。
今日は、響の祥月命日だった。
毎年行っているように、優は祖先と弟、そして妻が眠っている墓周辺の草むしりや墓石磨きを黙々と行い、柄杓で手桶の中の水を汲み上げ、墓石を清めた。
線香と花を供え、墓石の前で黙祷する。今年は、胸の内で彼らに語り掛けるべき事がたくさんあった。
一度自覚した感情は勝手に涙腺まで支配したようで、優の瞼をどんどん熱くさせてゆく。
(瑶子さん、私はあなたが生きている間に、きちんと『ありがとう』と『ごめんなさい』を言うべきだった。
響、お前はきっと、私の不完全さが分かっていたんだろうな。
私の考え方の押し付けではなくて、もっと……)
と、墓前の砂利道を踏む、ジャッという足音が優の耳に聞こえてきて、何気なくそちらに目をやると……花を携えた理奈が、気まずそうに立っていた。
「長谷川さん……わざわざ来て下さったんですか?」
「ええ。いけませんか?」
「いいえ。きっと響も喜びます」
響の祥月命日には毎年のように墓参りをしていたというのに、これまで理奈とここで出会う事はなかった。もしかしたら毎年、優が参った後に来てくれていたのかもしれないし、今年初めて訪れたのかもしれない。
墓前の真正面から理奈へと場所を譲ると、彼女は静かに両手を合わせた。
墓場は静まり返っていて、長く、沈黙が降り立つ。
優はただじっと、理奈の後ろ姿を見つめていた。
やがて彼女は立ち上がると、優に向かって振り返った。
「宇佐木さん、私、あなたに言っていない事があります」
「何でしょう」
「響の最後の言葉……あれを口にした時、彼は今にも泣きそうな顔をしていました。私に裏切られたと、そう思ったんでしょう」
「何故? 子供が出来たなら、それは響に責任がある事ではないですか」
「お墓の前でこう言うのもなんですが……彼は馬鹿でしたから。
私は一夜の過ちの痕跡を消して、何もなかった振りをした。どうせ、酔っ払って覚えていないと踏んでの事でしたが……本当に、あの馬鹿は綺麗サッパリ忘れていました」
「長谷川さん……なんと言えば良いのか。本当に、本当に、申し訳ない……」
亡き弟の行状も、自らが犯した過ちも、どんなに言葉を尽くして謝罪しても、追い付かない。
しかし、理奈は首を左右に振る。
「言ったでしょう、宇佐木さん。私はただ、穏やかに平凡に生きたいだけ。
響のやった事も、あなたが私達にして下さった事も、怒りや恨みを抱え続けるのは疲れるんです」
「長谷川さん、私は君に、何をしてあげたら良い?」
分からない。優が何をどうすればどんな言葉や行動が、理奈への償いになるのか分からない。
それを本人にぶつける愚かさを分かっていても、聞かずにはいられなかった。
「じゃあ、約束をして下さい。
消して、私から咲来を取り上げるような真似はしないと」
「そんな事は決してしない。
咲来さんは長谷川さんの大切な娘であり、佳音さんの大事なお姉さんだ」
理奈の言に、優は即座に頷いた。もとより、優には母娘を引き離すつもりなど欠片もなかったにも関わらず、理奈がそんな不安を抱いてしまった、それは優の不明であり、正して安心させてやるべき認識だ。
「宇佐木さんは、やっぱり響のお兄さんなんですね」
「うん?」
今更何を言い出すのだろうと、優が訝しく思いながら理奈を見返すと、彼女は昔を懐かしむように、
「泣きそうな顔が、響とそっくりです」
「そうなのか……」
似たところが一つも無いと思っていた弟、その彼との思いがけない共通点を知らされ、優は墓石へと視線を投げかけた。
「私はこれで失礼します」そう言って立ち去る理奈の背中を、優はじっと見詰める。
響も瑶子も、もういない。
彼らに会う事は出来ない。
何をしてやる事も出来ない。
けれど、理奈は生きている。彼女の愛すべき娘達も。
そして、彼の愛する息子達も。
(長谷川さん、私はせめて、君達が笑顔でいられるようにしたいんです。
世界中の誰よりも君達に笑っていて欲しいと、思うのです)
不完全な優には、身に余る程の厚意と愛情を与えられておきながらそれに気がつかなかった、愛する事にも不慣れな彼では、きっと理奈が幸せに笑顔で過ごせる暮らしを与えてやる事は出来ない。
それでもせめて、あのひとの負担を少しでも背負ってやることが出来たなら。
優と理奈が再婚を決意するまで、あと一年と七ヶ月――