第27話 名前を呼ぶ 2.関係(2)
* * *
ホームに帰った三人はリビングのソファにそれぞれ座っていた。ローテーブルには岬が用意した麦茶の入ったグラスが置かれている。巽は一口で半分を一気に飲み干し、逆に聖は礼を言っただけでまだそれに手をつける様子はない。
渚は夕と大の二人を連れて、今日は梓達と共に外食に出かけている。今ホームの中は三人だけだ。どことなく硬い空気の中、聖は厳しい表情で隣に座る岬を見た。
「あんた、シンと連絡取ってるのか?」
「・・ううん。」
「なら、シンと会ったのは何度目だ。」
真剣な彼の目が岬を射抜く。斜め前に座っている巽もそれは同じだった。誤魔化すことなど出来ない雰囲気に、岬はおずおずと口を開く。
「3・・回目。」
「3?ここで初めてあった時と今日と、後は?」
そう問い詰められ、思い出したのはあの日。バイト帰りにシンに声を掛けられ、彼の会社まで案内されて話をした。ソファに座った岬の隣に腰を下ろし、シンの冷たい指先が触れて――
あの時の感触と恐怖心が蘇る。岬は無意識に自分の二の腕を握っていた。その仕草に気づいた聖は彼女が真っ青な顔で自分の部屋の前に立っていたことを思い出した。
「・・・あの日か?」
倒れそうなほど顔色が悪く、何かに怯えた彼女の表情を今でもはっきりと覚えている。まさか、シンが岬に何かしたのか?
肌が白くなるほど力の篭った岬の右手は引き剥がされ、代わりに聖の手が手のひらに絡んだ。岬は何も言えずに下を向く。
「おい、コラ待て。あの日ってなんやねん。」
二人の異様な様子に驚いた巽が口を挟むが、その時のことを説明する余裕はない。聖は焦りを感じて岬の指に絡んだ手に力を込めた。
「どうして黙ってた?何があったんだ?」
「な、なにも・・。話をしただけで・・」
「なら、どうしてそんな顔してる?」
「わ・・分かんないの。」
ただ泣きそうな顔をしている岬に、聖と巽は顔を見合わせた。シンに何かされるなり、言われるなりしたなら怯えるのは分かる。けれど話をしただけというのなら何故?岬は対人関係において積極的なタイプとは言えないが、かといって人と接するのが下手なわけでもない。
二人の困惑が分かったのか、岬は申し訳なさそうに床に視線を落とした。
「自分でも、分かんないの。あの日のことは、よく。」
「・・・分かった。」
もう、それ以上聖も巽も追求はしなかった。もどかしい気持ちは確かにある。とことん問いつめて、彼女の不安をなくしてやりたい。けれど殻を無理にこじ開けて傷をつけたいわけではない。
「岬。」
強い口調の巽の声に岬は顔を上げる。
「次にあいつに会ったら俺が聖に必ず連絡せい。ええな?」
どうして?と疑問が浮かぶが、二人の真剣な表情に押されて岬は無言で頷いた。
シン=ルウォンは仲間だと聞いている。岬自身はそれ程人付き合いが上手い方だと思っていないけど、梓やクリスのように彼とも親しくなれると思っていた。それなのに彼を怖いと思ってしまったのは、自分が外国人や大人の男性に免疫がないからではないか、と考えている。けれど聖や巽の様子を見ているとそれだけだとは思えない。二人は最初からシンに対して良い印象を持っていないかのように話をしている。巽はともかく、聖にとってシンは姉のパートナーだった人だ。それなのに、何故?
「あの・・・」
思い切って口を開いた岬の声に二人に視線が集まる。それに気まずさを覚えたが、それでも疑問を言葉にした。
「シンさんは・・・どういう人なの? 」
黙って視線を交わす二人。先に口を開いたのは巽。
「渚はあいつに恩がある。けど俺はあいつを仲間だとは思ってへん。」
次に岬が隣に顔を向ければ、聖は目線を合わせずに呟いた。
「・・あいつは異常だ。」
異常って何?
一瞬ぞくりと背筋に寒気が走る。けれど、二人の空気にそれ以上は聞けなかった。
同じパートナーを持つ仲間。けれど聖と巽は彼のことを仲間だと思っていないと言う。渚達はどう思っているのだろう。彼らの方がシンと歳が近いから、また違うのだろうか。
(シンさんって、何者なんだろう・・・)
中国人で、若くして会社を経営している社長。立派な人だと思うけれど、岬自身も素直に彼のことが好きだとは言えなかった。いつも穏やかな顔をしているのに、無遠慮に自分の腕に触れた指の冷たさは、そのまま彼の心の温度を現しているように思えてならなかった。
3人で夕食を済ませ、渚達が戻ってくると入れ替わりに巽が寮へと帰って行った。その後は風呂に入って自室で一息つく。岬はあまりエアコンが得意ではなかったが、今日は蒸し暑いのでつけていた。除湿モードで設定温度は28℃。風呂上りでは少し暑く感じるが、すぐに涼しくなるだろう。
(今日は色々あったな・・・)
自分の想いを自覚して、巽に返事をした。帰りに聖が迎えに来てくれて、そしてシンに会った。シンのことについてはまだ分からない事だらけだ。
(そう言えば、橘君が迎えに来てくれたのはびっくりしたな。)
嬉しかった。何かのついで、ではなく自分を迎えに来てくれたこと。好きな人に優しくされることが、こんなにも胸を温めることなのだと初めて知った。
(好きな人、かぁ・・・)
自覚したばかりの想いはまだまだふわふわした頼りないもので、巽の前で言葉にするのも恥ずかしかった。考えるだけで浮き足立つような、じっとしていられないような気持ち。傍にいて、安心感を与えてくれていた兄とは違う。安心どころか些細なことで心臓がせわしなく鼓動する不安定さ。けれど決して不快ではない。こんな風に胸が高鳴る感情を自分が持っていたことに驚いているくらいだ。
岬は見た目が大人っぽい訳ではないけれど、どちからと言えば「落ち着いてるね」と友達から言われる方だ。ミーハーに異性やアイドルに対して騒ぐこともなく、感情を顕に泣いたり怒ったりするわけでもない。「大人だね」とか「落ち着いてるよね」と言われる度に、自分でも元々そういう性格なのだろうと思い込んでいた。けれど今はどうだ。聖のことを考えるだけで、鼓動が早くなる。顔が熱くなる。そして極めつけは、あの夢。
(・・恥ずかしい。)
妄想は正義だ!とある友達はよく言っていたが、こんな妄想は流石に誰にも言えない。本人だって、こんなに近い距離で勝手にそんなことを考えている人間がいると知ったら嫌な顔をするだろう。
(あの夢のことは墓まで持っていこう。うん。そうしよう。)
本人に知られたら恥ずかしすぎて心臓が停止すると思う。そんなことを考えてた時、自室のドアがノックされた。
(あ、橘君・・?)
段々慣れてくるとノックの音の主が誰か聞き分けられるようになってくる。岬は慌てて返事をすると、先程までの頭の中を振り払うように首を横に振り、深呼吸してドアを開けた。
「はい。」
案の定、そこにいたのは聖だった。紺色のTシャツに下は黒のスウェット。彼も風呂上りなのか、黒髪が少し湿っている。なんてことない格好なのに、何故か胸が大きく鼓動する。それを誤魔化すように、らしくもなく早口で質問した。
「どうしたの?」
「・・俺の部屋のエアコンが調子悪い。」
「え?」
「だから涼みにきた。入っていいか?」
「あ、うん。どうぞ。」
夜とはいえ8月の夜にエアコンなしでは辛いだろう。岬は素直に彼を招き入れた。時刻は23時過ぎ。同居して半年以上が経つけれど、用という用なしに彼がこの部屋に来るのは珍しかった。
「顔色戻ったな。」
どこに座ってもらおうかと悩んでいた時、その言葉と同時に聖の手が岬の頬に触れた。あぁ、心配して見に来てくれたんだ。やっと聖の意図に気づいて岬の表情が緩む。
「うん。大丈夫。ありがとう。」
「ここは?」
聖が触れたのは左腕。岬が一度無意識に握っていた二の腕部分。
(熱い・・・)
自分の肌に触れる聖の手がやけに熱く感じる。単純な自分との体温の差なのか。それとも・・
「痕にはなってないな。」
「・・うん。」
「岬。」
(あ、名前・・・)
今朝、戯れに聖に呼ばれた名前。それを思い出して一気に顔が熱くなる。気づかれたくなくて下を向いてしまうと、聖が耳元に口を寄せた。
「こっちを見ろ。」
大きな手のひらが岬の両頬を包む。あまり強くない力で上を向かされ、弱弱しく見上げれば視界に入ったのは笑みを浮かべた聖の姿。彼は岬と目が会うと、楽しそうに目を細めた。
「真っ赤だな。」
「だ、だって・・」
「だって?」
「橘君が・・」
「名前は?」
「え?」
「名前。」
まさか、また下の名前で呼べと?
渚達の前では普段通りお互い苗字で呼んでいるのに、どうして今は名前で呼ばれたがるのだろう。
「岬。」
ダメ押しの様にもう一度呼ばれ、心臓が爆発しそうに煩くなる。益々赤くなる顔を誤魔化すことにも頭が回らず、岬はぎゅっと目をつぶる。
「ひ・・、聖くん・・・わっ!」
突然襲ってきた浮遊感。何事かと目を開けば、いつの間にか岬はベッドの上に転がっていた。お腹には自分のものよりも太い両腕が回っていて、背中に温もりを感じる。
(あ、あれ??)
混乱する頭を必死に動かし、後ろを振り返ろうと身をよじるが、ぎゅっと抱きしめられてそれは叶わなかった。
「聖、くん?」
「ん。」
「え、えと・・。何を・・」
「眠い。」
「眠いって・・・、え!このまま寝るの!?」
「ん。」
(え、えええぇぇぇぇ!!!)
すっと片腕が離れたかと思うと、ベッドヘッドに置いてあった蛍光灯用のリモコンに伸びる。そしてスイッチが切られた。青白いぼんやりとした外の明かりが入ってくるので真っ暗ではないが、後ろから聖に抱きしめられたままの体制で、大人しく眠れる筈がない。あまりに近い距離に、バクバクと煩い鼓動の音が聞こえてしまいそうだ。エアコンの使えない部屋で眠るのは辛いだろうが、何故こうなってしまうのだろう。
どうしようどうしよう、とぐるぐる混乱していた時、不意に温かくて柔らかいものが足に触れた。身に馴染んだこの感触はパートナーのものだ。
「雪・・?」
「ニャー。」
長めに鳴いた雪は、どうやら今までベッドの下に居たらしい。部屋の灯りが消えたので、岬が寝るのだと思って上がってきたのだろう。けれどいつもと違い、隣に聖がいることに驚いているようだった。
『ヒジリヒジリ!一緒?ねる?』
嬉しそうに岬に語りかけながら雪が二人の下へやってくる。そしてもぞもぞしていたかと思うと、二人の間、ヒジリのお腹辺りに潜り込んだ。
「雪・・・」
そんな雪に毒気を抜かれた岬は、先程までの緊張と混乱がほぐされ、思わず口元に笑みが浮かぶ。もうこうなったらこのまま寝るしかないようだ。
トンッ、と聖の額が岬の肩に優しく当たる。それを合図に岬も目を閉じた。
(おやすみなさい。聖くん、雪。)
今はまだ、聖に自分の気持ちを伝えられないけれど。もう少し自分の気持ちに自信を持てたら、その時は・・・・
エアコンの涼しい風にお腹に回った腕の温かさが心地よかった。もし岬が聖のことを異性として見ていることを知ったら、仲間として心配してくれているこの腕は離れてしまうかもしれないけれど。それでも恋をしている自分を岬はほんの少し誇らしいと思えた。