第三章 崩れかけたバトン
――受け継ぐ者が、いなくなる日――
伊木力の斜面は、今日も変わらずそこにある。
だが、登る人の数は、確実に減っていた。
男――山野は、畑の中ほどで立ち止まり、息を整えた。
ふと見渡すと、周囲の斜面に人影はない。
以前は、朝になればあちこちで鍬の音が響き、声が飛び交っていた。
今は、風の音と、葉が擦れる音だけが残っている。
「○○さんの畑、今年で終わりらしか」
そんな話を聞くことが、珍しくなくなった。
高齢化。
人手不足。
言葉にすれば簡単だが、実態はもっと重い。
伊木力では、みかん作りは家業だった。
親が畑に立ち、子がその背中を見て育つ。気づけば自分も斜面を登り、同じように肥料を背負っている。それが当たり前だった。
だが、時代は変わった。
若者は町へ出た。
斜面での作業は、きつく、危険で、収入も安定しない。
「継がなくてもいい」
そう言われるようになった。
山野自身も、迷った一人だった。
同級生たちは、会社員になり、別の土地で暮らしている。
週末に帰省するだけで、日々の生活はまったく違う世界だ。
彼らの話を聞くたび、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。
――自分は、このままでいいのか。
斜面に立ち、汗を流し、天候に振り回される毎日。
努力が、必ず報われるわけでもない。
それでも山野は、畑を離れなかった。
理由を問われても、うまく言葉にはできない。
ただ、ここに立たなくなった自分を想像すると、胸がざわついた。
畑の一角に、手入れの止まった樹がある。
以前は、近所の年配の農家が世話をしていた場所だ。
今は、草が伸び、実も小さい。
「もう、体が言うこと聞かん」
そう言って、その人は畑を下りた。
それが最後だった。
斜面は、人を待ってはくれない。
手を入れなければ、すぐに荒れる。
一度荒れた畑を戻すには、何倍もの労力が必要になる。
山野は知っていた。
このまま何もしなければ、伊木力みかんは、ゆっくりと消えていく。
味が落ちるからではない。
斜面がなくなるからでもない。
作る人が、いなくなるからだ。
夕方、山野は畑の上から海を見下ろした。
大村湾は、昔と変わらず穏やかに光っている。
二百年前、この斜面に最初の苗が植えられた。
それからずっと、誰かがバトンを受け取り、次へと渡してきた。
だが今、そのバトンは、宙に浮きかけている。
「このままじゃ、終わる」
その言葉が、胸の中で何度も繰り返された。
山野は、ポケットから携帯電話を取り出した。
連絡先を眺める。
同じように畑を守り、同じように悩んでいる顔が、次々と浮かんだ。
一人では無理だ。
だが――。
画面を閉じる前に、山野は小さく息を吸った。
まだ、手はあるかもしれない。
この斜面を、終わらせないための。
伊木力みかんの物語は、ここで一度、立ち止まる。
だが、それは終わりではなかった。
静かな決断が、もうすぐ下されようとしていた。




