はじまり
赤海大学といえば、東京にあるいわゆる有名私立大学であり、一般的には卒業すれば高学歴として扱われることが多いが、日本トップレベルかと言われれば微妙なラインに位置する大学である。金持ち、美男美女が多く、世間からは”キラキラしてる”と言われがちだ。
大川田 翔は赤海大学文学部2年、地方からの上京組である。
「あぁ…だりぃ…。」
1人暮らしの静かな部屋のベッドの上で、重くなった体を起こしながら、翔はそれだけ呟いた。薄暗い部屋で煌々と光るスマホの画面には10:45の表示が見えた。火曜日は13時からの講義に間に合えばいいので、ちょうどいい時間に起きられて、言葉とは裏腹に、翔の気分はわずかに弾んだ。
翔の身支度は至ってシンプルかつ素早いルーティン・ワークだ。来ていた服を洗濯機に突っ込んで、シャワーを浴びて歯を磨く。クローゼットの中から適当な服を取り出して袖を通し、軽く前髪を上げてセットしたらそれで終わりである。しかしながら、これでなかなか見栄えがいいのは、彼が比較的高身長のいわゆるイケメンの部類に属する男であるからであろう。
「んー…っし、おっけ。」
鏡の前でほんの軽く自分の身なりを確認し終えた翔が家を出たのは11時半のことだった。大学までは約1時間。電車を1回乗り継ぐ、なんとも微妙な距離だが、この時間においては非常に空いていて快適だ。朝はもう、目も当てられない大混雑なのだが。
外はくもってはいたが、家から駅はほんの3分程度だし、すぐに地下鉄に乗ってしまうので天気はあまり関係ない。6月にしては少し涼しい外気温が、翔のやや遠い距離の通学をサポートするようであった。
ピピッ!
立ち寄ったコンビニで聞き慣れた電子決済の音が響いた。残高はー
782円
翔は軽くため息をついた。今月もなかなか厳しい生活が待っていそうだと感じたからである。翔は学内で見ても勉強はかなり出来る方だし、運動神経も人並み以上。見た目は明らかに良いし、一見して特に問題のないように思われる。
ただ、いつも金欠なのである。
奨学金と塾講師のアルバイトで十分一人暮らしは可能であるし、学費も賄えるのだが、彼には浪費癖があった。そう、パチンコ屋や場外馬券場に吸い込まれるように入って行っては、大抵沈んだ顔か苛立った顔で出てくるのである。逆のことは、稀にしかない。したがって、今月も例に漏れずあと1万円とちょっとでバイト代と奨学金が口座に振り込まれるまでの13日間をしのがなくてはならないのだ。
「どうすっかなぁ…。」
誰に向かって言ったわけでもない言葉が、都会の喧騒にあっと言う間に溶けていった。
まもなく大学に到着する、そんな瞬間のことであった。
『大川田さんですよね?』
大学正門手前で、声をかけられた翔の目線の先には、パーカーを着た若い同世代の、小柄な男が立っていた。
「そうですけど…えっと、失礼ですがどちら様でしたっけ?」
翔の人付き合いは限定的である。サークルにも入っていなければ、学内でも積極的に友人づくりはしてこなかった。故に、友達と呼べる存在は比較的少ない。そして今目の前にいる男は、明らかにそれではない。
『急にごめんなさい。実は、私こういうものでして…。』
差し出された名刺には
佐藤 太郎
とだけ書いてある。身分も肩書もなければ、紙自体もドがつくほどのシンプルな白地のものである。
差し出された名刺を受け取りながら左手の腕時計に視線を落とすと、既に講義開始15分前であった。
「えー…っと…ごめんなさいちょっと、急いでるので…。」
確かに急いではいたが、どちらと言うと気味の悪さに嫌悪感を覚えた翔は、話を終わらせにかかる。間髪入れずに佐藤と名乗る男から、次の言葉が発せられる。
『あぁ、大丈夫です、私ここで待ってますので。14時半には終わりますよね。』
「え、あぁ…はい、そしたらまた後で。」
翔は反射的にそう言いつつ講義室に急ぐしかなかった。なにせ、講義には遅れたくはないし、気味が悪いとは思いつつもほんの少しではあるが、この男が何者なのか、自分に何の用があるのか気にはなっていたからだ。
講義中はもはや佐藤のことで頭がいっぱいで、内容など頭にほとんど入らなかった。
講義が終わり、再び正門に向かうべく荷物をまとめながら、本当にまだ自分を待っているのか、どこかで会ったことがないか、何者なのか…色々な考えが翔の脳裏を走り回っていた。そして、あることに気づいた。
(あれ…?なんであいつ、俺の今日の講義がこの一時限だけって知ってるんだ…?)




