竜の綴る唄
【眼球泥棒】
雨の新宿は色とりどりの傘で溢れていた。
紺や黒が多いが、赤や水色なども多い。
その誰もがサラリーマンやOLといったスーツ姿であるのに対し、その男だけが例外的で目立っていた。
髑髏のプリントがされたシャツにチェーンをじゃらじゃらと下げたジーンズだけならまだそれほど派手ではないが、赤い髪と青いメッシュ、更に鼻や耳へのピアスなどが人目を引いていた。
渋谷に近くそれほど珍しい姿でもないが、たった一人で傘も差さず、雨に濡れたままのろのろと歩いているのも原因の一つだ。
男は新宿駅から離れた位置にある高層ビルの前で立ち止まると、じっと空を見上げる。
通勤途中の人々は触らぬ神に祟りなしと男を無視して道を急いでいたが、突然男が両手を振り上げる挙動をしたので、横目で見ていた人々は反射的に男に視線を集めてしまう。
「 か え し て く ―――― れ?」
大声で叫んでいた男は最後の一文字を放つと、ぐらりと体を揺らして地面に倒れた。右腕を枕にしてぴくりとも動かない。
誰からともなく酔っ払いじゃないかと言い始め、急に叫びだしたとか実は死んでるんじゃないかと小声で囁き合う。
さほど時間を置かずにビルから警備員が出てきて男の体を抱き上げた時、男の顔面にはあるはずのものが無かった。
その眼窩には暗い空洞しかなかった。
†
新宿のカフェでアルバイトをしている野沢由恵は、レジの前に立った男性客を一目見てどきりとした。
癖のあるワイルドな黒髪と適度に翳のある表情が何となく注意を引いた。格好はワイシャツにズボンと普通なのだが、その左目は普通の右目と異なり紅の瞳だった。
紅茶ほどの、濃い赤色が印象的だった。
「ぁ……ご注文は、いかがいたしますか?」
カラーコンタクトだろうかと思いながらも、由恵はなるべく営業用スマイルを心がけて尋ねると、男性はごつごつした指を顎に持っていて数秒悩んでから顔を上げた。
「えっと、ブレンドコーヒーを一つ」
「はい、ブレンドコーヒーが一つで180円になります」
レジを打ちながらトレーをカウンターに出す。もう一人の従業員が素早くコーヒーのカップをその上に置いた。
男性が出してきた二百円を受け取り、二十円のお釣りを渡すと、男性はお釣りをポケットに入れてトレーを持ち、窓際の席に座った。
由恵が気になって視線を少し男性に向けていると、同期のアルバイト店員であり一つ年下の大学生でもある細川愛が隣に立つ。
「野沢さんのタイプですかぁ? 今の人」
ぱっちりとした大きい目をイタズラっぽく細めて、頬には笑窪を作りながら笑いかけてくる。
由恵はこの愛嬌のある女の子が嫌いではなかったが、話をしても恋愛話しかしてこないのであまり自分からは話しかけない。
今回も隙を突かれて恋愛話を持ちかけられてしまった。
「そうじゃないけど、左目だけ赤色だったから、片方だけカラーコンタクトを入れてるのかなぁ……って」
「左目だけ、ですかぁ? それってけっこー変ですよぉ」
「でももしかしたらメラノーマかもしれないし、単なるオッドアイかもしれないし、一概には言えないかなあ」
愛は由恵の言葉を聞きながら笑顔で固まっていたが、やがて首を緩やかに傾げた。
「え、え、何ですかぁ?」
甘えたような鼻につくその口調に由恵は苦笑した。
「メラノーマって言って、皮膚とか眼窩に悪性の腫瘍ができる病気があるんだけど、手術で失明したり、ちょっと小さいくらいなら失明はしなくても、太陽光とかを防ぐために敢えて濃い色合いのカラーコンタクトを入れる人もいるかもしれないから、ファッションでそうしてる可能性は必ずしも高くないよって、思って」
「野沢さんって目に詳しいんですね~」
感心したように嘆息を漏らす愛に由恵は慌てて手を振って否定する。
彼氏にも、自分があまりに目のことばかり話すので呆れられたことがあるのを思い出したからだ。
「えっと、そうじゃなくて、偶然知り合いでそういう人がいたから、ね?」
由恵が取り繕って説明すると、愛もそれ以上は興が失せたのか、視線を上へと向ける。右手の人差し指が自然と下唇に重ねられた。
「目で思い出したんですけどぉ、野沢さんって昨日隣のビルの前で男の人が両目を失くして死んだの知ってますぅ? 新聞には眼球泥棒なんて書かれてたそうなんですけどぉ」
由恵は眼球泥棒という聞き慣れない単語に愁眉を寄せた。愛が友だちから聞いたのであろうその情報をよく思い出そうとして斜め上へと首を傾ける。
「えっとぉ、雨の中をフラついていた男の人が突然隣のビルの正面で『返してくれ』って叫んだそうなんですよぉ。そしたら男の人が倒れて、ビルの警備員さんが邪魔になるからって男の人を運ぼうとしたら、両目が無かったそうですぅ」
気持ち悪いですよねぇ……。
両手で肩を抱きすくめながら顔を顰めて愛は言うが、由恵は特に気にする様子も無くそんな愛を見つめている。
「う~ん……その男の人って眼球が無かったのにどうして外を出歩いてたのかな? だって、何も見えなかったら普通は恐くて一歩も歩けないはずなのに」
「あ、そうですよねぇ――あ! もしかしたらビルの正面に来るまでは両目があったんじゃないですかぁ?」
閃いた! と顔を輝かせる愛に由恵は苦笑した。
「それはないと思うなあ。だってビルの正面に来るまで両目があったなら、倒れた男の人には眼球が付いてるはずだから」
「え、あっ、そっかぁ…………。じゃあ男の人はやっぱりぃ、最初から目が無かったんですかねぇ……?」
真剣に悩む愛を微笑ましく思いながら、由恵は業務用エプロンのポケットから注文票を手に取るとカウンターから出る。
「おしゃべりはお終いにしよう? 暇だから注文取って来るね」
「はい、レジで待ってまーす」
互いに先ほどまでの会話はすっぱりと忘れることにして業務に戻る。
午後六時を回ってからは夕食に間に合わせるためか客足も少なく、店からはちらほらと帰りかける客も出てくる。
そういった時間帯に注文を取りに店内を回るのは由恵の日課だった。
由恵は一人一人の客の顔をよく見ながら注文を聞いて回り、最後に窓際まで行くと先ほどレジで気になった男性がまだ座っていた。
男性は他の客とは違いコーヒーもあまり口につけず、かといって本を読むでもなく、黙って自分の足の方向を見ていた。
由恵は男性が必要以上に椅子に深く腰をかけてテーブルと体を離していることに疑問を感じながら、身を乗り出して男性の視界に入ろうとする。
「――ぅぉ!」
男性は小さく驚きの声を発すると、心持ち膝を窓側へと寄せた。まるで膝に乗っている何かを自分から遠ざけるように……。
ますます釈然としないものはあったが、由恵は注文票を持ちながら営業スマイルを作る。
「何かご注文はございませんか?」
相手の表情を見ると、黒と緋の瞳がちらりと窓の方を見た。外は既に夕陽が暮れかけて空には青紫の夜空が天上に見えたが、どうやら男性は外の景色を見たわけではなさそうだ。
その目は窓の手すりに向けられながら僅かに細くなって、そうしてこちらに振り返る。
「いえ、今は結構です。まだコーヒーが残っているので」
柔和な笑みを浮かべて言う男性に礼をした由恵はそれで全員に回ったのでレジの仕事に戻ることにした。
レジに戻ってからも店は暇で、やはり時間を持て余し気味になる。
由恵はバイトの上がりまであと二時間もあることがじれったく思う。
遠目に窓際の男性を見ると、コーヒーを啜りながら外を眺めていた。今度は何を見ているんだろうと自分も同じく外に目を向けると、サラリーマンなどが帰宅の途に着いている姿が疎らに見受けられた。
ふと気になって店の壁掛け時計を見れば、短針はもうすぐ七を指そうとしている。
「由恵ちゃん、今日はもうお客さん来なさそうだし、早引けしていいよ。片付けは奥のメンバーでやるから」
店の奥から現れた店長の優しい声に応じた由恵は、奥の食器洗いやフード担当の人にお疲れ様でしたと声をかけてから、店内奥のスタッフルームに行く。
そこで自分のネームプレートが貼られた、中学校の靴箱ほどの大きさのロッカールームを開けてバッグを取り出すと、首から掛けていた業務用エプロンを畳んで中に仕舞う。
鍵が付いていないこともあって勤務中にポケットに入れていた財布をバッグの中に戻し、化粧室へと向かった。
化粧室の鏡の前では先に上がっていた愛が丹念に暗色のアイシャドウをチップで二重にのせていた。瞼に塗った明るいアイシャドウとの強弱を付けることによって目が大きく見えるのだが、愛は器用に目尻や下瞼にもグラデーションを入れていくので、元々の二重がまるで人形のようにぱっちりと大きく見える。
女としての基本的な嗜みではあるが、それ故に技術が反映されやすく、この明暗の下手な人はそれこそパンダのようになってしまう。
由恵もバッグから化粧ポーチを取り出して最低限のメイクだけ始めるが、愛は慣れた手つきで仕上げのマスカラを眉毛にかけると、てきぱきと化粧品をバッグに片付ける。
「それじゃあお疲れ様でしたぁ~」
「お疲れ様~」
バイト中よりもかわいくなった愛を見送りながら、自分も急いで化粧を仕上げる。
結局すべてを終えて化粧室から出るのに五分以上かかったが、本当に必要最低限だったので少し塗りむらが無かっただろうかと心配になりながら店の出入り口から外に出た。
そうして高層ビルが建ち並ぶ通りを新宿駅に向かって歩こうとした由恵の正面に、窓際に座っていた男性が立っていた。
カフェの隣の、昨日男の人が倒れて死んだという場所に立ちながら、男性はビルの方を見ていた。
「『返してくれ』、か……お前はどう思う?」
男性がビルを見上げながらあまりに真剣な声で言うので、由恵はてっきり自分が尋ねられたのだと思って肩が竦む。
「え、えっと――返してほしかったんじゃないでしょうか……?」
「え?」
由恵の返答に男性は驚いたようにこちらを見てきた。由恵は自分ではなかったことに恥ずかしくなってその場を早く離れたい衝動に駆られたが、それなら男性は誰に今の言葉を尋ねたのだろうか?
由恵は背中に寒いものを感じて早く新宿駅に行こうと道を急いだが、男性の横を通る際に肩を軽く叩かれた。
「な、何でしょう!?」
思いの外に上擦った声で応じてしまったことに軽く自己嫌悪しながら男性を見返すと、男性はオッドアイを自分に向けて優しく微笑む。
野生的な見た目とは裏腹に、その表情は子供のように素朴で、どこか安心させるものがあった。
由恵はそれに心臓が落ち着いて、冷静に相手と向き合うことができた。
「その、何か用でも?」
「いえ、一つだけ聞かせてほしいことがあるんです。昨日の朝、あなたはそちらのカフェで働いていたんですか?」
男性の質問をおかしく思いながらも、由恵は「いえ……」と首を振った。
「朝は大学があったので元々シフトが入ってないんです。これでいいですか?」
「はい。ぶしつけにこんなことを聞いたのに、丁寧に答えていただいてありがたいです」
男性の紳士的な態度にほだされつつ、由恵は一つだけこちらからも聞いておきたいことがあった。
男性の左目だ。
「あの、それは生まれつきなんですか? それともカラーコンタクトか何かを?」
男性は自分の左目のことを言われているのだと気づくと、気恥ずかしそうに前髪を梳いて左目を隠した。
由恵はそんな子供っぽい男性の仕種に内心で微笑ましいものを感じながら、男性の目をよく見つめる。
「これは、その、生まれつきですけど、ぼくの目じゃなくて、――」
「移植か何かですか」
「えっと……、そんなところです」
曖昧に笑って誤魔化そうとしてくる男性に、由恵は何か深い事情があるのだろうと察してそれ以上の追及は止めた。
体を斜めにしながら男性に丁寧にお辞儀をする。
「それじゃ、私はこれで」
「あ、ぼくもこれから帰るんですが、よろしければ駅まで一緒してもいいですか?」
男性が緊張からか少し硬い表情で尋ねてくるのを、由恵は戸惑いながらも受け入れて頷いた。
何となくこの男性と一緒にいると優しい気持ちになれるからだ。
男性は由恵が頷くのを見て安心したのか、微かに顔を綻ばせて歩き出した由恵の隣に並ぶ。
「ぼくは小田急線で相模大野なんですけど、もしかしてJRですか?」
「いえ、私も小田急線ですよ。成城学園前までですけど」
ビルが並ぶ通りを左に曲がって歩くと、コンビニを通り過ぎる。男性はそこでゴミ箱にレシートを捨ててからまた隣を歩き始めた。
「世田谷区でしたっけ? 狛江……?」
男性の何気ない一言に由恵は束の間何を言っているんだろうと考えたが、すぐにそれが成城学園前だと気が付いた。
思わずくすくす笑いが零れてしまう。
「――え、あれ? 間違えました?」
「いえ、世田谷区で合ってますよ。喜多見の次が狛江です」
あ、良かった。と、照れ隠しに笑う男性を見ながら、由恵はその様を好ましく思う。そういった子供に近しい感情を見せられると母性本能をくすぐられるのだろうか。
西口ロータリーの脇を通過して新宿駅西口に入ると、由恵はバッグから定期入れを取り出したが、男性は券売機の方へと歩いてゆく。
少し待っていると切符を持った男性がすぐに戻ってきて、右手側の改札へと一緒に向かう。
「SuicaやPASMOは持ってないんですね」
由恵が不思議そうに言うと、男性は改札を通りながら頭を掻いた。
「あまり電車を利用することがなくて」
「普段は車なんですか?」
「昨年まではバイクを使ってました。ぼくは専らツアラーを愛用していたんですが、今年の初めに壊れてしまって」
「修理とかはどうなんですか?」
小田急線のホームを奥を指差しながら尋ねる。この時間は小田急線も会社帰りや学校帰りで込み始めるので、改札に近い一番後ろの車両よりは奥の先頭車両が比較的空いているだろうという配慮からだった。
男性もそれを思ったのか、頷きながら口を開く。
「修理もちょっと値が張って……。マフラーとかが調子悪くなっただけなら部品取り替えて済むんですけど、駆動系が根こそぎやられてしまって」
恥ずかしそうに笑う男性に由恵は眉根を寄せた。一体何をしたらそこまで重大な故障が生じるのか、考えてもなかなかすぐには出て来ない。
「まあ、風に乗せられたというか、無茶な運転をしてしまっただけです」
由恵の表情を見て取ったのか、男性はそう言って話を終わらせた。
ちょうど、急行藤沢行きの電車が駅に入ってくるところだった。向かい側のドアが開いて乗客が減ると、手前のドアが開いて意外に空いている座席に二人は座る。
電車はしばらく停車していたが、二人の会話も自然止まってしまう。
ピロロロロロロ、と構内放送が鳴り、ドアが閉まる。
一度だけガタンと途中でドアがまた開くが、それもすぐに閉じられた。
電車が動き出して車両が夜の闇へと吸い込まれてゆく。小田急線が通っている先はなぜかJRのそれよりも若干暗く、由恵は感じる。
(JRが首都圏を通っているから明るい場所が多いだけかな?)
そう思い直して由恵は灰色の雲がかかる満月を窓から見上げる。
また明日も雨だろうか?
五月も半ばで本格的に梅雨入りしたのだろうかと思いながら、明日は晴れるといいな、と由恵は心の中で願った。
†
眼球の裏側がぞくそくと疼いた。
下瞼を這って忍び込んできた細い糸は眼球の下側に潜り込むと、水晶体に沿って眼球の裏側――血管や神経が密集する地帯へとその食指を伸ばす。
糸は優しく愛撫するようにその眼球の裏側を擦った。
臀部をなだらかな曲線に沿って撫でられるような、微かな甘い刺激に背中がぞくりと震える。
だが、それで終わりではなかった。
糸は神経が集まる眼球の裏側へと触れてきてそのゼラチン質の外側を犯してくる。
目玉の中にミミズが這うようなぶれた感触を味わい、嗚咽から苦鳴が漏れる。
糸は容赦することなくキリキリキリキリとゼラチン質の中に食い込み、遂に眼球の裏側がつぷりと鳴った。ちょうど、ヨーグルトにスプーンを入れた時のあの音だ。
眼窩に涙が溢れてきた。痛くも無いのに涙が溢れてきた。涙腺が振るえていないのに涙が出てきた。悲しくないのに涙が出てきた。眼球が後ろからおっつけられたのに涙が出てきた。
ポロリと眼球が落ちた。食い込んだ糸が外側へ引っ張られたからだ。糸ようじが歯の間を抜ける時の感触に似てる。
眼窩から落ちた眼球はひっくり返ってそれを見た。
赤い涙をぼたぼたと流す自分の顔を。
悪夢に目を覚ますと、俺はしっかりと両目でビジネスホテルの天上を見てほっと一安心した。
それでも気分は最悪だった。隣で窺うように俺を見てくる白いワンピース姿の少女を見て、自分の胸元へと抱き寄せる。
「どう、したのじゃ。タカハル?」
動揺して尋ねてくる少女――片瀬風祢に俺は何と言えばいいのか分からなかった。
ただ、悪夢を見た。それだけのことがなぜか俺には言えず、背中の汗が乾くまで風祢を抱き締めていた。
風祢は特に何も言わず、ただ慈しむように俺の後頭部を撫でて落ち着かせようとしてくる。俺は荒い鼻息を少しずつ整えると、両手を風祢の腰から更に密着するように抱き寄せてその胸を揉む。
「ふ、ふわぁ!?」
「まったく発育してないくせに感じるんだな――――ぃてっ!?」
俺が一つのトリビアを得るのと風祢が俺の頭を殴ったのは同時だった。俺が痛みに堪えかねて手を離すと、風祢がベッドの上で後退して俺から距離を開ける。
「そ、そんなに元気なら大丈夫なようじゃな!」
顔を真っ赤にしながら風祢が指差してきた先には俺の屹立があった。
俺は妙にその言葉に納得して、体を起こすことにした。まずは服を着ることが先決だ。
据え付けのドラム式洗濯機で洗った後に乾燥機にかけたことまでは覚えているが、実際に乾燥機を開けると中はもぬけの殻だった。
俺は首を傾げて懸命に昨夜のことを思い出そうと努める。
まず小田急線で相模大野に着いた俺は、借りているアパートの部屋がある大和市まで小田急江ノ島線で行こうとしたが、電車が嫌いな風祢がこれ以上は乗っていられないと駄々を捏ねたので相模大野に一泊することになった。
そして相模大野駅を出て目の前のビジネスホテルにチェックインした俺は、近所の牛丼屋で晩飯を済ませると部屋に戻ってきて洗濯を始めた。
洗濯機が動いている間に俺はシャワーを浴びて、洗濯が終わった洗い物を乾燥機に入れるとやることが無くなったのでベッドに横たわった。
結局服はどこに消えたんだ?
「服を探してたか。それなら私が暇だったので畳んでおいたぞ」
にぱっと笑いながらクローゼットを開けると、綺麗に折り畳まれた下着とワイシャツ、更に綺麗に折り畳まれてしまったスラックスと再開してしまった。
何重にも折り目がつけらたスラックスは節々に真っ直ぐな横線が入っていた。
俺は眩暈を覚えながら下着を身に付け、折り目のついたスラックスを穿くと顔を洗いに洗面台へと向かう。
顔を洗ってから寝癖を直すが、生来の硬い髪質は如何ともしがたく、どうしても髪が狼のように跳ねてしまう。
せめて前髪が邪魔にならないように少し横に流して、俺は洗面台を出た。備え付きのテレビを点けると、朝の天気情報がやっている。
東京や横浜は曇りのマークが付いていたが、窓から外の天気を見る限りでは幸いにも今日一日晴れそうな青空だった。
降水確率も決して高いとは言えず、まさしく降るも八卦、降らぬも八卦と言わんばかりに関西のある県では傘マークで三十パーセントという矛盾した予報を気象予報士もしている。
(低気圧は発達してきてるけど雲の動きを見る限り今日は降りそうにないな、ってところか)
いざとなったら風そのものに雲を追い払ってもらう方法もあるが――、と風祢を見れば、風祢は真面目な顔をしながら俺のスラックスの股間部分を凝視していた。
「お前、透視までできるのか?」
「いや、できぬが…………できたら便利そうじゃな」
目を輝かせて言ってくるが、実際に透視ができるとしたら肌を透視した場合、その内臓や消化器官、果ては胃腸に溜まった排泄物まで見えてしまうんだろうか。
俺は嫌な想像をしてしまい、頭を振ってそれを追い払う。透視なんてできない方がいい。少なくとも俺は。
「タカハルは、もし人間が透視をできたらまず何を見ると思う?」
風祢が指を交わすように俺の左手と自分の右手を重ねながら、視線を上げて尋ねてきた。
俺は真っ直ぐに風祢の瞳を見ながらぼんやりと考える。
所謂、覗いてみたい場所というのは限られているだろう。自分が決して立ち入れぬ場所。要するに銭湯やトイレなどの男女が区別されている場所がそうではないだろうか。
他にも俺個人としては某巨大テーマパークでネズミやアヒルの中に入っている人がどんな人かは気になるが、中に人など入っていないと信じるのが信義というものではないだろうか。
風祢は俺の心を読み取ると、小さく口を開いた。
「――――もう少し俗物的な考えをすれば、異性の体じゃ」
頬を赤く染めながら言う風祢の目を見つめた瞬間、俺もその意味するところを理解して、反射的に顔を逸らす。
それは、好きな相手の――。
俺は咳払いを一つすると、交わしていた手を離して立ち上がる。
俺は左目にある紅の眼を机の上にある鏡で見つめながら、改めて思った。
「見えることが必ずしも幸せとは限らないだろ」
その廃工場には浮浪者がいつからか住むようになっていた。
彼らは家も無く、金も無く、身寄りに見捨てられて流れ着いた先が、雨風を凌げる古びた廃工場だった。
毛布や荷物を持っている連中はまだ幸せな部類で、本当に何も持っていない人間は服すら春夏秋冬を通して一着しか持っておらず、冬は白い息を吐きながら顔面を蒼白にしてガタガタと震えていたのをよく覚えている。そして、翌朝には全身に霜が降りた状態で動かなくなっていた。
そんな連中の中に、生きるためなら窃盗どころか強盗、殺人、臓器提供と、何でもやる中年の男がいた。
男は常人より瞬きをする回数が少なかった。俺は今でもそのことだけよく覚えている。あいつの目は既に死んでいたのだ。だから、涙など流れない。
渇いている状態に慣れた男は、金さえ見せればどんな命令にも従った。あいつは既に人間ではなく、餌をチラつかされた犬同然だった。
そして夏の暑い盛りに、男は笑った。何があったわけでもなく、浮浪者が工場に遺棄されていたドラム缶で火を焚いている時に突然奇妙な笑い声を上げたのだ。
俺は遂に男が狂ったのだと思った。元々狂っている奴だったが、その狂信的な笑いは狂人のそれと何ら変わりは無かった。
そのけたたましい哄笑の中で、俺はそれを見た。否、見たくなくとも見てしまった。
地面の巨大な黒い影は飛行機のそれより大きく、空を見上げれば天上は一面黒い影で覆われていた。
とにかく、途方も無い大きさだった。
だが、その巨大なものの外側には蛇のような黒と緑の斑模様があり、非幾何学的な流跡線を描いたそれはその全体像を俺に見せた。
臓器の血の色に近い緋か紅のひれが流麗に揺らめいて、鱗のような表面がぐねぐねと蠢いていた。
それは人間の大腸を色づけしたものに近かった。その色彩豊かなグロテスクさに、俺は恐怖を通り越してただ笑うしかなかった。
きっと、あいつもそうだったのだろう。信じられないものを見たとき、人間は笑うしかない。結局、あいつも最後まで人間だったのだ。
自動車に引かれる直前、人は世界がスローモーションになると言うが、まさしくその通りだった。大口を開けたそれは人間ほどの大きさもあるピンク色の舌を伸ばし、男の腕と同程度に巨大な牙を光らせてがっぷりとあいつへと飛来してくる。
それはあまりにゆっくりでそいつが垂らした涎の本数、蠢く緑色の胴体の気色悪さ、半円型に並んだ牙が全部で三十六本あることまで明確に記憶できたにも関わらず、男は逃げることすらできずにその巨大な何かに左半身をばっくりと噛み千切られた。
乱雑にぐちゅぐちゅと噛まれた十二指腸は歯と歯の間から赤い血液と共にボトボトと垂れ落ちて、男の右半身は夏の陽射しの下に湯気を上げながらぐちゃりと倒れた。
俺の近くにいた浮浪者たちは一斉に混乱を来たして喚き立てるが、一人が工場で死んだ亡霊の呪いだと叫ぶと一目散に逃げ出した。
それでも、何も持っていない、本当の意味で明日にも死にそうな連中はその場に残った。俺もやはり、残っていた。
不意に俺はその化け物がみるみる縮んで肌色の、十五歳程度の裸体の少女になる幻覚を見た。
それはきっと夏の陽射しが見せたうたかたの蜃気楼だと思ったが、違った。俺が少女を左目で見れば確かにそれはあの巨大な化け物だった。
左目を閉じて右目で少女の背中を捉えて近付くと、肉を喰らっていた少女が俺に気付いて振り返ってきた。
俺は足元に固まる黒い血の海を見ながら少女に手を伸ばした。
少女は、俺の手を恐る恐る握った。
自らを風の竜と名乗るその少女こそ片瀬風祢であり、左目に生まれながらにして竜眼をはめられていた俺だけが視認できる姿だった。
他の人間に風祢を視認することはできず、風を感じることはあっても姿を見ることはできない。
だからこそ、風祢は俺にとって特別であり、また風祢にとっても俺は特別だった。
それでも、未だに左目の竜眼で風祢を見ると今でも俺は心が恐怖で凍てつく。それは例えば巨大な蜘蛛や巨大なハエを見るのと同じで、人間としての本能がそれを何か恐ろしいものに感じてしまう。
そういう理由で俺は風祢を見るときは意識して右目で見るようにし、風祢もそれが分かっているからかなるべく俺の左側の視野には入らないように意識的に俺の右側に立つようにしている。
俺は鏡の中に映る俺の左目に不快の念を向けながら、それを抉り出すことができないことに苛立ちを覚える。
「『見えることが必ずしも幸せとは限らないだろ』か……。なれど私は、タカハルに私が見えることによって幸せじゃぞ。ずっと、ずっと独りぼっちじゃったからな」
にぱっ、と笑いながらもその表情は硬く、何かを堪えているようだった。その風祢の遠慮に俺はイライラが募り、自分が人間であることを強く怨む。
俺が竜である風祢を見ることができるのはひとえに左目の竜眼のお陰だが、それでも俺は風祢のことが好きだから一緒にいるのだ。それに竜眼など関係ない。
俺はこのイライラを晴らすためにワイシャツの胸ポケットからマイルドセブンを取り出して口に銜えるとライターで火を点けた。
食道を通る草を乾かした苦い味が煙となって胃を刺激し、俺は最低な気分を味わう。空気を吸い込んで煙草という害悪にイライラを高めると、さっさと灰皿に煙草の先端を押し付けて潰した。
念入りに灰が黒く焦げるまでぐりぐりと押し潰し、ようやく寸毫の心の平穏を手に入れる。
冷静さを取り戻した頭で風祢に向き直ると、部屋のドアが開け放たれていた。
風祢の姿は部屋のどこにもいない。
俺は鼻で嘆息を吐き出すと、テレビの電源を消してワイシャツの襟を正し、ドアを閉めて風祢の後を追うことにした。
廊下を出て通路を左に行くと、簡単に風祢を見つけることができた。風祢は拗ねたように何度もエレベータのボタンを押していたが、一向にエレベータが上ってくる気配は無い。
「お前、何を怒ってるんだ?」
俺が呆れながら質問をすると、風祢は険しい表情で俺を睨み返してきた。
「葉巻臭いからじゃ!!」
風祢の怒りに俺が自分のワイシャツなどの臭いを嗅いでみるが、本当に一分ほどの僅かな時間しか吸っていないのでそこまで臭いはしない。
今までも何度かこうやって怒鳴られてきたが、その度にすぐ忘れてしまうので俺はこの機会にちゃんと聞いておこうと思った。
「なあ、もしかしてお前って相当鼻がいいのか?」
それこそ犬並みに。
もしそうだとしたら相当堪え難いものがあるだろう。これからはなるべく吸う時間を短縮する努力もしなければ。
俺は真剣にそう悩んだが、風祢はふるふると頭を振った。どうやら違うらしい。
「じゃあ別にいいんじゃないのか?」
「私は竜であり、風じゃ。臭くなるのはタカハルではなく私じゃ!」
「は?」
俺が理解できずに聞き返すと、風祢は俺から逃げるように距離を置く。その挙動に俺はますますイライラが募る。
いっそのこと実力行使で行こうと決心して通路の角に追い込むと、俺は嫌がる風祢を無理矢理抱いた。
風祢は俺の体を押し返し、その体を離そうとする。
「ダメじゃ、離れろ! 今の私は臭いんじゃぞ!!」
「いや、全然臭くないぞ。むしろ澄んだ空気の良い香りがする」
俺が風祢を抱きながら言うと、風祢は潤んだ瞳で俺を見上げてくる。
「――ウソじゃ。煙草の煙がこんなに私に纏わりついておるのに臭くないなど……」
風祢の言いたいことがやっと俺には理解できた。つまり煙草の臭いは風に流されるわけだが、それは即ち煙草の煙が風に纏わりついて風と共に去るのだ。
風の竜である風祢は存在自体が風であり、確かに仄かな煙草の臭いこそするものの、本当に風祢から清浄な空気の良い香りはする。
そういう微かな臭いで敏感に反応して気にする風祢にいじらしさを感じて、俺は胸の中に熱い感情が溢れ出す。
腕に力をこめてその体を強く抱くと、俺はその言葉を笑い飛ばす。
「俺はお前にウソは言わない。第一、心を読めるお前にウソなんて意味無いだろ」
「タカハル――――」
小さく風祢が呟く。
「――それでも私はタカハルの優しさに甘えられぬ」
一階のフロントでエレベータが止まっている事情を尋ねると、昨夜から誰も乗っていないのに勝手にエレベータが動くので電源を落としていたらしい。
俺は風祢を白い目で見ながらビジネスホテルを後にして相模大野の街を歩く。
駅前のビルが並ぶ通りから51号線に出ると右に進路を取って町田駅を目指す。二人ともに沈黙のまま歩いていると、谷口陸橋の手前でガストを見つけて俺の腹の虫がきゅるくくぅと弱気な鳴き声を上げた。
どうやら腹が減りすぎて大分弱っているようだった。
店内に入ってソファに座ると、風祢は向かい側の席に座った。
水の入ったグラスを持ってきた店員が注文を聞いてきたので、無難にチーズハンバーグにライスを付けて頼んだ。
朝九時にも関わらず店内には学生が何人かいたが、敢えて気にしないことにする。
正面に座っている風祢は興味深そうに周囲を見回していたが、レジに近い席に一人で座っているOL風の女性を見ると、ソファから離れて女性の側へと近寄っていく。
俺はその様子を見守っていたが、メニューが来て食べることに専念する。
チーズのとろりと溶けた部分を上手くハンバーグに絡めて咀嚼するが、味も食感もなかなか好きだ。
腹が減っていたことも相俟って熱いうちにそれらを食べると、今度は満腹感で腹の虫が消化に手間取ってるようだった。
水で最後に口の中を流すと、まだ風祢が戻っていないことに気付いて店内を見回す。
ちょうど先ほどの女性客がレジで会計を済ませている後ろに控えている。
俺は慌てて立ち上がると、急いでレジへと向かう。
女性が店の外に出るとそれに続いて風祢も店を出てしまう。
焦った俺は財布から千円札を出すとレジにそれを投げ、店から同じく飛び出す。後ろには店員の呼び止める声が聞こえたが、今はそれどころじゃなかった。
女性がメタリックブルーのセダンに乗ると風祢は車の前に自ら飛び出す。
「この馬鹿!」
俺がぞっとして駆け出す。
それでも車は既に加速を始めていてギリギリ間に合いそうに無い俺は、車と風祢の中間に立ち塞がる。車は急ブレーキをかけて路面に黒いタイヤ跡を残しながら大きく右に曲がる。
「はあはああ、はあっ、ッア――――ホかお前は!?」
俺が本気で切れながら風祢を怒鳴ると、風祢は紅い瞳で俺を見据えながら首を振った。
その様子に違和感を覚えた俺はそれ以上は何も言えず、無言で停車した車に向かっていく風祢を目で追う。
風祢は一歩ずつ静かに車に近付き、そのフロントの真横に立ってドライバーである女性を見つめる。
「――――これほどのフツサとは珍しい――――」
囁いた風祢は、車のドアを開け放ち出てきた女性に微笑んだ。女性は風祢には気付かず、一直線に俺に向かってハイヒールをカツカツ鳴らしながら歩いてきた。
俺は女性の怒りに満ちた顔を見て頭を下げた。
「その、いきなり飛び出したりしてすいません」
「まったくよ! 死にたいのアンタっ!?」
面目ないと謝るが、烈火の如く怒る女性は沈静する兆しを一向に見せない。
その傍らで風祢が女性のスーツの中に手を入れる。その手が胸の方へと上げられる。
「きゃっ!?」
女性は風に捲れたスーツの上着を押さえるが、風祢は隙間から手を伸ばし何かを触っている。
まさしく風のイタズラだった。
直後に風祢が女性のスカートを捲ると「いやぁ!?」とかわいらしい悲鳴を上げた女性が蹲って必死に隠そうとする。
その脚の間から何かがごとりと硬質な音を立てて落ちた。見れば、玉ねぎほどの大きさの真珠だった。
女性から手を離した風祢は嬉しそうにその真珠を拾い上げると、大切に持ち抱える。
一方の女性は強い眼差しで俺を睨んでくる。
「あっ、と……何も見えてないので気にしないでください。じゃあ俺は急ぐのでこれで」
「待って!」
言い逃れようとした俺を女性が呼び止める。俺が女性を見れば、女性は立ち上がって頭を下げた。
俺はそれに内心で驚いた。
「さっきは怒鳴ってしまってごめんなさい。最近忙しくてイライラしてたから八つ当たりしちゃったのかもしれません。でも、今度からはあなたも気を付けてくださいね」
先ほどとは正反対の対応に俺は困惑してしまう。一体何が起きているのだろうか。
女性は軽く俺に手を振ると車へと戻ってゆく。そうして俺が脇に避けて道を開けると車を発進させて行ってしまった。
俺は釈然とせずに、真珠を抱えている風祢を見た。
「何が起きたんだ?」
「AB型の人間は二重人格が多いとよく言われたり、女は二面性があると言われるのじゃが、このフツサという魂の欠片がそれらもう一つの人格を形成しているのじゃ。そしてこのフツサが無いか、或いは限りなく小さい人間は裏表の無い人間であり誰に対しても素の自分でいられるのじゃ」
「ふ~ん。てことは、さっきの優しいセリフのあの女性の本性だったってことか」
俺が去って行った車の後ろ姿を見ながら呟くと、風祢は持っていた真珠をばくりと口に含んでころころと舌の上を転がす。
その目が純粋な子供のような輝きを宿す。
「ふふぉまぬれふはぼ」
「飲み込んでから喋ってくれ」
風祢は喉を鳴らして真珠を飲み込むと、紅い瞳を仄かに光らせながら口を開いた。
「あの女性は会社の上司と不倫していたために、これほど大きいフツサを持っていたが、それが無くなった今、その関係を解消しようとするじゃろう」
「別にそれならそれでいいことじゃないか?」
俺が何気なく言うと、風祢は寂しく笑って首を振った。
――腹の子は堕ろすじゃろうな…………。
鼓膜には風祢の冷ややかな声が響いていた。
†
町田駅で小田急線に乗って新宿駅まで来ると、俺はまたあのカフェへと足を向けた。
隣に建つ高層ビルは一見して普通の会社であり、新聞で見た死んだ男と何らかの関係があるようには思えなかった。
まして、男が本当にこのビルを目指していたかどうかは怪しい。
俺は風祢がビルの外観を眺めている間暇だったので道でマイルドセブンを吸っていたが、火を点けては片っ端から吸いかけの煙草を地面に捨てて踏みにじるので、足元には既に七本の吸い殻があった。
ワイシャツの胸ポケットから箱を取り出して逆さまにするが、生憎と中にはもうライターしか入っていなかった。
俺は通りを挟んで斜向かいのコンビニに入るとレジでマイルドセブンのアクアを買う。店を出て早速一本目を吸うが、嫌いな臭いというのは何本吸っても嫌気が増すばかりでイライラが募る。
胃に落ちてくる煙を吐き出すように長く息を吐くと、火を点けて一口しか味わっていない煙草を地面に捨てて踏み潰した。
高層ビルの前に戻ると風祢が俺のことを待っていたが、俺が煙草を吸っていたからか少し不機嫌そうだった。
「それで、調べ物は済んだのか?」
俺の質問に風祢は頷くと道を歩き出した。その足取りは明確で、何かを辿るように道を西に取る。
しばらく歩いて東京都庁を越えた先――新宿中央公園に入ると、新宿ナイアガラの滝に行きその前にある境界としての石段に手と膝をかけて上ると、白とお黄緑の縞々のパンツがそのワンピースの中に見えた。
「これ! 何を見ておるのじゃ!?」
視線に気付いた風祢がワンピースの尻の方を押さえながら睨んでくるが、俺はそっぽを向いて知らぬフリをした。眼福だったとは口が裂けても言えない。
「ううぅ~~~~……」
唸りながら俺を睨んでいた風祢は唇を尖らせながらも正面に向き直り、新宿ナイアガラの滝の水辺に手を入れる。
ちゃぷちゃぷと水を跳ねさせていた風祢は、やがて手を水から引き上げた。その小さい手には何かが収まっている。
俺が疑問に思いながら目を向けると、それはビー玉くらいの白玉に見えた。
俺はなぜ白玉がこんなところに落ちているのだろうと、風祢を石段から下ろして白玉を受け取ると更に近くで見る。
背筋が凍った。
白玉は、眼球だった。
黒いはずの瞳は濁って白と同化している薄い灰色のようになっていたが、それは紛れも無く人間の眼球だった。それも二つ。
俺にはようやく風祢がここに来た理由と死んだ男に眼球が無かった理由が分かったが、それだけでは片手落ちだった。
なぜここに男の眼球は落ちていたのか?
風祢はその両目を見ながら、弔うようにその前で両手を重ねた。死んだ男の霊でも供養しているというのだろうか。
「霊ではないぞ。しかし霊能力に近しいものはある。現場に残っていた微かなにおいや音、そういった人間が生み出す不自然な気配の中でも特に強い気配を辿ったらここに着いた。それだけのことじゃ。いわゆる直感じゃな」
インスピリチュアルすぎる解説に俺は辟易としながら、持っていた目玉をスラックスのポケットに入れた。
水の中にあって保湿されていたからか形は崩れていなかったものの、だからこそ弾力のあるそれを肌に直接触れているのは生々しくて少々抵抗があった。
風祢はそんな俺の様子に微笑みながら抱き付いてくる。俺は反射的にその体を受け止めた。
柔らかい少女特有の体付きや温かい体温、実体同然の重さを両腕に感じて俺はそのことに安心する。今、俺は風祢を掴んでいるのだ。
風祢は嬉しそうににぱっと笑うと、
「そのままのタカハルでいてほしいのじゃ」
ささやかな、けれど俺には無理な願いを口にする。
俺は風祢を失いたくないが、そのためには人間と一緒にいるのでは障害が多すぎた。
今回こうしてここに出向いてきたのもすべてはそれが理由だ。
「何と言われようとも、俺は風祢と一緒にいるために鬼を喰うだけだ。そして竜になれば、俺はずっとお前と――」
それ以上を言うのは躊躇われた。それが果たして実現可能なのか、また、それ以上を口にするほどの決意が俺の中にあるのかまだ分からなかった。
ただ漠然と竜になる方法を模索していた俺に鬼を喰らうことによって竜の力を得られると助言した女を、俺は本当に信用していいのだろうか。それが分からなかった。
だが、何もしないよりは試してみた方が建設的だ。立ち止まっていては何も解決できない。
俺は風祢を引き離すとまず最初の謎を解決することにした。
「で、結局何で目玉がここに落ちていたんだ?」
「さて……」
風祢は肩を竦めながらお手上げしたが、その表情にはあまり困惑したような感は見受けられなかった。
何か秘策でもあるのだろうか。
俺がそんな期待から次の言葉を待っていると、再び風祢は歩き出した。今度はまたあのビルの方角を目指しているようだった。
俺は訳が分からず頭の中が混乱するが、風祢が余裕綽々の笑みを浮かべてこちらを見返してくる。
「臥龍孔明の策をご覧に入れましょう、なのじゃ!」
竜だけに臥龍とかけたつもりなのだろうか。得意げに笑う風祢を見ながら、俺は一体風祢がどこからそういったネタを仕入れてくるのだろうと不思議に思いながら、その後に従う。
カフェの中ではエプロンに野沢と名前が表記された名札を付けて忙しそうに働く女性の姿があった。昨日、小田急線で成城学園前まで一緒をした女性だ。
俺は昼飯を新宿駅の近くのとんかつ屋で済ませるとまたここに来た。ポケットには丸い目玉を二つと、反対のポケットにスーパーで買った普通の白玉を二つ入れて。
隣に立つ風祢はなぜか楽しそうだった。
「鬼が出るか蛇が出るか」
どちらに転ぼうとも何かしらの答えが出てくるという意味だろう。いや、もしかすれば字面通り鬼か蛇かが出て来ないとも限らないが。
俺は緊張から固唾を飲み込み、足を踏み出す。風祢は静かに俺の後を付いて来る。
「いらっしゃいませ~」
忙しくレジを打つ店員が何人かこちらを向いて挨拶をしてきた。
その中には当然、野沢さんも含まれている。
入店したのが俺だと気付いた野沢さんは軽く会釈してくる。親しいわけではないが、顔見知りとして最低限の礼儀を尽くしてくれたのだろう。
――……俺の良心がちくりと痛んだ。
それでも俺のやることに変わりは無い。当初の予定通りに敢えて手前のレジを無視して野沢さんの前まで行くと、右のポケットから白い眼球を二つ出した。ただし、彼女には白い表面が少し見えるか見えないかくらいの角度でワイシャツの裾に隠す。
野沢さんはその一瞬を見逃さず、急に険悪な表情で俺を見つめてきた。
餌にかかった魚が暴れる前に、俺は素早く次の作戦に移ることにした。
「店の裏側で話をしたいんですが、少し店を出れますか?」
俺の誘いに野沢さんは無言で頷くと、店の奥へと入っていった。店長らしき年長の女性と何かを話していると、店長がこちらを見てきた。一応それに頭を下げて会釈をする。
店長はにこっと笑顔で俺に軽く応じると、野沢さんに何かを言った。頭を下げた野沢さんが再び俺のところまで戻ってくる。
「店長に少し時間を頂いたのですぐに行けます」
満面に笑みを浮かべる女に俺は冷たいナイフの刃先を首に押し当てられたような錯覚を起こし、冷や汗で背中が震えた。
予想以上の反応に、左目がキシキシと神経が伸びきったような鈍い痛みを覚える。いずれはゴムのように千切れなければいいが……。
俺は先を行く女性の後に続いて店を出る。風祢も同じようにひょこひょこと付いて来るが、野沢さんに対して警戒心を寄せているのか鋭い双眸を彼女の背中から一秒たりとも離そうとはしない。
こっそりと両目をダミー用の白玉にすり替えて持ち、ワイシャツの裾からはみ出ないように細心の注意を払う。もし勘付かれたら作戦は失敗だ。
ビルとカフェとの狭い隙間を通って業務用出口やゴミ箱がある店の裏側に来ると、俺はカフェの後ろにあるビルの壁に背を預けて、隣に風祢が並んだのを確認してから野沢さんに向き直った。
「好きだったんですね、彼の目がそんなにも」
俺の言葉に野沢さんが目を見開く。そして詰め寄るようにして俺と密着してくる。
「そんなの一種のフェチじゃないですか。足や口や指が好きな人と同じように、私のこれも単純に目が好きだっただけじゃないですか」
じっと食い入るように見つめてくる野沢さんの、その『目』を見つめながら俺は微かに笑う。
『本当に好きなものの為なら人間はどこまでも貪欲になるのじゃ』
風祢の言葉を思い出し、俺はそれを肯定する。ああ、そうだ。俺もまたこうしているのは風祢がほしいからだ。
俺は自分の中で育つ風祢への想いを認め、白玉を握り潰す。べっとりと手の平には形の崩れた白玉がくっつく。
それを見ていた野沢さんが顔面を蒼白にした。
「アアッ!?」
握り潰された『自分の目』――と彼女が勝手に思い込んでいるだけの白玉――を手の中で更に揉んで潰し、彼女の反応を促すと、風祢の予想通り俺に飛び掛ってきた。
「返してッ!!」
潰すことを止めようとしない俺の右手から目をひったくろうと、野沢さんは右手を伸ばして掴みかかってくる。
俺はその腕を払うと冷静に相手の膝に自分の足をかけて転ばせ、その頭を靴で踏む。
「くぅっ!」
悔しそうに呻く野沢さんを見下ろしながら、俺は本物の『野沢さんの目』をポケットから取り出す。
「これはやっぱりあなたの目だったんですね。そして、一昨日死んだ男の目は今、あなたの顔に収まっている」
自分自身、こんな気持ち悪いことを言っていて反吐が出そうだった。いくら相手の目が好きだからといって、それを奪って自分の眼窩にはめるなど正気の沙汰ではない。
それでも野沢さんは鋭く俺を睨み、なおも返してと低く呟くように呻いている。
「一昨日、あなたはこれを彼氏である男から奪い、そして彼は目を取り返すためにあなたのバイト先まで歩いてきた。ところが残念なことに彼には目が無い。歩き慣れた道だから大体の方角と距離は知っていたが、惜しいことにそれはカフェの横のビルだった。合ってますか?」
俺の確認に野沢さんは息を荒くしながら涙を、――否、紅い涙を下瞼から縷々と流す。
「あ、ああ、ああああああああああああ――――――!?」
悲鳴を上げて両手で目を塞ぐと、野沢さんはゴロゴロとその場で左右に激しく転がり、やがて自ら眼窩に指を入れ始めた。
「いや、いやあ、やめてええええええええええええっ!!!!」
――ぐちゅ、ちゅぷくちゅぶちゅ。
「あ、あぁん、あああ、んあああああああああああああっ――――!」
汚らしい水音と女の金切り声が裏路地に響き、俺はそれに激しい悪寒を覚える。無意識に足は彼女の頭から離れていた。
赤い水溜りの中にどろどろに濁った眼球がぷかぷかと浮いている。その横の野沢さんは未だに低く唸りながらも暴れることは止めていた。
やがてその苦鳴も収まった。
俺の手から滑り落ちた野沢さんの目玉はコロコロと女の体の傍らへと転がっていく。その行き先を俺の視線が辿っていると、野沢さんの顔の前で目玉は転がるのを止めた。
黒い眼窩の女は既に事切れていた。
†
翌日はまた雨だった。
沈鬱な気分で俺がミルクを足したブラックコーヒーを啜っていると、細川という名札を付けた女の子の店員が俺の横に立った。
「何かご注文はございませんか?」
俺が女の子を見返すと、何となく見覚えのある『目』に心臓が凍った。
まさか、と頭の中ではその想像を否定する。だがもし――――。
「――えっと、無いですけど……昨日と何か違いませんか?」
おずおずと興味本位で尋ねると、女の子は『目』をぱっちりと開けて俺を見つめてくる。
俺の膝に座っていた風祢がそれを見ながら呆れたように苦笑した。
「あっ、はい! ちょっとだけ『目』を変えてみたんですぅ」
にこやかに微笑む女の子を見ながら、俺は左目がキシキシと鈍く痛んだ。