第26話 恋しくて傷つける 1.発熱
吐く息が熱くて、自分のだというのに気持ちが悪い。岬はベッドの中で寝返りをうち、すっかり明るくなってしまった窓を見上げた。時計を見ればもう午前11時。普段ならベッドの中になどいない時間だが、起き出せば渚に怒られてしまうだろう。
桐生と会ったあのどしゃ降りの日の翌日、岬は熱を出して寝込んでいた。ホームに帰ってからすぐにお風呂に入って体を温めたのだが手遅れだったらしい。
(まいったなぁ・・・)
実は今日、巽と約束していた金曜日なのだ。仕方なく朝一でメールを送って謝っていた。幸い明日はバイトが無いが、熱が下がっても外出させてはもらえないだろう。岬はぬるくなった冷却シートを額から剥がした。汗をかいているので体を拭きたかったのだ。
部屋に置いてあるタオルで体を拭き、一度パジャマを着替える。少しすっきりしたが、いまだ熱は38度あり、頭がボーっとするのは変わらない。寝て起きてを繰り返しているので眠気は無いのだが、立っているとクラクラするので大人しくベッドの中に戻った。
(・・・なんか、やだな。)
病気をすると気が弱くなる、というのは本当だ。部屋に一人でいると寂しくて仕方なくなってくる。猫には人の風邪が移ってしまうので雪はリビングから出ないようお願いしてある。けれど本当はあの小さくて温かい存在が恋しくてたまらない。傍にいて欲しいのだ。
(あぁ。ダメダメ・・。雪に甘えちゃ・・)
雪は自分よりずっとずっと幼く弱い存在なのだ。自分のせいで病気になんてさせられない。それに孤児院にいた頃は風邪を引いて寝込んでも、子供達の世話で忙しい先生達がずっと傍にいてくれることはなかった。あの頃我慢出来たことをこの歳で出来ないなんておかしいじゃないか。
(もう寝よう・・。起きてると嫌なことばっかり頭に浮かんじゃう。)
ちっとも眠くならない体に悪戦苦闘していると、コンッと一回だけドアがノックされた。
「はい?」
「俺。」
「・・・。巽君?」
なんで?と聞く前に巽がドアを開けて入ってきた。迷彩柄のカーゴパンツに大きなデザインロゴが入った白いTシャツ。よく目にする緑色の石がついたピアスがこれは現実なのだと実感させる。
巽は岬の顔を見るなり口を開いた。
「アホ。」
「・・・ごめん。」
一つ溜息をついて、巽はベッドの上に座った。横になったままの岬の額に自分の手のひらを乗せ、眉をしかめる。
「ホンマにあっつい。」
「・・・・うん。」
「なんで熱なんか出すんや。」
「ごめん。」
「・・もうええわ。」
そのままくしゃと岬の前髪を乱し、手を離す。なんだか巽の方が年上みたいだ。
「次の金曜に持ち越しやからな。」
「うん。」
「次も寝込んだら添い寝したるからな。」
「え!?」
(添い寝って!余計寝れないよ!!)
風邪だけではない熱で顔を赤くする岬に満足したのか、巽は一重の目を細め、やっと笑顔を見せた。
「慌てすぎやろ。」
「だ、だって・・・」
「嫌やったらさっさと治せばええねん。」
「・・うん。」
その後は他愛の無い話をぽつぽつとして、巽は部屋から出て行った。午後は中学の友達と出かけるらしい。
(存在が大きい、か・・・。)
部屋を出て行った巽の背中を見て、岬は昨日桐生から言われた言葉を思い出していた。巽の背中と聖の背中。けれど見送る自分の心情は随分と違う
(仲間だもの。存在が大きいのは当たり前。でも・・)
巽は部屋を出ただけ。また来週になれば会うことが出来る。一方聖は毎日だって顔を合わせている。けれどあの時の背中を見て自分の居場所は無いのだと、そう思った。冷たい雨のような喪失感が胸の奥を濡らしていた。
(巽君が帰っても寂しくないのは、私を好きだと言ってくれているから?)
だとしたら自分は聖に好きでいて欲しいと思っていることになる。そんな訳無い。誰かの心を縛ることなんてできっこない。そんなこと幼い頃から十分過ぎるくらい分かっている。いつだって本当に傍にいて欲しい人はそこには居なくて、子供の我侭は叶わないのだと思い知らされてきたのだ。
(あぁまた・・。やっぱり一人になると駄目だな。)
こんなことばかり考えながら眠ったら、きっと嫌な夢を見てしまう。
岬はどうにか他の事を考えようと、枕元に置いていた携帯を開いた。
「今日岬ちゃんと約束してたんだって?」
「あぁ。そうや。」
リビングに戻った巽は渚からコーヒーを受け取りダイニングテーブルに腰掛けた。ソファの方には聖がいて、その膝の上には雪が丸くなっている。
渚は自分の分のコーヒーも淹れながら、心配そうな顔を向けた。
「岬ちゃん随分気にしてたみたいだよ。」
「あぁ。ええねん。来週にずれるだけやし。」
「そう。」
ぐいっとアイスコーヒーを飲み干し、巽は早々に椅子から立ち上がる。
「岬の事頼むわ。」
「もう行くの?」
「あぁ。」
「そう。じゃあまたね。」
そんな巽を見送り、渚はそっと息を吐いた。
(頼む、だって。巽君っていつの間にか岬ちゃんの彼氏気取り??)
元々聖と巽のソリが合わないのは知っていたが、同じリビングの中にいても目も合わさない二人の空気に渚も気づいていた。また喧嘩でもしたんだろうと暢気に考えていたのだが。
(これはもしかして・・・、もしかするかも?)
若いっていいねぇ、と心の中だけで呟きながらコーヒーを持って一階へ降りる。人の恋路に無闇に首を突っ込む趣味は無い。無論、遠くから眺めて楽しむくらいはさせてもらうが。
「ナァー。」
控えめな鳴き声に、聖はテレビの液晶画面から膝の上の子猫へと視線を移動させた。いつもよりもベッタリ自分にくっついて離れない雪は、恐らく岬の下へと行きたいのだろう。けれど風邪を移さないようにと、彼女の部屋へ行くことを禁止されている。その分の寂しさを埋めるように、雪は聖の膝に小さな頭を摺り寄せていた。
(・・・約束、か。)
本当は今日、二人で出かける約束をしていたと言う巽の言葉が頭を占めていた。巽は岬に好きだと告白している。それを承知しての約束。要はデートだ。例えまだ二人が付き合っていないにしても、これからそうなる可能性は十分ある。
(そう言えば、巽のことは名前で呼ぶよな。)
巽にしてもそうだ。随分前から彼女のことを『岬』と呼んでいる。それだけで自分との差を感じる。
(くそっ。イラつく・・・)
当然のように二人で出かけるのだと皆の前で言う巽も。その約束を果たせず、気にしている岬も。
どうすればいいんだ。こんな暗い感情は。
いくら雪の背を撫でてやってもイラつきは収まらず、気づけば聖は岬の部屋の前に立っていた。
明日買い物に行かない?
朋恵からの誘いのメールに、岬は溜息をつきながらごめんと返信していた。こんな時に風邪を引くなんて、本当に自分は間が悪いなぁと思う。5分ぐらいすると彼女からは風邪への心配と、ゆっくり休んで早く治しな、という言葉が返ってきた。文章の最後には薬を飲んで苦い顔をしているデコキャラ付きである。お礼をしようと再びボタンをカチカチ押していると、コンコンッと今度は二度ノックの音がした。
「はい・・。」
巽ではないだろう。渚が様子を見に来てくれたのだろうか。そう思い上半身だけ起こすと、何も言わずに開いたドアから顔を見せたのは聖だった。
「橘君。」
「・・・入っていいか?」
「うん。どうぞ。」
一瞬聖の目が握ったままの岬の白い携帯へと向けられる。ほんの少し眉をしかめたように見えたのは気のせいだろうか。
「・・巽?」
「え?」
「メール。」
メールの相手が巽かと思ったようだ。朋恵だよ、と答えたが、聖は何も言わずにベッドの横に立っただけだった。
(巽が好きなのか?)
メールの相手が予想とは違ったことに安堵したものの、一瞬過ぎった言葉が聖の頭を占める。
そんなこと聞けるわけがないのに。なら何故、この部屋に入ってきたんだ。寂しがっていた雪をリビングに残したままで。
「橘君?」
自分を見上げている岬と目があった瞬間、聖は夏になる前のことを思い出していた。それは学校帰りに公園で話をした時。二人が付き合っているフリをしていて、それを岬が止めたいと言ったあの日。
(好きなやつが出来たって、そう言っていたよな・・)
それはつまり、
「・・巽のことだったのか?」
「え?」
あまりに唐突な言葉に岬は何のことだか分からず、ただ聖を見返していた。だが、そんな彼女を置いてきぼりにして聖は言葉を続ける。
「好きな奴がいるって言ってただろう。」
「あ・・、それは・・・」
そこでやっと思い当たる。聖はきっと岬が付き合うフリを止めたいとお願いした時のことを言っているのだと。あの時の言葉を蒸し返されるとは思っていなくて、岬は小さな罪悪感に目線を下げた。
「ごめん。嘘なの。」
「嘘?」
顔を下げた岬の視線を追うように聖はベッドに腰を下ろす。近くなった距離に気まずさを感じて、岬は手元の掛け布団をぎゅっと握った。
「あの時は、その、橘先生のことがあって。・・つきあうフリは止めた方が良いんじゃないかと思って。」
本当は別れるように聖の兄、橘燕に言われたのだがそれを告白するつもりはない。そのことに関して嘘をついているわけではないが事実を隠していることに変わりはなく、どうしても聖の顔を見て話すことが出来なかった。
「なら、巽のことは?」
「え?」
「巽と、つき合うのか?」
「あ・・・」
やっと上げた岬の顔は真っ赤に染まっていた。明らかに風邪のせいではない火照り。それを見た聖の中に怒りに似た感情が湧き上がる。
(なんだこれ・・・)
胸の辺りに蟠るムカつき。リビングで感じていた苛立ちとは違う、重い澱んだ感情。
何故こいつは巽のことでこんな顔をするんだ。何故・・
「あいつのこと好きなのか?」
「橘くん・・・?」
気づけば自分の下に岬がいた。何がどうしてこうなったかは分からない。ただ腹の辺りが重くて、胸がムカムカして、自分の質問に答えない彼女がうっとうしくて。気づいた時にはもう、上半身を起こしていた筈の彼女は完全にベッドの上に倒れていて、覆いかぶさるように自分が彼女の頭の両脇に手を付いていた。枕元に散らばった彼女の柔らかそうな髪が自分の指に絡みついている。
泣けばいいのに。唐突にそう思った。
「た・・ちばなくん・・」
「・・・アンタ、最悪。」
ポツリと口から零れ出た言葉。何の感情も篭っていないその一言で、どうでもいいようなその一言で傷ついた彼女の顔が見えた。
けれど胸を覆うどす黒い感情はなくならず、聖は黙ってそのまま部屋を出た。
聖がどうしようもなくガキでごめんなさい。
最後の一言は、喧嘩して追い詰められた子供がバーカバーカ!と言って逃げるような、意味のない言葉なのです。