第26話 恋しくて傷つける 2.後悔
聖は暗い夜道を一人歩いていた。時刻は夜中の1時。昼にホームを出てから何をする気にもなれなくて、ずっと外をブラついている。飯はいらないと渚にメールを入れているから、今日は自分抜きで済ませているだろう。
こんな風に意味もなく帰りを先延ばしにするのはホームに来てから初めての事だ。その理由は簡単。岬と顔を合わせたくない。いや、合わせる顔がないから。
駅からゆっくりと歩いていたが、とうとう見慣れた探偵事務所の前に着く。見上げた先には岬の部屋の窓。けれど明かりはついていない。ただでさえ体調が悪いのだ。もうとっくに寝ているのだろう。
階段を上り、二階にある住居スペースの玄関にたどり着く。ドアノブ回すと鍵は開いていた。この時間に起きているとしたら渚だ。
玄関から中に入り、鍵とチェーンをかける。廊下に漏れているのはリビングの明かり。ガラスドアを開ければ、ソファに渚が座っていた。
「お帰り。」
「・・ただいま。」
それ以上何も言わずに渚はキッチンへと向かう。何か飲み物を淹れる為だろう。逆に言えばそれを飲むまでここに居ろ、という意味だ。これは聖が実家からホームに移り住んだばかりの頃、自室にこもりがちだった自分と話す時間を持つ為の常套手段だった。
渚の意図が分かった聖は素直にダイニングテーブルの定位置に座る。向かいに座った渚から冷たい麦茶を受け取って、黙ってそれに口をつけた。
「何かあった?」
問いかける声は優しく、探るような雰囲気はない。外出しても胸にわだかまっている気持ちを消化できなかった聖は、早くこの会話を終わらせたい苛立ちと共にそっけない言葉を吐いた。
「なんで。」
「何もないのに、寂しがってる雪を残して聖君が出かけるわけないもん。」
「・・俺は」
そんな優しい奴じゃない。外に出たのは雪の目を見ることが出来なかったから。自分が傷つけた岬の心は雪へと伝わる。唯一無二のパートナーが傷つけられて、雪が今まで通り自分を慕うわけがない。拒絶されるだろうと容易に想像がつく。けれど、それが怖かった。自業自得だと分かっていても、雪に拒絶されることはイコール岬に拒絶されることだから。ひどいことを言ったのは自分の癖に。
「喧嘩した?」
「・・違う。」
「よく分からないけど後悔してるんでしょ?」
「・・・・。」
単調な声色で話しかけ続ける渚の言葉に、聖は歯噛みした。
後悔ならしてる。死ぬほどしてる。
俺は馬鹿だ。兄のことで苛立っていた時、彼女に八つ当たりで酷い態度を取ってあれほど後悔した筈なのに、また同じことを繰り返している。暗い気持ちをぶつけるように意味の無い言葉を吐き、彼女を傷つけたのだ。
どうして俺は――
苦しむ聖の顔。それを確認して、渚はゆっくりと目を細める。下を向いたままの聖からは見えないそれは夕や大を見守る時と同じ表情だ。
「聖君は、岬ちゃんのことが好きなんだねぇ。」
「ち・・がう。」
暢気にも思える渚の言葉。からかっているのではないと分かっている。でも違う。それは違う。だって俺は、彼女に何をした?
「好きだったらあんなこと‥、しない。傷つけたりしない。」
けれどあの時、自分の頭にあったのは彼女を傷つけてやりたいと思う、凶暴な感情。
「好きだからだよ。」
「何言って・・」
断言するその声に聖は思わず顔を上げた。そこには穏やかな目で自分を見ている渚がいる。
「触れたい。キスしたい。セックスしたい。それと同じ。好きだから自分の手で滅茶苦茶にしたくなる。」
「・・・・。」
「大切にしたい。でも自分の手で泣かせたい。そういう矛盾が成り立つんだ。恋ってそういうものなんだよ。」
「そんなの・・」
「聖くんが岬ちゃんに何をしたのかは知らない。けど、傷つけることで自分のことを考えて欲しかったんじゃないの?」
「・・・・。」
そうだ。俺は・・。彼女の頭の中を俺で一杯にしたかった。巽じゃなくて、俺のことを考えて欲しかった。どんなことでもいい。その手段がどれほど酷いものであったとしても、俺だけを見てくれるならそれで良かったんだ。
「聖くん。」
「‥‥。」
「岬ちゃんなら許してくれるって心のどこかで分かっていたから酷いことが出来たんだよ。嫌われるのが怖いだけなら、きっとそんな言葉も言えなかったでしょう?」
そうかもしれない。彼女を失うのは怖くて、誰にも渡したくなくて。それでも自分を見て欲しいが為にあんな言葉を吐くことが出来たのは、きっと岬だから。誰よりも自分が彼女の優しさを知っているから。
「大切なら後悔しないようにね。」
「渚・・・?」
ずっと言い聞かせるような口調だった渚の声がどこか遠くに向けられた気がして、聖は思わず彼の名前を呼んでいた。するとそれに気づいた渚がほんの少し口元を歪める。自嘲の形に。
「俺ね、女の子達とは結構遊んできたけど、一人だけ好きで好きで仕方がない人がいたんだ。」
人生で一度。たった一人だけ。どれだけ異性と体を重ねても色褪せない、大切な思い出。
「本気の恋だった。」
「・・・・。」
今まで見てきたどの渚の表情にも当てはまらないそれは、聖と対等に話をしているからだと分かった。だから黙って彼の言葉を待つ。
「綺麗で優しくて、頭のいい人でね。けど、俺のものにはならなかった。」
渚よりも随分年上の人だったという。誰に対しても優しくて、平等な分特別な誰かが居るわけでもなかった。だからこそ彼女に群がる男は多く、自分だけは彼女の特別になろうと躍起になった。渚もそんな男の一人だったのだ。
「いつも一緒に居る俺とイーグルを昔見たアニメの少年と大型犬みたいなんて言うんだ。最後は死んじゃう話なんて嫌だよ、って俺が言ったら、そうだったっけ?って笑ってた。」
優しい表情で語る渚の顔。とても幸せな思い出なのだろう。けれど、そんな彼の表情が曇った。
「でも結局、天使に連れて行かれたのは彼女の方だったな。」
「・・死んだのか?」
「うん。もう大分前の話だよ。」
だから後悔、か。渚は自分の気持ちを伝えられなかったのだろうか。叶えられなかったのだろうか。疑問が頭を過ぎるけれど、それを聞くことは出来なかった。
自分を気遣う聖の様子に気づいたのだろう。聖を見る彼の目が優しく緩められる。
「パートナーを持っている人間は、その絆を大切にするあまりに周囲をないがしろにしてしまう事がある。だからパートナーなんて呪いみたいなもんだって言ってた奴がいてさ。でも、俺はそうは思わない。パートナーだけじゃなくて大や夕、クリスに梓、巽君、岬ちゃん、それに聖君。俺はパートナーがいることで皆に会うことができた。これが呪いだなんて言われたって信じられるわけないじゃん。ねぇ?」
そうして、聖は岬に会うことが出来た。それは喜ぶべき出会いであって、決して呪いなんかじゃない。それは確かな事実。
どうしてパートナーには自分の心が伝わるのに、仲間には伝わらないのだろう。言葉に出来ない想いが伝われば簡単な事なのに。
(いや、ダメだ・・・)
自分の中にこんなドロドロとした汚い感情があるなんて知られたくない。どんな風にこの手が彼女を傷つけようとしていたかなんて。
(肌に触れて、痕をつけて、俺以外見れないように縛り付けてやりたい。そして・・・)
頭に浮かぶのは岬の泣き顔。悲しませたいわけじゃない。それなのに涙が見たいと思っている自分は多分おかしい。服を脱がして鎖骨に触れて、口付けを落とす。それだけできっと真っ赤な顔をするだろう岬を押さえつけて呼吸を乱す。
(ダメだダメだダメだ!)
体が興奮すればするほど彼女を汚している自分が嫌になる。同じ事を巽が考えているのかと思うと殴り倒したくなる。
(苦しい・・)
こんなに苦しいなら、恋なんてしたくなかった。したくなかったのに。
「聖くん。」
「・・・・。」
「パートナーじゃない相手には言葉にしないと伝わらない。だから逃げては駄目だよ。大切なら大切なだけ言葉を重ねなければ誰の心も手に入らない。」
「・・あぁ。」
正しい返答など分からなくて、そんなことしか言えなかった。渚はカップの中を空にすると「おやすみ」と言って先にリビングを出る。
残された聖は誰もいないその場所でじっとぬるくなった麦茶のグラスを見つめていた。