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第一章 海と山のあいだに生まれた奇跡

――斜面に植えられた一本の苗――

伊木力の山は、最初から人に優しい場所ではなかった。

大村湾に向かって落ち込むように続く急斜面は、足を踏み外せば体ごと海へ持っていかれそうなほど険しく、土は薄く、雨が降ればすぐに流れ落ちた。

田畑を作るには向かない土地だと、誰もが知っていた。

それでも江戸のある年、この山にみかんの苗が運び込まれた。

大村藩主・大村純鎮公が命じたと伝えられている。

「この地で、柑橘を育てよ」

村人たちは顔を見合わせた。

なぜここなのか。

なぜ、わざわざこの斜面なのか。

平地ならまだしも、この山は人が立って作業するだけで精一杯だ。

鍬を振るうにも足場を固めねばならず、苗を植える穴を掘るだけで息が切れる。

水を引くことも難しく、干ばつが来ればすぐに枯れるだろう。

無謀だ――そう思わなかった者はいない。

だが命令は命令だった。

村の若者たちは、苗を背負って斜面を登った。

潮の匂いが強く、潮風が絶えず吹きつける場所だった。

土はごつごつとした石混じりで、指の間からこぼれ落ちるほど軽い。

苗を植え終えたとき、誰かがぽつりと言った。

「ここで育つわけがない」

誰も反論しなかった。

ところが、その苗は枯れなかった。

雨が降れば水はすぐに抜け、根は腐らずに済んだ。

日が昇れば遮るもののない陽射しが葉を照らし、潮風が樹を鍛えるように吹き抜けた。海から運ばれる微かな塩気が、土に混じっていく。


数年後、樹は実をつけた。

小ぶりで、決して見栄えが良いとは言えない実だったが、口に含んだ者は皆、言葉を失った。

甘い――。

ただ甘いだけではない。奥に残る、深い味。

「斜面が、余計な水を捨てとる」

「海の風が、樹を甘やかさん」

誰かがそう言い始め、いつしかそれが当たり前のように語られるようになった。

こうして伊木力の山は、“不向きな土地”から“選ばれた土地”へと変わっていく。

時代が移り、人が入れ替わっても、斜面は変わらなかった。

楽になることは一度もない。だが、みかんの味だけは、裏切らなかった。

いつしか人々は理解する。

この山は、努力した者にだけ報いる場所なのだと。

楽をしようとすれば、何も実らない。

だが、手をかけ、樹と向き合い続ければ、必ず応えてくれる。

伊木力みかんの歴史は、こうして始まった。

一本の苗と、無謀とも思える選択から。

それはまだ、後に二百年以上続く物語の、ほんの序章に過ぎなかった。

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― 新着の感想 ―
導入から一貫して強いのは、「なぜ、ここなのか」という問い。 急斜面・痩せた土・潮風――農業に不向きな条件を、説明ではなく身体感覚として描くことで、読者は一瞬で現場に立たされます。 一本の苗を背負って登…
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